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セブンスターズの印刻使い  作者: 白河黒船/涼暮皐
第三章 魔競祭事件
62/308

3-10『そして機は熟し』

 はっと覚醒したそのあとに、俺は自分が、自室の寝台ベッドで横たわっているのだと自覚した。

 思わず上体を跳ね起こす。鈍い頭痛が側頭部を揺らしていた。

 寝台ベッドまで戻ったときの記憶がない。

 というか今までの自分が、いったい何をしていたのかということが思い出せなかった。


「――……え、あれぇ……?」


 一瞬、俺はなんらかの魔術による精神干渉を受けたのではないかと疑った。何者かに操られて記憶が飛んだとか、あるいは記憶そのものを消去されたとか。

 その疑念は、けれど隣ですやすや眠るアイリスの姿を見て解消される。

 ひとつの寝台ベッドを分け合って、まるで丸くなる猫のように小さく眠りに就いているアイリス。彼女の無事を確かめると同時に、それまでの記憶が戻り始めてきた。


 俺は昨日、新しい魔術の実験に取り組んだのだ。

 本当は学院の試術場を借りたかったが、さすがに魔競祭前の時期ともなると空きがない。試術場は予約で埋まっていたため、仕方なくオーステリアの城壁外へ出た。

 フェオの力を借りて、新しく思い浮かべた理論を印刻ルーンでどう実行するか考える。

 頭痛が引き始め、並行して徐々に記憶が戻る。

 幾度かの失敗を経たあと、ついに魔術が成立する文字ルーンの組み合わせを見つけたことまでは思い出せた。

 その結果は――さて、成功というべきか、それとも失敗だったのか。


「……なんとも言えないな。とりあえず、そう簡単に使える魔術じゃないのは間違いないけど」

 魔術自体の難易度というよりは、その結果起こる反動のためだ。

 呪いを受けて以来、というか受ける前から、肉体に対する負傷ならば多くあった。嫌な話だが、慣れていると言ってもいい。

 だが、さすがに魂魄そのもの(丶丶丶丶丶丶)反動フィードバックを受けたのは初めての経験だ。予期することができなかった……というか、ちょっとテンション高かったし、たぶん予想していても同じ真似をしていた気はする。

