3-19『挿話/フェオの買い食い日誌』
これは、魔競祭初日でのできごと。
予選を終え、フェオ=リッターは学院の中をうろうろと歩き回っていた。
思いの外、簡単に予選は通過することができた。その事実にフェオは首を傾げる。彼女は、自分が同年代の魔術師を相当に上回る実力を持つ事実に気づいていない。
元騎士である姉に鍛えられながら、銀色鼠の中では箱入りのように扱われてきたフェオだ。実力を比較する相手は、自分より格上のシルヴィアか、あるいは逆に格下の幼いメンバーしかいなかった。
世間を知らないままで、フェオは年齢を考えれば明らかに抜きん出た戦闘技能を手に入れている。にもかかわらず、心配性の姉から受けた過保護のせいで、フェオは自らの実力を低く見積もっていたのだ。
だからこそ、世間においてエリートと表される学院生には対抗意識を持っている。タラスで初めてアスタたちと顔を合わせた際、必要以上に噛みついて見せたのはそれが理由だった。
要するに、単なる強がりだったということ。
フェオにとって不運だったのは、初めて会った学院生がアスタやピトス、シャルやメロといったまったく普通ではない顔触れだったことだろう。
さすがに、アスタやメロがどこかおかしいということには気づいている。だが、それをピトスやシャルにまで広げては考えなかった。
結局、フェオはピトスやシャルといった面々を《普通の学院生》だと考えてしまっている。
その考えは今日まで正されることがなく、彼女はあっさりと予選を勝ち抜き、そのギャップに首を傾げるのだった。
ともあれ、これでアスタとの約束はとりあえず果たした。
あとは本戦だったが、その前に一応の報告をしたいとフェオは思い、そして立ち止まった。
考えてみれば、アスタとは合流の方法をまったく決めていない。これはフェオというよりアスタ側の手落ち、というか考えなしだったのだが、それで困るのはフェオのほうだ。
仮に喫茶の出張販売店舗を知っていれば、そこを拠点としているアスタとは待ち合わせることができたのだが。そうでなくても、アスタは自分が部屋を借りている煙草屋の位置を伝えておくべきだった。
それをしなかったのは、フェオが予選で負けるはずがない、アスタが信頼しきっていた――もとい高を括っていたせいである。加えて言えば、仮に予選で負けていたとしても、それはそれで仕方ないと彼は済ませるつもりだった。
アスタの目的はあくまでフェオを学院に入学させることであり、魔競祭への参加を打診したのは、言ってしまえばモノのついでだ。
その意味で言えば、アスタはそもそもレヴィにフォローが必要だとさえ考えていない。普通に戦えば、彼女が勝つに決まっているのだから。
――もちろん、メロの出場を知らなかったときの話だが。
ともあれ、フェオはそんな事情を知る由もない。アスタに予選突破を報告するすべが、当て所なく探し回ること以外に思いつかなかったフェオは結局、早々に合流を諦めた。
どうせ明日になれば、予選の結果は全て発表されるのだ。今この場で報告することに固執する理由はない。
――というか、自分が意外と方向音痴であることは先日の件でわかったのだから。
下手に歩き回るよりも、空いた時間で出店を冷やかしているほうが余程いい。フェオはそう考えていた。
単純に、滅多にない祭を楽しむための言いわけだったのだが。
そんなわけでフェオは、止めていた足を再び動かした。
祭である。
フェオにはほとんど経験のない大イベントである。彼女のテンションは高かった。
「と、とりあえずお腹も空いたしね……まずは何か食べようかな、うん!」
喧騒の中、フェオはあえて口に出して呟いた。
多少の罪悪感と、それを遥かに上回る昂揚。そういった諸々を誤魔化すための、いわば自分に対する言いわけである。
というわけで、自分を騙す理屈づけに成功したフェオは、意気軒昂に出店通りのほうへと向かうのだった。
※
――な、何から食べようかなっ!
