3-31『敵』
正確なところを言えば、アイリスがアスタたちや七曜教団員を嗅ぎ分けているのは、嗅覚によるものではない。
まあ当たり前の話ではあろう。におい、とたとえているのは、あくまでアイリス自身のイメージの問題であり、実際に感じているのは魔力の感覚である。
アスタやセルエ、あるいはメロやピトスたちの魔力は綺麗だ。少なくともアイリスはそう思う。
雑じり気がなく純粋で、力強いひとつだけの色。
彼らの魔力は、もちろん個々人によってその質は違うものの、どれも共通して美しい。根源的な、魂とも呼ぶべき概念が反映されているためだろうか。清廉で強靭な意志というものを、そのまま形に変えたもののように感じられるのだ。
一方、七曜教団のそれは違う。
まるで澱のように淀み、濁りきった歪な魔力。完成した絵に、あとから乱雑な描き足しを重ねたみたいな。魂そのものに手を加え、人工的な色のある魔力をアイリスはどうしても好きになれない。
――かつて過ごしていた地下の実験場に、同じ魔力が漂っていたから。
そして何より。
自分自身が持つ魔力と、まったく同じものだから――。
※
出店の多い学院の中央通りを折れ、校舎の裏を回って試術場のある方向へ向かう。《におい》はそちらから流れてきていた。
曇り空は次第に灰色を濃くしていき、そろそろひと雨降りそうな気配がある。湿った空気の匂いが僅か、アイリスの鼻腔をくすぐった。
――においの元を絶つ。
今、少女が考えているのはそれだけだ。ほかの事情など一切頭に入っていない。
アイリスは知ってしまったのだから。
これがよくないものであると。自分たちを脅かす外敵であると。
だから排除しなければならない。
手に入れたものの価値を、他者との繋がりの温かさを。失いたくないものを知ってしまった少女は、だから、生まれて初めて抗うことを決めたのだ。
しかし少女は方法を知らない。アイリスには何もわからない。
奪うか。
それとも奪われるか。
少女が持つ価値観はそれだけだ。彼女の知識にあるのは奪われることの理不尽さだけ。彼女が教えられたのは奪うやり方だけ。
守ることさえ、奪うことでしか為し得ない。
今の生活を奴らが奪うというのなら。
それより先に、命を奪ってしまえばいい。
それが少女の価値観だった。
それが間違っているだなんて――誰も教えてくれなかった。
※
試術場の中心で、アイリスは《水星》の姿を見つける。
長い髪を伸ばしたままにした、病的なまでに痩せ細った女の姿である。当然、変身魔術使い手である以上、それが本当の姿である確証などない。
それでも、アイリスには目の前の存在が水星本人であるとわかる。
それで充分だった。
魔術師だろうがなんだろうが。人間なんて、殺せば死ぬ。
「ああ……気持ち悪い」
アイリスの姿になど一瞥さえくれず、水星は猫背で地面に視線を落としたまま、神経質な声音で言う。
それ以外には何もしていなかった。
アイリスが水星の存在を、なんらかの方法で感知することはすでに周知だ。冷静な人間なら、遅くともこの時点で、誘われたのだということには気づくはずだった。
しかし、アイリスは気づかない。
「気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。偽者が紛い物が失敗作が、どうしてどうしてどうしてこんなところにいる――? たまたま生き残っただけの癖に生きる価値なんてない癖に生きてるなんて言えない癖に……どうして」
アイリスは答えなかった。
答える意味を感じない、という以前に何を言っているのかさえ定かではないからだ。虚ろな視線を彷徨わせ、意味不明な妄言ばかり零す水星の様子は、誰が見たってはっきりと異常だ。
常人ならば、見ているだけで精神を抉られるような心境に陥ることだろう。
「失敗なんて駄目。《日輪》様は完全でなければ完璧でなければならないのに。十全で必然で究極でなければならないのにのにのにのにどうしてどうしてどうしてえ……っ!!」
「…………」
「殺さないと。消さないと修正しないと元に戻さないと。馬鹿め馬鹿め馬鹿め馬鹿め馬鹿め! この売女が淫売が腐れ果てた傀儡女がよぉっ! 作ってもらった恩を忘れたか! 尻振って新しい男見つけて調子たれてんじゃねえぞ人形があッ!!」
水星は、ほとんど自らを傷つけんばかりの強さで頭を掻き毟っている。