 いずれにせよ失態だ。


 結果として、身体に盛大なるダメージを受けたのだ、俺は。

 それを必死にフェオに隠し通して別れ……そして、以降の記憶が途絶えている。

 自室に戻っているということは、たぶん自力で戻っては来られたっぽい。が、ぶっちゃけ記憶にない。

 たぶん、ほうほうの体で帰宅して、そのまま意識を失ったものと思われる。アイリスはおそらく、そのまま俺の隣で寝たのだろう。

 同衾だ。まあそれはいい。昨夜はちなみに俺は床で寝た。

 ともあれ、問題は新しい魔術のことである。


「……これは、改良の余地ありだなあ。まあ原因はわかってるし、魔競祭までには実用レベルまで持っていきたいところだけど……」

 果たして間に合うかどうか。

 正直、実験のたびに気絶とかやってられない。術式ではなく、あとは制御の問題だと思うのだが……下手したら実戦の中で感覚を掴む以外、対処法がないかもわからない。


 とはいえ、一歩でも前進できたのは事実だった。

 この魔術さえ十全に扱えれば、不完全ながら全盛期の力を取り戻せる。


「なんだろな……なんとも言えない感覚だ」

 俺は生きるために魔術を覚えた。俺がこの世界で生きていくために、必要不可欠な技術だったからだ。

 俺は強くなりたかったのでも、魔術を使いたかったのでもない。

 いや、確かにそう思ってはいたが、それはあくまで目的ではなく過程だ。

 俺は――ただ純粋に死にたくなかったのだ。


 でも、それでも思い出すことはある。

 俺が始めて印刻ルーン魔術を完成させたときのことだ。

 昨日使ったような、煙草に火を灯す程度が精いっぱいの小火みたいな魔術。戦いになんてとても使えない、ちゃちな初級の魔術だった。

 それでも――嬉しかったと、そう思ったのだ。

 そんな気持ちを、俺はいつの間にか忘れていたのかもしれない。


「なんて、思ってみたりしてな」

 誰にともなく茶化すように、俺は独り言ちて笑う。

 その声に起こされた、というわけではないだろうが、そのときタイミングよくアイリスが目を覚ますのがわかった。

「ん――」

「おはよう、アイリス。よく眠れたか?」

 ぱちぱちと目を瞬きながら、アイリスは俺を無言で見上げた。基本的に返答レスポンスの早い彼女にしては、珍しく答えが返ってこない。

 ふと首を傾げると、そこでようやくアイリスは俺に向かって小さな声で訊く。

「もう、だい……じょぶ?」

「え……?」

「からだ……なお、った?」

 どうやら、アイリスに心配をかけてしまっていたらしい。


 ――ああもう。本当に、どうして俺はこうなのか。

 思えば、この遠慮がちな少女が、自ら寝台ベッドに潜り込んでくるわけがない。たとえ俺が気絶していたところで、アイリスは俺に遠慮をしただろう。

 昨日、どちらが寝台ベッドを使うかでひと悶着あったのだ。

 それでも同じ毛布の中に入ったのは――彼女が俺を心配していてくれたからだ。

 俺が、この少女に心配をかけてしまったからだ。


「ごめん、もう大丈夫。ありがとな、ずっとついててくれたんだ?」

 くしゃり、と俺はアイリスの髪を軽く撫でる。

 この愛らしい少女に、無用な心配をかけたことを恥じた。

「……ん」俺が元通りだと判断したからだろう、アイリスは表情を柔らかくして頷く。「なら……よかった」

「心配かけたね」

「ん。しんぱい、した」

「ごめん」

「ん。だいじょぶ」

「そっか。……ありがとう」

「ん」

「ん」

 言葉少なに頷く少女の頭を、俺は気持ち強めに撫でた。

 アイリスは嫌がる素振りもなく、少しくすぐったそうに、それでいてどこか嬉しそうに受け入れてくれている。それはきっと、俺の勘違いじゃないんだろう。

 ――我ながら、どうしてここまで彼女に信頼されているのやら。

 正直ちっともわからないが、かといって、そんなアイリスの気持ちを裏切る真似だけはしたくない。


 ……そろそろ。

 いい加減、俺たちは会話をするべきなのだろう。


「――なあ。アイリス」


 俺は彼女の名前を呼ぶ。

 俺がつけた、その名前を。


「ん?」

「ちょっと、話をしようか」

「おはなし?」

「ああ」


 これまでしなかった話を。

 これから、きっとするべきであろう話を。


「アイリスは、マイアに拾われたって言ってたな」

「うん。ひろわれた」

「じゃあ」


 ならば。彼女に拾われるより以前は。


「――それまではいったい、どこで何をしてたんだ?」



     ※



 それから数十分後。

 ちょっとした事件が起こっていた。


「――な。な……なっ……!?」


 目を丸くして、声を震わすひとりの少女。

 朝の治療に来てくれたピトスが、始めて早々、驚きに口を丸くしたのだ。


「なんで昨日より悪化してるんですか身体がぁっ!?」


 もはや雄叫びに近い声を上げるピトス。

 なんていうか、うん……本当に申しわけない。


「信っじられません! 普通、怪我が治るまで安静にしてようとか思いませんかね!?」

「いや、あの……別に腕は悪化してないと思うんだけど」

「そういう問題じゃありません! ほかのところ悪くしてたら意味ないですよねっ!?」

「……仰る通りで」

「腕折ったわたしが言うのもなんですが、でも主治医としてあえて言わせてもらいますよ! あり得ませんっ! 私が治療してる意味ないじゃないですかっ!!」

「ご、ごめんなさい……」


 さすがに治癒魔術師だけはある、というべきか。

 ピトスはあっさり、俺の身体の不調に気づいていた。

 そして盛大に怒られた。


「まったくもう、まったくもうですよ! アスタくんは自分の身体をないがしろにしすぎです。もうちょっと自分の身体を労わってください」

「そ、それはピトスも同じじゃ……」

「は?」

「――……」こわっ!