心中ノリノリで、フェオは出店の活気の中を行く。
芳しい香りを振り撒く串焼き肉の店、魔術で作った氷を破砕して上から色とりどりの糖蜜をかけた氷菓子、田舎にいた頃を思い出す焼き菓子の匂い……フェオの目には全てが新鮮に写り、目まぐるしい通りの様子にすっかり翻弄されていた。
「ど、どうしよう、迷っちゃうな。あんまり食べ過ぎるのもよくないもんねっ? 慎重に、それでいて大胆に選ばないと……!」
もはや誰に対して告げているのか。すれ違った子どもに怪訝な表情で見上げられるフェオだったが、幸か不幸か気づくことはない。
所持金には限りがある。
明日からのことも考えると、今日いきなり散財してしまうのはよろしくないハズ。
――ああでも、あっちにもまた見たことない美味しそうな食べ物が……。
そこここに目移りしてしまい、どうしても優柔不断になる。
田舎娘のフェオは、完全に浮かれ気分だった。
通りの脇、学院にとって備えつけられた椅子と円卓で休む来場者たち。それぞれに、いろいろな種類の食べ物を囲んで楽しそうにしている。
彼らが食べているモノも参考になるだろうか。
でも、あまり眺めているの失礼な気がする。
そんな風に考えて、ちらちらと客に目をやっていたフェオは、そこでふと気がついた。
周りの人々の注目を、一身に集める男がいたのだ。
彼がひとりで占領している円卓には、文字通り溢れんばかりの食べ物がずらりと取り揃えられていた。食品関係の店を、ほとんど網羅したかのような有様だ。
さして大きくない円卓とはいえ、あの量をひとりで食べきるにはかなりの気力が必要になるだろう。少なくとも、どれほど空腹でもフェオには難しい。
「ぶ、ぶるじょわだ……!」
しょうもない感想を零すフェオ。
と、あまりにも露骨に視線を向けていたせいだろう。食事に集中していた男が、ふと顔を上げてフェオのほうを見た。
ばっちりと、完璧に目が合ってしまうふたり。
咄嗟に謝ろうとしたフェオだったが、その言葉を男のほうが遮った。
「君か。久し振りだな、その節は助かったよ」
それでようやく、フェオも落ち着いて思い出す。
確かに、見覚えのある男だった。
「……ああ! あのときの……」
「確か……そう。フェオ=リッターだったな。まあ来たまえ久闊を叙そう」
相変わらず端的な返答の男。深い蒼色に近い乱髪と、琥珀色の瞳。そして整った容貌。
外見も確かに印象的ではあるが、何よりその出会い方に忘れられないインパクトがあった。
なにせ、よりにもよって街の中で行き倒れていたのだから。
――シグウェル=エレク。
世間では《魔弾の海》と称される、最強の二字を冠する魔術師がそこにはいた。
ひとりで、屋台の商品をもさもさと食べながら。
「……えっと。どうも、お久し振りです」
「うん。とりあえず座るといい、席は空いている」
「はあ……」
目が合った以上、無視して去る勇気などフェオにはない。
ただこの状況で近づくのもそれはそれで嫌だったが、呼ばれてしまっては仕方なかった。
あらゆる冒険者の頂点、最強と呼ばれる魔術師に抱いていた幻想が破壊されていくのを感じながら、フェオは観念してシグウェルの正面に座る。
しかし、かといって何を話せばいいものやら。
何か切り出さなければ、と迷うフェオだったが、話題なんて天気くらいしか思い浮かばない。さすがに、それが間違っていることくらいは察するフェオだ。
「久し振り。改めてになるが。あのときは助かった。ありがとう。飢えて死ぬ。ところだった」
喋るのが速い男だったが、このときにはフェオにも聞き取れた。
なぜなら、言葉の区切れ区切れで食べ物を口に入れているのだから。
さすがに食べながら話すことはないにせよ、それにしても咀嚼のスピードが驚異的に速い。喉に詰まらせるんじゃないかと心配になるフェオだったが、もきゅもきゅと齧歯類みたいに両頬を膨らませるシグウェルに対して、突っ込む言葉は浮かばなかった。
仕方なく、戦術的な撤退として、フェオは男の挙動を無視すると決めた。
「い、いえ……たまたま通りかかっただけですから」
「助けられたことに違いはないさ。と、そういえばお礼がまだだったな」
「え! あの、ここまで案内していただきましたし……」
「ところでフェオは腹が減っているだろうか」
――話を聞いていないのだろうか、この人は。
いきなり名前で呼ばれたことは流すにしても、フェオの遠慮を一切汲み取る気がないらしい。
以前も思ったことだが、なんというか、自分の中で一度出た結論をすぐ現実に適用してしまうタイプの人間らしい。ちょっと姉に似ている、と思わなくもないフェオだ。
