3-41『魔競祭最終日/準決勝第一試合』
翌朝――魔競祭五日目。最終日。
目が覚めて、最初に耳へ届いたのは小鳥のさえずりだった。
どうやら雨は止んだらしい。陽の光が、わずかに窓から注いでいる。
「……おはよう」
伸びをしながら世界に挨拶。答えるように、隣のアイリスが口を開く。
「おはよ、アスタ」
「おう。いい朝だな、アイリス」
「ん」
機嫌よさそうに、ぴくりと反応する少女に笑みを零した。俺の周りの人間が、全てアイリスのような少女なら世界も平和になるだろう。だって可愛いから。
傍若無人な昨夜の来客でさえ、アイリスのことはひと目で気に入ったみたいだった。
「…………」
というような思考過程で夜の顛末を思い出し、わずかに眉を顰めてしまう。
昨晩、話すが早いかエウララリアは帰っていった。というか、連行されて帰らざるを得なくなったというか。
御付きの護衛が現れて、王女を引きずって戻っていったのである。
鍛えられた肉体を持つ老年の執事だった。俺も何度か会ったことがある相手だ。王女の身辺警護を一手に任されている事実からもわかる通り、かなりの実力を持つ剣士である。
というか普通に有名人だ。確か、学院長の知り合いでもあるという話だった。
「時間切れです、エウララリア様」
「げえっ、グラム……っ!」
「さあ、お部屋までお戻りいただきましょうか」
王女にあるまじき声を出すエウララリアと、意に介した様子もない老紳士。やたらと濃いふたりを見送って、俺は自室に戻るのだった。
結局、詳しい話は聞けていない。エウララリアはともかく、執事――グラムさんが問題ないと判断するのならば、少なくとも今日明日中に何かが起こるわけではないのだろう。
実際、一番目の魔法使いが死んだ、なんて聞かされたところで反応に困る。
だからなんだ。とまでは言わないにせよ、そのこと自体が即、問題に繋がるかと問われれば違う。有名人の訃報を聞いた、という程度のものだ。
わざわざ話題にされた以上、何かしらの懸念があることは察するが。
それはこちらも同じこと。エウララリアに関しては、悪いタイミングで来てしまったと言うほかにない。
……魔法使いが死んだ、か。
殺された、と明言されたわけじゃない。だが「遺体が見つかった」という表現には、暗にそのニュアンスが込められている。
真っ当に考えて、魔法使いが誰かに殺されるはずはない。なぜなら真っ当ではないからだ。強いとか弱いとか、そういう次元にある存在ではないのだから。
仮に魔法使いを殺せる存在があるとすれば。それは、同じ魔法使い以外にあり得ない。
ならば。
この場合の犯人とは。
……いや、考えても仕方ない。それより目の前のことに集中するべきだ。
アイリスと連れ立って学院に向かう。試合や、というか主にそれ以外の諸々のせいで、今日はアイリスと一緒にいられない。セルエは行方不明だし、メロとウェリウスには別の仕事を頼んである。ピトス以外には、信頼して任せられる相手がいなかった。
今日も今日とて第一試合からの出場だ。
対戦相手はオブロ=ドゥラン。七曜教団が《水星》であるという疑惑をかけられていた男なのだが、今となってはあまり意味もない。奴の能力を考えれば、もはや「誰が水星なのか」なんて考える意味もないからだ。
俺は《オセル》でウェリウスと落ち合った。昨日の試合の顛末を聞くためだ。
報告を受けて、しばし考え込む。
水星――ドラルウァ=マークリウスの能力は異常だ。殺す方法どころか、勝ち目がそもそも見当たらない。
変身魔術。その真髄は《自分の身体を別の何かに変える》のではなく、《別の何かを自分の身体に変える》ことだというのだから馬鹿げている。石も、炎も、水も、空気も、他人の肉体でさえ奴は《自分の肉体》という概念にしてしまう。
そして駄目押しの変心魔術。こちらに関しては、詳しいことさえわかっていない。こちらもまた他者の人格を、自分の人格へと変えることができるのだろうか。だとすればお手上げだが、何も無条件でできるわけではないらしい。そうであるならすでに終わっている。
