3-13『乱入者』
――シルヴィア=リッター。
クラン《銀色鼠》が団長にして、元王国騎士という変わった経歴を持つ女性。
ならず者の集まりである冒険者に、それを取り締まる側の騎士から転身したという前例は少なかった。だから彼女が有名になった背景に、そういった事情が大きく関与していることは事実だ。
加えて言えば若く、そして美しい女性であったこともまた大きい。
見目麗しい冒険者は、それだけで話題の俎上に乗る。シルヴィアでなくとも、たとえばメロが一種の偶像扱いされていることに、その外見が無関係だといえば嘘になるだろう。
だが無論、それだけで名を残せるほど冒険者の世界は甘いものじゃない。
確固たる実力がなければ。
ちょっと外見が整っているくらいで、冒険者として生き残るのは不可能だ。彼女は個人としての武名もさることながら、組織の長としての才能も持ち合わせていた。
シルヴィア個人の評価とはまた別に、銀色鼠は冒険者集団としての名声を確立している。
それがまた翻って、シルヴィア=リッターという冒険者の名声に繋がるわけだ。
彼女は、このオーステリア近辺では間違いなく上位層の実力を持つ魔術師である。
あるいは、この世界全体を見渡しても上位に位置づけるだろうか。
そんな彼女が、一介の学生に決闘を申し込む――。
その話題性たるや、それこそ魔競祭に訪れた観客の興味を一斉に集めるほどである。まして、妹がどうの奪うがなんのと、噂話に華を添える情報まで合わさってはなおさらだ。
この状況で、挑まれた側が彼女の申し出を断るなんてできない。いや、あとのことを考えなければできるかもしれないが、そんな臆病者がどんな目に遭うかなど考えたくもなかった。確実に吊るし上げられる。
果たして、シルヴィアはそこまで計算していたのか。
それはわからないにせよ、少なくとも俺にはこの決闘を受ける以外の選択肢がない。
――最悪だ。
そう言わざるを得なかった。
※
「――どうやら君をご指名のようじゃないか、アスタ後輩」
絶望に打ちひしがれる俺に、横合いから声をかけてくる者があった。
ミュリエル=タウンゼント会長殿だ。
この状況で、俺たちを無視して戦おうという参加者もいない。微妙に小休止の空気が生まれており、ミュリエルも普通にこちらへ近づいてきた。
いかな魔競祭の最中といえど、決闘を行うふたりには配慮する。
それが魔術師の在り方だ。たとえ冒険者といえど、祭の間くらいは盛り上がるほうを支持するだろう。
これは、あくまでも見世物なのだから。
「残念ながら。そのようですね、ミュリエル先輩」
俺は呆れと諦めに彩られた答えを返す。
ミュリエルは苦笑し、けれど他人事だからと愉快そうに言う。
「受けるしかないだろうな。ある意味で幸運じゃないか。これに勝てば、本戦への出場はほぼ決まったようなものだ」
「相手は本職ですよ? そう簡単に勝てるようなら苦労しませんて」
彼女の言葉にそう返す。俺の視点から言えば、このまま何事もなく進んでいれば、それこそ予選突破は決まったようなものだったのだ。
とてもじゃないが、幸運だなどとは思えない事態である。
余計なことをしてくれた、以外に感想がない。
「それにしても、かの銀色鼠の団長と繋がりがあるとはね。メロ=メテオヴェルヌといい、思っていた以上に顔が広いじゃないか」
感心した風に言うミュリエルだったが、やはりなんの慰めにもならない。
あるいは探りでも入れているのか。いずれにせよ、素直に答える気にはならなかった。
「別に繋がりってほどのものはありませんよ。顔見知りって程度です」
「だが君は、彼女の妹を奪ったのだろう? ここで色恋の話とは面白いね」
「やめてください」心底から言う。「誤解どころか、濡れ衣も甚だしい話ですよ」
「だが、彼女はそう言っていただろう? なら周囲にとってはそれが真実だ」
事情を知ってか知らずしてか、おそらくは知らないまま想像で言っているのだろう、ミュリエルは酷く愉快げに言う。
どっちでもいいのだろう。学生会長の彼女からすれば、あるいは自身の試合結果より、祭の盛り上がりのほうが大事なのかもしれない。
