3-18『一回戦第一試合』
一回戦を前に、俺は再び中央広場の会場まで戻った。
ピトスの待つ客席に向かったアイリスと別れ、運営本部の天幕に顔を出す。ここが控え室代わりだった。
試合まで、残りあと数分のところだ。俺は運営本部の担当者に到着を伝えて、しばしその場で待っていた。
特別、緊張はしていない。
そう思う一方で、どこか浮き足立つような、落ち着かない思考に脳裏を支配されてもいた。試合に対する緊張ではなく、単に考えることが多いせいだろう。
妙に長く感じる時間を潰すため、俺は漫然と辺りへ視線をやっていた。
と、そのとき本部に近づいてくるふたりの人影を見つける。
向こうもこちらに気づいたらしく、そのうちのひとりが、何やら嫌らしい笑みを浮かべながら近づいてきた。
「や、アスタ。これから試合だってね。うん、ぜひぜひがんばってよ」
「……メロ」
俺はその女の名前を呟く。
メロは、俺の声を聞いてますます笑みを深くした。
「どうしたのさ。しばらく会えなくて、あたしのコトが恋しくなっちゃった?」
答える気にもならない。
俺は意図的にメロを無視して、もう一方の人影に声をかける。
「いいのかよ、メロなんか出場させて。問題にならないのか?」
「……仕方ないでしょ。少なくともルール上は問題ないんだから、むしろ出さないほうがまずいくらいだよ」
疲れた表情で答えたのはセルエだ。
魔競祭の運営として方々を駆けずり回っているらしく、その声にはまるで覇気がない。この前も思ったことだが、どうやらかなりの疲労が溜まっているようだ。
肉体というよりは、むしろ精神面に負荷がかかっているみたいだが。
「一応、できる限り空気読んで、抜けるだけ手を抜いてくれとは頼んだんだけど……」
セルエがメロに、じとっとした視線を向ける。
対するメロは意に介した風もなく、「わーかってるって!」と軽く頷いた。
これほど信用できない請け負い方もない。
「あくまでお祭りなんだから、楽しく盛り上がってこそだもんね。相手に大怪我を負わせるような魔術までは使わないって」
「…………」黙りこくるセルエだった。
その気持ちはわかる。メロの言葉は翻せば、大怪我さえ負わせなければそれでいいだろう、という意味になるのだから。
その付き合いの密度から、俺とセルエならメロ語をおおむね翻訳できる。
俺は頭を掻き、それからメロに向き直って問う。
今のうちに、真意を問い質しておきたかったからだ。
「どういうつもりだ、メロ。お前が出たって、特に得るものはないだろう?」
「そんなことはないよ」メロはあくまで笑顔だった。「あたしだって、このお祭りに望むものがあったから出場したんだし」
「望むもの? なんだよ、それ」
「これ、魔競祭だよ? そんなの決まってんじゃん」
俺の問いを、メロは鼻で笑い飛ばす。
何を今さら当たり前のことを、と態度が語っていた。
「強くなりたいから」
「……」
「勝ちたいから。どうしても勝ちたい相手がいるから――あたしは魔競祭に出るんだよ」
――冗談だろ。
そう切り捨てるには、メロの瞳が真剣さを帯びすぎている。
だが悪い冗談にしか聞こえないことも事実だ。まさか、よりにもよってメロの口から「強くなりたい」だなんて台詞が漏れるとは、悪夢にしたって失笑モノだろう。
「お前、もう充分に強いだろうが。今さら何を――」
「でもね、アスタ」
彼女は俺の言葉を遮った。
思わず黙り込む俺に、彼女は問いかけるように呟く。
「それでも、まだまだ上はいるんだよ」
「……」
「あたしはいちばん上に行きたい。あたしは頂点にいたいんだ。時間とか、年齢とか、そういうことを言いわけにするつもりなんて、あたしにはない。それじゃあ魔術師でいる意味がない。自分の意志を――通せない」