 背筋を寒気が駆け抜ける。目の輝きが消えてますよ、ピトスさん。

「今、ここで、わたしのことが、関係、あります、か?」

「……すみませんないですごめんなさい」

「今、わたしは、アスタくんの身体の話をしています。いいですね?」

「あー。いや、えっと、俺もまさかこんなことになるとは……」

「より悪いじゃないですか! なんですか馬鹿なんですか被虐趣味なんですかマゾですかっ」

「あの」

「言い訳しないで黙って聞く!」

「はいすみません!」


 マジおこピトスさんだった。

 全面的に俺が悪い以上、何ひとつ言い返せない。

 とはいえ。


「言っても聞かないのはなんとなくわかりましたけど、それでも、もう少しでいいですから、自分を大切にしてください……」

 ピトスは怒りの表情を収め、むしろ縋るようにそんなことを言った。

 ふと視線を落とせば、俺の腕に触れる彼女の手が、小刻みに震えているのがわかる。

 俺は、彼女にも心配をかけてしまっていた。

「……ごめん。本当に悪かった」

「本当です。アスタくんひとりの体じゃないんですからね」

「そう、だな……」

「わたしの身体でもあるんですからね」

「……あれ、そうだっけ?」

「患者の身体は主治医の所有物です」

「とんでもないこと言うね」

 俺は苦笑。だが、今日はもう反論できない。

 頭を下げて、俺は告げる。


「もう極力こんなことはしない。約束するから」

「絶対――とは、言ってくれないんですね」

「…………」

 答えられなかった。

 ピトスは俺から手を離して言う。

「いいです別にもう。わかってたことですし。幸い、そう大事には至らないと思います。今日の治療でついでに治しちゃいましょう。腕のほうも経過はいいですから」

「……ほんとごめん。ありがとう」

「いえ。ですが、肉体そとがわではなく魂魄うちがわの傷は、目に見えないところで響いてきますからね。注意はしてください」

「ん、すまん」


 ピトスの言う全てに肯定で返事をする。

 彼女もようやく、いくぶんか怒りを収めてくれたようだ。

 少し微笑んで、からかうようにピトスは言う。


「まったく、アスタくんは女泣かせですね」

「お、女泣かせって……」

「アイリスちゃん泣かせるつもりですか」

「……自重します」

「よろしい」


 医者せんせいらしく言うピトスだった。


「――では、治療しますので服を脱いでください」

「え」



     ※



 それから。俺の全身を、思う様まさぐって(誇張表現)から、ピトスは元気に帰っていった。

 なんだろう。なんとなく、俺の筋肉に触れているときのピトスは鼻息が荒かった気がするのだが。

 もしかすると、彼女は筋肉フェチなのかもしれない。

 俺もそれなりに鍛えてはいるし、ピトスもあれで実力派の格闘系魔術師だ。そちらへの造詣は深いだろう。

 ……まあ、深くは考えないことにする。


 ピトスが帰ったあとは、アイリスを連れて《オセル》に向かった。

 朝食をあの店で頂こうと思ったのもひとつの理由だが、もうひとつ、俺には考えていることがある。

 それについて、ある提案を珈琲屋に打診してみようと思ったのだ。


「――らっしゃせー」


 オセルの扉を潜ると、幼女店員のモカちゃんが、普段通りの気だるげな様子で言った。

 接客業がこんなんでいいのだろうか、と少し疑問には思うのだが、案外ウケているらしいので特に突っ込まない。

 俺としても別に、可愛らしいと思うくらいだった。


「あ。アイリスちゃんだー。あと煙草屋のヒト」

「あとってなんだ。それと煙草屋じゃねえ」

「わ。ホントに『煙草屋じゃねえ』って言った。レンが言ってたとーりだねー」

「…………」

 まあいいや。特に追求はしないでおく。

 一応、仕事はきちんとする少女だ。モカちゃんに案内され、俺とアイリスはカウンターの席に向かう。

 眼帯の珈琲屋は、今日も今日とて異世界でカップを磨いていた。


「珍しいな、二日続けてくるなんて。何か用か?」


