3-34『二回戦第一試合』
『それでは二回戦第一試合――始めえっ!!』
シュエットの実況と同時、審判の腕が振り上げられる。
動き出したのも、俺とウェリウスで同瞬だった。
いつかの光景を焼き直すように。
ウェリウスが魔弾を乱射し、俺が駆け回ってそれを回避する。元素魔術の速度には、印刻魔術では及ばない。
「……クソ。猫被りやがって、あの腹黒イケメン……!」
毒づきながら、脚に駿馬のルーンを刻む。魔力によって強化された脚力が、俺の身体を魔弾の雨から逃がしてくれた。
しかし、この攻撃がウェリウスの本気だと言うのならば、かつての模擬戦はいったいどれだけ手加減されていたのだろう。
ウェリウスの魔弾は、もはや《魔弾》などという表現の枠に留まらない。
竜のあぎとを思わせる巨大な火炎の奔流、氾濫した大河の如き幾筋もの水流、視認することさえ許さない静謐さと速度を併せ持った風の大刃、駆け回る舞台そのものを基盤から破砕する土石流――あらゆる自然の猛威が、そのまま形となって俺を狙ってくる。どれも人間ひとりなど、軽く呑み込んで余りあるほどの規模で。俺などとは、比べるのもおこがましいまでの出力差である。
それを、ただひとりで、ただ立ったままで操るウェリウス。
その実力は、どう控えめに見たところで元素魔術師として国内トップクラスだろう。ただ元素を操るという一点において、ウェリウスの技術はすでにひとつの極みと言える。
魔術の実力だけではない。戦い方という観点から見ても、ウェリウスの技術は高いものだ。
ひとつひとつの攻撃が全て、次に続く魔術へと連動している。
地震いとともに舞台を揺るがす地属性の攻撃が足元を崩したかと思えば、速度と隠密性に優れた風の刃が死角から俺を切り刻みに現れる。
それを回避するためには、視覚ではなく感覚が重要だ。魔力の流れを肌で感じ取って、俺は倒れ込むように体勢を後ろへ倒す。一瞬前まで顔があった空間を、風の刃が通過していった。前髪が巻き込まれ、色素の薄れた俺の髪をほんのひと房、奪っていく。
そのまま後転して体勢を立て直す俺の着地点を目がけて、ご丁寧にも鉄砲水の如き水流が四方から狙いを定めてくる。最初の地属性攻撃で舞台の前方が崩されたため、俺はこの位置に下がるほかなかったのだ。一手一手、着実に追い込まれている。
「ったく、頭の回る……!」
吐き捨てながら、俺は地面に片足を着くと同時、崩れた舞台の瓦礫をひとつ前方目がけて蹴り飛ばした。当然、そんなものが離れた位置にいるウェリウスまで届くはずもない。
それでいい。要するに、まっすぐ飛んだという事実さえあれば。
「――氷」
ルーン文字の氷は、アルファベットに対応させればIの文字であり、それは形で言えば単なる直線である。
まっすぐ飛んだ瓦礫の軌道――それを印刻として解釈してやれば、それで魔術は成立する。
刹那、俺へと襲いかかってきた、四筋の水流が凍結した。
水は凍るものであり、言い換えれば凍らせる対象としては魔術的に最も楽だということ。単純に質量の大きい水の元素は、破壊力で言えばトップクラスではあるが――凍らせてしまえばそれで終わりだ。
流れない水に攻撃力はない。
だが。
視線の先には、楽しそうに微笑む金髪イケメン野郎の顔。
駄目押しとばかりに、渦を巻く火炎が俺目がけてまっすぐ伸びてくる。四方を氷の柱に囲まれている以上、避けるスペースは限られている。何よりあの火炎は、途中でいくらでも軌道を変えてくることだろう。
避けられないのなら、防ぐ以外に道はない。元より出し惜しみできる相手ではないのだから。
俺は右手を突き出して、叫ぶように声を上げた。
「《運命》――ッ!」
呪われる前でさえ、滅多に使用しなかった特別なルーン文字。宿命を意味する、形のない空白印刻。
その力で、俺はウェリウスの魔術を強制的に無に還す。魔力それ自体さえゼロにする切り札であり、文字としての形を持たないからこそ、即座に発動できるまさに切り札。
だからこそ必然、その反動も大きいものだ。
ぶちり、と。右腕を嫌な感覚が走る。おそらく筋肉の繊維がいくつか断裂したのだろう。