しかし今、俺は俺のままだった。少なくともそういう自覚でいる。
考えるべきことはあった。
――誰が水星なのか。そんな思考に意味はない。彼女にとっては、あまねく全てが自分であるのだから。
考えるべきは別のことだろう。ウェリウスの話や状況を鑑みて、俺にはひとつの推測ができていた。
オブロ=ドゥランは、おそらくただの被害者だろう。水星によって操られ、自己を失った哀れな犠牲者。そう片づけられてもおかしくない。
「君は、彼をどうするつもりなんだい?」
だからウェリウスからそう問われたとき、俺は即答することができなかった。
「彼の精神が水星のそれに変えられているのだとすれば、おそらくもう戻すことはできないだろう。そもそも水星は、いくらだって精神のストックを持っている。――殺さない限り、オブロを止めることはできないんじゃないのか?」
「……かも、しれないな」
殺す、と言い切ることはできなかった。それが余計な感傷、同情の余地もない甘さであることを自覚していながら。
ウェリウスは俺を責めなかった。ただ「そうか」とひと言だけ呟き、いつも通りの、どこか腹黒い笑みを見せるだけだ。
「まあ、あるいは君なら、見つけられるのかもしれないね。彼を水星から解放する方法を」
「……買い被りすぎだ。そんな方法があれば苦労はしないんだよ」
「そうかな? もし本当に可能性がないのなら、それこそ君は迷わないと思うけど」
知った風な口を叩くウェリウスだった。
決断のときは、もう目前にまで迫っている。
※
『さあさあ、ついに魔競祭も大詰め、最終日! ここまで勝ち上がってきた猛者たちも、残すところはあと四人! 史上稀に見るハイレベルな大会を勝ち抜いてきた連中が、学院最強の座を懸けて、ラストバトルに今挑むッ!! 野郎ども、ここから先は見逃せないぜ――っ!』
実況のシュエットが叫ぶ。ついに超満員となった客席も、彼女の口上で一斉に湧いた。
毎度のことだが、舌のノリがいいというか、他人を扇動することにかけては本当に上手い実況である。言葉が巧みというよりは、単純にそういう人格なのだろう。
ステージの上で、俺はすでにオブロと向かい合っている。
視線を下に俯いたまま、奴はこちらを一瞥することさえしない。髪が陰を作り、その表情を窺い知ることはできなかった。
一応の作戦はある。
いや、それを作戦と呼んでもいいのかは別として。出たとこ勝負というか、その場での対応力にかかっている部分が多すぎる。
要するに、まあ、普段通りということだ。
試合開始の掛け声が、最終日の会場を盛大に揺らした。
※
オブロは動かず、そして俺も動かなかった。安易に動けないというのもあるが、まずは相手の出方を見たい。
何を考えているのか。よく見れば、オブロは厳密にはまったく動いていないわけじゃなかった。痙攣するかのように肩を震わせている様が、およそ十歩ほど離れた俺からもわかる。
まるで笑いを堪えている様子だ。
不愉快ではある。が、その程度でいちいち感情を乱す間抜けもない。
そのまましばし待っていると、やがて、オブロが顔を上げた。
がくん、と。紐で吊り上げられたみたいに、人間味のない気持ち悪い挙動で。オブロの視線がこちらを向く。その顔には、怖気を走らせる笑みが張りついていた。
「ようやく……ようやく会えましたねえ……ひ、ふ――ひひっ」
喉を詰まらせたみたいに、酷く聞き取りづらいオブロの声。声音は男のものだったが、実際に話しているのがオブロではないことくらいわかる。
会場には聞こえない、絶妙な音量でオブロは笑った。
「この場で。この場でこの場でこの場で! 貴方に会えることを運命と呼ばずしてなんと呼ぶものか――」
「偶然だろ」
まともに答えるつもりはない。目の前の相手はまともじゃない。
わかったのは、やはり俺と魔競祭のステージ上で会うことに意味を見出していたらしい、という事実くらいだ。わかっていたといえばわかっていたのだが、改めて言葉で聞いたことには意味があるだろう。