その言葉に、思わず押し黙ってしまう。セルエもまた口を開かない。
ただ同じ無言にしても、俺とセルエではその意味合いが異なっているように思える。
セルエは、メロの言葉を理解した上での沈黙で。俺は単に彼女の言葉が理解できず、ただ言葉を失っただけ。
まったくの正反対だった。
「意志を、自分を――我を通すには力が要る。でなきゃ欲しいものは望めないし、守りたいものは失うだけだよ。弱さは言いわけにならないし、無知は理由にならないんだ。そんなこと、アスタがいちばんよく知ってるんじゃないの?」
「……またいきなりだな。何が言いたい」
「違う、言いたいんじゃない。聞きたいんだよ、あたしは」
「…………」
「いい機会だし、せっかくだから訊くけどさ」
メロは、俺を見下すように言葉を作る。
いや、それは真実、俺を糾弾するための言葉だった。
「――いつまで呪いを言いわけにして、こんなとこで腐ってるつもりなワケ?」
俺は言葉を返せなかった。何も反論することができない。
初めから、メロの言葉のほうが正論だ。
彼女は、勝つために魔競祭に臨んでいると言った。そんなことは当たり前で、おそらく俺以外の全員が同じコトを思っているのだろう。
負けてもいい、勝てなくてもいい、どうでもいい――なんて。
そんなふざけたことを言っているのは、この学院に俺だけだった。
「あたしはアスタとも戦いたい。でも何を言っても逃げるに決まってるし、だから魔競祭の場を使おうと思ったけど……この分じゃそれも無理かもね。いい機会だから説教とかしてみたけど、いやいや、いくらなんでも腑抜けすぎでしょ。――誰だよコイツ。こんな男、あたしは知らない」
「……俺が、お前に――」
「勝てるわけない、って? 違うよね。勝つ気がないだけだよね?」
「…………」
「これだもん。どう思う、セルエ? あたしは、こんなのに一度でも負けたかと思うと、自分が嫌になってしょうがないレベルなんだけど。恥ずかしくないの? 年下の女にこんなこと言われて、それでもまだやる気にならない?」
――俺は、そのとき――。
「……あ、そう」
口を開こうとした瞬間、メロは興味を失くしたように視線を切った。
それから一度だけ視線をこちらに戻して、
「――そんなんじゃ、キュオ姉も浮かばれないね」
「メロッ!!」
咄嗟に、セルエがそう叫んだ。遠巻きにいた周囲の人々が、驚いたようにこちらを振り返る。
それを機と見たのか、メロは踵を返してそのまま去っていってしまう。
そして、俺はその場に残された。
周りの人々が、気を使って触れないように元の様子へ戻っていく。
俺は近場にあった椅子に腰を落ち着け、そのまま身体をずるずると預けた。
もう、なんというか、溶けてしまいたいくらいの気分だ。
それでもなんとか、振り絞るように声だけ出す。まったく、試合を前になんて攻撃だ。
「……悪いな、セルエ。面倒かけた」
「いいけど……アスタこそ、その、平気なの?」
「やめてくれ。セルエにまで腫れ物扱いされたら、今度こそ首を吊りたくなる」
「……なんだ。意外と平気そうだね」
「いやいや、今の俺が平気そうに見えるとか……セルエともあろうお方が随分じゃないの」
皮肉げに宣ってみたものの、言葉は上滑りするだけだ。
言わなければよかった。もう黙っていたい。
そう思う俺だったが、しかし俺が黙ればセルエが口を開くだけだ。
「……メロ、変わったと思わない?」
「なに、どの辺が?」
「前よりずっと、優しくなった」
「…………」
咄嗟に否定しようとして、けれど言葉が見つからなかった。
それが事実だと、俺もまたよく知っていたからだ。
「知ってる?」とセルエが言う。「メロが最近、どこで何してたのか」