俺はまったく笑えないが。決闘を吹っかけられただけでも最悪なのに、そんな阿呆な風評被害まで流布しては本当に堪ったものじゃない。
というか、これが知れたときのフェオの反応が恐ろしかった。
なにせ自分の知らないところで、勝手に自分を巡る争いが勃発したのだから。
ここまで人目のある場所で宣言された以上、多くの噂が彼女の元にも届くだろう。俺が理不尽に責められる様子が目に浮かぶ。
これ、俺に責任はまったくないと思うのだけれど。
「どうした、怖気づいたか! そんな調子では妹は渡せないなあ!!」
ノリノリで演技入るシルヴィアの声。うるせえ黙れ、と心から思う。
どちらかといえば悪役は乱入者のシルヴィアであるはずが、なぜか俺のほうが悪党みたいな空気になっている。
ちょっと待ってくださいよ、いや本当に。
そんな気持ちに、応える観客がいるわけもなく。シルヴィアはさらに調子に乗る。
「来ないのか! 来ないのならばこちらから行くがいいか!?」
俺はキレた。
「だーもう、うるせえ!」ここまで言われては我慢の限界だ。「やりゃあいいんだろ、やりゃあ! あとで謝っても許さねえからなテメエ!」
俺の叫びに、シルヴィアはにやり、と笑みを作って答えた。
「……それでこそだ」
その笑みに悪意がなく、心から嬉しそうに見えたことだけが唯一の救いか。これでしてやったりみたいな笑みをされては、温厚なアスタさんも何するかわからんですよ。
というかこの女、まさか本当に自分が暴れたいというだけで出てきたんじゃあるまいな。
真意を問い質す必要がある。
ともあれ、とりあえず。
「おい、シルヴィア」
「む。なんだ、アスタ=セイエル」
「――素に戻ってんぞ」
その突っ込みくらいはさせてもらおう。
俺たちのやり取りを聞き、周囲の観客から笑いが漏れる。奴らは面白ければなんでもいいという野次馬だ。
せいぜい、俺と同じ恥をかいてもらおうか。
にやり、と笑って告げてやると、さすがにシルヴィアも赤面した。
やっぱり無理していたらしい。
なんというか、うん。この感じは確かにフェオの血縁だ。
本当に面倒臭いな、このぽんこつ姉妹は。
「――行くぞ!」
誤魔化すようにそう叫ぶと、剣を抜いたシルヴィアが向かってくる。
そんな感じの、なんかぐだぐだした雰囲気で戦いは始まった。
※
「――、シッ!」
矢のように駆けてきたシルヴィアは、振り被った剣を大上段から俺に落としてくる。
さすがに速い。全力ではないだろうが、少なくとも、予選の連中では比較にもならない速度と鋭さがある。
普段なら回避を選択する攻撃。とはいえ今は祭で、彼女も本気ではない。
だから俺は、あえて《防御》で障壁を作り、彼女の一撃を受け止める。
エイラ謹製の指環のお陰で、指を軽く振るうだけでルーン文字を描けるのは楽だった。
盾と剣――それが互いを削りあうように火花を散らす。
わずかに盾が押し込まれた。剣の一閃が、下手な攻撃魔術を凌ぐ威力を持つのだから、さすがに近接タイプは厄介だ。
目の前まで訪れたシルヴィアに、俺は小声で疑問を発する。
あえて大声で聞かせなければ、基本的に観客まで声は届かないだろう。
「それで? なんのつもりだよ、団長サマ」
シルヴィアはふっと表情の力を抜いて、やはり小声で答える。
「君に《団長サマ》などと呼ばれてはぞっとしないな。シルヴィアで頼む」
「……俺に喧嘩吹っかけてきた意図は教えてくれるんだろうな? まさか祭に浮かれたからだ、なんて言わせねえぞ」
「おや。《紫煙の記述師》ともあろうものが、私如きの意図も見抜けないとは驚きだな」
煽るように笑うシルヴィア。もちろん、気にするべきはそこじゃない。
――ま、そりゃバレてますわな。
彼女は俺を《紫煙》と呼んだ。あの状況でわからないはずがないし、仮にわからなくてもフェオから教わるだろう。
しかし、それは求めていた回答じゃない。俺は目を細めて問い直す。
「挑発のつもりか? それとも――」
「まさか。言っただろう、私は《七星旅団》に憧れていると」
「…………」
「あの迷宮で見た《日向》の力……かつて憧れたそれとなんら遜色なかった。私は知りたいんだよ。自分が、どれだけ七星旅団に近づけたのかということを」