その感覚を経験で認識する。形のない文字だから――印刻を経由しないからこそ、俺の魔力それ自体を大きく削がなければ成立しない。
錆びきった狭い出力口が、魔力の流れに傷つけられた。それでも、術の直撃を喰らうよりマシだ。
これもまた、魔術における質と量の問題である。
量だけで言うのなら、ウェリウスのほうが遥かに大きい。それこそ比較にならないレベルで。にもかからわず魔術を無効化できるのは、ルーン文字という媒介それ自体が魔術的に高い質を持っているからだ。量で質を覆すのは難しいが、質で量を上回るのは簡単なのだ。それが魔術である以上は。
しかし、当然ながら質だけが勝敗を決するわけではない。
質で並べば、あとは出力が勝敗を決する。
突然、氷の柱の一本が爆発した。
天を突くように高く太い氷が細かい破片となって砕け散り、俺を目がけて飛んでくる。念の入ったことに、ひとつひとつが刃のような鋭さを持って。
質で勝っていたからこそ凍らせることができたわけだが、量で負けていたために長い時間留めておくことができなかったということか……いや。
咄嗟に後ろを振り向いて、背中で――正確にはそこに着込んだ外套で身体を庇う。当然、いくつかの氷片が背中を抉るが、この程度では試合を決められない。
抉られた肉から血が滲み出す。だが、俺はむしろそれこそを待っていた。
傷口に手をやって、指を赤い血で濡らす。そのまま強引に、血文字を外套の上から刻んだ。水と防御。合わせて流動防御の魔術だ。
直後、外套に発生した力場が氷の散弾を逸らし始める。
当たる直前で軌道が捻じ曲げられ、全ての弾丸が俺を逸れるように地面へ、背後へと通り抜けていった。
もちろん出力的な限界は存在している。今の俺の魔力量では、ウェリウスの攻撃全てを押し流すことなんて不可能だ。
だから同時に脚を進めた。着実にステージの端、四隅の一角へと追いやられているのだが、それは俺にもわかっていた。どうせほかに選択肢はない。
氷の雨を回避して、ステージの角まで至った俺は、腹立たしい思いのままウェリウスへと告げる。
「……くそ、そう来たか畜生!」
「当たり前だと思うけど?」
ウェリウスは悪びれず笑みを見せる。人当たりのいいその表情が、むしろかなり殴りたい感じだ。
「――《氷》の元素魔術」
だとしても、まさか《停止》した氷を、そのまま動かせるとは思っていなかった。
いや、これはまだ俺がウェリウスを舐めていたということか。
「ま、そういうわけだから僕に《氷》は通用しない。凍らされても、凍ったものを僕は動かせるからね」
「……凄まじい統御力だな」
「《氷》は書くのがいちばん楽だ。だからこそ君も多用するわけだろうけれど――とりあえず、まずはひとつ。封じさせてもらったよ」
水と火の合成元素である氷。そんなものに適性を持っている術者がいったい何人いることか。
確かにウェリウスが氷を使っているのは見たことがある。だが水を凍らせることと、凍結の概念である氷そのものを操作できることでは意味がまったく違うのだ。
止まっているものを、止まったまま動かすという矛盾。だが本来、魔術は矛盾を許さない。
端に追いやられた俺は、肩から滲み出る血にもう一度手を触れた。
目の前にはまだ三本の氷柱。当然、これらは今にだって俺を攻撃してきておかしくない。
状況はこちらが圧倒的に不利だ。ウェリウスは未だ無傷だし、そもそも俺は回避と防御だけで攻撃なんて一切できていない。魔力量を見ても、出力に限界を持つ俺では敵わない。普通に戦っていてはジリ貧だ。
あらゆる魔術の中で、最も戦闘向きだとされる元素魔術。俺だって、元素魔術師との交戦経験は少なくない。
だからこそ、今となってはもう認めざるを得まい。
ウェリウスは強い。少なくとも、こと多様性という点において、俺はウェリウス以上の元素魔術師と戦ったことは一度もなかった。
ウェリウス=ギルヴァージルは間違いなく、過去最強の域にいる元素魔術師だ。
――もちろん。
そんなことは初めからわかっていたのだが。
「結局、全部躱される、か……。本気だったつもりだけど」
ウェリウスが呟く。俺は口をへの字に歪めて、
