3-14『予選のあと』
シルヴィアに肩を借り、ひいこら言いながら(いや言ってないけど)会場外まで出る。
途中、観戦していた客たちから、好奇やら好意やら不審やら疑念やら、あるいはその他もろもろの感情が綯い交ぜになった視線で迎えられるが、俺はその一切に無視で返答した。正直、付き合っていられない。
というよりは、単に痛みと疲労で動けない、動きたくないという状態なのも大きかったが。
ともあれ、祭を盛り上げることに関しては、とりあえず最低限の貢献はしたと思う。だからあとのことは知ったことじゃない。
そんな心境で会場を去った。
実際、誰もが俺に好意的な視線を向けていたわけじゃない。
たとえば派手好きの冒険者たちなんかは、「よくやったな!」「決勝もがんばれよ!」と温かい声援を送ってくれていた。
だが観客は別に冒険者だけというわけじゃない。子どもや女性も何割かはいるし、そういった人たちから見れば、血を吐きながら戦う俺はずいぶん気持ちの悪いものに見えたらしい。なんだか、怯えと恐れが混じったような視線を向けてくる者もいた。
祭りといって楽しむには、少し血生臭すぎたのだろう。反省する気はない、というか、観客たちだって、初めから《戦い》とわかって見に来ているのだ。その程度のことは予想しておいてほしい。
「――悪かったな」
ふと、シルヴィアがそう口にした。
祭の喧騒から抜け、ひと気の少ない校舎のほうへ向かったところだった。
俺はわずかに苦笑して、それから首を振って答える。
「別に。言うほど気にしてないし、むしろ感謝してるくらいだよ」
「……そうか? 迷宮での恩もまだ返せていないからな、実は気にしていたんだが」
「新しい魔具も試してみたかったところだし。まあ、結果オーライってところじゃないか」
エイラに依頼して作成したこの指環型の魔具は、まだ試作段階だった。
この試合で、ルーンを用いた全力戦闘の使用にとりあえず耐え得ることは実証された。ここからさらに改良を加えて、この魔具は初めて完成する。
この先は俺もどうなるかわからないところだ。エイラには何か考えがあるらしいが、まだ詳しいことは聞いていない。これから確認することになる。
出力の関係上、俺はルーンの連続使用はできても、同時使用はできなかった。一度に使える魔力が少ない、という呪いは、そういったところにまで波及している。
先ほどの試合だって、矢継ぎ早に魔術を使ってはいたが、厳密に言えば一度にふたつ以上のルーンを使うことはなかった。あくまで前の魔術を完了させてから、そこに改めてルーンを重ねることで術を合成させている。全盛期に比べ、戦闘の効率は格段に落ちていた。
欲を言えば、この魔具が術式の演算をひとつ肩代わりしてくれるレベルだと嬉しいのだが、さすがにそれは高望みしすぎだろう。それはもはや、魔術師をもうひとり用意しろ、と求めているのに等しい。
いくらエイラでも、それはできないだろうと思っているのだが……頼んでみたところ、あいつは割と自信ありげだったんだよなあ。
まあ、期待しすぎない程度には期待しておくとしよう。
「……ああ、この辺りで大丈夫。悪いな、ありがとう」
校舎のほうまで送ってもらったところで、俺はシルヴィアに礼を告げる。
これ以上先の区画になると、たとえ魔競祭の期間でも一般公開はされない。
逆を言えば、ひと気を避けられた。
「いいのか、医務にかからなくても?」
訊ねるシルヴィアに、俺は頷いて答える。
「慣れてるから問題ない。そっちこそ、クランのほう忙しいんじゃなかったのか?」
「忙しいというほどじゃないさ。別段、やることがあるわけじゃないからな。実質的に開店休業状態だ」
なるほど、言われてみればそれもそうか。