「さすがオーステリア。屋台売りのメシも結構イケる。食事がまだなら俺が奢ろう」
「えと……いいんですか?」
断るほうが面倒だと判断し、窺うようにフェオは問う。
男は無表情に「ああ」と頷くと、いきなり立ち上がってこう言った。
「では行こう。なんでも好きなものを選んでほしい」
「え、でも残りの食べ物が……あれ、ない!?」
「もう食べてしまった」
「胃袋が異次元すぎませんか!?」
ついに突っ込んでしまうフェオだった。我慢できなかった。
いや、遠慮はしていたのだ。なにせ相手は超有名な大先輩の冒険者。それも国内で最上位に立つ領域の男なのだから。遠慮というか、畏れ多いみたいな気分もちょっとあったのだけれど。
そんな気持ちを、吹き飛ばすタイプの相手である。
「む。確かに少し早食いが過ぎたかな。次はもう少し味わって食べるとしよう」
「まだ食べるんですかっ!?」
「ぬ」
さすがに、自分が大喰らいだという自覚はあるのだろう。
ちょっと詰まってから、シグウェルは言った。
「……あれだ。魔術師たる者、食べられるときに食べておかなくてはいけない。うん、常在戦場というヤツだな」
「それ明らかに今考えましたよねっ!」
「では行こうか」
「今の無視は意図的ですよねえっ!?」
シグウェルは立ち上がってすたすた歩き出してしまう。
迷うフェオだったが、結局、無視することもできずに後を追うのだった。
※
そして、それから十分後。
フェオは両手でお腹を押さえていた。
「……も、もう限界です……もう食べられません……」
目に移る屋台の、ほぼ全てに入ったような気がする。
フェオは三軒目で即ダウンし、シグウェルを呆れさせる結果となった。
……いや、呆れたいのはフェオのほうなのだが。
「ふむ。まあこんなものか。しかしフェオ、若いうちはもう少し食べたほうがいいと思うぞ」
「…………」
もう充分食べたとか、そこまで歳も変わらないとか。
いくつか突っ込みは浮かんでいたが、答える気力もないフェオは、無言のままシグウェルを睨みつけるしかない。
上目遣いで、ちょっと涙目の視線を向けるフェオ。
まったく迫力のない抗議を受けて、シグウェルは薄く微笑んだ。
「――どうやら、少し元気が出てきたようだな」
「え……?」
「何。君が迷える子羊が如き目をしていたものだからな」
「もしかして、気を使わせちゃってました……?」
「食べ物を食べれば元気になると思った」
「…………」
「どうやら正解だったようだな」
いや、なんか違う。
けれど確かに、ちょっと元気は出た気がするフェオだ。
知り合いもほとんどいない街の生活が、心細くないといえば嘘になる。先ほどアスタを捜していたのも、報告がどうこうというより、単に知り合いの顔を見たかっただけかもしれない。
そういった漠然とした不安を、目の前の魔術師に見抜かれたのだろうか。
「……ありがとうございました」
「気にするな。ひとりで食べるメシもいいが、複数で食べるのもまた美味い」
それとも単に相伴役が欲しかっただけなのか。
よくわからなかったけれど、それでも、元気づけてもらったのなら感謝はしておく。
気づけば、フェオは素直に頭を下げていた。
「――さてフェオ、ちょっとこちらに来てくれ」
と、そこでシグウェルがふとこんなことを言った。
警戒もいくぶん解けていたフェオは、素直にシグウェルの近くに寄る。
「どうしました?」
「ちょっと気になってな。後ろを振り向いてほしい」
「……?」
「うん。まっすぐ立ってくれ」
疑問に思いながらも、フェオは言われた通りシグウェルに背中を向けて直立する。
と、次の瞬間、シグウェルの右手がフェオの背中の真ん中に触れた。
「ふぇえっ!?」
「静かに。――せいや」
「――ひゃわんっ!?」
気の抜けたシグウェルの掛け声の直後。何か背筋を、電流のようなものが駆け抜ける感覚があった。
咄嗟にフェオはシグウェルから距離を取る。その手を剣にかけ、いつでも抜ける体勢でシグウェルを睨んだ。
反射だった。相対してから、そういえば勝てるわけもないということに気づくフェオだったが、もう今さらどうしようもない。
一方、シグウェルは警戒する様子さえ皆無のまま、あっさりこんな風に言う。
「どうだ。少し身体が楽になったと思うが」
「――へ?」
「どうも魔力が詰まってる感じだったからな。俺の魔力で押し流して、強引に詰まりを通してみた。まあ、そうすぐに実感はできないかもしれないが」