「……なるほど。俺をその試金石にするつもりだと」
「否定はしない」シルヴィアは笑う。「胸を借りるつもりでいるから、全力で向かってきてほしいところだ」
「本職相手に貸す胸なんてないが……ま、そっちがその気なら、こっちも試し撃ちくらいはさせてもらうさ」
俺もまた笑みで答える。なんだかんだ、俺も祭に浮かされていたのだろう。
不可視の防壁に、俺は追加で印刻を重ねた。
指環を通じて刻んだのは《水》。流動の意味を持つ文字だ。
瞬間、それまでシルヴィアの剣を防ぐ硬度を持っていた防壁が、ぐにゃり――と流体のように形を変えた。軟体化した障壁が、相手を包み込むように広がっていく。
固有術式の流動障壁。敵を捉えれば再度硬化し、相手を逃がさない術である。
力を込めていたシルヴィアは当然、そのまま前のめりにバランスを崩した。
だが彼女とて一流の剣士、その程度で滅多な隙を晒したりはしない。咄嗟に背後へ飛び退り、シルヴィアは流動障壁から逃れた。
さすがの反応だ。
つまり、そうするだろうと思っていた。
着地と同時、彼女は再び、今度は横方向に向かって跳躍する。
今度の回避は、さすがの彼女も精いっぱいだったのだろう。ほとんど転がるようにして、大きく距離を取るシルヴィア。
その彼女が最初に足をつけた地面を、わずかに氷が覆っていた。
二重のトラップが、けれど躱されてしまったらしい。
「くっ……! 嫌らしい術式の多い奴だな!」
「合理的と言ってくれ」
一段目の《水》を回避させ、二段目の《氷》で足を奪う流れ。
――もちろん、それも躱されることはわかっていた。
直後、位置を移動したシルヴィアの頭上に、熱の塊が現れる。
当然だが俺の魔術による攻撃だ。今回の魔競祭で、攻撃のためにルーンを使ったのは初めてだった。
――《太陽》。
強大な力を秘めた文字による、単一のルーンでは特に殺傷性の高い一撃。
真正面から喰らっては、いかなシルヴィアの魔力抵抗でもダメージは免れまい。
とはいえ、これで決まるのなら俺としても困ることはない。
だが相手は新進気鋭の冒険者、シルヴィア=リッター。
元騎士である彼女の剣は――魔の属性さえ断ち斬る特別製であった。
「は。あまり舐めるなよ――!」
一閃。彼女の剣が、目にも留まらぬ速度で熱の塊を両断する。
これには俺も驚きを隠せず、頭の中で彼女の実力を上方修正する。
全力ではないにせよ、今のはそれなりに本気の一撃だろう。
しかし回避ならばともかく、よもや魔術それ自体を叩き斬るとは予想外だ。それは決して楽にできる技術じゃない。
ただの剣術では、いくら鋭かろうが魔術は斬れない。魔術を対消滅させるには、相応の魔力が剣に込められていないと不可能だった。
――冒険者というより、やはり騎士に近いシルヴィアの戦い方。
それは、迷宮の探索よりも一対一の決闘に向いている。
要するにかなり不利だった。
「よくもまあ、次から次へと魔術が出るものだな。それもご丁寧に、回避したその先を狙って。まるで次から次へと罠を踏み抜いているような感覚だ。動きを全て読まれているのは、決していい気持ちじゃないな」
「それを正面から斬り捨てた奴には言われたくないなあ。動きが読めようが、攻撃が通じないんじゃなんの意味もない」
加えて言うなら、別に動きなんてちっとも読んでいない。単に誘導しただけだ。
そのことはシルヴィアも気づいているだろう。
最初の《水》による流動にせよ、次の《氷》を使った地面の冷却にせよ、次に相手が動ける方向にあえて隙を作っただけなのだから。
本命の《太陽》を当てるために。
無論、威力は抑えている。だから正確には、《太陽》に対処している隙を突いて詰める気でいたのだが――さすがに一刀両断じゃどうしようもない。
というか、ぶっちゃけいきなり詰んでいる。
普通に、反動なしに使える印刻魔術として最大威力を持つ《太陽》が、こうもあっさり叩き斬られてしまうとは。
それは翻せば、無抵抗レベルの隙でも作らない限り、シルヴィアに対して通じる攻撃がないという意味である。
もしくは反動覚悟で戦うか、だ。
……今のところは、まだ前者を選ぶつもりでいる。
