3-43『超越と月輪と土星と……』
そして――オーステリア郊外。城壁外部。
夜を創り出す結界の中、七星旅団《超越》と、七曜教団《月輪》の戦闘は、終わることなく続いていた。
地形は、すでに数日前とは大きく変化している。ここが結界の内部でなければ大惨事だし、そうであったとしても充分に異様な光景だった。
地面にはクレーターが生まれ、空気そのものが魔力の余波で歪んでいる。飛び散った魔力素で、夜だというのにどこか明るい。
お互いに、魔術師として頂点に位置する者同士の戦いでなければあり得ないだろう光景だ。《最強》の名を冠する冒険者と、《最高》の位階に至った魔術師だからこそ、終わることなく戦いが続けられている。
この世界において、間違いなく最高峰の戦闘であった。
「……息切れしないね、君は」
どこか呆れたように語る女性――《月輪》。時間の経過がわからない夜の結界だが、すでにセルエと金星が戦いよりずっと長時間、鎬を削り続けている。
その間、常に間断なく攻撃を続けていながら、《超越》が魔力切れを起こす様子はない。単に魔力量が多いというより、その変換効率、燃費が凄まじいためだろう。
こと《魔弾》を使う限りにおいて、シグウェル=エレクはほとんど魔力を消費しない。
「――っと!」
目の前に迫り来た青の放射に、月輪は反射で回避を取る。
夜の下では無敵にさえ近づく魔術師が、回避行動を選ばなければならないという異常。それが術式によるものではなく、単なる力押しで為されているという埒外。
シグウェル=エレクは魔弾使いだ。
魔弾しか使わないし、魔弾しか使えない。魔術師としては落ち零れもいいところだ。
そして、その上で最強だった。
概念魔術《夜天新月》。
月輪が使うその結界術式は、内部空間を《明けない夜》に変える。単なる位相の変換だけでなく、それはひとつ異界を創造する魔術。すなわち世界法則の上書きであり――当然、その難易度は非常に高い。
だが難度に比して、使い道はかなり限定される魔術だった。なぜなら、この結界はただ夜を長引かせるだけなのだから。それ以外の効果なんてないに等しかった。
けれど月輪は、その内部にいる限りにおいて、基本的に傷つかない。
いわば無敵である。向けられる攻撃は自ら射線を逸らし、月輪本人は何もせずとも全てが都合よく運ぶ。
結界の効果ではない。月輪自身が、夜という概念に愛されているだけ。夜の月は永遠の象徴なのだから。満ちては欠け、欠けては満ちる終わらない輪廻。特別な魔術を使っているわけではない。
月輪は――初めからそういう存在だった。
にも、かかわらずだ。
シグウェルは、その原則を完全に無視する。
彼の魔弾に特別な効果は一切ない。威力が異常である、という一点を除けば。
だが彼は、その破壊性能という長所のみでもって、月輪の術式に穴を開けている。概念的防御に守られているはずの月輪が、回避を選ばなければならないほどの攻撃。それが特別な術式にとって魔術を破られたものではなく、単純な力押しによって為されているという事実に、月輪は驚愕を通り越して呆れさえ覚えていた。
魔術の技量で言うのなら、シグは月輪に及ぶべくもない。仮にも《魔導師》――魔術師として最高の位階に立つ月輪に対し、シグにできることはただ魔弾を放つことだけ。本来なら、勝負にさえならないほどの実力差がある。
はずだった。
シグが魔弾を放つ。見る者が見れば、その蒼い光の帯がメロの使う《竜星艦隊》に似たものだとわかるだろう。
魔弾というよりは光線。そう表現するほうが近い。
シグの手から放たれる破壊の帯は、およそ異常なまでの威力を持って、雷の如き速度で進む。通過する場所の全てを一瞬で消滅させ、破壊的な魔力量は結界内の空間さえ歪める。
単純な結界ならば、直撃どころか余波を受けるだけで破壊されるだろう。まして人間ならばなおさらだ。シグの攻撃が至近を通過すれば、人体など煽られただけで蒸発しかねない。