「……いや」
「魔術の特訓、だってさ」
セルエは微笑ましげに呟く。俺は身体を起こしていた。
「メロはまあ、魔術にかけては天才だよ。もう突然変異みたいなものだよね」
でもさ、とセルエは続ける。
「でもさ――別に挫折を知らないわけじゃないんだよね。アスタには初対面で負けてるし、師匠であるシグ先輩には、彼女は一度も勝ったことがない。聞いた話、迷宮でも負けたんでしょ? 魔法使い相手に」
「……セルエには話したのか。あいつ、俺には言わなかったくせに……」
「それだけアスタのことは意識してるってコトでしょ。可愛いもんじゃんか」
そうだろうか。メロに《可愛い》という形容詞が似合うとは思えない。
いや、確かに外見はいいかもしれないが、それ以前に怪物だし。
「普通さ、魔法使い相手に勝とうだなんて考えない。アレはもうそういう次元にはいないんだから。でも、メロは絶対に諦めないよね」
「……そう、だね」
「うん。だからやっぱり変わったよ、あの子」
――確かに、思うところはある。
七星でも群を抜いた個人主義で、ただ《自分さえよければいい》という性格だったメロ。その傍若無人っぷりは、一歩間違えば犯罪者になっていてもおかしくなかった。
それを変えたのがマイアであり、セルエであり――そして俺たち七星旅団だったのだろう。
七星で最も若かった彼女は、だからこそ、七星において最も変えられた人間だ。
その彼女に、俺はあそこまでのことを言わせてしまった。
あの言葉が俺のためでなかったなどと、どうして考えることができるだろう。メロだってきっと、言いたくはなかったはずの言葉だ。
それを――俺が言わせてしまった。
「なあ、セルエ。もし、アイツが今の俺を見たら、いったいなんて言うかね」
「何も言わないと思うよ。たぶん無言で半殺しにされると思う」
「――え。そこまで駄目?」
「ちょっと足りなかったかな。九割殺しかも」
「九割死んだら十割死ぬよ」
……なるほど。
それは、確かに困ってしまう。
「ついでにもうひとつ質問なんだけど。セルエ――仮に俺が全力になったら、魔競祭で優勝できると思うか?」
問いに、セルエは悪戯っぽい笑みを作った。
「普通に考えれば無理だろうね。メロを除いても、勝てなそうなのが三人はいるから」
「……思いのほか甘い判断だと思うけど」
「そうかな?」
「ちなみに、なら普通に考えなければ?」
なんとなくの問いだった。
けれど、セルエは先生らしい笑顔で俺に答える。
「――アスタなら勝てる。わたしは、そう信じてるよ」
だから、俺も答えた。
「まあ別に優勝なんて目指さないけどな!」
「あれ!? 今もう少し、いい話の流れだと思ったんだけど!?」
「いや、だってレヴィと契約してるし。あとそもそも、やっぱ魔競祭に勝つメリット特にない。むしろ普通に優勝したくない」
「今までの会話が全否定だけど!」
「――ただ、やる気は少し出てきたから」
さて、と俺は立ち上がって笑う。
――別に、魔競祭自体のやる気はまあ、今でもそんなになかったりする。それは事実だ。
ただ、それ以外にも厄介そうな案件はいくらでもあるわけで。
俺はセルエに向き直り、皮肉げに微笑んでこう訊ねた。
「なあ、セルエ。訊きたいことがあるんだけど」
「……うわ。なんか嫌な笑顔してるなあ。それ、久々に見た気がする」
答えず、ただ訊ねた。
「――セルエ、俺になんか隠してるよね?」
セルエもまたあっさり答えた。
「そうだね。隠してる」
「……たとえば、アイリスのこと間違いなく知ってたよね」
「どうしてそう思うの?」
アイリスのこと、という表現で伝わった以上、もはや語るに落ちているのだが。
まあいい、と俺は言葉を重ねる。