 少し驚いた風に珈琲屋が言う。

 店に来るだけで驚かれるのも意味不明だが、さすがに察しはいい。

 話が早いのは嫌いじゃなかった。

 とはいえ、店に来た以上はまず注文するのが礼儀だろう。


「とりあえずモーニングひとつ。あとアイリスになんか美味いもの」

「なんか美味いものってなんだよ……」

 呆れる珈琲屋だった。

 一応、こいつに任せておけば問題ない、という信頼の表れのつもりだったのだが。

 伝わらないものだ。

 珈琲屋は、きちんとアイリスに向けて訊ねた。


「何が食べたい、アイリスちゃんは?」

「ん」少女はちら、と俺を見上げてから言う。「アスタと、同じのがいい」

「聞いた? 超可愛くないウチの子?」

 珈琲屋は俺の言葉を完全に無視して言った。


「それじゃモーニングのセットを、子ども向けの量で作ろうか」

「……ああ、うん。それで頼む」



     ※



「――で、何か俺に話か?」


 食後、コーヒーを飲んでいるところで、珈琲屋が俺に向けて問うた。

 相変わらず腹立たしい美味さのコーヒーに気をよくしながら、俺は珈琲屋に告げる。


「ああ。実はちょっと相談、っつーか提案? みたいなのがあって」

「……それはまた、あまりいい予感のしない切り出しだな」

「いや、悪い話じゃないと思うぜ」コーヒーをひと口啜り、それから続ける。「今度、学院で魔競祭をやるのは知ってるだろ?」

「あ? ああ、まあそりゃ、この街の一大イベントだし。俺も見るのは初めてだが」

「そう、この街きっての大イベントだ。集客もそれなりに見込める」

「……なんの話だ?」


 怪訝な表情をする珈琲屋。

 俺も、あまり遠回しに表現するのは好まない。

 端的に結論から述べる。


「――祭で出店でみせをやろうぜ」


 珈琲屋の反応は、やはり失礼極まりないものだった。


「は? 何言ってんだ、お前?」

「……まあ聞け。いいか、魔競祭の舞台になる広間の周りにだな、もちろん申請すればだが、いろいろと店を出店できるんだよ」

「へえ……それは知らなかったな。学院の中で商売ができるのか」

 驚く珈琲屋。割と珍しい反応を見られた気がする。

 こいつも店を出してまだ一年経ってない。だから知らなかったのだろう。

「ああ。年に一回、魔競祭の期間中だけな」

「なるほど。そこに出店しろと?」

「そういうことだ。オセルの出張店舗を、学院の中で出さないか、っていう提案だ」

「……見返りは?」

 話の早い珈琲屋である。

 この俺が完全な善意から言っている、わけがないことを理解している。

 さて、まずは吹っかけていこう。


「んじゃ、売り上げの半分でどうだ?」

「ふざけんなボケ。お前が何するっつーんだよ、出せて一割だ」


 当然、ばっさりと断る珈琲屋。とはいえ、一発で切り捨てなかったということは、奴も乗り気だということだ。

 俺は、こいつがどうして珈琲屋をやっているのかは知っている。

 コイツの目的は、この世界に広くコーヒーを飲む文化を広めることだった。そのために店まで出している、そういう変わり者なのだ。

 学院に出店できれば、この店の知名度は大きく跳ね上がる。軽食も扱っている喫茶店だからこそ、出店という形態にも対応可能だろう。


 この街で商売を行う以上、その客層において冒険者と学生が占める割合は大きい。

 そして魔競祭は、その両者が同時に集まる大イベントである。

 奴とて、この祭に参加できる魅力はわかっているだろう。売れる自信もあるはずだ。


「多少の繋がりがないと、学院内に店は出せないぜ? ――四割」

「ウチにだってひとり、学院生のバイトがいる。――二割」

「俺は教師や学院長の孫とコネがあるからな。いちばんいい立地を用意できるぜ? ――三割」

「だからって結局、商品を用意するのも、実際に売るのも俺たちだろうが。――二割五分」

「あ、じゃあそれで」

「いいのかよ!」


 普通に突っ込む珈琲屋だった。地球人ノリである。