いっそ笑えるのは、それがシグにとって渾身の必殺技ではないという事実だ。
ただの魔弾。なんの変哲もない普通の魔術。儀式も詠唱も必要とせず、魔力さえほとんど消費しない通常攻撃――それがそのまま必殺の威力を持っているという異常。
全身を飲み込まんばかりの熱線が、月輪の目の前で裂ける。
自らを害するモノからは影響を受けない、という概念を纏う月輪に、ただの魔弾など千発撃っても当たらない。シグの攻撃さえ例外ではなく、魔弾は何もせずとも消えていく。
が、その魔力量が埒外すぎた。
確かに直撃は避けられる。魔弾は月輪に直撃する寸前で幾筋もの帯に分かたれ、自ら勝手に逸れていく。
にもかかわらず、それでも逸らしきれない余波が月輪を襲うのだ。元の砲撃の十分の一ほども威力はないが、人間ひとりを消し去るにはお釣りがくるレベルだ。
月輪が防壁を作る。円盤状の魔力障壁――魔弾と並ぶ、魔術師にとっては最も基本的で簡単な魔術。武器を持たないたいていの魔術師の攻防は、たいていが魔弾と防壁のやり取りだ。
そして、砲撃が障壁に直撃する。
威力を殺され、本来の威力にはまったく届かない攻撃魔術。それを防ぐのに、月輪は渾身の魔力を防壁に注がなければならなかった。
なんとか防ぎきることはできたが、それだけで防壁は完全に破砕される。これが本来の威力を持っていた場合、果たして防壁が何十層あれば防げるだろうか。
量だけで、質を上回る砲撃に――もはや理屈は通じない。
「……本当にもう。これだから、君らみたいなデタラメには困らされる」
いったい何度、この攻防が続けられただろう。月輪と超越――互いに最高位の魔術師だからこその拮抗だった。防御を完全に捨てた超越と、攻撃が一切できない月輪は、完全に拮抗している状態だ。
時間稼ぎとしては、もう充分だった。月輪はそう考えている。
魔力にはまだ余力がある。五十時間を越える戦いに、それでも互いはさしたる魔力を消耗していない。どちらかといえば、体力のほうが疲れているくらいだ。
超越もまた、月輪の言葉に軽く答える。
「それはこちらの台詞だ。これだけ撃って一発も当たらないとはな」
「いやいや。一発でも当たったら死ぬんだけど」
「当たっていない以上、なんの意味もないだろう。さすがは《魔導師》といったところか」
「……言ってくれる。これだから嫌なんだ……」
やはり、ここで殺しておくべきではないのか――ほんの一瞬だけ、月輪の脳裡にそんな欲望が走った。
だがすぐにその考えを捨てる。欲目を出すべきじゃない。ほかの連中ならばともかく、七星でも最強と評されるシグと本気で殺し合うのはリスクが高すぎた。殺せない、とまでは思わない。だが、その場合は自分もまた決死の覚悟を要求される。
七星を殺さない、というのは教団の首魁たる《日輪》の方針だ。七星旅団は七曜教団の敵になる、と言われてはいるが、同時に保険でもあるのだから。
ジレンマではあった。確実に邪魔になるとわかっている、にもかかわらず、彼らがもし失敗したら、その後始末ができるのは七星旅団以外にいない。
旅団と教団は、そういった意味で完全に正反対の集団だった。
その創設の段階で、ともに魔法使いが関わっているという点では共通しているが、ほかの部分は何もかもが違う。
能力的、性質的に異常な連中が、見苦しく馴れ合うために創られたのが旅団だ。彼らのような存在は、本来まず間違いなく排斥される。強すぎる存在に対し、民衆が抱く感情は恐怖でしかないのだから。それを避けるために、異常な連中が徒党を組んだ。だから旅団に目的はない。彼らはただ、一緒にいることだけを目的としていたのだから。全体より個を優先する、ただそれだけの連中だ。