「だって、学院側に話が行ってるんだろ? 運営で上に立ってるセルエが、それを知らなかったなんて言わせない」
「そうだね。うん、昨日知ったよ。ごめんね、伝えようと思ってたんだけど忙しくて」
「ダウト」俺は笑う。「忙しかった、で済ませていい内容じゃないだろ。あのマイアが送ってきた子だぜ、何かあるに決まってるわな。それを知ったら、何を措いてでもまず先にセルエは俺に伝えたはずだ。昨日のうちに、必ず」
「……それで?」
「どうしてそうしなかったのか。それは口留めされてたから。じゃあ誰に、ってことになるけど……もし昨日知ったのなら、たぶんそんな暇なかったよね。なにせ忙しいんだし。なら結論――セルエはアイリスに関して前もって知っていた情報があった。違うか?」
セルエは答えた。
「そうだね。――六十点かな」
「あ、思ったより低い!」
「いや、だってほとんど憶測だし」
「そうだけども!」
ドヤ顔しちゃったじゃねえかよ。
恥ずかしすぎる。責任を取ってほしい。
「まあでも、単位はあげてもいいよ」
笑うセルエに、俺は肩を竦めるしかない。
「そらどうも……ついでにもうひとつあるんだけど、これも言っていい?」
「どうぞ」
先ほど盛大に低点数を弾き出したため、正直ちょっと自信がない。
俺はおそるおそる答えた。
「――セルエ、忙しすぎるよね」
「それはまあ……そうだけど」
「あ、いや別に同情して言ってるわけじゃなくて」
「そこは同情してよ……」
「そうじゃなくてさ、セルエの体力で、そこまで――疲れてることを隠せないレベルまで疲れるなんて、いくらなんでも学院の仕事だけじゃあり得ないと思うんだよ」
「……」
「で、ほかにセルエが関わってることがあるとすれば、たぶん管理局側の仕事を嘱託されてるからだよね? ――なんか、あった?」
「そうだね。そっちに関しては、本当に隠すつもりもなかったから。普通に答えるけど」
と、セルエがそれまでの笑みを消して言う。
少なくとも面白い話ではなさそうだ、と身構える俺に、彼女は淡々と告げた。
「――魔競祭直前から、オーステリア近辺で失踪と殺人が相次いでる」
「…………」
「まず失踪事件に関してだけど、近隣で名のある冒険者が、女性ばっかりいなくなってる。これはオーステリアに限ったことじゃないけど、それでもこの街を中心に広い範囲で」
「……で、殺人ってのは?」
「そのままだね。街の近隣で、変死体がいくつか見つかってる。これは祭が始まってからの話なんだけど、今までで三件――あまり大っぴらには活動できない身分の人たちが、この街の近くで死体で見つかってるってさ」
偶然、で片づけるのは無理があるだろう。
そういった、いわゆる裏側の人間は、だからこそ保身のすべを心得ている。
それが三人も相次いで亡くなるなんて普通じゃない。
セルエは、続けてこう言った。
「諸々の事情を鑑みて。――犯人は、《七曜教団》を名乗るクランのメンバーだと断定されたよ」
※
ピトス=ウォーターハウスは、魔競祭会場の観客席で、一回戦の開始を待っていた。
隣には、アスタの身内であるアイリスの姿がある。
――この可愛らしい少女を任せられるくらいには、彼から信用されているのだろうか。
そんなことを、彼女はつらつらと考えていた。
第一試合は、もう間もなく開始される。
その事実を示すように、会場脇の天幕から学生会書記のシュエットが現れ、拡声の効果を持つ魔具を口許に当てた。
実況役の学生が、会場中の注目を集めて口火を切る。
『えー、お集まりの皆さん、大変長らくお待たせいたしました! これより魔競祭決勝トーナメント、一回戦第一試合を開始します!』
実況の言葉に煽られ、観客たちが盛大な歓声を上げる。