「これで本気じゃなかったらキレるっつーの、化物め」
「何か言ったかい、怪物くん」
答えない。俺はその場で膝を落とし、会場の地面に印刻を記す。
刻んだ文字は《財産》。
ウェリウスはそれを止めることもなく、ただ愉快そうに訊ねてきた。
「……それは?」
「その位置からじゃ見えないか? 《財産》のルーンだ」
意図的に論点をずらして答える。もちろん、奴がそんなことを訊いているわけじゃないことは理解した上で。
「それは知ってるよ。これでもルーン文字については少し勉強してあるんだ」
「そらまた。こんなマイナーな魔術をわざわざね。勤勉なことで」
「モノを貯め、富を築き、成功と幸福を意味するルーン……だったかな。それでいったい、どんな魔術を使うつもりだい?」
「そこまで知ってるならヒントは充分だろ。当ててみろよ」
「わかるわけないだろう」ウェリウスは苦笑した。「君のルーン解釈は滅茶苦茶だ。ほとんど恣意的なくらい応用範囲が広い。広すぎる。本当に印刻なのかさえ疑わしいと僕は思うね」
「…………」
「ルーンについて学べば学ぶほど、君がどれだけデタラメなのかわかってくる。いや、本当――怖いなあ」
「……お前が言うな。なんだこれ、どう考えたって学生のレベルじゃねえだろ」
「それこそ君に言われたくないけれど……まあ僕も、生憎と師匠には恵まれていてね」
「生憎ってなんだよ」
「言葉の綾だよ。細かいところを気にするなあ。だから彼女ができないんじゃないかい?」
「ほっほう?」わあ。
どうしよう、手元が狂って大怪我を負わせてしまいそうだぞう?
頬を引き攣らせる俺に、ウェリウスはやはり満面の笑みでもって言う。
「嫌だな、冗談だよ。そう睨まないでほしいな」
「言っていいことと言っちゃいけないことがある。そうは思わないか?」
「思うよ」
「そっかー、今のはウェリウスくん的に言っていいことだったんだー」
「あはは」
「――絶対泣かす」
言い放つと同時、俺は姿勢を低くして、ステージの外縁沿いに駆けた。
角から角へと移動するように。
当然、ウェリウスもそれを見逃しはしない。氷柱のひとつが凍ったままで動き出し、俺を目がけて倒れてくる。
そして、それだけではなかった。
残るふたつの内、片方は溶け出すと同時に水へと戻り、最後の一本は氷から炎へと存在を変えた。
それを後ろ目に見た俺は、思わず叫び声を上げてしまう。
「はあ!?」
氷を動かすのは、まあいいとしよう。先ほども見た。溶かして水に戻すのも理解できる。どうせそう長い時間は止めておくことなどできなかった。
ただ氷を、そのまま炎に変えるのは意味がわからない。
俺の驚きを、遠巻きからウェリウスが嬉しそうに見ている。
「忘れたのかい? 僕は、元素魔術師だよ」
「だからって、おまっ……クソッ!」
理屈としては通っている。元素魔術と、ほかの魔術の違いの問題だ。
たとえば魔術で火を熾そうと思ったとき、元素魔術を使わずとも方法はある。というより、むしろ普通は元素魔術を選ばない。
元素を使わずとも、たとえば俺が《火》のルーンで発火させるように、火を灯す魔術は無数に種類がある。
しかし、これは正確には《発火》という現象を励起しているのであって、火そのものを創り出しているわけではない。
だが元素魔術は例外だ。
なぜなら、元素魔術は魔力そのものをそれぞれの属性に変える技術だからだ。
元素魔術で生み出す火は、正確には火の特徴を持った魔力である。火を熾しているのではなく、火を創っているのだ。魔力をエネルギー源として。
つまり。言い換えれば、たとえば元素魔術で生み出した水ならば、一度魔力に戻して、今度は火に変えるということも不可能ではないということ。
二種類以上の適性と、かつ相応の高い技術力を両立している、という前提をクリアしての話だが。
言うまでもなく難易度は高い。簡単なはずの元素魔術だが、複数の属性を跨ぐとなると、その難易度は途端に上昇する。ほとんど机上の空論というレベルにまで。
加えて言えば、ただでさえ相反する《水》と《火》なのだ。
その難易度は推して知るべし。相性の点から見ても、ウェリウスの技術力は常軌を逸していた。