わかるのは異常だということだけだ。
つまりどうでもいい。早く目の前から消してしまおう。
アイリスは跳ねた。
直線ではなく、地を這うような無軌道な動きで。人の死角からあっさりと近づき、致命の一撃を振るおうとする。
それは暗殺者の動きだった。
元々は教団に仕込まれた忌むべき殺しの技術。それを、その教団の幹部相手に振るうというのだから皮肉だろう。
水星は反応さえできなかった。
一瞬ののちには、アイリスは水星の背後に回っている。後ろから水星の首を掴み、加速と体重をかけて頸椎をへし折る。
ごきり、と。
肉を突き破って骨が折れる、嫌な音が響き渡った。
断末魔さえ上がらない。最速で接近し、一撃で急所に致命傷を入れる。
不可避の即死。
教団の人形として生まれたアイリスの、それが戦う方法だ。
それで終わりだった。
面倒な駆け引きや戦術など必要としない。そのための技術で、そのための存在だったのだから。
アイリスにできることなどそれだけだ。
それ以上の戦い方なんて知らない。そもそもこれは、戦いを成立させずに標的を殺すための技術だ。
だから。
次の瞬間に伸びてきた、水星の腕を回避することはできなかった。
「だから馬鹿だっつーんだよ、淫乱があっ!」
水星の声。それに、今度は反応しないのではなく、できなかった。
なぜ反撃を受けたのか。わからない。確実に致命傷だったはずだ。
だが水星は傷ひとつない姿でその場に立っている。
治癒魔術を使った様子はなかった。そんな余裕さえなかったはずだ。けれど目の前には無傷の水星――その異常に、アイリスは理屈をつけられない。
このとき、少女の思考は完全に静止した。
「誰がテメエにその技術を仕込んだと思ってやがる! 通じるワケねえだろ、低脳がッ!」
「……っ!?」
「ああ!? 一丁前に苦しんでじゃねーよ、誰がんなこと教えたよボケ! 人形が人間様の振りしてんじゃねーぞゴルァ! テメエの《簒奪》の異能くらい織り込み済みだっつーんだよ、あんまり大人なめてんじゃねーぞクソガキがあ!」
首を絞められる。なんとか逃れようと足掻くアイリスだが、単純な筋力で敵おうはずもない。
当然、水星はそんなアイリスの状態を斟酌しない。
「ああ? だんまりかよ、いい度胸してんなクソガキ? ――ああっ?」
「か――っ」
腹を思い切り殴られる。溜めていた息が、肺から一気に漏れ出した。
息ができない。呼吸を完全に封じられている。
口を開くどころか、手足を動かすことさえ難しいくらいだ。
「クソが、面白くもねえ。誘われたことにも気づかねえとか――どんだけ期待外れだよ。こんなんじゃ餌にもなりゃしねえ。もういい。もういいもういいもういい――死ね」
水星が言う。彼女はそのまま、右の腕を静かに上げた。
その手が、形を変えて黒い色に染まる。
まるで腕そのものを黒鉄へと変質させたかのように。硬質な輝きを放つ腕が、アイリスを静かに狙っていた。
直後――水星が右腕を振るう。
アイリスの胸を目がけて。その心臓を奪い取らんと動き出す。
回避することも、反撃することもできない。
一瞬後には自分を貫く、致命の腕をアイリスはただ眺めていた。
そして。
――少女の身体が、静かに地面へと落ちていく。
※
セルエは迷宮を駆けていた。
その速度は尋常なものではない。通常の冒険者が長い時間をかけて進む迷宮を、彼女は立ち止まることさえなく、ただ駆け抜けていく。
無論、それがセルエの実力あっての行動だというのは事実だ。迷宮とは本来なら時間をかけて慎重に進むべき場所であり、彼女のように全速力で駆けていくなど普通はあり得ない。
しかし今回、彼女が止まらなかったことには、ほかに理由がある。
いくらセルエでも、警戒なく迷宮を走ることなどできない。というよりは、しない。する必要がない。
戦えば勝てる、からといって警戒しない理由にはならないだろう。迷宮では何が起こるかなどわからないのだから。慣れている場所だから、という理由で気を抜くやつから死ぬ。
だから今、セルエが走っているのには理由があった。
急いでいるから。それもある。だが最も大きな理由は別の部分だ。
つまり――迷宮に魔物がいないから。
かつての事件のときのように。迷宮から魔物が減っている。
それを単純にいいことだと捉える人間はいない。それはすなわちバランスが崩れているということなのだから。
セルエも当然、その異様さには気づいている。
