1-07『決着』
「――そこまで!」
というレヴィの静止が響く前には、俺もウェリウスもすでに動きを止めていた。
俺の右拳は、ウェリウスの顔前で止まっている。殴り抜く直前の形だった。
一方、ウェリウスの右の掌も、俺の鳩尾の前に当てられている。今すぐにでも魔術を放てる状態なのだろう。
互いが互いに、確実に一撃を与えられる体勢。
模擬戦の終結としては、まあ、この辺りが落としどころだろう。
「ふわぁ……」
という、溜息にも似た声が聞こえた。横目に見ると、そこには感嘆を零すピトスの姿がある。
なんだか少し感動しているようにも見えた。
その声で、俺たちの硬直がようやく解かれる。俺は腕を下ろし、ウェリウスもまたローブについた土埃を手で払った。
決着だ。
「――引き分け、かな。まさかここまで追い詰められるとは思わなかったよ」
そう微笑むウェリウスに、俺は顔を歪めて答える。
「何それ皮肉? どう考えても俺の負けだろうが」
「…………」
微笑を湛えたまま、ウェリウスは何も言わない。やっぱり気づいていたらしい。
それで何も言わないのだから、この貴族様も存外、いい性格をしている。
「どういうことですか……?」
代わるように訊ねたピトスに、答えたのはレヴィだった。
「そうね。アスタの負けだわ。このまま互いに攻撃を放ったら、ダメージを受けるのはアスタのほうだけだもの」
――ま、そういうことだった。
ただのグーパンチだった俺に対し、ウェリウスは魔術を準備していた。
どちらの威力が高いかなど、検討するまでもないだろう。仮に先んじて攻撃を当てたとしても、返す攻撃で俺が負ける。
勝敗など一目瞭然だ。
「僕としては、まるで勝ったってつもりになれないんだけど。でも、いい試合だった」
爽やかにそう微笑して、ウェリウスは俺に握手を求めてくる。
俺は盛大に顔を歪めたが、なんかキラキラした目でこちらを見ているピトスに押されて、結局それを受けるほかなかった。
「まさか、印刻魔術しか使えない君と互角か、もしくは……いや、僕もまだまだ修行が足りないってことなんだろう。うん、ありがとう。課題が見えたよ」
「ちょっと待て」
なんか笑顔で纏めにかかるウェリウスを押し留める。
聞き逃せない発言があった。
「お前、なぜ俺が印刻魔術しか使えないと知ってる?」
「おっと。今のは失言だったね」
あくまで笑みを絶やさないウェリウス。だがそれで大方の事情は察した。
今の模擬戦では、俺がほかの魔術を《使えなかった》のか、それとも《使わなかったのか》のかまで見極めることはできなかったはずだ。
そして、俺が真実、ルーン魔術以外の魔術が使えないことを知っている人間はそう多くはない。
以上の事実から導き出される答えはひとつだった。
「――初めから仕込みか、この茶番は」
「茶番ってコトはないでしょう。いい試合だったわよ」
苦笑して言うレヴィだが、その言葉に信頼性など皆無だ。
……やってくれる。
要するに、レヴィとウェリウスは初めから繋がっていたということなのだろう。模擬戦を持ちかけるよう言ったのも、俺がルーン以外には使えないことも、全てレヴィが漏らしたのだ。
さすがに、学院長室に集まる以前から繋がっていたということはないと思いたいが。それも今となっては怪しいものだ。学院長室でのウェリウスは、思い返せば妙に――わざとらしいほどに敵対的だった。
いずれにせよ、あのときから今までの間に、レヴィとウェリウスの間で話はついていたということなのだろう。
どうやら、何もかも彼女の掌の上だったらしい。
「あんま吹聴して回んないでくれよ。魔術師なら、手札を秘する意味はわかるだろ」
一応、釘だけは刺しておく。ウェリウスは腹の立つ笑顔で首肯し、
「もちろん。ギルヴァージル家の名に懸けて、このことは終生の秘密にしておくと誓おう」
「いや、そこまで重い宣言されても引くんだけどね?」
こんなところで大貴族の名前を出さないでほしい。
まあ黙っててくれるのなら構わない。パーティを組む以上、最低限の手札は明かしておかなければ戦術も組めないのだから。明かすのが早いか遅いか、それだけの違いだ。
そしてその二択なら、レヴィが前者を選ぶことくらい俺だって学んでいる。
諦めとともに肩を揺らして、俺は観衆のほうへと向き直った。
「そういうわけだから、ピトスも黙っててくれると助かる」
「は、はい! もちろんです誰にも言いません絶対っ!!」
「いや、だからそこまで意気込まなくていいって……」
ぶんぶんと首を振るピトスを止める。遠心力で頭が取れるんじゃないかと一瞬だけ思った。
俺はもうひとりの、名前も知らない女子に向き直って、
「アンタも、それでいいか?」
「……」彼女は無言で頷いた。
誰だか知らんが、かなり寡黙な奴だ。むしろそのほうが、一般的な魔術師のイメージには近いのだろうが。
これからは、こいつとパーティを組むことになる。できれば早めに打ち解けておきたいものだったが。
なにせ、まだ名前さえ知らないのだから。
「――さて、お互いに交流も深めたところで」
仕切り直すようにレヴィが言う。こんなにも白々しい台詞、なかなか聞けないと俺は思った。
「一度、解散にしましょうか。一刻後に、今度は迷宮区の入口で再集合。それで構わないかしら?」
「今日は疲れたから明日にしない?」
俺が言い、
「一刻後だね、わかった。それじゃあ僕はお先に失礼するよ」
ウェリウスが言った。
レヴィはウェリウスにだけ頷きを返し、俺の言葉を黙殺する。
ちょっと扱いが酷すぎませんかね?