これは質と量の問題にも直結している。
魔術で言う《質》とは、すなわちその概念がどれまで精密に世界法則そのものを反映しているかの競い合いである。
単純なところで、火は水で消せる、という認識。誰もが常識だと見做している概念ならば、それだけで魔術において強く意味を持つ。
同じ魔力量で火と水をぶつけ合わせた場合、水が勝つのはそれが理由だ。
もちろん、術式の精密性においても魔術の質は確保できる。
規模は大きくても力任せの荒い魔弾は、精密に術式を練られた小さな魔弾に敗北する。魔術師が見るべきは常に外見上の強さではなく、いかに綻びの少ない術式が込められているかのほうなのだ。
「――化物め……!」
いくら駿馬で強化してあるからといって、ウェリウスの魔弾(という名の何か)を限られた領域で、身体能力のみを頼って回避しきるなんてできるわけがない。
奴の魔弾は単発じゃない。消しきらない限り、いつまでもその場に残り続ける。
姿勢を低くして走っていたのは、だからその対応のためだった。
右手に残った血液。それをインク代わりに、俺は空間へとルーンを刻む。
運命は連発できない。使うならほかの文字だ。
まず始めに俺へと襲い来た氷の鞭を、俺は《収穫》のルーンで受け止める。凍結の属性を文字そのものに保管したのだ。それを、今度は逆に水流へと跳ね返した。
凍結の――停止の概念そのものが水にぶつけられる。水流は凍りつき動きを停止させるが、その状態でもウェリウスなら動かせることは先刻承知だ。
だからこそ、あえて俺は《収穫》を選んだのだ。
いくつかのルーンが、意味合いとして非常に似ていることは誰もが気づくだろう。
たとえば先ほどの《財産》と《収穫》。ここにいったいどんな違いがあるのかは、知識がないとわかりにくい。
この場合、《収穫》のルーンはそれで得るモノ自体よりも、それを獲得するに至る努力の過程、プロセスのほうを重視したルーン文字である。継続と循環。それが収穫のルーンの本質だ。
この魔術を、俺は途中で放棄した。
努力の過程を投げ出したのだ。
半端に凍りついた水は、収穫を諦められた結果として水に戻り、ウェリウスが作り出した炎へと降りかかる。水と火ならば水が。同じ魔術師の攻撃であるからこそ明確に、理論通りに消失する。飛び散った水はステージに落ち、そのまま吸収されていった。
なぜなら、《収穫》のルーンはそのまま大地の意味もある。全てを受け止める母なる大地――そこに滲み込んだ以上、その魔力はもう世界のものだ。ウェリウスの支配からは外れてしまう。
質という点において、ルーン魔術はほかの魔術より明らかに有利である。
文字そのものが《神に創られた》と言われるルーン文字は、それ自体がひとつの法則として成立しているからだ。ひとつの文化を、歴史を、秩序を背景に持つからこそ、ただひとりの人間が扱う魔術法則を上回ることができる。威力は高くとも質に劣る元素魔術が相手ならばなおさらだ。
量の元素魔術と、質の印刻魔術。その競い合いになるということである。
相手が、ウェリウス=ギルヴァージルでなければ。
――次の瞬間。
目に見えない風の刃に、真正面から襲われた。
※
「…………」ウェリウスは無言だった。
彼は始めの位置から一歩たりとも動いていない。一方、ルーンの加護を受けて駆け回るアスタは今、風に煽られて逆側の角まで辿り着いていた。
そのことが、彼の心中を酷く慌てさせる。
「ただひとつの文字で、僕の魔術を四つも相殺するなんて……」
それも《収穫》などという、本来なら明らかに戦闘には使えないだろう文字で。
氷を収穫し、そこで得た凍結の概念を水に当てる。その上で魔術を途中放棄し、火を消した上で地面に水を撒いた。そこにまだ残っていた凍結の概念が、地面に用意してあった地属性の魔術を停止させたのだ。
そう、ウェリウスの魔術は、完全に打ち消されない限り場に残る。
回避されようと防御されようと、消されなければ次があるのだ。つまり、始めに使っていた地と風の魔術だって、まだ場に残っていたということ。
それを――アスタ=セイエルは《収穫》ただ一字で四属性まで消しきった。