耳をつんざく喧しいほどの大音量。隣のアイリスは動じず、すっと視線を上げステージのほうへ目を落とした。
その様子に苦笑しながら、ピトスは告げる。
「アスタくんが来ますよ」
「ん」
アイリスが頷くと同時、シュエットの声が届いてくる。
『さあ、両選手の入場だ! 東からはカニス=アメストゥス! 三年連続の本戦出場者だが、果たして三年連続の一回戦敗退は阻止できるのか! 名門貴族の底力を見ろ――!』
実況の紹介と同時に、三学年のカニスがステージに上がる。
さすがに三年連続出場だけあってか、その表情に緊張の色は見られない。
実際、一年次から連続で出場しているだけあって、その実力はオーステリアでも上位に位置づけるのだろう。
普通に正面から戦えば、ピトスとてそう簡単に勝利は得られないだろう。
――どうせアスタくんが負けるわけないじゃないですか。
組み合わせが発表されたとき、ピトスは確かにアスタへ向けてそう告げた。
けれど、それが本心なのかと問われれば、実のところそこまででもなかったりする。
もちろんアスタのことは信じていた。かつての七星旅団が一員、伝説と呼ばれた魔術師だ。本来ならピトスが心配するような実力の人間じゃない。それくらいはわかっている。
だが彼は今、呪いでその実力の大半を削がれている。それがどれほどの重圧であるのか、直接戦ったことのあるピトスには理解できていた。
アスタ=セイエルは、たとえるなら常に両手両足を縛られ、口と目を塞がれているような状態で戦っている。
その上で、彼はただ力ではなく技で勝っていた。
だが魔競祭はそのルール上、ただでさえ印刻使いは力を削がれる。先ほどの制限に加え、さらに重りを上から乗せられたようなものだった。
たとえ紛れでも、魔術の一発を身体に受けようものならアスタは終わりだ。
いかに旧七星旅団とはいえ、この条件下なら敗北もあり得る。それがピトスの考えだった。
「……?」
ふと、そのときピトスの右手に触れるものがあった。
小さく、温かく、そして柔らかなそれは、隣に座るアイリスの手だ。
彼女も不安なのだろうか。
一瞬だけそう思ったピトスは、だが自分を見上げてくる少女の透徹した瞳に見据えられ、その考えを放棄した。
――逆だった。気遣われているのは、アイリスではなくピトスのほうなのだから。
「だいじょぶ、だよ?」
小さな女の子は、どこか舌っ足らずな口調で言う。
「アイリス、ちゃん……」
「アスタ。つよい……から」
褐色の肌に、濃い藍色の髪。この近辺ではまず見られない特徴を持つ少女。
アスタは妹だと言い張っているが、いったい誰がそんなことを信じるのだろう。似ているのなんて、せいぜい黒に近い髪の色くらいだ。
そういえば、アスタの黒髪もこの辺りでは珍しい、とピトスは思った。
優しい少女は今、下に現れた少年の勝利を信じている。
いや、たぶんそれも違うのだろう。
アイリスのそれはもはや確信、信仰に近い何かだ。彼女の中に、アスタが勝利する以外の概念はない。
『続いてアスタ=セイエル! 第二学年のダークホース! これまではその交友関係以外に目だった特徴を持たない彼だったが、予選ではあのシルヴィア=リッターを下しているぞっ! 確認された情報では、なんと珍しい印刻魔術師! 果たして、この魔競祭で秘められた実力が見られるのだろうかあ――!』
そんな紹介に続いて、アスタがステージ上へと現れた。
実況のほうに嫌そうな視線を向けている辺り、彼もまた余裕ではあるのだろう。
しかし、アスタはすぐに視線を対戦相手のほうへと向けた。遠巻きで見ていたピトスは、その瞬間、幼いアイリスの言葉が真実であることを悟る。
なぜならアスタが、あの迷宮で見たときと同じくらい真剣な面持ちだったから。
――ああ、そうなんだ。