予選の段階では、切れる手札も制限したい。なんとか手持ちの札だけで、シルヴィアには満足してもらう必要がある。
などと考えている時点で、まだ俺は彼女を舐めていたのだろう。
全力を出そうだなんて、微塵も考えていなかったのだから。
彼女の実力を――ではない。シルヴィアが強いということくらい初めから知っている。
俺が舐めていたのは、シルヴィアの持つ覚悟。彼女がどんな考えを持って、この試合に乱入してきたのかということだった。
シルヴィアが先ほど俺に告げた「舐めるな」という言葉の意味を。
俺は、もう少し考えるべきだったのだろう。
「……情けないな」
と、シルヴィアがふと呟くように零す。俺は一瞬、てっきり自分が罵倒されたのだと思った。
元七星旅団とは思えないほど低い実力に、彼女が彼女が呆れてしまったがゆえの言葉だと思ったのだ。
その上でなお、「やる気をなくしてくれたならラッキーだ」とまで考えてしまっていた。
情けないほどの怠慢だ。
彼女が罵倒したのは、初めから彼女自身だったというのに。
「まさか、これほどまでとは思わなかった」
「……悪かったな。俺はそんなに強いほうじゃ――」
「違う」
シルヴィアは首を振る。
彼女は、どこか悲しげな瞳で俺を見つめていた。
「要は君にとって、私は全力を出すに値する魔術師ではないということなんだろう?」
「……それは」
「いや、わかっているさ。私の実力が及ばないせいならば、それを恨むつもりはない。実際、迷宮では情けないところばかり見せてしまったしな」
――だが、とシルヴィアは首を振る。
その瞳は今、まっすぐに俺を見据えていた。
「理屈ではわかっている。私は七星ほどには強くない。まだ届いていないことくらい知っているさ。それでも――」
それでも。重ねた努力は嘘じゃないはずだから。
「――せめて決闘を挑む、その資格くらいは欲しいじゃないか」
直後。
シルヴィアは、地面に向かって剣をまっすぐ突き立てた。
※
「丘を越えし巡礼者よ! 土に汚れた法衣を纏い、真紅の聖堂へと至れ――!」
剣を突き立てたその体勢で、シルヴィアが言葉を――否、詠唱を発する。
――まずい!
詠唱魔術まで使ってくるとは予想外だ。咄嗟に俺は、自身の前に障壁を生み出す。
そして、ほぼ同時。
シルヴィアの魔術が完成した。
「――圧式結界、《凪の空域》」
直後――試術場の全域が風の圧力に薙ぎ払われた。
衝撃波、とでも呼べばいいだろうか。突き立てた剣から、放射状の魔力波が全方位へ広がっていく。
それは爆風を伴って、試術場の地面の土を掻き乱しながら結界中に広がった。
その勢いに押され、参加者たちが一斉に吹き飛んでいく。魔術による力押しの一撃で、大量の参加者が一気に場外へと押し飛ばされて脱落した。
観客を守る結界が、びりびりと振動するほどの一撃だ。近くにいた参加者は不運だったろう。
「やばい……っ!?」
思わず声が出てしまったことに、俺は口を開いてから気がついた。
この魔競祭で、俺が始めて本気で焦ったのがこのときだ。
無論、参加者たちが吹き飛んだことに焦ったわけじゃない。衝撃波自体も、反射的に防いだ俺には特別の脅威たり得なかった。防御魔術自体は砕け散ったが、俺自身にまで影響はない。
問題は――今まで地面にこっそり刻んでいたルーンが、今の一撃で全てかき消されてしまったことのほうだろう。
広範囲の地面が、風によって砂を巻き上げていたのだから。
地面のルーンなどあっさり消える。
「印刻魔術は、あくまでルーン文字を通じて発動する魔術だ。つまり文字さえ掻き消してしまえば絶対に発動できない」
「…………」
「地面に隠していたのが仇になったな。魔術で刻んだんだ、ただ踏まれるだけでは消えないだろうが、逆に魔力さえ使えば押し流すことも難しくない。そしてルーンは、少し書き換えられるだけで使えないモノに変わってしまうだろう?」
――それが印刻使いの弱点だ。
坦々と語るシルヴィアに、俺は何も答えられないでいた。
図星だったから。
予選の間中、俺は会場の中を歩き回っていた。
そしてときおり戦いながらも、地面にこっそりルーンを仕込んでいたのである。