元素魔術師の持つ多様性は、それだけ対応を困難にさせる。
威力――量という観点において元素魔術は強い。だからこそ相手は質で対応するわけだが、その場合、たとえば火を消すには水を使う、というように相性や術式を考える必要がある。
だからこそ、ウェリウスは様々な属性を使い分けるのだ。
それぞれの攻撃にまったく別の魔術をぶつけなければ、元素魔術を消すことはできないから。
「……とんでもないな」
自分のことは棚上げにして、ウェリウスはアスタを観察する。
傍目から見れば、結局は攻撃を受けているのだ。それはアスタの負けを意味するはずだ。
だが、ウェリウスはそう考えない。彼はきっちりと目にしていた。
――アスタは、おそらく意図的に風だけ残していた。
事実として直撃は受けていない。当たる寸前、彼は外套に魔力を流し込んでいた。
先ほど氷の弾丸を逸らすために使っていたルーンにだ。
魔力が切れても、刻んだ文字自体は残っている。言い換えれば、魔力さえ流せば再び利用できるということだ。
切断力だけ流し、風の勢いを加速に変えて、アスタは逆側の角までひと息に辿り着いていた。
一から十まで馬鹿げている。
大した負傷もなく、アスタは普通に立ち上がった。
指を湿らせる自らの血液で、彼は続けて《栄光》のルーンを刻んだ。ふたつ目の角に、ふたつ目の文字を。
幸運を意味し、喜びや念願の成就、満たされた状態を意味するルーン文字。
やはり、どう使うのかなんてさっぱりわからない。調べれば調べるほど、ルーン魔術がどれほど戦闘に向いていないのかが知れるだけだったのだ。
なにせ本来、ルーン文字は占いや護符の作製に使うものなのだから。適当に刻み印した文字が魔術として成立するなんて、そんなことはどんな書籍にだって書かれていなかった。
その研究を踏まえて、ウェリウスは仮説を立てている。
おそらく、アスタが使っている魔術は、厳密な意味での《印刻》ではない。
本人は普通に印刻魔術師を名乗っているが、嘘を言え。少し調べただけのウェリウスにだって断言できる。
こんなものは印刻魔術ではない。
ルーンで火を熾そうと思えば、燃やしたい対象に、決まったとおりの手順を踏んで、精密に文字を刻まなければ不可能だ。その辺に書いて「はい燃えた」とか。アホか。馬鹿にしてんのか。できねえんだよ普通はそんなこと――と、突っ込みたいのはウェリウスのほうである。
だからこその仮説だ。
いくら《収穫》が持つ意味通りに使っているとはいえ、好きな対象に、好きな解釈を、好きなタイミングで適用できるなんてあり得ない。ふざけているにも程がある。
つまり。
彼は印刻魔術師ではなく。
――単なる印刻使いに過ぎないのではないだろうか。
魔術とは、その全てが《世界法則の改変》である。魔術である以上、そこに例外はひとつたりとも存在しない。
単純な《火を熾す》魔術を例に取ろう。
本来、その場所に火は存在しない。理由なく発火が起こることなど絶対にない。それが世界の決められた法則であるからだ。
魔術師は、それを書き換えて火を熾す。
火がないという世界の状態を、火があるという状態だと偽って世界そのものを騙す技術。それが魔術だった。
エネルギー源は魔力。それをインクに、術式という名の命令文を使って世界の状態それ自体を改変する。
その改変は魔力が枯渇するまで続き、切れると同時に、世界は勝手に本来の状態へと戻る。
その意味で言えば、なるほどルーン文字は強いだろう。
この文字は、そのまま世界法則の側なのだ。言い換えればカンニングペーパー、答えそのものが書いてあるといってもいい。
世界という名の文章を読み、どこをどう書き換えれば、どのように法則が書き変わるを絶えず思案し、場面に応じた術式を組み立て、その通りに魔力を流し込む――という魔術の大前提。
印刻使いは、しかしその過程を必要としない。
書き換えるべき文章は、すでにルーン文字そのものが答えを出している。文字そのものが、ひとつの術式として成立しているのだから。
あとはただ魔力を使って、その答えを写せばいいだけである。
強いわけだ。