と、ピトスは悟る。
誰なのかはわからない。けれど誰かが、自分にはできなかったことをした。
あの捻くれた性格の魔術師を、どうやってか本気にさせたのだ――。
「……アイリスちゃんの言った通りですね」
ピトスは思わず苦笑する。
駄目だなあ、と自嘲するように。
「ん」
「わかってたんですね、アイリスちゃんには」
「ん」
彼女はもう一度、つい先ほどと同じことを口にした。
「――アスタくんが、負けるわけない」
直後――試合開始が実況によって告げられる。
同時に、七星旅団の印刻使いはその片手を地面に突いた。
もはや対戦相手は一顧だにしない。
それを舐められていると解釈したのか、対戦相手のカニスもまた魔術の起動を始めた。
彼が伸ばした腕の先に、魔術による火球が浮かび上がる。その横には水、そのさらに横には風と――彼は同時に三属性の元素魔術を起動していた。
なるほど、魔競祭に出場するだけの腕前はあるらしい。観客も大いに盛り上がった。
「……でも」
それでは足りない。アスタはカニスを舐めてはいなかった。舐めていたのは、むしろカニスのほうだったのだ。
アスタが視線を地面に集中させているのは、魔術の起動にだけ全神経を注いでいるからだ。
その口が、わずかに動いたのをピトスは目にした。
彼女の視力があってこそのものだ。さすがに音までは聞こえない。だが魔術師が戦闘中に費やす言葉など決まっている。
呪文の詠唱だ。
そして――カニスの魔弾が放たれる。
だがそれは、アスタに届く遥か前で掻き消さた。相殺されたのか、消去されたのか。なんの前触れすらなく、カニスの魔術は無に帰った。
それだけじゃない。魔術を無効化されたどころか、カニスは逆に、目に見えない何かに押し飛ばされていた。ふわり、とどこかゆったりとした挙動で、カニスはその身体を吹き飛ばされる。
そのまま彼は場外へと落下した。ルールに照らし合わせれば、これでもう試合終了、決着である。
誰も言葉を発さない。
観客たちは水を打ったように静かになり、審判役の教師も固まっていた。カニスは地面に尻餅を突いた状態で、怪我もなくぽかんと口を開いていた。
と、何か悪戯っぽく微笑んだアスタが、そこで審判役の教師に視線を飛ばした。
数秒後、ようやく審判が再起動し、試合の決着を宣言する。
だが静まり返った会場は、実況役のシュエットが口を開くまで止まったままだった。
『け、決着ぅ――っ! 一瞬、あまりにも一瞬の出来事に会場までが静止していた! いったい何が起こったんだ、今のは本当に印刻魔術だったのかあ!? わかるのは唯一、両名の間にあまりにも隔絶した実力差があったことだけ。こいつはとんだ番狂わせだ――!』
その感想は、おそらく会場のほぼ全員が抱いたものだっただろう。
割合、アスタを近くで見てきたピトスにさえ理解できない。いったい何が起きたのか、ただ単純にわからなかった。想像さえ及ばないほどに。
「……本当にめちゃくちゃですね、アスタくんは」
派手さはなかった。だが、異質さで言うならこれ以上はないだろう。
ただ力尽くで吹き飛ばしたならまだわかるのに。
その恐ろしさは、ただの観客よりも魔術師のほうが理解できる。魔術師が纏う幻想として、これ以上のものはないだろう。
その時点で、格付けはすでに済んでいた。
本物だ。誰が、たとえ本人がなんと言おうとも、アスタ=セイエルは《本物》だった。
――だからこそ。
「だからこそ、わたしもアスタくんを選んだんですけどね――」
ピトスのその言葉は、ざわめき出した観客の声に流され、隣のアイリスにすら届かない。
実況はその火種が消えないよう、絶妙のタイミングで捉えて声を上げた。
『というわけで第一試合! 勝者、アスタ=セイエル――っ!!』