彼女の誘導に使った《氷》なんかは、初めから罠として仕込んであった魔術だ。そもそも俺が乱戦の中で悠長に構えていたのは、地面に記したルーンを通じて、参加者の位置や行動状況を掴んでいたからに過ぎなかった。
先に文字だけ書いておいて、あとから魔術を起動する。
印刻魔術の致命的な遅さを補うための、それが方策だったわけだ。
おそらく乱入してきたシルヴィアは、それを外から見ていたのだろう。
だから俺の行動に気づいてた。
あるいは中に入ってから、魔術が全て地に足をつけた瞬間に起動していたことへ気がついたか。
いずれにせよ、これでもう罠の類いは全て消された。
――まずい。
これは本気でまずい。俺は心底から戦慄する。
今の俺がシルヴィアに相対するには、最低でもそういった仕込みがなければ不可能だろう。
魔術の威力が出ないという呪いは、それだけで充分に致命的なのだ。
まして相手の実力は本来、呪いのない俺にさえ匹敵し得るレベルなのだから。
「……っ!」
俺は焦りながら、現状を打破する方策を捜した。
仕込みを全て消された以上、俺はこれから全ての魔術を指で書かなければ発動できない。
根っからの近接系戦闘者であるシルヴィア相手に、果たしてそんな悠長な暇が稼げるだろうか――なんて、考えるまでもない。
不可能に決まっている。
先ほどの状況なんて、今と比べれば詰みにはほど遠かっただろう。
詰んだというなら、現状がまさにそれだ。
今このとき斬りかかってこられたら、数秒のうちに俺は負ける。防ぐ魔術が間に合わない。
「これでもまだ、私は君の敵になり得ないのか?」
シルヴィアに問われ、俺は無言で答えた。
その表情には、俺の策を破った喜びなど見当たらない。
むしろ悲しげな色さえ浮かんでいた。
――そうだ。
彼女は初めから言っていた。俺はそれを聞いていたはずだった。
私は敵だと。
今から申し込むのは決闘だと――彼女は最初から言っていたではないか。
それを無視して、つまらない言いわけで誤魔化していたのは俺だ。
本気で戦わんとする彼女の誇りを、ほかでもない、この俺が傷つけてしまっていた。
決闘を挑んできたひとりの魔術師に対し、俺はその心意気を裏切る行為しかしていなかった。
それは、どれほど屈辱的なことだっただろう。
どれほど俺は、失礼な真似をしてしまっていたのだろう。
立場や事情を盾に、「七星と戦いたい」というシルヴィアの気持ちを俺は踏み躙った。
悲しませて当然だろう。
怒らせて当然の行いだった。
――いや。きっと、それさえ違うのだ。
シルヴィアは動かない。ただ俺を倒したいのであれば、今ここで剣を使えば、それで済むはずだったのに。
俺はかつて、彼女とあの焚き火の前で交わした会話を思い出す。
果たして、シルヴィア=リッターは、ただ自身の願望のためだけに決闘を挑む魔術師だろうか。
俺にはそうは思えない。
彼女が動くのなら、それはきっと自分ではない誰かのためのはずだ。
そんな確信が、俺にはあった。
「……やっぱり、これもフェオのためだったわけか?」
問いに、シルヴィアは静かな微笑みを浮かべた。
「あの子は、我が妹ながら頑固だからね。言ったところで、クランを置いて学院に留まったりはしないと思ったんだ」
「…………」
「だから、申しわけないが君を理由にさせてもらおうと思った。私に勝てるくらい強い相手のところなら、学べるところもいっぱいあるだろうからね。――それを学んで帰ってくることこそ、クランのためになるんだって。そう言い聞かせるつもりだったのさ」
「そりゃまた、ずいぶんと遠回しなことをする」
「私は、お姉ちゃんだからね」
ああ、なるほど。俺はようやくのように納得した。
――お姉ちゃんだから。
どんな言葉を尽くすよりも、その理由には強い説得力があった。
俺にも覚えがある。
姉って奴は、どこの誰でも強いものらしい。
俺は静かに苦笑して、答えがわかりきった問いを発する。
「まさかとは思うが、初めから負けるつもりで来たのか?」
「そんなわけがないだろう。これも初めに言ったはずだ、妹を奪っていくのなら、相応の実力を見せてもらおうと」
「そりゃお節介だな。妹大好きかよ、お姉ちゃん」