ほかの魔術がプログラミングならば、ルーン魔術は単なるペーストに過ぎない。
あらゆる魔術師が必死に答えを考えている傍らで、印刻使いは答えをそのまま解答用紙へ書き写しているだけに過ぎないのだ。
アスタの弱点はつまり、せっかく答えを持っているにもかかわらず、それを記すための魔力がほとんど使えないという点に終始する。
少なくとも、ウェリウスはそう予測していた。
しかし、だとするのならば。
果たして、呪われる前の彼はいったい、どれほどの――。
「……ま、そんなこと考えても意味はない、か」
ウェリウスはかぶりを振った。そんな考察は、この試合において意味がない。
考えるべきは彼を打倒する方法であり、ならば《どうやっているのか》ではなく、《何をしているのか》のほうを考察したほうがマシだ。
今のままなら、それでもまだウェリウスが力押しで勝てるだろう。
だが、それを単純に許すような相手だとは考えていない。現に四角形のステージの角で、彼はなんらかの意図を持って印刻を写しているのだから。
まずは場所。彼は、あえて会場の角になる位置に印刻している。
単純に考えるならば、あとふたつの角にもおそらくルーンを刻みに来るだろう。その場合、会場を二分したこちら側に、これからアスタが攻め入ってくることになる。
遠距離戦から、接近戦へと状況が移行するかもしれない。
しかし、不思議なのは、なぜわざわざ角に刻んでいるのかだった。アスタほどの術式改変能力があれば、たいていの魔術は、会場のどこに刻んだって同じだけの効力を発揮できるはずだ。
現に彼は魔術を使うとき、ルーンを刻み込む場所を一定させていない。
地面に刻もうが空中に刻もうが、あるいは煙草を使おうが、どこにだって魔術を発揮できる。その時点でもういろいろとおかしい気がするが、とりあえずそれは措く。今の話だ。
わざわざ危険を冒してまで、好みで角を使っているわけではないだろう。
つまり、その位置に刻まなければ使えないほどの高難度魔術を準備しているということ。
四角形の範囲を、線で囲うように角に印をつける。
その位置関係が重要だとするのなら――おそらくアスタが使うとしているのは空間系の魔術。
すなわち、結界。
どんな効果を持つ結界なのかはわからない。かつて彼は「文字を見られるから使おうとしている魔術がばれる」とかなんとか言っていたらしいが、無理。できるか。わかるわけない。
だから、結界の効果自体はこの際もう考慮に入れない。
発動そのものを阻止してしまえばそれで済む。
一度刻んだルーンを、あとから消すことはできるだろうか。一瞬だけ考えて、すぐに無理だとウェリウスは悟る。術式強度ではルーンに勝てない。何より血液は魔術の媒介としてトップクラスに優秀だ。たとえ刻んだ文字自体を、ステージの床ごと破壊したところで、《刻んだ》という結果が残っていればアスタなら魔術を成立させるだろう。それくらいのことは平気でやる。
ならば、残る方法はひとつだ。
すなわち――刻みきる前に倒してしまえばいい。
※
ふたつ目のルーンを刻み終えたところで、ステージの中央付近に立つウェリウスが笑みを消した。
奴の纏う空気が明確に変わる。
おそらく、俺がしようとしていることに気づいたのだろう。だからこそ、全力でその阻止に回ったというわけだ。まあ、それくらいは楽に見抜く男だ。
右手を開き、その掌を真下へと向ける。手首を左手で握り込み、その場に魔力を集中させ始めたウェリウスは、そして、静かに詠唱を始めた。
それを止めるすべはない。
この距離では、ウェリウスの詠唱のほうが速いだろう。
「天網壱式。意志に順え、札を錬る小人――」
それは先日、彼が第一試合で唱えたのと同じ文句だ。
つまり、使う魔術も同じである。
「――因子超越統御」
それぞれの元素に概念を付与し、それを一括で統御するというウェリウスの切り札。
この段階で、ついに使用を決めたようだった。
流れる冷や汗を自覚した。ここから先は、文字通りの決死が求められるだろう。
景色が一変する。
それは、自然の驚異をそのまま具現化したかのような光景だ。