「……あ……!」
言われて気づく。今の一瞬、フェオは当然のように反射で魔力を使っていた。
魔術というよりは、単に肉体へ魔力を巡らせるだけの単純な身体強化。
だが、その発生があまりにも滑らかだったことに、フェオはここで初めて思い至った。普段より少しだけ力強い魔力が、全身へ均等に通っている。発動までのタイムラグも短かった。
思わずフェオは言葉をなくす。
効果としては確かに地味だ。だが本来、この手の技術は一生を賭して鍛えていくものである。それが、こうもあっさり上達するなんて絶対にあり得ない――。
思わず目を見開いたフェオに、シグウェルはやはりあっさりと告げた。
「驚くことじゃない。それはフェオ、君が初めからできたはずの技術だ。ただそれに対して邪魔な体質があって、俺はそれを改善したに過ぎない」
「…………」
「無理な訓練を重ねた魔術師は、たまにこうなるんだ。次から魔力を使い切ったときは、完全に回復するまで魔術を控えるといい。それだけで、こういった詰まりは起こらなくなる。俺に治癒魔術は使えないからな。こういった、荒っぽい治し方しかできない」
――最強の魔術師。魔弾の海。
目の前の男が、そう呼ばれる存在であることをフェオは思い出す。
確かに、このところフェオは魔競祭に向け、かなりの密度で特訓を続けていた。その反動が、自分でも気づかない箇所に、ほんのわずかだけ残っていたということなのだろう。
「……あの。ありがとう、ございました……」
「礼を言われるほどじゃない。誰かが気づけば、きっと治してくれただろう。なにせ、魔力を通すだけでいいんだ。そう難しい技術じゃない」
簡単に言うものだ。フェオは思わず笑いたくなった。確かに不可能というほどではないにせよ、誰にでもできることでもない。
まずフェオの、本人すら気づいていなかった異常を見抜く時点で馬鹿げている。
他人の、それも体内から出していない魔力流を見抜くなんて普通じゃない。一流の治癒魔術師なら可能かもしれないが、彼は触れることなくそれに気づいたのだ。そもそも治癒魔術師でさえない。
加えて、フェオの体内に魔力を通す技術。その精密性もまた驚嘆に値するものだ。
下手に魔力を通しては、逆に魔力系の神経を傷つけることがある。フェオが無抵抗だったことを考慮しても、その精度は簡単に真似できるものじゃない。
他者という概念は、ヒトにとってそれだけで一種の《異界》であるのだから。治癒魔術師に、普通とは異なった適性が必要な理由のひとつがそれだ。
「さすが《魔弾の海》ですね……ちょっと自信を失くします」
「卑下しすぎだな。フェオだって、年齢に比べれば充分な実力があると見るが。魔競祭に出ているんだろう? いいところまで行けるはずだ」
「……言いましたっけ? 私、魔競祭に出てるって」
「魔力が減ってる。帯剣している。筋肉に疲労が見られる。……これだけ見て気づかないほうがおかしいだろう」
「そんなものですか」
「そんなものだ。だいたい俺は学院の頃、成績なんて下から数えるほうが早かったぞ?」
「……嘘、ですよね?」
「本当だよ。なぜなら俺は――」
そう、シグウェルが口を開きかけたときだった。
横合いの屋台から、どこか刺々しい声が届いたのは。
「――あの、すんません。あんまヒトの屋台の前で、乳繰り合うのやめてもらえませんかね?」
※
「いや、客がいないのはわかってんすけどね? つーか別にオレの店でもないっすし。でもさすがに、目の前でイチャイチャされるのはちょっと勘弁っつーか。カップル爆ぜろっつーか」
気怠げな表情の男だった。
くすんだ茶髪に、半開きの碧眼。見てくれは整っているのだが、そのあまりにも気力に欠けた表情で魅力も半減だろう。
見たところ年齢的には学生だが、それにしてもどこか枯れた感のある青年だ。
「オレだって、せっかくの祭にひとりで店番とかやってらんないんすよ? ったく、会長が押しつけて来なけりゃ、俺だってもう少し遊べたのに……オレだって予選のあとなんすよ? 信じられないと思いません?」
一方的にブツブツ語る男。
その辺りで、フェオはようやく再起動して口を開く。
「す、すみません! でも別にカップルとかじゃないですからっ!」
「あー、そうなんすか、すみませんね。じゃあ兄妹かな、どうでもいいっすけど。いや、いきなり喘ぎ出すから、白昼堂々なんのプレイかと思いましたよ」
「な――ななななななななっ!?」
瞬間、湯沸かし器の如く沸騰するフェオ。
――そういえば、さっき大きな声でヘンな悲鳴を――!