「君に姉と呼ばれるのはまだ早い」
「そういうつもりで言ったんじゃねえ」
首を傾げるシルヴィアだった。
ちょっと天然入ってるというか、そんなところもフェオに似ている。
そのことが少し嬉しかった。
――俺は、姉には割と優しいのだ。
「煙草、吸ってもいいか?」
だから、俺はそう訊ねる。
今さら謝るつもりはなかった。別に、戦いたくないなら戦いたくないで、それは俺の勝手だからだ。
彼女の乱入に、俺が応える義務なんて存在しない。
それでも応えるべきだと思ったのは、この俺こそがフェオを学院に呼んだ張本人だからだ。
応えるのなら義務ではなく、心意気でこそ応えるべきだ。
応じるのなら言葉ではなく、ただ実力でこそ応じたい。
「ああ。――構わないさ」
果たして、シルヴィアはそう答えた。俺が煙草を手に取ることの意味が、わからないはずがないというのに。
その優しさに甘え、俺は懐から煙草を取り出して口にする。
あえて魔術ではなく、燐寸で火をつけて。
なけなしの魔力を着火になど使えない。使うならシルヴィアに対してだと、そういう意味を込めたつもりだった。
それが、彼女に伝わったかどうかなどわからない。
どうでもいい。
それは、これから先で伝えれば済む。
「待たせて悪いな。仕切り直しさせてもらっていいか?」
「もちろん。私とて魔術師だ、不本意な決着は望むところじゃない」
「その期待に、応えられるといいんだが」
「それはこれから確かめるさ。胸を借りるよ、先輩」
俺は笑った。
「なら少し、俺が魔術を教えてやるよ――後輩」
「――上等っ!!」
瞬間、シルヴィアが爆ぜるように駆け寄ってきた。
※
一瞬で距離を詰めてくるシルヴィア。
凄まじいまでの速度だった。最初の一撃が、いかに力の抑えられたものだったかがわかる。
その一方で、俺はその場から一歩も動かない。
ただ煙草の煙をくゆらせたまま、呟くように俺は言う。
「――《火》」
呟くと同時、俺の目の前に火柱が上がる。不定形の紫煙は、いちいちルーンを刻むより、ずっと素早く文字を成立させる。
シルヴィアの進路を塞ぐように立ち昇った火炎に、堪らず彼女は迂回した。
だが、悪いがその程度の速度は想定内だ。
「――幻想を纏い、世界を把握し、力を生み出し、意志を為す――」
「何……っ!?」
「それが、魔術の第一要件だ」
――つまり。
魔術とは常に予想外のものでなければならない。
「《火》、《火》、《火》、《火》、《火》――」
ルーンを連続で起動する。魔力を通された煙草の煙が、それだけで文字を刻んでいる。
多重印刻。
それは俺の切り札のひとつだった。
同じルーンを重ねることで、ひとつの意味を一気に倍増させる技術。重ねられた《火》は、合わさることで《太陽》の威力さえ超える。
加えて、いかに彼女でも、核を持たない炎そのものはそう簡単に斬れないだろう。
この火力、いかにシルヴィアとて躱し切る以外に道はない。
「まだまだ……っ!」
だが彼女もさるもの。
魔術が発動する直前にはそれを察知し、迸る火炎を躱していく。その速度と正確性は目を瞠るほどで、シルヴィアは徐々に、だが確実にこちらへと近づいていた。
熱に煽られ、加速を重ね、彼女の額には玉のように汗が浮かんでいる。
それでも、ただの一撃さえ受けず、彼女は炎の迷宮を進む。
近づいて――斬る。
それが剣士の為すべきことだ。彼女はただ、その基本法則に従っているだけで強い。
――その道筋が、たとえ俺に誘導されたものだとしても。
「――《野牛》」
続いて起動したルーンは、強大な力の意味を持つ《野牛》のルーン。それは《火》と合わさることで、火炎そのものの火力をさらに倍増させる。
もはや周囲は火の海だった。
地面に、空間に、直接刻み込まれたルーンの炎。生半なことでは消せない火力だ。
「《野牛》、《野牛》、《野牛》、《野牛》、《野牛》――」
多重印刻の乱打。魔術師は、術に名をつけあえて言葉にすることで、その威力を飛躍的に向上させる。俺の場合は、刻むルーンを口に出すことで代用した。
もちろん俺の出力でこんなものを重ねては、身体に来る反動も重大だ。
――どうでもいい知ったことか。