俺は訊ねる。
「で? そろそろ目的を聞かせてくれてもいいんじゃないのか」
「目的……? 目的目的目的、ですかあ……?」
水星の口元が歪む。変身したみたいに。
「俺と会いたかったんだろう? こうして、この場で。用件くらい、聞かせてくれてもいいだろう」
「用件なんて、そんなものはありませんよう……。ただただただただ死んで殺されて死んでくれればそれでいいんです。日輪様が日輪様が、殺せと仰せになられたのですから……」
日輪様、という言葉にはあえて触れずに続ける。
「ここで? わざわざ?」
「あれえ。知らないんですかあ……?」
けたけたと笑う水星。客席の連中も、そろそろ異常に気づくかもしれない。
それはわかっていたのだが、ここで水星の言葉を遮ることはできない。何か重要なことを、こいつから探れるかもしれない。
「この場所はこの場所はこの場所は。この場所は迷宮の中心ですよお……? 貴方みたいな外れ者は、ここで死んでくれなきゃ困りますよう……」
「迷宮の……中心?」
意味がわからない。この街で迷宮といえば当然、オーステリア迷宮のことだろう。
だが学院は街の中心にあるわけじゃない。地下に広がる迷宮の中心は、決してこの位置ではないはずだ。
怪訝に思う俺を、水星は嘲笑うかの如く見下す。
「やはり……知らないんですねえ。七星旅団も、下位はこの情報を聞いていないというのは本当だったみたいですねえ……うふふ。おもしろぉい……」
俺が水星の反応から何かを探っていたように、水星もまた俺の反応から情報を探っていたのだろう。
狂っているようでいて、それでも最低限の理性はある。だからこそより最悪なのだが、今はそれどころじゃない。
「……何が言いたい」
訊ねた俺に、水星はまったく別の言葉を発した。
「貴方、どうしてここにいるんですかあ……?」
「は――?」
「どうしてこの学院に来たんですか……」
「……訊かれている意味がわからないな。お前らだって知っているだろう、呪いを解くために――」
「どうして呪いを解くために学院なんですか」
その言葉が。どうしてか、胸に刺さった。
「学院の禁書庫にあるという魔術書が目当てですか? 今まで一度でも中身を見たんですか? この学院以外には、書物がないとでも言うんですか? そもそもどうして、学院に呪いを解くための方法があると考えたんですか。どうして一年経っても、まだ呪いを解けないままでいるんですか……?」
水星が笑う。凄惨に。凄絶に。
俺の間抜けさを嘲笑する。
「――マイア=プレイアスに言われたからじゃないんですか?」
「何が……言いたい」
「彼女に言われたから来たんですよね。彼女の出身だから来たんですよね。おかしいとは思わなかったんですか。この街が異常だと、今まで本当に気づかなかったんですか」
街の異常。迷宮都市の。学院都市の異常に。
俺は本当に気づかなかったのか。
「――ここが本当にただの学院だなんて、まだ信じてるんですか……?」
刹那。誰かが俺を、後ろから優しく抱き留めた。
※
油断していたわけじゃない。敵意を、害意を、殺意をまるで感じなかったせいで、反応が遅れてしまっただけ。
突如として、俺の背後の地面から人間が生えてきたのだ。
正確には、地面そのものがヒトガタに変身した、というべきか。無機物だった石の床が、有機的な柔軟性を帯びて俺の身体に抱きついてくる。《水星》に特有の能力――変身魔術。
反射的に指を動かした。右の人差し指に嵌めた、魔具製作者エイラ=フルスティ謹製の印刻用アイテム。魔力を通して光を発し、指でルーンを刻めるようになる。術式の代理演算までは不可能だが、魔術自体に多少の強化くらいはしてくれる。今の俺には重要だ。
刻み印した文字は《駿馬》。動きを止めようとする魔術に、移動のルーンで対抗する。強引に腕を振り切って、水星から逃げるように距離を取った。
実のところ、この程度は大した脅威じゃない。