目が白黒する。耳たぶが真っ赤に茹で上がった。
慌てふためくフェオを見て、さすがに哀れに思ったのか男は言う。
「やー、すんません。冗談だったんすけどね。目の前で説明されてりゃ、何をしてたかくらいわかりますよ」
やる気なさげに後頭部を掻く男。
シグウェルも、そこでようやく口を開いた。
「すまなかったな。食い物の屋台以外は目に入らないんだ」
「めちゃくちゃっすね、その言いわけ。いや別にいいんすけど。その子が食べ過ぎて蹲るところから見てましたし、本気で気にしちゃいねえっすよ」
「そうはいかん。侘びに何か買っていこうと思うんだが――ふむ? ところで、ここは何屋だ」
青年は、せっかくのセールスチャンスに欠片も商売っ気を出さず答えた。
「くじ屋っすよ。紐を引っ張って、繋がってる商品をゲット、みたいな?」
「……食べ物はないのか」
「や、あるわけないじゃないっすか」
独特の間で会話するふたりだった。
ついて行けないフェオに、しかしシグウェルが声をかける。
「せっかくだ。君が一回やっていくといい」
「――え、あー……えーと」
しばしフェオは迷う。とはいえ、確かに迷惑はかけたのだし、ここは一回くらいくじを引いていくほうがいいだろうか。
そう判断して、「では、一回だけ」とフェオは頷いた。
金を払ったのはシグウェルだ。今さら遠慮しても聞かないとは思うが、それにしても、行き倒れていた割には金払いがいい。
そんなにお金があるのなら、どうして初めから持ち歩いていなかったのだろう。
疑問に思いながら、フェオはくじの屋台に向かう。
「ふむ。紐に魔力が通ってるな。これがヒントか」
「そっすね。ま、さすがに《魔弾の海》なら気がつきますか」
話を聞いていたのだろう、青年はあっさりと言った。
言われて気づき、フェオも意識して魔力を見る。
すると確かに、それぞれの紐には別々の量の魔力が込められているようだった。
一度やり始めると集中するフェオを尻目に、男ふたりは会話を始める。
「俺を知っているのか」
「いや、知らない魔術師なんかいるわけないじゃないっすか。まあ別に騒いだりしないんでご安心を。にしても、まさか《魔弾の海》に会えるとは思ってませんでしたよ。光栄です」
「……その腕章を見るに、君は学生会のメンバーか」
シグウェルが言う。青年は頷き、
「そっすよ。副会長のミル=ミラージオ。まあしがない下働きっす」
「そうか、よろしく」
「こらご丁寧に。どうも光栄っすわー」
握手を交わすふたりの傍らで、フェオは一本の紐に当たりをつけ、それを思い切り引っ張った。
屋台の奥で商品のぬいぐるみがころんと落ちる。
デフォルメされた鼠のぬいぐるみだ。ふてぶてしい表情が可愛らしい、とフェオは思っていたのだが、おそらく男ふたりの同意は得られまい。
ともあれ、狙い通りだ。
フェオは思わず拳を握り込んで微笑む。
「やった!」
と、代理店主のミルが目を丸くした。その隣では、シグウェルまで驚いた表情になっている。
――あれ? な、何かしちゃったかな……?