せっかく治った腕の筋肉が、またしてもぶちぶちと切れ始めていることがわかる。
だがもう攻撃を止めるつもりは、ない。
「――あああああああっ!!」
シルヴィアが叫ぶ。彼女の剣に、いつの間にか風が纏わりついていた。
目に見えない空気の流れが、しかし可視化するほどに圧縮された高密度の暴風。まるで彼女の剣そのものが、ひとつの台風であるかのような威力だ。
その暴風を――彼女はこちらへ向かって解き放つ。
周囲を真空にして突き進む風の刃。暴風が志向性を持ち、火炎を掻き消しながらこちらへと向かってくる。
とてもではないが、祭で使うような威力の攻撃じゃないだろう。学生なら余波だけで軽く死ねるレベルの威力がある。
「――薙ぎの、大風――!」
※
――いくらなんでも速すぎる。
それが、シルヴィアの抱いた率直な感想だった。
普通、印刻魔術といえば、その遅さというが大きな弱点のはずだ。
だが今、目の前でアスタ=セイエルが発動する魔術は、どんな魔術と比較してさえ発動が速い――速すぎるほどに速かった。
どれほど簡単な魔術だろうと、今のアスタほどの処理速度は出せない。
シルヴィアは即座にそう悟った。まったくデタラメにも程がある。
遅さで有名な印刻で、この男は剣を振るうより速く魔術を成立させるのだから。
先ほど偉そうに語った《印刻の弱点》という言葉が、今となってはいかに空しいものだったか。
煙草の煙は反則すぎる。
たゆたうだけの不定の煙を、文字だと言い張るなんてデタラメだ。
――これが、紫煙と呼ばれた魔術師の本気か……っ!
実を言えば半信半疑だった。目の前の青年が、本当に《伝説》とまで評される実力者には見えなかった。
今となっては、むしろ自分のほうがアスタを下に見ていたのかもしれない。シルヴィアはそう思った。
だが、彼女は決して絶望していない。
むしろ嬉しいくらいだった。
いつの頃からか憧れた、伝説と呼ばれる七星旅団。
超えるべき、だが超えられない壁の高さを、シルヴィアは喜びこそすれ嘆くことなど考えもしない。
現にこの戦いの中でさえ、自らがまたひとつ成長できたという自覚がある。
薙ぎの大風。今の自分に使える最大威力の攻撃魔術だ。
この技で倒せない相手になんて、シルヴィアは今まで会ったことがない。
――『幻想を纏え』。
それは自身の力を信じろという意味だ。その想いが、魔術を実際に強化すると知っている。
だが祈るだけでは意味がない。それだけでは、現実に力を持つことはできない。
――『世界を把握しろ』。
自身の力がどのような影響を及ぼすのか。何をすれば現状を打破できるのか。
そのことを、理性と理屈で魔術師は把握しなければならない。
――『力を生み出せ』。
そうして判断した事柄を、今度は相応の力で現実に発揮する必要がある。
何を為すべきかわかっていても、それに相当する力がなければ意味はない。
そして今、彼女は自分が放った風の奔流が、今までにない最高の威力を発揮したものだという自覚があった。
――『意志を為せ』。
かつてない最高の一撃だ。
もし迷宮でこれを使えていれば、あの巨大な土人形さえ下せただろう。
これで、この一撃で――自分は七星旅団を超える。
それが自らの《意志》なのだ。
――さあ、どう防ぐ。
と、だがシルヴィアは視線の先で、かつての伝説に期待を込める。
冒険者シルヴィア=リッター最高の一撃は、七星旅団の一員にどれだけ通じるのか――。
それが楽しみでならなかった。倒したいと思う一方で、どう防ぐのか期待に胸が踊っている。
矛盾した、祈りにも似た信仰だった。
――果たして。
視線の先で、紫煙の記述師は片手を軽くこちらに伸ばしていた。
※
「――《運命》」
と、俺は二枚目の切り札を切る。
それは、空白印刻と呼ばれる零番目の特殊な文字。
存在しない文字を刻む、不確定のルーン。その限定用法だ。
あらゆるルーンの中でも特に特別なこの文字。その本来の力を使うことは、今の俺にはできなかった。
だが、わずかにでも引き出せるなら、それで充分だ。
宿す命そのものを司る空白のルーン文字《運命》が、シルヴィアの放った風の斬撃を掻き消した。