歳若いメンバーの面倒を見なければならないとは聞いていたが、別に四六時中目を光らせていなければならないわけでもなかろう。
「医務のところまでなら運ぶが、こっちのほうに来てしまって構わなかったのか?」
「どうせ混んでるよ。学院にだって、治癒魔術師がそう多くいるわけじゃない。教師にも三人とか、そんなものだったと思う」
「魔術じゃなくても、普通に治療したほうがいいんじゃないか?」
「アテはあるさ」
端的に答えてやり取りを打ち切った。別に嘘ではない。
それより、と俺はシルヴィアに訊ねる。
「第六ブロックが時間切れで終わったんだ、フェオももう試合が終わってるだろ。行ってやれよ」
わざわざ妹のために出張ってきたのだ。試合結果は気になるところだろう。
そう思って告げた俺に、けれどなぜだろう、シルヴィアは目を丸くして答えた。
「何? フェオが予選に出てるのか!?」
「……え?」その反応はいくらなんでも予想外だ。「まさか、知らなかったのか……?」
「しばらく学院に残る、とは聞いていたが……試合に出るなんてひと言も」
「そ、そうだったのか……」
意外、というほどのことでもないけれど。大方、恥ずかしくて告げられなかったとか、まあそんなところだろう。
まったく不器用な奴だ。初めて会ったときのイメージに反して、彼女はあまり自分に自信がないらしい。予選程度で負けるような実力では、絶対にないと思うのだが。
フェオは少し、学院の生徒に対して夢を見すぎている気がする。
魔術の実力と戦闘の強さは、必ずしも直結しないのだ。
ともあれ、そうなってくると別の部分が気になってくる。
俺は自分が出場するブロックについて、せいぜいフェオとレヴィ、アイリスと珈琲屋、メロ、そしてノキくらいにしか話していない。別に隠していたわけじゃなく、単に言う相手がいなかったから。
この中なら、シルヴィアはフェオとくらいしか繋がりがないと思うのだ。しかし、自分のことは伏せたまま、彼女が俺の話だけシルヴィアにするとは考えにくい。
かといってレヴィに面識があるとも思えないし、アイリスや珈琲屋はなおさらだ。ノキに至っては接点どころか、伝える時間自体がないだろう。ノキに話したのは試合開始の直前だ。
残るはメロくらいだが……それはそれで、奴がわざわざシルヴィアに俺の話をするとは考えにくかった。何をする奴かわからないし、絶対にないとは言えないのだけれど。
今だって、どこで何をしているのかわからないし。
「……シルヴィア。お前、俺が第六ブロックに出るって誰から聞いた?」
「ああ、気づかれてしまったか。まあ、そうだろうな」
問いに、シルヴィアは困ったように頭を掻く。
隠しているというよりは、言いたくても言えない、というような風情だった。
実際、彼女は首を振ってこう述べた。
「すまない。それは口止めされてるから、教えられない」
「……口止め?」
「ああ。私とて、何もフェオのためだけに乱入したわけじゃない。ほかにも目的というか、まあ役目みたいなものはあったのさ」
いったいどういう意味なのか。
不審には思うが、突っ込んだところでシルヴィアは答えないだろう。
彼女は話題を変えるように言う。
「ところで、アスタ」
「ん?」
「君も、何か私にしてほしいことはないか?」
「……どういう意味?」
「まあ、迷宮の件での恩返しだと思ってくれればいい」
シルヴィアに言われ、ようやく得心する。
フェオといい、まったく義理堅いものだった。迷宮でのことは互いに責任を負わない。それが冒険者同士の不文律なのだが。
そして同時に俺は、誰がシルヴィアに口止めをしたのかも理解した。言葉の中にヒントがあったからだ。
あえてわかるように言ったのか、それともただの天然かはわからないけれど。
「クランとしての対応はフェオに一任したが、それとは別に、私個人からも何か恩返しをさせてもらいたい。今日は、それを言いにきたつもりでもある」