 もちろん、そこで追及の手を緩めるほど珈琲屋も馬鹿じゃない。


「何が目的だ? 金じゃないんだろ?」

「いやまあ、実は金も普通に欲しいけどな。ただそれ以上に、俺が試合に出ている間、アイリスを預かっててほしいってのが大きい」

 俺も、だから腹を割って話す。

 魔競祭の間は、俺もあまり手が空かなくなるだろう。かといって、頼れる人間が思いつかないのだ。

 知り合いは軒並み魔競祭に出場するし、セルエも当日は忙しいだろう。メロに至っては今どこで何をしているのかさえわからない。

「当日はこの子も売り子として働くって言ってるし。人手になるぜ」

「ん。がんばる」

 ぐっ、と小さなガッツポーズを作るアイリス。

 モカちゃんと話して以来、接客の仕事に興味が湧いたらしい。


「……なるほど。それが目的か」


 珈琲屋は『それ』の部分を強調して呟く。

 こいつは頭の回転が、たぶん俺よりもずっと早い。だから、俺が言外に込めさえしなかった、裏の意図にまで気づいたのだろう。

 本当に、引くほど察しのいい奴だ。

 もしコイツが本気で魔術師の道を歩んでいたら、きっと俺より上の冒険者になれたと思う。魔術師に大事なのは知性と幻想だ。

 もちろん、珈琲屋が店をやめるつもりがないことは知っている。だからこれは、あり得ない仮定イフの話でしかない。

 やがて、珈琲屋は嘆息するように頷いた。


「わかった、その条件で手を打ってやる。どうすればいい?」

「手続きは俺がやっておく。屋台も学院のほうで枠組みは用意してもらえるから、ほかに必要なものだけ手配しておいてくれればいい。もちろん商品関係は全部任せる。好きにやってくれ」

「ま、俺にとってもメリットはある話だからな。それでいいってことにしとく」

「礼は言わんぞ」

「言われたら引くわ」


 ――自分で言うのもどうかとは思うが。

 それにしても、この異世界で唯一の同郷とは思えない関係の俺たちだ。

 俺にとっての珈琲屋も、たぶんその逆も。互いに、どんな関係なのかを一概に言えない間柄だと思う。

 ヒトとヒトとの関係なんて、初めから全て、そんなのものなのかもしれないが。


「……それにしても。お前がこんなことを言い出すとはな。正直、予想外だったよ」


 ふと、珈琲屋が呟くように言った。

 どんな感情からの言葉なのか、それはわからない。

 ただ坦々と、話しかけるというよりは、思いを吐き出すように珈琲屋は零す。


「お前はもう、自分の脚で立たないんじゃないかと思ってた」

「……なんだよ急に」

「別に。まあ同郷の、年上からの老婆心だと思って聞けよ」

「老婆心って」

 つーか、やっぱ年上だったのか。

 そんな認識を得ながら問う。

「……何?」

「いや、お前ほら、腑抜けだろ」

「いきなり罵倒かよオイ」

「聞け。お前はきっと俺より大変だったんだろう。詳しくは知らないし、聞く気もない。だが俺は異世界に来ても、そんなに苦労しなかった。周りに助けてもらったからな。でもお前はそうじゃなかったんだろうってことは、まあ、わかるつもりだ」

「急にどうしたんだよ。俺だって、いろんなヒトに助けてもらってきたさ」

「でも結局は、自分の力で生きてきた。言葉を覚えて、魔術を覚えて――戦い方を覚えて生きてきたんだろう」

「……そうでもしなきゃ、生きてこられなかっただけだ」

「かもしれない。でもな、それでも普通はできねえんだよ、そんなこと。漫画や小説の主人公じゃないんだから。いいか、よく聞け。――普通はできない(丶丶丶丶丶丶丶)んだ」

「ヒトを異常みたいに言いやがって……」

「異常だよお前は」

「――――」

「ぜんぜん普通じゃない。どこを取っても明らかに異常だ」


 ――考えてみろ、と珈琲屋は言う。


「平和な地球に住んでた人間が、いきなり異世界に投げ出されて。剣と魔法(ファンタジー)の世界、なんて言えば聞こえはいいが、それは言い換えれば常に命の危険が隣り合わせにある世界って意味なんだぜ? そんなところで――普通の人間(丶丶丶丶丶)が生きていけるわけないんだよ」