そう、その効果は魔力の無効化だ。
この程度の魔術ならば、俺はルーンひとつで掻き消すことができる。
確かに大きな威力の魔術だが、その分だけ術式が荒い。
それだけでは、あの《天災》と同じ名を冠するには不足と言えた。
実を言えば《消す》とはまた意味が違うのだが。
当然、言うまでもなくその反動は身体に思いっ切り返ってくるため、たとえ呪いがなくとも乱用はできない魔術だが――これも切り札。
――《意志》の力。
俺は、少し先に立つ魔術師に、煙草の先端を突きつける。
――いわば、詰みを宣言するように。
冒険者シルヴィア=リッターは、視線の先で、なぜかとても嬉しそうに笑っている。
全身が汗に塗れ、息は荒く上がって。
それでも、その表情に翳りの色は見られなかった。
「……本当にデタラメだな。あの一撃で、一歩動かすことさえできないどころか、魔術そのものを消すなんて」
「…………」
「だが、それでこそ挑戦のし甲斐があるよなあ――」
――案外、悪くない気分だ。
そう呟いて、シルヴィアはそのまま後ろ向きに倒れ込んだ。
仰向けに寝転んだ彼女は、澄んだ快晴の空を見上げて、とても楽しそうにこう呟く。
「あー駄目だなーもう魔力がないなーこれ以上戦えないなーやられたー」
思いっ切り棒読みでシルヴィアは言った。余力が残っているのがバレバレだ。
そもそも、初めから彼女が本気で戦っていれば、負けていたのは俺のほうだろう。
身体的、魔術的な能力値は、ほぼ全て負けていた。
勝てたのはシルヴィアの優しさと、それから煙草様のお陰である。
「……いいのか?」
思わず問うた俺に、彼女はむっと顔を顰めて答えた。
「敗者にこれ以上、鞭を打つな。まったく、この私が気を使って祭を盛り上げたというんだ。君ももう少し空気を読んでくれたっていいだろう」
「ったく……むしろ負けた気分だよ。清々しい顔しやがって。どうしてくれんだ、これから先」
「うるさいなあ、もう降参だ、こーうーさーんー! 妹は貴様に任せたぞー!」
「そんな偉そうな降参、聞いたことねえよ」
「まあまあ。もしかしたら義理のおねえちゃんになるかもしれないんだから――」
「だから何言ってんのお前!?」
「きゃー、負けたのに追い討ちされるぅー」
「キャラを偽るんじゃねえ!」
大根役者が愉快げに笑う。静寂に包まれた会場に、寝転んだシルヴィアの棒読み声が響き渡った。
――ああもう。こういうのはキャラじゃないんだが。
そう思いながらも、まあ、シルヴィアに付き合ってやるくらいはいいだろう。
あくまでも。俺は《姉》には優しいのである。
恥ずかしさを振り払い、俺は意を決して決闘の終わりを周囲に知らしめる。
すなわち――天高く拳を突き上げて、観客に対し勝利のアピールだ。
直後、爆音にも似た歓声が試術場の結界を震わせた。
気づけば結界の中で立っている人間は、いつの間にか四人だけになっている。このあとで、さらにほかの連中と戦うのは骨……というか正直マジでピンチなのだが。
そこはご都合というか、あるいは審判も空気を読んだのか。
予選第六ブロックの試合終了が、からからと鳴る鐘の音で告げられた。
「ミュリエル=タウンゼント、ノキ=トラスト、オブロ=ドゥラン、アスタ=セイエル――以上四名、決勝トーナメント進出!」
審判役の教師の声が、喧騒を切り裂いて俺の予選突破を知らせていた。
どうやらミュリエルとノキも、あのまま予選を通過したらしい。知らない名前がひとつあったが、もうそんなことはどうだっていい。
第六ブロックだけで四人も決勝進出者が出るとなると――これはトーナメントが荒れるなあ。
そんなことを一瞬だけ思って、それからやはりどうでもいい、とかぶりを振った。
本当に疲れた。
まったく割に合っていない。
俺はそのままシルヴィアと同じように、後ろ向きで倒れこんで空に呟く。
「……あー。きっつぅー……!」
魔競祭初日の青空に、俺の泣き言が溶けていった。
※
なお余談として。
その後、俺は魔術の反動で盛大に喀血し、勝ったはずのシルヴィアに背負われて会場をあとにした。
その間抜けさは観客の爆笑を大いに誘ったのだが……繰り返す。
あくまで余談である。