今のやり取りでわかるのは、俺が押されているということではなく、あと出しのルーン程度でも抵抗できるという事実だ。ウェリウスたちとは比較にもならない。呪われている俺ですら、容易に対処可能なのだから。
俺を殺すという割には。
はっきり言って、実にお粗末な魔術だった。
「この程度で、俺を殺せると本気で思ってるのか……?」
だから、知らずそう口にしていた。不思議でならなかったのだ。
この程度のはずがない。この程度であることが、逆に俺には不気味に思える。
思わず疑問が口をついたのは、そのことが理由だった。
水星は、けれど余裕を崩さず薄く笑む。その場にいるのはオブロだが、確実に別人の意思が介在しているとわかる表情で。
「ええ……。確かに、この身体では貴方を倒せないでしょうね。ですが、それは負けが決まっているというわけではありません……」
「俺を倒す策があると?」
「どうかなどうかなどうかなっ!」水星の口調が変わる。「むしろ、この程度で殺されちゃうなんて興醒めなんだけどねっ! 別に、迷宮に捧げる生贄が君である必要はないわけだし」
「……」
「でも貴方。私を――この身体を殺せないでしょう?」
口調が一定しない。複数の人格が、ひとつの身体でかわるがわる役目を果たすように。
セルエを知っている俺は、だから多重人格者にも理解はある。
けれど、なぜだろう。セルエとは違う。水星からは、生理的な嫌悪をどうしても感じさせられてしまうのだ。
「……確かに。ルール上、殺すわけにはいかないが、そんなものはどうとでも――」
「いや、そういうことじゃなくてだな」
ふっと気を抜くように笑う水星。
嘲られたのではない。今、俺は明らかに憐れまれていた。
水星に。ドラルウァ=マークリウスに。
「殺せるのなら殺している。君がそれをしないのは、オブロを助けようとしているからだ」
「…………」
「甘いことだね。とても七星旅団の一員だったとは思えない。まあ、だからこそ木星もこんな遠回しな方法を選んだのだろうが……君が本当にこの程度で終わるとは、私としても考えたくないものだよ」
「……は」俺は笑った。「要するに、人質だって言いたいわけか」
「まあ、否定はしないさ。その通りだよ」
「甘いのはお前のほうじゃないのか。そんなものが、俺に通用すると思ってるのか」
「――思っているさ」
「…………」
「君に、私は殺せない。違うかい?」
まったく、知った風な口を利いてくれる。どいつもこいつもだ。
思わず俺は苦笑した。結局のところ、俺は舐められているということだろう。
別に構わない。警戒されるよりは、下に見てくれるほうがありがたい。そうでもなければ、水星――それとも木星なのか――は俺とこの場で戦おうとはしなかっただろう。
だから答えた。正直、笑わないではいられなかった。
「その通りだ。俺は、オブロを殺さない」
「……意外だね。認めるのかい」
「認めるも何もないだろう」
なぜなら。
「それでも水星は殺せるからだ」
※
「――ポイントひとつ目。なぜお前は俺の精神を直接、変心させないのか」
悠長に。偉そうに。ゆっくりと紐を解くように俺は言う。
それだけの余裕があるからだ。
なぜなら、水星はもう――動けない。
「答えは単純、できないからだ。そもそも肉体干渉と精神干渉はまったく別の種類の魔術だ。それを同時に極めるなんて、いくらなんでも馬鹿げてる」
仮にできるのならやっているだろう。オブロだけではなく、俺自身を操ってしまうほうが話は余程早いのだから。やらない理由を探す必要はない。できないだけだ。
考えてみれば、あの操られた信者たちを俺に見せたことがまずおかしい。あれは、俺に見せないほうが絶対によかった。あの場に来る意味なんてひとつもない。本当に他人の精神を上書きできるのなら、その情報は絶対に伏せるべきものだろう。切るとしてもあのときじゃない。
奴にできるのは、あくまで自分の精神を分割することだけ。他人の精神に直接干渉することは不可能だ。
そうして奴は他者を操る。自分の人格を、他人の肉体に乗せることで。