「アスタも、また後ほど会おう。印刻は応用力の高い魔術だと聞いている。迷宮では頼りにさせてもらうよ」
嫌味なく笑うウェリウスに、俺は訊ねた。
「ルーン魔術まで知ってるのか? 珍しいな」
「いや、ほとんど知らないよ。文献で少し読んだくらいさ。見るのも初めてだよ、アスタ」
「なんか、お前から親しげにアスタとか呼ばれると、ちょいぞっとするわ」
「手厳しいね。初めの挑発のことを言っているなら許してほしいな」
「……いや、まあ別にいいけど。でもあれだ」
「なんだい?」
わずかに首を傾げたウェリウスに、俺は言いきった。
「――俺、お前のこと普通に苦手だわ」
ウェリウスは、なぜか嬉しそうに微笑んで立ち去った。
意味がまったくわからない。
「それじゃ、私も準備があるから先に行くわ。あとでね、アスタ」
レヴィもまた手を振って言う。
俺は恨みがましく視線を送りながら、
「あーはいはいわかりましたー」
「よろしい」
レヴィは嫌味な笑みを漏らすが、その笑みを嫌味だと思う学院生は、きっと俺くらいのものだろう。
猫被りもここに極まれり、である。いつかその本性をばらしてやりたい。
「あと、ピトス! ちょっと手伝ってほしいことがあるんだけど、平気かしら?」
「あ、はい大丈夫ですよ、レヴィ様!」
「ありがと。それじゃ一緒に来てくれる?」
「はい!」
頷くと、ピトスはとたとたと、なぜか俺のほうに近づいてくる。
「……なんか用か?」
「あ、あの。なんて言うか、感動しました! 強いんですね、アスタさん。びっくりですっ」
「いや、まあ普通に負けたんだけど」
「そもそも、ウェリウスさんと戦いになる魔術師なんて、同学年にはほとんどいませんよ!」
「たまたまだよ。印刻術師なんてほとんど絶滅危惧種だからな。初見殺しみたいなもんだ」
別に遠慮や韜晦で言うわけじゃない。それは本心だし、そして純然たる事実だった。
そして、別に手を抜いたわけでもないのに、その初見殺しで初見負けしているのだからもはや救えない。
――現代魔術学において、印刻はほとんど廃れたに等しい技術だった。
そもそも印刻術という分野自体、本来は《占い》に使うものだ。戦闘には根本的に向いていない。
ほかに選択肢がなかったので、俺は使わざるを得なかったという話なだけで。本来は戦いに用いるような技術ではないのだ。
発動に際し、《書く》という一工程が増える性質上、印刻術は速度の面で他の魔術にどうしても一歩劣ってしまう。加えて言えば魔術自体の難易度が恐ろしいまでに高く、それが発動までの遅さに拍車をかける。
巧遅より拙速。戦いにおいてそれは当然の理だ。刹那の世界で行われる魔術の戦闘において、速度の遅さは致命的な弱点だと言える。
逆を言えば、元素魔術は簡単であるからこそ戦闘に用いられるわけだ。大した理論を学ばずとも、感覚だけである程度使えてしまう。
まあ、要は一瞬の油断が命取りになる戦場で、長々と魔術を練っている時間など作れないということだ。
「……あの。お訊きしてもいいですか?」
俺を見上げるピトスが、ふとそんな風に訊いてきた。
もちろん、答えられないこと以外なら答えられる。俺は頷いて言った。
「いいけど。何?」
「ルーンしか使えない、っていうのは……?」
訊きづらそうに言うピトスに、「ああ」と俺はあっさり答えた。
「言葉通りだよ。火属性の元素魔術師が水の魔術は使えないのと同じ。俺は、印刻魔術以外の適性が何ひとつないんだ」
普通なら、そんなことはあり得ない。魔術にはいろいろと種類があるが、そのどれかが使えない、ということは起こり得ない。あくまで選択肢としては存在する。
もちろん、属性の適性は生まれつきある。火が使えても水は使えない、ということはよくある話だ。だがそれでも何かひとつの元素魔術には適性があるわけで、元素魔術それ自体が使えない、なんて人間は基本的に存在していない。俺だって、属性としては《火》と《水》の二重適性を持っている。割と珍しい組み合わせだ。
