この場所は
美和子はオフィスに入るとすぐに入口付近にあるタイムカードを手に取り、装置に押し込み始業時間を刻んだ。そして同僚と挨拶を交わしながら自分の席に向かう。
一番奥の角にあるデスクに荷物を置き、パソコンの電源を入れて手元の資料を開いて目を通し始めた。
どうやらここが美和子の座席らしい。
「どれどれ?」
俺も横から資料を覗き込む。資料には『生命保険』の文字。どうやら彼女は生命保険の外交員をしているようだ。
そうだよな、子ども養わなきゃいけないもんな……
「苦労かけるな……」
俺の呟きは当然のごとく誰に届く訳も無く、宙に吸い込まれた。
俺はむなしく空中を睨む。
係長と見られる男に呼ばれ、美和子はすぐさま返事をし男のデスクに歩いて行く。
「川崎さん。今日は後藤さんと一緒に会社廻りしてくれる?」
男は人懐っこい笑顔で、高圧的じゃなくフレンドリーに接している。美和子も快く返事をしていた。
俺はオフィス内をぐるりと見渡してみた。ピリピリした雰囲気は全く無く、それぞれがゆったりと作業に取り組んでいる。人間関係も職場の雰囲気も良好のようで安心した。
「川崎さん、何か良い事でもあったんですか? 雰囲気が明るいですよ?」
男は笑顔で続ける。
「そうですか? いつもと変わらないつもりですけど」
と小首を傾げて美和子は答えた。
おいおい、そんな可愛らしい反応返すんじゃないよ。期待されたらどうすんだ!
俺は、すかさず男の左手を確認した。
「独身かよ」
危険だ。もの凄く危険だ。
美和子の可愛らしいしぐさと笑顔を向けられて、男は一瞬 呆けた後で、少し頬を染めた。ように見えた。
二人はその後も二、三言葉を交わして、美和子は「失礼します」と男の元を離れた。
踵を返して離れる美和子の後ろで、俺はそっと男を振り返る。男は手を止めたまま、こちらをじっと見つめていた。
美和子……惚れられたんじゃないか?
俺は不安に駆られた。
美和子はその足で後藤の元に向かった。こちらは年配の女性だった。俺は胸をなでおろす。
「今日は宜しくおねがいします」
後藤に深々と挨拶をして、美和子は自分のデスクに向かった。
『よう、暇か?』
本日二度目の閻魔大王登場である。
「まあ、やる事無いんで、大抵暇ですよね」
俺はそっけなく応える。
『まあ、そうだな。何か質問はあるか?』
閻魔大王に訊かれ、そう言えばと応える。
「俺が霊体の時は美和子の守護霊が見えたんですけど、今は見えないんですね」
俺は不思議に思っていた事を口にする。
『そうか、見えていたのか。やっぱりお前には特別な何かがあるようだな』
やっぱりわしはお前が欲しい。などと言葉を続ける。
『今も見ようと思えば見られるぞ』
閻魔大王の言葉に「へぇ」そうなんだと思いながら、俺はオフィス内に目を向けて守護霊が見たいと強く願った。
途端にガヤガヤと騒がしくなる室内に俺は目を見張った。
なんだ、これは……
オフィスの人数が突然倍になった。
パソコンに向かう社員の後ろやデスクの上で朝の挨拶や井戸端会議が繰り広げられている。
俺が驚愕していると隣から声が掛かった。
「おはようございます。昨日まではおばあちゃんでしたよね。替わったんですか?」
顔を向けると、ちょんまげ姿のサムライがそこに居た。
「サムライ……」
そう呟いて、失礼だったかと思い慌てて挨拶を返す。
ふと静かになったなと思い室内に目を向けると、全守護霊の目が俺に向いていた。
「うっ」
俺が小さく呻くと、サムライさんが「なぜ守護霊が突然替わったのか気になるんですよ」と教えてくれた。
俺が何を発するのかを未だに待っている様だ。「皆、暇ですからね」と続けるサムライさん。
あ----、ん----何て説明すればいいんだ?
『知らないうちに守護霊になってたと言えばいい』
俺が悩んでいると閻魔大王が助言をくれた。
知られてはまずいと言う事か。「特例で」って言ってたしな。
「皆さん初めまして、川崎 美和子の新しい守護霊です。宜しくお願いします。なぜ守護霊になったかは、分かりません」
俺が言うと、よろしくと声が飛び交い直ぐにガヤガヤと雑音が聞こえてきた。
そうこうする内に、美和子は出掛ける準備を始めて席を立った。
俺も引きずられるままその後に着いて行く。俺は慌てて、サムライさんに「行ってきます」と告げた。
エレベーターで一階ロビーに降り、徒歩で各ビルに向かうようだ。
それにしても人が多い。疲れる。どうにかならないものかと思っていると『他の守護霊を見ないと願えばいい』とまたもや助言があり、実行した。
視界がすっきりした。
「まだ交信を切っていなかったんですね。怒られないんですか?」
『もう暫くは繋いでおく。奴も了解している』
珍しいな、休日かなと思い訊いてみるが違うと言われた。
「ん?」
信号を渡っていた美和子が突然立ち止まり空を見上げた。
何をやっているんだ? と思い、はっとする。
まさかと辺りを見回してみる。
「ここは……」
あの場所じゃないか! あのトラックも停まっている。
俺は恐る恐る美和子の瞳を覗き見た。そこにはキラキラとした輝きがあった。
「今日も良い天気!」
美和子は一つ頷いて又歩き出した。
俺は、止めていた息を深く吐き出した。
「良かった……」
『まずは第一関門、突破だな』
閻魔大王は大きく息を吐き、そう呟いて交信を切った。
「第一関門て何ですか?」
俺は宙に問いかけたが返事は無かった。