だが、それだけで乗っ取られた人間の精神が消えてしまうわけじゃない。必ずどこかに残っている。精神とは本来、それだけ魔術の干渉を受けにくいものなのだから。
「なら、お前さえ追い出せば、オブロを助けることはできる」
だから問題なのは、そも水星の精神を追い出すこと自体が難しいという点だ。
精神は魔術の干渉を受けづらい。それは同時に、水星の精神にも言えることだった。
「ここで論点になってくるのは、なぜお前が人格をころころ変えるのか――という点だろう」
奴の人格は不定だ。話し方がすぐ変わるから、精神が入れ替わっていることもわかる。演技でないとするのなら、残る可能性はひとつだろう。
すなわち、そうせざるを得ないから。
話しながらも、俺は周囲に視線を巡らせ続ける。
待っていたというのなら、俺自身が誰よりこの魔競祭の場を待っていた。
オブロを泳がせ、わざわざ決着を今日まで延ばしたのだ。
それには理由がある。もちろん一般客への影響も考えてのことだが――要は確実を期したかった。
「お前は他人の身体に、長い時間、ひとつの人格を定着させ続けることはできない。当然だな、だって本物はまだ身体に眠ってるんだ。それが起きるたびに、定着力でお前の人格は本来のオブロの精神に負ける」
だから。
「だからお前は、精神の支配力が弱まるたびに、新しい人格を定着させる必要があった。人格が頻繁に変わるのは、そのときどきでお前が意図的に入れ替えていたからだ。支配権を、再びオブロに取り返されてしまわないように」
そこまで言ったところで――ようやく見つけた。
客席の端。ひとりの少女が、ステージの俺と視線を合わせる。気づかれたことに気づいた少女は、すぐさま立ち上がると身を躍らせて客席から逃げ出す。
もう間違いない。
あいつが、水星の本体だろう。
遠隔で人格を変えるなんてまずあり得ない。水星の本体が、必ず近くで見ているはずだ。俺が最終日の試合まで待ったのは、奴を逃がさず追い詰めるためだった。
こうして長々と推理を語ってみせたのは、探す時間を稼ぐためだったということ。でなければ口を利きたいとは思わない。
実際には推測が多分を占めている。蓋然性は高いと思っていたが、決して確証があったわけじゃない。
とはいえこうして見つけた以上、あとは追い詰めるだけだった。
「何、を……し、た……?」
水星が言う。たどたどしい口調で。舌が上手く動かないのだろう。
別に語り聞かせる必要はない。こうなった以上、水星はもうこの人格を破棄するはずだ。
それでも一応、聞かせておくことにする。魔術師である以上、種明かしは義務のひとつなのだから。
「それがポイントふたつ目。変身魔術の謎解きだ」
奴の変身は、もはや《変身》などという言葉の範疇に留まらない。負傷は一瞬で治り、質量も属性もまるで問わない。普通に考えれば、やはりあり得ない術式だろう。
魔術には必ず魔力という代償が要る。これは大前提だ。たとえ三人の魔法使いであろうとも、この原則だけは超えられない。
要は等価交換ということだ。傷を補填し、質量を無視し、有機物を無機物に変えるような行為は、魔術の大原則から外れている。――ならば、考え方を変えなければならない。
「お前の変身は、種を明かせば物質と魔力の相互変換だ」
水星は魔力を物質に、物質を魔力に変えることができる。それが変身の理屈だ。
自分の肉体を一度、魔力に変える。その魔力を、今度は別の形、別の物質に変えるというのが水星の変身の理屈である。
この推理には自信があった。なぜなら、それ以外は絶対にあり得ないから。
ひとたび魔力という形を経由すれば、質も量も自在だろう。体積を増やしたければ、その分、使う魔力を多くすればいい。逆に減らしたければ、どこか別の場所に保持しておけばいいだけの話だ。魔力という無色のエネルギー体を経由している以上、どんなものにだって変えられる。火にも水にも、土にも風にも変わるのが魔力というものなのだから。
ならば、あとはどう対処するか。