破壊の化身たる火炎が。生命の根源たる水素が。世界の根本たる大気が。人類の基盤たる大地が。天空の脅威たる雷霆が。終焉の具現たる氷塊が。森羅の表現たる樹海が。文明の発露たる金鉄が――。
実に八属性もの元素因子を一括統御した、たったひとりの魔術師が。
万象を従えて立っている。
そこには全てが在った。世界を構成する全ての要素が、彼という個人に隷属していた。
これが元素魔術師、ウェリウス=ギルヴァージルの本気だというのなら、前の試合などもはや児戯にも等しいだろう。
――化物だ。
「お前さ、いったい何者なんだよ……」
大自然の脅威。その体現たる男を目の前にして、俺は思わず訊ねていた。
ゆっくりと、少しずつウェリウスに近づいて行きながら。
答えるとは思っていなかった。だが奴は、ふと視線を会場のほうへと逸らすと、
「……そうだね。僕は、君と同じだ」
「は……?」
「僕は君の秘密を知っていることだし、だから、僕も君に秘密を教えよう」
言葉と同時、ウェリウスが軽く片手を振るった。
その動きに合わせるかの如く、火炎が、まるで円を描くかのようにステージを囲って覆い尽くす。景色の全てが火炎の色に染まるように――観客席の視線を隠すように。
膨大な熱量が、大気さえ焦がしながらバチバチと音を立てる。
なるほど。これで視界も音も、客席へ伝わる情報は全て塞いだということらしい。
陽炎が揺らめく。その向こう側で、ウェリウスが言った。
「さあ、仕切り直しといこう。そしてできれば名乗ってほしい。これは、魔術師同士の決闘なんだから」
両腕を広げ、酷く楽しそうにウェリウスが笑う。
俺はわずかに頭を掻き、それから溜息をついて――そして言った。
「――元七星旅団。《紫煙の記述師》、アスタ=プレイアスだ」
「え?」
と。なぜか、ウェリウスが驚いたように目を見開いた。
……ん、え……あれっ?
「待て待て。え、ってなんだよ。知ってたんじゃないのか?」
「いや、知らなかったけど……なるほど。道理であの《天災》と。あからさま過ぎて、なんか逆に違うのかと思ってたよ」
「いやいやいや! えっ!? お前、この前なんか『正体わかってる』とかなんとか意味深なこと言ったた癖に――」
「……ああ。そのことか」
得心がいった、とばかりにウェリウスは手を打つ。
それから苦笑して言った。
「ごめん。僕が言ったのはそのことじゃないんだ」
「なら、なんだよ」
「僕が知っているのは――君が、あのアーサー=クリスファウストの弟子だっていうことのほう」
「――な」
今度こそ、俺は心から驚愕した。
なぜそのことを知っている。奴の娘だというシャルならばともかく、ウェリウスがそれを知っている意味がわからない。
というか――場合によっては、これ……。
脳内で打算を働かせる俺に対し、ウェリウスはひたすら軽い雰囲気を纏っていた。
「ああ、別に誰にも言わないよ。それを知られると僕も困る」
「……どういう意味だ。まさかお前まで奴の弟子だ、なんて言い出さないだろうな?」
「まさか。顔を見たことさえないよ」
ウェリウスは軽く肩を竦める。
それから「すまない」と頭を掻くと、おもむろに姿勢を正してこちらに向き直った。
「そういえば、まだ名を交わす途中だったね。こちらからも名乗らせてもらうよ」
――そして。
元素魔術師は名乗りを上げる。
「フィリー=パラヴァンハイムが高弟――ウェリウス=ギルヴァージル」
俺は、特に反応を返さない。驚くべきなのか、それとも納得するべきなのか。よくわからなかったからだ。
彼の師の名前は、おそらく魔術師ならば誰もが知っている。
当然だ。なぜならその名は、この世界において、ほかにただ二名だけ、あのクソジジイと並び評される名前なのだから。
あるいは、単純な威光ならば、あのアーサー=クリスファウストをも凌ぐだろう。
あの男が三番目の魔法使いならば。
フィリー=パラヴァンハイムは――二番目の魔法使いなのだから。
つまり。ウェリウス=ギルヴァージルは。
「――君と同じ、魔法使いの弟子だ」
※
同じ舞台に降り立った、ふたりの魔法使いの弟子。
その戦いは、未だ半ばにて終わらず、決着を求めて続いている――。