ただ、そもそも元素魔術それ自体の適性がない、という世界的にも希少な例外が俺というだけで。
希少性で言うならウェリウスの四重適性も奇跡みたいな例外だが、どうして同じ希少でもこうまで方向性が反対なのやら。
今さら嘆くことさえできないけれど。
「だから、学院の成績が低くなってしまうんですね……ルーン以外使えないから」
「そういうことだね」
学院の単位は、基本的に《特定の魔術を使えるようになる》ことで取得できる。俺にとっては致命的、というかもう殺されたも同然の仕組みだった。
一応、座学では割と上位の成績を取っているし、セルエの計らいもあって、学院側はかなり俺に融通を利かせてくれている。学院長も理解のある人だ。実技で取れない点数を、俺は実戦で挽回していた。
なんだか矛盾した言葉のようだが、それ以外に選択肢はない。
戦いにおいては、大規模で難しい魔術を時間かけて構築するより、簡単で小規模な魔術を速攻でぶち当てるほうがいいということ。
これでも元冒険者だ。実戦にはそこそこの自信がある。
あるいは、こうして迷宮攻略のメンバーに抜擢された理由も、「その実績を単位の代わりにしろ」という配慮が込められているのかもしれない。
面倒だけれど、それ以上にありがたい話だと思う。
才能には恵まれなかった俺だが、機会と周囲の人間には恵まれていた。
「すみません、言いづらいことを訊いてしまって」
「いや、別にそんなことないけど……」
「――ありがとう、ございました」
ピトスが頭を下げる。その口調と態度がなんだかとても真剣で、どうしてだろう、それが逆に不思議――というか不自然に思えてしまう。
どうにも、言葉の裏に何か言外の意図が込められているという気がするのだ。
俺はピトス越しに、その向こうにいるレヴィに視線を送った。彼女は真面目な表情で小さく頷く。
つまりは、まあ――わからん。
わからんが、俺にわからなくてもレヴィがわかっているならそれで構わないのだろう。
俺は頭を軽く掻いてから、
「まあ、またあとでね」
「はいっ。失礼しますね、アスタさん」
それだけ言うと、ピトスは頭を上げてレヴィの元に駆けていった。
連れだって帰っていく二人の姿を、俺は試術場の中から見送る。
……さて。これで、この場にはふたりきりになった。
俺は視線を、最後に残った少女に向ける。
「お前はどうするんだ? まだ帰らないのか」
「…………」
少女は答えない。ただ無言でこちらを見ている。
無表情だった。何を考えているのかまったく読めない。
人形みたいな少女だった。
あるいは白か無色かとさえ見紛う絹糸のような髪に、嵌め込まれた水晶のように蒼い瞳を持っている。作られたような、人間離れした美貌を持ちながら、どこか完全には至らなかったかのような。
体格は華奢で女性らしい膨らみに乏しく、ピトスを子どもと表するなら、こちらはまるで身体の弱い病人にか――あるいは飢えた狼か。弱々しさと獰猛さという、矛盾した印象を抱かせる少女だった。
「……なんか言ってくれよ」
対応に困ってしまう。せめて会話にくらいは応じてほしいのだが。
レヴィがこれ見よがしにピトスを連れて行ったのは、こいつと話をしろ、という無言の要求だったのだから。
それで話もできなかったと知れたら、何を言われるかわかったものじゃない。
「ほら、試術場使い終わったら事務に報告しなきゃいけないし、まだいるなら頼みたいんだけど――それでいいのか?」
「…………」
「あの、すみません。聞いてますか?」
「…………」
「……そうだ、お前の魔術も見せてくれないか? ほら、これから迷宮に入るなら、互いに何ができるのか把握しておく必要もあるし――」
「――見たいなら、見せてあげるけど」
言葉に、今度は返答があった。不意を突かれ、思わず「え?」と訊き返してしまう。
少女は笑っていた。酷薄な――まるで凍りついた炎のような瞳で。
確かに、答えを返してくれた。
――ただし、その返答は言葉によるものではなく。
突然に飛来した、魔術による返答だった。