一方、教団は違う。彼らには、世界を救うという明確な目的がある。そのためならば個を犠牲にしてもいい、というのが教団の考え方だった。まあ、本心からそれを望んでいるのは《日輪》と、せいぜい《木星》だけだろう。《火星》や《金星》は自分のことしか考えていないし、《土星》は何を考えているのかすらわからない。《水星》に至っては、もはやどの人格の思考を指して本心と呼ぶのかすら意味不明だった。
そう。彼らが狂っているのは思考だ。
能力的には、だから教団は異常とまでは言えない。もちろん強力な魔術師が揃っているが、それでも異常性において七星には及ぶまい。戦闘力で見れば、一対一で七星に及ぶのは《日輪》と《月輪》だけだった。その肉体を改造された《土星》も、今ならば七星に匹敵するか。ほかの連中は、まだ肉体に手が加わっていない。
「――そこだな、疑問は」
ふと呟かれた超越の言葉に、月輪は一瞬、思考を読まれたのかと疑った。
もちろん、そんなはずもない。そもそも超越に読心なんて高度な魔術は使えない。
「お前らはなぜ俺たちを殺そうとしない? 前も訊いたが、俺たちを敵と見定めるなら、どうして手を下さず足止めに徹しようとする」
「…………」
「そもそもなぜ俺たちを敵視する? アスタはともかく、俺やほかの連中は、今のところお前らに何かをした覚えはない。命を狙われる筋合いはないと思うが」
「そんなものは、君らが敵になるとわかっているからに決まってるさ」
それでも殺せないというのだから面倒だが。
「なぜわかる? まさか、未来でも予知したというつもりか?」
思考の読めない無表情で、超越はわずかに首を傾げた。
その言葉に、思わず月輪は苦笑する。そして言った。
「――その通りだよ」
「…………」
「これは予言――未来予知だ。君らは必ず、僕らの目的の邪魔になる。それでも、それがわかっていても殺すわけにはいかないところが、また厄介ではあるんだけれど」
「……宗教者ってのは、どいつもこいつもそうなのか」
「馬鹿を言うなよ。これは神の啓示なんかじゃない。ここまで言えばわかるだろう? ――この世界で唯一、未来を見渡せる存在を、君たちは知っているはずだ」
そう。七星旅団ならば知っている。
なぜなら、その存在こそが、マイア=プレイアスに七星旅団を創らせた張本人なのだから。
シグが、その名を小さく口にする。
「――第三魔法使い。アーサー=クリスファウスト……」
「そう。三番目の魔法使い。奴がまだ《世界最悪の犯罪者》と呼ばれる前の二つ名を、君だって知っているだろう?」
すなわち、《時間旅行者》。
世界にただひとりの、時を操る魔法使い。
「その彼が見てきたんだから間違いない。――この先の未来で、君らは必ず世界を滅ぼす」
「…………」
「僕らはそれを止めるために結成された。だから、正義の味方なのさ」
「……そんなことを」
信じたわけではないのだろう。けれどシグは小さく言葉を作る。
「今ここで、俺に伝えてどうするつもりだ。お前は世界を滅ぼすから、今ここで死ねと言われて俺が死ぬと……?」
「まさか。ただ、君には知っていてもらおうと思ったに過ぎないよ。ほかの仲間に伝えるかどうかは、君の好きにしてくれればいい」
そこまで言って、そのまま月輪はかぶりを振った。
別段、月輪は口で言うほど教団の教えを信じてはいない。何か強い信念や、世界を守ろうとする善性から教団についたわけじゃなかった。
単なる利害の一致だ。
世界に滅んでもらっては困るから。仕方なく、手伝いを買って出たに過ぎない。見返りも貰うつもりだった。
「……そろそろかな」
そこまで言ってから、月輪は軽く肩を竦めた。
あの超越を、ここまでの長時間この場に止めておいたのだ。仕事量としては充分すぎる。
「僕は逃げるとするよ。何も永遠にこの場にいたいわけじゃないからね。木星も、そろそろ目的を達した頃だろう」
「……逃がすと思っているのか」
「逆に訊くけど、逃がさない理由があるかい?」