――もっとも、私にできることなど限られているがな。
どこか自虐的に言うシルヴィアだった。充分、頼りになる相手だと思うのに。
「……なら、ひとつ頼んでもいいか?」
しばらく考えてから、俺はシルヴィアに告げた。
シルヴィアはあっさりと頷いて言う。
「無論。私にできることなら」
「大したことじゃないよ。ただ祭の期間中、この辺りを怪しい奴が歩いてないか、それとなく気にしておいてほしいってだけ。いわば街の警備みたいなものかな」
「怪しい奴……?」
突然に不穏なことを言ったからだろう。シルヴィアは怪訝そうに首を傾げる。
といっても、何か具体的な脅威があるというわけではないのだ。俺は誤解を正すように言う。
「いや、まあ念のためにな。迷宮での件もあったし、警戒しておくに越したことはないだろ」
「七曜教団の連中が、祭に介入してくると?」
シルヴィアの目がすっと細められる。
彼女自身、奴らから命を狙われていた張本人なのだ。見過ごせることじゃないだろう。
何をしてくるのか、まったくわからない連中だ。実力のある人間にしか頼めない。
そういった意味においても、シルヴィアに協力を仰げるなら心強い。
「別に確証があるわけじゃない。ただ、あの連中がこの近辺にいることと、俺たちがここにいることが――偶然だとは思えなくてな」
「奴らにはまだ何か、この街でやることがあると?」
「あるいは七星旅団に対して、な」
七曜教団――プシュコマキア。
その名前は、確実に七星旅団を意識したものだろう。
そんな連中がセルエ、メロ、そして俺と、元旅団員が三人も滞在する街にいる事実。これを偶然だと考えるほうが馬鹿げている。
奴らの目的は街ではなく、むしろ七星旅団に対してあるのではないか。
そんな予感があった。
奴ら自身、そのようなことは言っていたわけだし。
「ま、あくまで保険だ。奴らが何かコトを起こすなら、それはこの魔競祭の期間がいちばんあり得るだろう、っていうただの予想。何もないなら、それに越したことはない」
「わかった。そういうことなら、むしろこちらからお願いして協力させて欲しいくらいだ」
シルヴィアは真剣な表情で頷いた。
俺よりも、むしろ彼女のほうが奴らに対する恨みは深いだろう。戦力としては申し分ない。
目的も、規模も、能力も。何ひとつ判然としない、まるで亡霊のような連中だ。
身軽なシルヴィアの手を借りられれば、いざというとき、きっと力になってくれる。
「――頼んだよ」
「ああ。頼りにしてくれ」
力強く頷くシルヴィアは、確かに頼もしく見えるのだった。
試合でさえ、彼女が初めから本気で俺を倒すつもりなら、確実に負けていたことはわかる。
たぶんフェオは伝えていないだろうが、俺がなんらかの束縛を背負っていることは察したはずだ。あえて突っ込んで訊いてこないのは、彼女なりの配慮なのだろう。
彼女は笑顔を見せると、それからちょっと悪戯っぽくつけ加えた。
「しかし、それでは恩を返したことにならないな。ほかには何かないか?」
「フェオにも言ったけど、別に恩を返してもらおうとか思ってない。あんなもん流れだ」
「そうはいかんさ。……そうだな、こういうのはどうだろう?」
シルヴィアはあっさりと言った。
「フェオを嫁にやるというのは」
「おいおい、それ本気で言ってるのか?」
最初、冗談だと思って俺は笑い飛ばした。
だがシルヴィアは、なぜか疑問げに首を傾げる。おいおい。
「気に入らないか? 身内の贔屓目を抜きにしても、我が妹は結構可愛いと思うのだが」
「そういう意味じゃないし、そういう問題でもないし、つーかマジで何言ってんだお前」
「何かおかしかったか……?」
シルヴィアは本気で疑問しているようだった。