思わず不安になるフェオ。その視線の先で、ミルが力のない拍手をした。
「いや、お見事。その反応を見るに、狙って取ったんすよね。なかなかできないもんですけど」
「え、え?」慌てたのはフェオだ。「そんな難しかった、ですか……?」
謙遜や韜晦ではない、他意のない疑問を見て、ミルは表情を引き攣らせる。
「……これだもんな。この学院の学生、君? 見たことないけど」
「あ、はい、フェオ=リッターです。ここには最近、入りまして……その」
「ああ。なら、君が例の中途入学者っすか。なるほど、それで鼠ね」
「え、っと……?」
わけもわからず首を傾げるフェオに、ミルは「こっちの話っすよ」とあっさり言う。
と、その脇で、感心した様子のシグウェルが口を開いた。
「……フェオ。君はかなり《眼》がいいみたいだな」
「し、視力は普通ですけど……?」
「うん。ああ、いやそういう意味じゃない」
天然同士の会話は進まない。ミルは欠伸交じりにそれを眺めていた。
「どうだろう。恩返しもまだなのに恐縮だが、ちょっと頼みたいことがあるんだが」
「た、頼みたいこと、ですか……? 別にいいですけど」
さして考慮もせず頷くフェオ。
そういうところでシルヴィアに心配されているのだが、彼女は気がつくことがない。
「うん。実はだな、この街に今、あまりよくない魔術師が紛れ込んでいる」
「よくない、ですか……?」
脇で、ミルが「なんか物騒な話……」と呟くが誰も答えない。
シグウェルは続ける。
「ああ。まあ端的に言えば犯罪者なんだが、そいつは――どうも肉体改変を得意とする魔術師らしくてな」
「肉体改変、魔術?」
「ああ。本来は使い魔や、合成獣なんかの作成、あるいは治癒魔術に応用されることもある技術だが、そいつの場合は特殊でな。――簡単に言えば、自らの姿を別人に変えることができる」
――要するに《変身魔術》だ。
シグウェルが言う。
「奴は自らの姿を、魔術で自在に変えることができる。年齢、性別、種族さえ問わず――あらゆる人間に変身できるんだよ」
驚いたのはミルだった。もちろんフェオも驚いたは驚いたが、その驚きはミルとは違う。
あまり知識のないフェオは知らなかったが、ミルには《変身魔術》というモノの異常性が理解できているからだ。
なぜなら変身魔術は、現代ではすでに失われた魔術法則――《喪失魔術》に分類されている。
今の世界に、変身魔術なんてものが使える人間はいないはずだった。
「ひ、ヒトの店の前でとんでもない話を……!」
耳を塞ぎたくなるミルだが、仮にも学生会副会長。これを聞いて、他人ごとで済ませるのは立場が許さない。
あるいは相手が《魔弾の海》でさえなければ、与太話と切って捨てることもできたのに。
そう、ミルは気がついていた。
目の前の男が、あえて自分にもその情報を聞かせているという事実に。
一方、コトの重大さをいまいち理解していないフェオは問う。
「えっと。要するに、その人を捜せばいいんですよね? なら私だけじゃなく、もっと大勢の人に頼んだほうが……」
「それが無理だから困っていてな」特に困っていない顔でシグウェルは言う。「なぜなら、ただ見ただけでは、それが変身魔術で姿を変えた人間なのか、それとも普通の人間なのかはわからないからだ」
「あ、確かにそうですね」
フェオもまたあっさり納得した。
――おいおい。もしかして、ここでまともなのはオレだけか……?
戦慄するミルを、当たり前にふたりは気にしていない。
「でも、それなら私も役に立たないんじゃ」
「そんなことはない。君の眼は魔力に敏感なようだからな、変身魔術を使っていることに、もしかしたら気づけるかもしれない」
「そう、ですかねえ? ちょっと自信ないですけど」
「もちろん無理にとは言わない。自分で追うのも危険だからやめてくれ。ただ祭の間だけ、それとなく警戒してくれていればいいんだ。何か気づいたことがあれば俺を呼ぶ。それだけでいい。もちろん報酬も払う」
少しだけ迷い、それでもフェオはすぐ頷いた。
「……わかりました。それくらいなら」
「恩に着る」
こうして、フェオはシグウェルの依頼を請けることになった。ついでに巻き込まれたミルもまた、この話を上へと通すことになる。
ただそこで、フェオはシグウェルにこう訊ねた。
それは当然の質問ではあったし、だからシグウェルも当たり前に答えた。
――その判断を、シグウェルは後ほど大きく後悔することになる。
もし彼がフェオの事情を知っていれば、それは絶対に話さなかっただろう情報だ。どころか、そもそもフェオに助力を頼むことさえしなかったはずだ。
だが運命は皮肉なもので、ふたりはまだ二度会っただけの間柄に過ぎない。フェオはタラス迷宮での件を関係のない人間に零すことはないし、街に来たばかりのシグウェルはタラスでの一件を知らなかった。
「それで、誰なんですか? その、街に入り込んだっていう、犯罪者の人は」
その名前がフェオにもたらす影響なんて、想像することさえなく。
シグウェルは、まるで仇の名を口にするように答えた。
「――通称、《水星》のドーラ」
「水、星……?」
「名前はドラルウァ=マークリウス。七曜教団の一員を名乗る、ゲスの極みのような女だ」