速度を上げた理由には、だからその点も含まれていた。
本気になった彼女は速い。伝説の一団の元メンバーであり、アスタのように力を制限されているということもない。
セルエの全速に追いつける魔術師など、そうはいないことだろう。
やがて、彼女は当たり前のように最下層へと到達した。その間、ほとんど魔物と出会うことはなかった。
そのことに疑問を覚えつつも、セルエは足を止めなかった。疑問の答えが、最下層で待っているだろうことはわかっていたからだ。
最下層の広間。
かつて、アスタたちが偽の神獣と対峙した場所。
セルエはそこで、待ち構えていたように座るひとりの女性と出会った。
「――お待ちしておりました」
女性が言う。当然、何も歓迎の用意をしていたというわけではないだろう。
それを理解した上でセルエも答えた。
「誘われた、ってことでいいのかな、これは」
「ええ。それが理解できていたとしても、貴女が来る以外になかったことはわかっていましたから」
「それはそうなんだけどね。……じゃあ私をここで、貴女が殺すつもりなのかな?」
「まさか」
女が笑う。美しい外見の女性だった。
造形美としてこれ以上はないというほどに完成された容貌。美という概念そのものを具現化したかのような存在。
それが、唇を歪めるように笑う。
そうしてなお美しさを保つように――どころか増していくかのように。
「私にそんなことはできません。元より、争いごとは嫌いなのです」
「……そうなんだ。でも、迷宮に押し入ったのは貴女だよね? 一応、それ犯罪なんだけど」
「仕方なかったのです。そうする以外に方法を知らなかったものですから」
「――名前は?」
セルエが訊ねる。女性は、しかし首を振った。
「今はまだ、答えるべきときではないかと思いますので」
「つれないこと言うね」
「すみません。ですから――せめて呼び名だけ」
女性が、美しい金色の長髪をなびかせるようにして呟く。
薄暗い迷宮の中でさえ、その様子は美しく映った。いっそ魔的であるほどに。
「――七曜教団が一員。《金星》と、そうお呼びください」
※
すとん、とアイリスは足から地面に落ちた。
持ち前の身体能力で、彼女はあっさりと着地する。それでも少しふらついたのは、あまりにも予想外の事態に晒されたからだろう。
――死んだと、そう思った。
にもかかわらずアイリスは今も生きている。そのことが不思議でならなかった。
警戒さえできず、少女は漫然と目の前の女性を眺めた。
自分を殺そうとしていた水星が、なぜ何もせず手を離したのだろうか。思わずアイリスは自らの肉体を確認してしまう。痛みも負傷もない。何かをされた、という感覚がなかった。
水星はただ立っている。
その瞳に驚愕の色が移っているのを見て、しかしアイリスは今度こそ理解が及ばなかった。
どうやら、何も自らアイリスを解放したというわけではないらしい。
だが、ならばなぜ手を離したのか。
なぜアイリスを殺さずに放置するというのだろうか。
その疑問に答える声は、意外にも――アイリスの背後から届いた。
「――アイリス」
名前を呼ぶ声がする。
自らの名を呼んでくれる者が、とても少ないということは知っていた。
だが、そうでなくとも少女には誰が現れたかわかっただろう。その声を聞いた瞬間に、それが誰かはすぐわかったのだから。
「……アス、タ……?」
「そう。ほら、こっちおいで」
アスタ=プレイアスが。
彼女に名前をくれた、いちばん大好きな人間がそこにいた。
だが、アイリスにはなぜ彼がいるのかわからない。この場所を教えたりはしていない。そもそも、少女は誰にも告げず黙って部屋を抜け出したのだから。
アスタが、やさしい声音で語りかける。
「ほら、何してんだ?」
呼ばれ、アイリスはアスタの元へと歩み寄った。
背後の水星は動くことさえしない。まるで時間ごと凍りついたかのように、去っていくアイリスをただ見つめていた。
とてとてと、早足にアイリスはアスタへと駆け寄る。
薄い笑みを浮かべたアスタは、少女が自分へ近づいてきたのを確認すると――、
「こら」
と、その頭に軽い手刀を落とした。
思わずアイリスは頭を抱える。痛みなんてまるでない。ただ、それでも驚きだけが彼女を包んでいた。
まさかアスタに頭を叩かれるだなんて、想像さえしていなかったからだ。
「……いたい」