そういえば、こいつは血を遡れば貴族の出なのだったか、と俺は遅まきに思い出す。こういった発想は、血の繋がりを重く見る魔術血統の貴族に多いものだ。
日本出身の俺には馴染みにくい部分もあるが、別にシルヴィアに特有というわけではない。単に異世界の価値観ということ。
シルヴィアは続けて、
「――なんなら私でも構わないのだが」
「頼むから一回、冷静になってくれ」
「ふむ。冷静に考えれば、確かに私よりはフェオのほうがいいか」
もう駄目だこりゃ。
冷静に考えた上で提案しているのだから。
「……そういうことは、本人の意志を無視して決めることじゃないだろう」
「意志、か。確かにそうだな。ならば、先にフェオの気持ちを確認しておくとしよう」
「そうしてくれ」
俺は大した考えもなく、そう返答した。
……その答えが、のちにまた面倒な事態を招くことになるのだけれど。
このときの俺は、まだ想像さえしていなかった。
※
その後、フェオのところに向かうというシルヴィアと別れて、俺はその場に残った。
移動するだけの体力が、もう残っていなかったのだ。
ひと気のない校舎の陰で、俺は壁に背中を預け、そのまま地べたに座り込む。
――キツい。
ここまで全力での戦闘を行ったのは、かなり久々のことだった。
迷宮に潜ったときは、長い道のりを行く以上、個々の戦闘では余力を考える必要がある。その場で全力を使っては、進むことも戻ることもできなくなるからだ。
加えて言えば、ひとりで戦っているわけでもない。迷宮では常に仲間がいた。
だが今回は短時間のうちに、それこそ今の自分が出せるほぼ全力を一気に費やした。その反動は、考えていたよりも遥かに大きかったのだ。
体力と魔力を失うことで、反比例するように呪詛の影響が強く身体を蝕み始める。
肉体の、精神の、魂の奥底に、俺は呪いの《意志》を感じていた。
戦うな。抗うな。歩くな。進むな。願うな。
贖え。雪げ。悔いろ。止まれ。罰を受け入れろ。
お前のせいだ。お前が悪い。お前のような奴が意志を持つな。
――お前が殺した。お前が殺した。お前が殺した――。
お前が。
「…………」
そんな幻聴に束縛されている気がする。
あのときの罪を忘れるなと、かけられた呪詛に繰り返される。
俺が戦いで全力を出せないのは、果たして呪いのせいだけなのだろうか。あるいは俺自身が、自らにそれを禁じているのではないだろうか――。
黒く濁った意識に苛まれる。
目には見えないどこか深い場所で、呪いが進行していくのがわかった。
そう。これは誰にも、旅団の仲間にさえ伝えていない事実。
俺の呪いは完了していなかった。現在進行形で、徐々に徐々にその強さを増している。
真綿で首を絞めるように。ゆっくりと、静かに、けれど確実に呪いは進行する。いつか俺を完全に縛りつけようとしている。
永続する悪意。
――呪詛。
やがて俺は呪いに全てを蝕まれ、魔力の全てを失うだろう。
この呪いを解かない限りは。
「――こんなところで、いったい何をしてるんですか」
そのとき、ふと声をかけられた。
彼女がついて来ていることには、実のところ初めから気づいていた。というより俺が呼んでいた。
俺は笑顔で返事をする。
でも果たして、上手く表情を作れたのかはわからない。
「よう、ピトス。悪いな、呼び出して」
――ピトス=ウォーターハウス。
治癒魔術師の少女が、色のない笑顔で正面に立っていた。
予選の試合が終わったとき、シルヴィアに担がれているところで目が合ったのだ。どうも、俺の試合を観戦していたらしい。
俺はこっそり、視線だけで彼女を呼んでおいた。
気を使ってくれた彼女は、呆れながらもこっそりついて来て、シルヴィアが去るまで待っていてくれたのだ。
「予選突破、おめでとうございます。アスタくん」