単純な話だ。
魔力に対する支配権さえ奪ってしまえば、水星は変身をすることができない。
本来、魔力は空間に溶けてしまう。にもかかわらず水星がいくらでも姿を変えられるという事実は、どこかに必ず魔力を貯めておく貯蔵庫が存在していることの証明だ。外づけのハードディスクにたとえてもいい。
俺は、それを探し出して支配権を奪った。厳密にはその出口を塞いだ。
難しいことじゃない。相手が水星本人ならばともかく、所詮は人格を投影しただけの別人なのだから。ドラルウァ=マークリウスが、その状態では十全に魔術を行使できないことなど先刻承知済みである。
相手が本体ならば、そう上手くはいかないだろう。この辺りは力押しの問題だ。呪われている俺では、水星本人の支配力に及ばない。
だが一度限り、本体以外が相手ならば。
隙を突いて、ストレージの支配権を奪うことも不可能じゃない。呪われている状態でも、だ。
――そして奪ってしまえば詰みである。
もはや人格の支配を維持することはできないのだから。あとは時間さえ経過すれば、水星を追い出すことができる。
事実、数秒もしないうちに、オブロの身体はあっさりと力を失って崩れ落ちた。水星の分離人格が、支配権を失って消え去ったのだろう。
消滅したか、あるいは本体まで戻ったか。そこまではわからないけれど。
『だ、第三試合……勝者、アスタ=セイエルっ!』
気絶したオブロを見て取って、シュエットが狼狽えながらもそう呟く。
見ている側には、もはや何ひとつ伝わらなかっただろう。盛り上がる試合でもなかった。
――構う必要はない。
こんなものは前哨戦なのだから。これでようやく、水星にチェックをかけられる。
終了と同時に、俺は会場から飛び出した。逃げた水星を追いかけながら、指で印刻を刻んでいく。
描くルーンは《主神》と《車輪》。遠隔で、対象に思考を伝えることができる。思念会話とでも言えばいいだろうか。誰とでもというわけにはいかないが、仕込みさえあれば不可能じゃない。
裏道を抜けながら、《オセル》で待っているウェリウスへ一方的に声を飛ばす。
『術式を起動しろ、ウェリウス! 水星の位置を特定するぞ!』
いつか使ったのと同じ術式。だが今度は、対象を完全に見据えている。この状況なら逃がしはしない。
俺が作った術式の維持役を、ウェリウスに依頼していたのだ。
――だが。そのとき俺は、完全に想定外の事態と遭遇する。
自覚するよりも先に回避を選んだ。理性より早く本能が、危機を察知して対処を促す。
咄嗟に前へと跳んだ。地面を前に転がって、受身を取りながら来た道を振り返る。
そこには、巨大な穴が開いていた。
今し方まで自分が立っていた地面が陥没している。舗装された道が、その下の土ごと掘り返されていた。
そう。俺が水星を追いかけていたように、俺を追っている人間もいたのだ。
否――果たしてそいつを人間と呼んでもいいものか。
ヒトを超えた膂力。膨大な魔力量。一撃で地面を粉砕する身体能力。それは人類種ではなく、別種の生物に固有の特性だ。
「……何しやがる」
訊ねた時点で、おおよその察しはついていた。元よりこの状況で、俺の足を止める存在など限られている。
ただそれが、完全に予想していなかった相手だというだけで。
『アスタ――アスタ?』
普段より、わずかだけ焦りを感じさせるウェリウスの声。だが今この状況で、術式を維持している奴の援護は期待できない。水星を取り逃がしてしまう。
だから俺は、目の前の自体に対し、本当に自力で対処することが求められていた。
『悪いな、緊急事態だ。――まずいことになった。水星は捕捉できてるか?』
ウェリウスに問う。聞かされた返答まで最悪だった。
『できてるよ。だけど、奇遇だね。こっちにもちょっと問題が』
『そりゃ聞きたくねえなあ……なんだ?』
『フェオさん、だっけ。彼女が、ひとりで水星を追った』
叫びだすのを堪えるので精いっぱいだった。なぜそうなる。