軽く笑む。これ以上は、互いにとって益がない。
「僕が何をした? ただここで、君を待っていただけだろう」
「……あの殺人はどうなる?」
「殺したのは僕じゃない。そもそも、あれはほとんど水星だった連中だ。この街に紛れ込ませ、本人さえ気づかないままに役目を振られただけの被害者さ。まあ可哀想ではあるけれど、責任を取らせるなら水星に言ってくれ。僕は知らない」
「通ると思っているのか、そんな言葉が」
「世界を救うための尊い犠牲だ。それこそ――月並みな言葉ではあるけれどね」
「相容れないな」
「お互い様じゃないか」
「……そうか」
小さく、静かに、超越はそう言葉を漏らす。
その瞬間、彼の纏う雰囲気が決定的に変質したことを、月輪は確かに感じ取っていた。
「――本気のようだね」
「……」
「なら僕も、本気で逃げることにしよう」
魔力が集まっていく。シグの掌の中に。空間を歪める高密度の魔力が、おそろしいほどの圧縮を受けて一点に。
その視線は、けれど月輪を向いていない。彼は結界の夜空を見上げている。
「……壊れないわけだ。この結果の基点は――空か」
「気づいたかい。そうだ、目には見えない新月が、この結界の中心だ」
結界を維持する中心――基点。
それが夜空の先、頭上に浮かぶ月だというのなら。確かに破壊はできないだろう。
どんな魔術師も、まさか遥か彼方の衛星まで、攻撃を届かせることなど不可能だった。
そのはずではあった。
けれど、シグは微かに笑みを見せる。
「確かに普通は無理だ。俺も、月を撃とうと思ったことはない」
「……」
「だがここは結界だ。普通の空間じゃない。お前が創った世界ということは、お前の認識にある距離でしか――月を浮かべることもできないだろう」
気づけば、月輪の背を冷や汗が流れている。
いくら超越でも、現実空間で月を墜とすなんて不可能だ。魔法使いでもできるかどうか。
けれど――この夜天の結界の中でなら。
月輪が創った概念の月ならば。少なくとも理論の上ならば――。
「……前言撤回だよ、化物」
超越。シグウェル=エレクが、空に向かって片手を翳す。
その姿を、月輪は何をするでもなく見逃した。
そして――。
「――破壊光線」
酷く単純な魔術が、宇宙に向かって放たれた。
大気圏を超え、破滅の光が伸びていく。
距離を無視して一瞬で。
――夜天の結界空間が、シグの魔弾に破壊される。
誰より速く、何より強い攻撃を当てればそれで勝てる。シグウェルの理念を、最も忠実に再現した光線。
その威光を前に、それでも月輪は笑みを見せる。
「君はきっと、僕が殺そう」
「なら、そのときを楽しみにしている」
概念の月が墜とされた。
※
学院の奥。人が訪れない立ち入り禁止区画において。
俺は学生会庶務――いや、七曜教団《土星》のクロノス=テーロと相対する。
「……なぜこの期に及んで出てきた。今まで、誰にも悟られずにいたものを」
答えを期待したわけじゃない。けれどクロノスは、酷くあっさりと言葉を返す。
「別に。ただ命令を聞いていただけですから」
「……命令?」
「ええ。『誰にも悟られず学院にいろ』と。けれどその命令が、『止めろ』というものに変更されました。だからこうして来たわけです」
嘘をついている様子ではない。そんな理由もないだろう。
答えるのならば、と俺は言葉を重ねた。もちろん急いではいるが、隙のないこの男を前には、容易に離脱などできまい。
「なぜ魔競祭に出ていた」
「学生会で言われたからです。会長の命令を、ただ聞いていただけですよ」
「……ミュリエルは」
「このことは知らないでしょう。誰も。知られないようにしろ、と言われていたのですから」
「そうかい」
それに救いがあるのか、より残酷なのかはわからないが。
いずれにせよ、俺が学院に入学するより以前から、教団はオーステリアに根を張っていたということだ。