にっこりと微笑むピトス。
その威圧感たるや、筆舌には尽くしがたい。
「あ、ああ……ありがとう。本戦で当たらないことを祈ってるよ」
「……はあ、そうですね」
ピトスは溜息をついて、呆れたようにかぶりを振った。
とりあえず、笑顔がなくなったことに俺は安堵する。
なぜならピトスの笑顔は怖い。彼女は、笑っているときがいちばん怖ろしいのだ。
「とりあえず治療しますから、身体を見せてください」
「悪いな。本戦では頼らないようにするから」
「本当ですよ」ピトスは淡々と言う。「アスタくんには、学習能力ってものがないんですか」
「……返す言葉もない」
座り込んで俯く俺の肩に、彼女の掌がそっと触れる。
このところ、もはや慣れっこになったと言っていいピトスの治療。相変わらず腕がいい。身体が、ほとんど見る間に治っていく。
もちろんこれは見た目だけのことだ。治癒魔術とて万能ではない。
魔術における三要素――すなわち肉体、精神、魂魄――のうち、治癒魔術で治せるのは肉体の傷だけなのだから。精神や魂魄には干渉できない。
さらに言えば、肉体の治癒だって完全ではなかった。負傷と治癒を繰り返すうちに、目に見えない部分へと歪みは蓄積されていく。それはきっと、俺の寿命を縮めるだろう。
時間が巻き戻っているわけではないのだから。
細胞の時間は、むしろ加速するように未来へ進んでいる。
「終わりました」
「ありがとう。相変わらず速いな、さすがだよ」
「…………」
ピトスは答えなかった。
こわい。
何か言わなければ、と俺は咄嗟に提案する。
「あー……えっと、なんかお礼しないとな? そうだ、とりあえず治療費とか払――」
「――は?」
「……………………」
は? って言われた。ピトスの顔に、青筋が浮かんだのがわかる。
俺の肉体が硬直した。どうやら地雷を踏んでしまったらしい。
ピトスの手が触れる肩。先ほどまで心地よかったのに、今ではなんかだ急所を押さえられているような気分である。
しかし、なぜ怒らせてしまったのか。そこまで機嫌を損ねる提案だっただろうか。
わからない。が、訊けなかった。怖すぎて。
ピトスは明らかに不機嫌だ。その証拠に、笑顔がどんどん明るくなっていく。
彼女は、怒れば怒るほど綺麗な笑顔で微笑むのだ。
ということを、俺は最近学習していた。
言い換えればそれくらい頻繁に怒らせていた。
背筋の凍るような満面の笑みで、身体が震えるほど明るい声で。
ピトスは――いやピトスさんが仰る。
「それは、アレですか。わたしが見返りを求めて治療していると、そう遠回しに言っているわけですか」
「……いや、あのですね。そういうわけではなくてですね?」
「わたしがそれで喜ぶと思って言ったんですか? それとも、都合のいい女には金でも出しておけば済むだろうとか、そういう意図ですか」
「いやいやいやいやいや!? 単にほら普通、魔術治療ってお金かかりますでしょ!? だからそのまあ対価っていうか感謝の気持ちっていうか。一応、その、形として」
「アスタくんは、アイリスちゃんに何かしてあげたとき、何か対価を求めるんですか?」
「え、いや、そんなことはしません、けど……」
「――アスタくん」
「あっ、はい」
「次、もしそういう提案をしたら、わたしはキレます」
「…………」
「本気でキレます」
彼女はただ『キレます』とだけ言った。ただし二回言った。
具体的に何をするとも、どうなるとも言っていない。
にもかかわらず、その言葉は、どんな脅しに曝されるよりも強い恐怖感を俺に与えてくる。
普段はお淑やかな言葉遣いの彼女が、「キレます」と宣言する落差は、もはやちょっとした怪奇の領域にあった。
セルエやレヴィに匹敵するレベルの怖さだ。あれ、俺の周りはなぜか怖い女ばかりだな?