思わずアイリスは呟いた。
ちっとも痛くなんてなかったのに。ほとんど驚きから出た言葉だ。
アスタは、無理に表情を険しくして呟く。
まったく怒っていないのに、それでも無理に不機嫌を演出するような表情だった。下手くそな演技だが、アイリスにはそれを見抜けない。
ただ焦りがあるだけだ。
――嫌われるようなことをしてしまったのだろうか、と。
「どうして勝手にいなくなったりしたんだ」
アスタが言う。その問いに、答えるのは簡単だったはずだ。
けれどアイリスは言葉を作れない。何を言っていいのかちっともわからなかった。
その様子を見かねてか、アスタはふと質問を変える。
「セルエは?」
「……迷宮に行った」
「そうか。部屋で待ってるように言われなかったか?」
「……言わ、れた」
「なのに出てきちゃったのか。駄目だろ、そんなことしちゃ」
アイリスは答えられない。ただ恐怖の感情だけに包まれたいた。
水星と対峙するときには感じることさえなかった感情だ。
――嫌われてしまったのだろうか。
それだけが恐ろしい。だって、アスタに捨てられてしまってはもう、どこへ行けばいいのかなんてわからない。
もちろん、理由はそれだけじゃない。彼女が恐れているのは別のことが原因だ。
けれど、それを自覚することはできなかった。
ただ恐ろしい。それだけだ。
もう、ほかのことなんて一切考えることができない。
「――もう二度と、こんなことしたら駄目だからな」
と、そのときだった。
アイリスの頭に、アスタの手が軽く触れたのは。
また叩かれてしまうのだろうか。痛み以前に、ただ行為そのものが不安で少女は身を固くする。
だがアスタの手はアイリスを叩かなかった。
どころか優しく、壊れ物であるかのように柔らかく触れると、少女の髪を不器用に撫で始めたのだ。慈しむように安らかに、尊ぶように清らかに。
アイリスの口から言葉が漏れる。
「……ごめん、なさい……」
意識して出た言葉ではない。善悪の判断という以前に、彼女は経験として誰かに謝る、ということをしたことがなかったのだ。謝罪という概念そのものを理解できていない。
それでも口をついて出た言葉に、アスタはうっすらと微笑んだ。
「いいよ。ありがとう、俺たちのために戦ってくれたんだろ?」
違う。少女は単に恐れただけだった。
手に入れた日常を。やっと見つけた《普通》というものを、ただ失いたくなかっただけ。
奪われたくなかっただけなのだ。
「あいつらが、お前を閉じ込めてたんだよな。悪かった、見込みが甘かった。アイリスが怖がってることに――俺が気づかなきゃいけなかった。ごめんな、遅かったよな」
「でも……わたし」
「そうだな」アスタは小さく頷いた。「確かにやり方は間違った。自分ひとりでどうにかしようだなんて、そんな風に考えるのは間違いだ。俺も間違ったけど、でもアイリスも間違った」
「…………」
「なら、おあいこだな。ふたりで一緒に反省しよう」
アイリスは言葉を失った。どうしてこんなにも、自分が望む言葉をくれるのか。
少女にはまるでわからなかった。
でも同時に、それでいいと思ってしまう。
だって、アスタの言葉は心地いい。それに身を預けていられれば、どれほど幸せかわからない。
果たして、そんな幸福を甘受してしまっていいのだろうか。
アスタが間違いだと言うのだ。ならきっと、それは正しいのだろう。
だが、だとすればどうしたらよかったのだろう。
疑問に思うアイリス。
無垢で、だからこそ無知な少女に、アスタが優しく言葉を作る。
「手伝ってって、言えばよかったんだ」
意味が、わからなかった。
だってそんなこと、アイリスは一度だって経験していない。
誰かに頼るとか。
誰かに助けを求めるとか。
そんな概念は、アイリスには存在していないのだ。
「自分ひとりでやる必要はない。それで充分だったんだよ。助けてって、言えばよかったんだ」
「……言っても、いいの……?」
「当たり前だ。むしろ、次に言わなかったら今度こそ怒るからな。もうしないって、約束できるか?」
「……うん。やくそく……する」
「おっけ」
アスタはアイリスの頭をくしゃくしゃと撫でると、「下がってて」と言って前に出る。
アイリスは素直に従った。
本当のところ、まだアスタが言っていることの意味はわかっていない。
でも、それでいいのだと思った。