そして、その事実を知らしめてもなお――水星を殺されるわけにはいかないらしい。
だとするのなら、ますますこの状況は最悪だ。
水星が、なんらかの計画の中枢にいることは間違いない。本人もそんなようなことを言っていた、とピトスやアイリスから聞いている。
それは最悪の場合、土星――クロノスを使い潰してでも水星を守らなければならないというほど、奴らにとって重要な何かであるらしいということは知れた。
逆を言えば、俺がここで水星を取り逃がすのは最悪のひと言だ。
……どうすればいい。
ウェリウスを動かすべきか。だが水星の動きを捕捉しているのはウェリウスだ。
奴が動いては、それこそ水星を見逃しかねない。あの場から移動しては、ウェリウスも水星の動向を把握できなくなってしまう。
誰かにウェリウスと交代してもらうか? ……それも無理だ。
俺が作った術式を、代わりに動かせる技術を持つほどの魔術師がウェリウス以外に思いつかない。レヴィなら可能かもしれないが、連絡を取るすべがない。
思考伝達の魔術には、魔晶を媒介にするなどの仕込みが不可欠なのだから。
どうする――? 俺は今、明確に焦っていた。
正直に言って完全に想定外の事態だ。
いや、ほかの教団の連中が出てくる可能性は当然、考えていた。オセルに張った結界は、そのための備えでもあったのだから。学院に入ってくる魔術師の魔力を捉え、少しでも強力そうな魔術師は全部、ウェリウスに見張るよう伝えてある。
まさか、初めから学院の中にいたなんて考慮していなかった。
力押しでクロノスを突破するべきか――そんなことが俺にできるのか?
そもそも、ここまで近い間合いになった時点で、すでに不利であることは否めない。クロノスの身体能力は常軌を逸している。相手は鬼種だ。近い間合いでは敵わないだろう。
そんなことを考えている暇にさえ、今もなお水星は逃げているというのに。
切れる切り札も少ない。水星への対策は考えついた。だが、ただ強いだけのクロノスには、対策も何も存在しない。実力で押し通るべき相手であり――それができないから困っている。
だがこうしている時間はない。フェオでは水星に勝てないだろう。水星や、ほかの教団の動きがわからなくなること前提で、ウェリウスに頼んでしまうべきか。
額から汗がひと筋、流れてくるのを自覚した。もうベストを選べる状況ではないのか。
そのときだった。
「――――!」
突如として、弾かれたようにクロノスが振り返る。
ほぼ同時に気がついて、俺は思わず叫んでいた。
「何してる――来るな!」
その言葉は遅すぎた。
瞬間、クロノスが振り返りながら腕を振るう。その腕に、強烈な勢いで何かがぶつかる。
誰かが跳び蹴りを食らわせたのだ。
クロノスが腕を振るい、突然の乱入者は弾かれて吹き飛ぶ。乱入者は空中で体勢を直すと、くるくると器用に回転しながら、まるで猫のように着地する。
それと同時、クロノスの足元に魔力が光った。誰かが魔術を起動したからだ。
円状に光った地面。そこから伸びる蔦のような光――おそらくは拘束用の魔術だろう。
クロノスは平然としていた。
片手を地面に振り落とす。一撃で陥没し、術式が地面ごと粉砕された。その隙を狙うように、先ほどの人影が再度、跳躍する。宙を舞い、身を捻るような回し蹴りを落とすが、クロノスは簡単にそれを防ぐ。小柄な人影が弾き飛ばされ、俺の横へと降り立った。
「……なんで来た」
俺は思わず言葉にした。助けられたことはわかっている。
それでも、言わずにはいられなかったのだ。
答える声は、けれど俺の後ろから聞こえてきた。先ほどの魔術を使った人間だろう。
「なんでと言われましても。アイリスちゃんが気づいたので、普通に来たってだけですよ」
「……馬鹿言うな。そう簡単に勝てる相手じゃ――」
「だから来たんですよ。そんなこと決まってるじゃないですか」