もう何も言えない。
「いいですね?」
笑顔で念押しするピトスに、俺はこくりと頷いて答えた。
「二度と言いません、マム」
「では、わたしも何も言いません」
「……はい」
素直に頷いた。それ以外にどうしようもない。
我ながら、少しピトスに甘えすぎているのかもしれないと思う。
その恩をお金で済ませようとするのは駄目だ。確かにない。いくらなんでも失礼すぎる。
口をついて出ただけの、考えなしの言葉だった。金銭で報いようだなんて、そんな発想がそもそも健全じゃなかった。
というか、考えてみれば、そもそも治療費を払えるだけの貯蓄がない。
頭悪すぎるな、俺。
ピトスはようやく笑みを崩し、それから困ったような表情に変わって言う。
笑顔のときも怖ろしいが、こういう表情をさせてしまうのも情けない。
「おこがましいかもしれませんけれど。わたしは、アスタくんの身内のつもりなんです。頼ってもらえて、嬉しいんですよ?」
そこまで言われて、なお疑うほど俺だって捻くれていない。
要するに、俺は怯えていただけなのだろう。
「……そうだな。ごめん、悪かった。そんなことで精算していい関係じゃなかったよな」
「最初から、そう言っていただけていれば、わたしも嬉しいんですけどね。どうやら、まだまだわたしではアスタさんに身内とは思っていただけないようです」
「そんなつもりなかったんだけど……いや、うん。悪い。恩はこう、別の形で返させてもらう。身内だからって、甘えてていいわけでもないだろ?」
「別に、甘えていただいて構わないんですよ?」
「その優しさは男を駄目にするぞ」
俺は苦笑して言った。そして同時に思い出す。
学院には彼女に惚れている男も多いと聞く。学院生から見ても高嶺の花なレヴィより、むしろ人気が高い――とは確かウェリウスの言だったか。
訊いてもないのに、そんなことを徒然と語ってくる男なのだ、あいつは。
さておき。彼女に人気がある理由は、この辺りの性格にもあるんじゃないかと思う俺だった。
だがピトスは、なぜか視線を細くして小さく呟く。
「別に、優しさで言ってるわけじゃないんですけどねー……」
「ん、そうなのか?」
「言っておきますけど、わたしにだって下心くらいあるんですよ?」
「……え」
触れ合うほどの至近距離で、こちらを見上げるようにピトスは言う。
――少し、どきりと心臓が跳ねた。
治療の都合上、身体に触れられることは多いのだが、しかし近くで顔を見られるのだけは未だに慣れない。どうしてもどぎまぎしてしまう。
というか、ピトスもピトスだろう。どうしてこう男を勘違いさせるような台詞を吐くのか。
からかわれていることくらいわかる。彼女は意外と悪戯っぽい。
けれど、それはそれとして。
冗談だとわかっていたとしても、野郎というのは緊張してしまう生き物なのだ。
男の純情を弄ばないでほしかった。
思わず、俺は息を呑む。
「……下心、ってのは?」
「あ――いえ。その、アスタくんと仲よくしておけば、アイリスちゃんにも会えますからね」
ピトスもまた、さっと視線を逸らして言う。
まあ、やはり冗談だったらしい。
まったく、勘違いして好きになっちゃったらどうしてくれるんだ。野郎は単純なんだから。
「別に、いつ来てくれたっていいよ。アイリスも喜ぶ」
「……はい」
ちょっと俯いて答えるピトスだった。
気落ちしているのだろうか。
というか、恥ずかしいなら言わなければよかったのに。
「ま、ともあれこれで本戦に出場だ。明日の組み合わせを確認しておかないとな」
微妙な空気を振り払うように俺は言った。
ピトスもそれに乗っかって、勢いよく首肯を繰り返す。
「そ、そうですね! 第六ブロックから四人も突破したんですから、シード権が減る可能性もありますしね!」
「できれば、ピトスとは戦いたくないところだけど」
「こっちの台詞ですよ……なんですか、あの試合。滅茶苦茶にもほどがあります」
「……そんな滅茶苦茶だったか? 向こうも全力じゃなかったし、あんなもんだろ」
俺の言葉に、ピトスは呆れ果てたように口を開いた。
「まあ確かに観ている人たちも、大半はシルヴィアさんが手を抜いてたから勝ったっていう認識でしょうけれどね。でも学院生は驚いてましたよ。無名の選手が、いきなり本職相手に勝つんですから、それも当然ですけど」