アスタがそれを言うのなら、それはきっと正しいに違いないのだと。妄信するでもなく、ただ実感として少女はそう判断する。
その温くて優しくて気持ちのいい正解に、アイリスは心から飛びついたのだ。
「たすけて、アスタ」
「――任せろ、アイリス」
甘えて、頼るということを。
このとき少女は、初めて覚えた。
「――さて。こうして会うのは初めてだな、水星」
アスタが言う。だが水星は答えない。
というより答えられないのだ。
アスタがそれを許していないから。彼女の動きは完全に止められている。
彼女にできることなど、それこそ呼吸くらいのものだった。
「いや、いいんだ。別に答えなんか求めてないから。名乗る必要もない。そもそもお前の声なんて聞きたくもない。――覚悟はできてんだろ?」
向けられる強烈な敵意に、このとき水星は気づいていた。
たとえ動きが自由だったとしても、ともすれば呼吸を忘れていたのではないだろうか。
それほどに濃密で、色濃く作られた意志を感じる。
アスタは、それを言葉に変えた。
「正直、迷ってはいたんだ。別に何かされたわけでもねえしな、お前らが何か企んでようと、俺たちには関係ないと思ってた。降りかかる火の粉なら払うけど、それ以上に何かをするつもりなんてなかった。つーかはっきり言って構われる意味がわからねえんだよ。なんなんだお前らは。誰なんだよマジで。何かしたいなら他所でやれっつーんだ。こっちは構われたくないんだよ。ほかでやってりゃ文句もねえのに……下手に手を出すくらいなら、本当は、管理局にでも任せようと思ってたんだ」
けれど。と、アスタは言う。
「七星の身内に手を出したんだ。もう知らん。この先なんだろうと知ったことか」
「…………」
アイリスは、そこでようやく気がついた。
つい先ほどまで、少女は自分が怒られているのだと思っていたのだ。
だが違う。あんなものを怒りとは呼ばない。
怒っているというのなら、それはきっと今のアスタのことだ。これに比べれば、アイリスはただ窘められたに過ぎない。
「……るっせえんだよ……!」
と、水星が言う。ようやく抵抗が利き始め、言葉を使えるようになった。
水星は今、明確に激昂している。
確かにアイリスを誘ったのは、そもそもの話が紫煙をおびき出すためだった。大嫌いな《木星》に言われた通り、自分を餌にして、その上で現れた紫煙を殺すために。
水星が張った罠がこれだ。
しかし、今の様子は想定と違う。
目の前で――こんな三文芝居を見せられては反吐が出る。
「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! なんなんだなんなんだなんだんだ、それはあっ! 人形遊びを目の前で見せるんじゃねえ! ままごとがしたけりゃ錬金術師と遊んでやがれ!! 舐め腐ってんじゃねえぞ呪われ野郎が――」
「――黙れよ。誰が喋っていいっつった」
「…………ッ!」
「お前らの事情なんて知るか。迷宮で勝手に馬鹿やってるうちはいいさ。入った奴らを殺そうが、俺は別に関知しねえ。オーステリアの件もタラスの件も、俺としちゃあ本当はどうでもよかったんだ。まあ迷惑だし対処はするけどさ。たとえお前らが国家転覆だの世界の破滅だの企んでようと、わざわざ正義の味方なんざ演じてやるつもりなかったんだよ。陰謀でも策略でも勝手に練ってろ。好きにやってりゃよかったんだ。俺は、俺の世界さえ無事なら本当にお前らになんて興味はなかったんだよ――身内にさえ手を出さなければ」
「……呪われ野郎が、この私に勝てるっつーのかよ」
「だから、もうそういう問題じゃねえんだっつってんだろ」
アスタは応じない。ただ、その全身から湯気のように魔力を迸らせている。
量自体は大したものじゃない。そもそもアスタは呪われている。当然、出せる魔力には限度があった。
だが、そこから感じる意志の強さは並大抵のものじゃない。
紫煙の記述師が、本気で激怒している。
本当の意味で、初めてアスタは、七曜教団を敵と認識した。
――七星旅団の特徴だ。
彼らは決して正義の味方じゃない。ただやりたいことをやるだけの集団だ。自分のことだけしか考えていない。
けれど、それでも、弁えるべき一線は存在する。
身内への攻撃を、彼らは絶対に許さない。必ず報復でもってそれに応じる――。
「――もういいから、黙って死ね」
刹那。水星の肉体が、火柱に包まれて炎上した。