その少女――ピトス=ウォーターハウスが笑う。目の前には小柄な闖入者――アイリスの姿もあった。
確かに彼女なら、例の感覚で異常に気づいてもおかしくない。クロノスにではなく、俺が動いていることに気づいたのだろう。
だが――、
「言ったところで聞きませんよ。わたしじゃなくて、アイリスちゃんが」
さらに言い募ろうとする俺に対し、ピトスが機先を制して笑う。
呆れたような、それでいてほっとしたような。なんとも言えない笑みだった。
「ねえ、そうでしょう? アイリスちゃん」
「……うん。そう」アイリスはこちらを振り返らずに言う。「今度は、わたしの……番、だから」
「駄目だ。そんなこと言ってられる状況じゃ――」
「アスタくん」
肩にピトスの手が触れる。彼女は、俺に喋らせるつもりがないらしい。
「行ってください。ここはわたしたちがどうにかします」
「いや、でもな……っ」
「状況はよくわかりませんけれど。でも、この場所に人が来ないわけじゃないでしょう? 来る途中で、学生会に状況を伝えてきましたから。時間さえ稼げば済む話です」
「…………」
「行ってください。ここはわたしたちの戦場です――その邪魔は、アスタくんにだってさせません」
何が正しいのかと問われれば、間違いなくピトスたちが正しかった。
これは俺のエゴだ。ふたりを戦わせたくないという、甘っちょろい自己満足に過ぎない。
ふたりとも近接戦闘を得意としている。クロノスと相対するとき、勝てないにせよ生き残れるのはそういうタイプだろう。時間稼ぎには、誰より相応しいふたりだと言えた。
「アスタくん、そういうところありますよね。今回の件で、アスタくんは一度だってレヴィさんに助けを求めていない。ここはオーステリアです。そこで起きた事件なら、絶対にレヴィさんに――《ガードナー》に連絡が行くはずなのに。彼女は何も知らされていない。――絶対にわざとですよね、それ」
「…………」
「あの強いレヴィにさんにさえ言わないんですから、ましてわたしたちに、ってのはわかりますけれど。でも……そんなの寂しいじゃないですか」
「……ピトス」
「隣に立ちたいとまでは言いません。でもせめて、背中を押すくらいはさせてください。アイリスちゃんと同じです。――今度は、わたしたちの番ですよ」
そうまで言われて、もう反論することなんてできなかった。
「……悪い。頼んでいいか、ふたりとも」
「ん」
「ええ。任せてください」
そうと決めれば、あとは行動に移すだけだ。
俺は踵を返し、その場を後にする。少し大回りになるが、それなら水星を追えるだろう。
クロノスは――俺を引きとめようとさえしなかった。
※
「……いいんですか、行かせても」
アスタが水星を追って去ったあと、ピトスはクロノスに向けて訊ねてみた。
完全に予想外の相手ではあったけれど。それでも、そんなことは今はどうでもいい。
アスタの敵だというのなら――その時点でもうピトスの敵だ。
「別に」クロノスは言う。「僕が『止めろ』と言われたのは、そもそも《紫煙》じゃないですから。行ってもらわなければ、むしろ困るくらいでした」
あっさりとした答えだった。
訊かれたから言う。それだけのことだといわんばかりに。
「……どういう意味ですか」
「言葉の通りですよ、ピトス=ウォーターハウスさん。僕が足止めを任された理由は、紫煙を止めるためじゃない。――紫煙を、孤立させるためだったということです」
「…………」
「だから、もうこの時点で役目は終わったようなものですが――事情が変わりましたね。少し、挨拶をしておきたい」
クロノスの視線は、もうピトスを向いていない。
その前。アイリスを彼は見ている。
アイリスはクロノスを睨むだけだった。口を開こうとさえしない。
口火を切ったのはクロノスだ。小柄なアイリスに向け、彼は静かにこう告げる。
「――初めまして、姉さん」