「うーん、確かに警戒されると面倒っちゃ面倒だな。でも、そんなに派手じゃなかっただろ? あの程度の火なら、本戦に出る元素魔術師は普通に出せるだろうし」
だからこそ、あえて《火》を中心に魔術を使ったのだから。
そう思っていたのだが、ピトスはかなりジトっとした視線をこちらに向けてくる。
「そういう問題じゃないじゃないですか……アスタくんが使ってるのは元素魔術じゃなくて、あくまで印刻なんですから。マイナーだから凄さがわかってないだけであって」
「まあ実際、印刻じゃ学院生でも何してるかわからないだろうしな」
それこそレヴィやウェリウスレベルの知識と実力がなければ。
「そう考えると、予選が一斉に行われたのは幸運でしたね。あの会場にいた人はともかく、伝聞情報しかない他会場の方では、アスタさんの異常さがわからないかもしれません」
「異常って」
「充分異常じゃないですか」
「メロやセルエより遥かにマシだと思うけど」
「比較対象がおかしいんですよ、それ」
溜息をつくピトスだった。失礼な。俺は奴らよりずっと真人間である。
都合が悪いので、俺はさらに話題を変えていく。
「トーナメントの組み合わせって、いつ発表されるんだっけ?」
「参加者はもう発表されてるでしょうが、組み合わせは明日ですね。学院側が、予選の結果を見て決めるらしいので」
「そっか。んじゃ明日でいいや」
「いいんですか、そんな適当で……」
「誰と当たっても一緒だし」
ただ、願わくはレヴィと一回戦で当たりたい。
絶対あり得ないと知りつつ、祈らずはいられない俺だった。
普通は、こういうの抽選とかで決めるんじゃないのかね。
「さて、俺は今日はもう帰るわ。ピトスはどうする?」
訊ねると、ピトスは首肯して答えた。
「わたしはこれから、ちょっとレヴィさんに呼ばれているので」
ふと、《様》が《さん》に変わっていることに気がついた。
まあ別に突っ込むことではない、と俺は流して、代わりに別のことを問う。
「そっか。……あと、お礼の件なんだけど、何か考えておいてよ」
「お礼、ですか……?」
「そ。お金で払うのはアレだとしても、それはそれとして、恩は返しておかないと」
安請け合いする俺だった。
まあ、彼女ならそうおかしなことは言わないだろうという信頼ありきだ。
ピトスはしばし考え込むと、それからおずおずと顔を上げて言う。
「……で、ではひとつお願いがあるんですけど。いいですか……?」
「うん。まあ俺にできることならね」
「じゃ、じゃあ……そのっ」
ピトスはなぜか方々へ視線を泳がせて、それから意を決したように言う。
「――あ、明日の午前中、わたしと祭を回ってもらう、っていうのは……?」
俺は答えた。
「うん、わかった」
「……って、それだけですかっ!?」
「それだけって。もちろんメシ代くらいは俺が出すよ。え、それくらいはいいだろ?」
「そうじゃなくて!」ピトスは叫ぶ。「いいんですか? で、デートですよこれ!?」
彼女の言わんとせんことはわかっていた。だが俺は意図的に淡々と答える。
言うまでもなく、ただ見栄を張っているだけだ。
「もちろんわかってるよ。明日くらい、俺も少しは気合入れた服を着ていこう」
「……そ、そんな簡単に頷いちゃっていいんですか?」
「だいたいもう一回やったじゃん。アイリスの服買うとき」
「いや、さすがにわたしとしてもアレをデートに数えるのはなんというか」
「つーか、ピトスこそそんなことでいいのか? 気を使わなくてもいいんだぜ」
「……………………そんなこと、と来ましたかあー……」
奇妙というか絶妙というか珍妙というか。
どうにも表現しづらい、言い知れない表情を作るピトスだった。
「実は、アスタくんって意外とこういうの慣れてます?」
「意外とってなんだよ」俺は苦笑して答えた。「少なくともピトスよりは慣れてるかな」
「……なんか腹立ちますねそれ」
「言うようになったよね、ピトスも」
「アスタくんのせいですよ」
「いや、ピトスが猫被ってただけだろ」
「……むう」
ジト目のピトスに、俺はせいぜい余裕ぶった振りをして笑う。
もっとも、心臓のほうはだいぶ早鐘を打っていた。表情には出さないが、俺だってそれなりに緊張してはいるのだ。
というかそれなりどころではない。
――いやマジで。
慣れてるわけないじゃないですかどうしよう!