思わずウェリウスを責めかけた俺だが、なんとか自制を働かせる。ウェリウスは、フェオと教団の間にある事情を知らない。だからフェオを止めることができなかったのだろう。
どうやらフェオは気づいてしまったらしい。
俺が気づいていながら、しかし意図してフェオに隠していた事実に。自力で思い至ったのか、それとも何かのきっかけがあったのか。それはわからない。
だがフェオには――水星を恨む理由がある。
『どうする。僕が追うかい?』
『いや……水星の正確な位置がわからなくなるのは避けたい。あいつだけは逃がせないからな。俺が行くまで、術式を維持し続けてくれ』
『……来られるのかい? 察するに、そっちにも厄介ごとが舞い込んだらしいけど』
『どうにかする。――意識を割くのが惜しい、切るぞ』
一方的に断ち切った。そんな余裕は絶対にないからだ。
俺は、正面に相対する男に向かって告げる。
「なんのつもりか知らねえが、一度だけ言うぞ。邪魔をするな」
男は答えない。ただ無言でこちらを見据えている。
少しでも動こうものならば、即座に攻撃するという意思を込めて。
「……そりゃそうか」かぶりを振って、意識を切り替える。「ならもう知らん。悪いが急いでるからな――殺してでも通るぞ」
「構いませんよ」男は答えた。「だから、こちらが殺して止めたとしても――構わないでもらいたいものです」
「……試合はいいのか?」
「学生会の仕事で出ていただけです。そして、今はそれより優先する仕事がある」
「そうかい」
「ええ」
交わす言葉は費やした。ほかにあるとするのなら、せいぜいが名前くらいだろうか。
俺は今さらになって悟る。要するに、水星が魔競祭に出場していたことには、もうひとつ理由があったということなのだろう。
全ての注目を自分に集めるため。
そうすることで、もうひとりから意識を逸らすため。
思い返すのは、先ほど水星が語っていた言葉だ。
――ここが本当に、ただの学院だと信じているのか。
答えは否だ。けれど、それも今さらだろう。
だから、俺は名乗ったのだ。
それだけが必要な行いだった。何がなんでも押し通るという、意思を形にするために。
「――元七星旅団。《紫煙の記述師》アスタ=プレイアス」
男が答える。
あるいは――鬼が。
「七曜教団。《土星》――クロノス=テーロ」
※
そして。同時刻、オーステリア城壁内部。
ひと気のない裏路地で、最悪の事態は重なっていた。
「――出てきなよ」
口を開いたのは《天災》メロ=メテオヴェルヌだ。アスタに頼まれ、セルエを探しに出た彼女だったが――その予定はすでに狂っている。
学院の敷地から出た瞬間、痛烈な敵意が込められた魔力を誰かに浴びせられたからだ。
その意味は、魔術師ならば誰もが察する。
誘われているのだ。
露骨な挑発。だがメロは、それを無視するような人格じゃない。元よりこの状況下で、メロに敵意を向けてくる人間なんて限られている。
誘われるように裏路地へ進み、そこでメロは声を上げた。
「こそこそ隠れてないでさあ。いい加減、顔くらいは見せてほしいんだけど」
「隠れてるとは心外だな。こんなにも俺は、自由を謳歌しているのに」
返答は、路地の奥から聞こえてきた。
同時に姿を現したのは、獰猛な笑みを浮かべたひとりの男だ。野生の獣を髣髴とさせる、理性から最も対極に位置するような男。
顔を合わせた瞬間に、メロは男の本質を理解した。させられていた。
「待ち侘びた。楽しみで楽しみで仕方なかった! あの《天災》と戦れるというのだからな! これで悦ばないほうが嘘だ。これで愉しめないほうが嘘だろう! 違うか!!」
「いや、知らないけど」メロはあっさり答えた。「あたしのことは知ってるみたいだね。なら、名乗る必要はないかな」
「つれないな。それはつれないだろう、《天災》! 利口な振りをするんじゃない。元より、お前はこちら側だろう!」
「……じゃあ訊くけど。アンタ――誰?」
端的なメロの問い。
男は、心からの笑みでもってこう答えた。
「――《火星》、といえばわかるだろう――!」