 俺は。

 何も答えられない。


「お前さ、ネット小説とか読んだことないか? 異世界に転生した主人公たちは、だいたいなんかのチート能力みたいなモノ貰ったりするだろ。すげえ魔力だとか、とんでもない能力だとか。それで最強になるだろ。なんでだかわかるか?」

「……………………」

「――さもなければ死ぬからだ。特別な話じゃない。当たり前のことなんだよ」


 仮に異世界ではなく、たとえば地球の、今まさに紛争を行っている国に投げ出されたとしよう。

 異世界転移とは、つまりそういう(丶丶丶丶)ものなのだ。

 流れ弾で。出会い頭の危機で。不慮の事故で。他者の悪意で。

 ヒトは簡単に、呆気ないほど普通に(丶丶丶)死ぬ。

 能力がなければ。あるいは才能が、運がなければ。

 そう、珈琲屋は語っている。


「異世界に来て、魔術を覚えて伝説の冒険者になりました。なるほど聞こえはいい、素直に格好いいと思うし、俺はお前を尊敬するよ。でもさ、それ、こう言い換えてみたらどうだ? 《紛争地帯に投げ出されましたが、訓練して最強の兵士になって生き延びました》――なんだよ、その三流の脚本シナリオは、って。聞いた奴はみんな笑うと思わないか? ……でもお前はそれ(丶丶)だよ、煙草屋」


 煙草屋じゃねえよ。

 と、お決まりの返答をするには虚しすぎる。


「別に、俺は運命論者ってわけじゃないけどな。でも、少しくらい考えたほうがいい。少しくらいは自覚したほうがいいと思うぞ。自分が普通じゃないことを。自分の境遇がどれだけ異常かってことを」

「……言いたい放題かよ」

「他人ごとだからな。お前こそ、開き直るなら早めにしておけ。お前みたいな異常な奴が、真っ当に生きられるだなんて間違っても思うな。お前の運命はそんなところにない」


 ――でなければ、お前は死ぬだけだ。


 珈琲屋は、そんな風に告げて言葉を切った。言いたいだけ言って、それ以上には何も言わない。

 それで珈琲屋の話は終わりだったのだろう。

 だからようやく、俺も重い口を開くことができた。


「どうも。ありがたい御高説だったよ、先輩」

「異世界に関しちゃ、お前のほうがむしろ先輩だろう。別に説教したつもりはねえよ」

「そうか? その割には立て板に水だったが。お前、珈琲屋を廃業して、占い師にでもなったらどうだ」

「生憎とその予定はないな。占い師は未来を見る人間だろう。俺が見れんのは過去くらいのものだ」

「……いや。意味わかんねえよ、厨二病」

「言ってろよ、魔術師」


 ――は。と笑って、俺はコーヒーの残りを喉に流し込む。

 いつもより、その味は苦いような気がしていた。



     ※



 オーステリア外。城壁を抜けて、ひとりの魔術師が街を去るように走っていた。

 粗末な外套ローブに身を包む男だ。その息は荒く乱れ、駆ける脚は今にももつれそうなほど力がない。

 逃げているのだ。

 自らを狙い来る追っ手から、彼は今、文字通り命懸けで逃亡している。


 ――しくじった。という自覚が男にはあった。

 予想していなかったのだ。

 まさかこの街に、あんな冒険者バケモノが滞在しているだなんて、予想できるはずがない。


「クソ……ッ! クソ、クソ、ふざけやがって……!」


 男は目に涙を溜めて呻く。すでに城門は遠く、もう一キロ以上を離れている。背後に追っ手の姿も見えない。

 にもかかわらず、男に安堵する様子はまるでなかった。


 ――楽な仕事のはずだった。

 今、この街の警備は酷く手薄だ。なんとかという祭が近く、浮かれきったオーステリアはその門戸を広く開いている。

 見学の旅行者や、機に敏い商人が多く街を訪れるためだ。

 元より出入りの激しい街だが、彼のようなお尋ね者でさえ簡単に侵入できるのは、さすがに祭の前後くらいだろう。


 金持ち相手の、ちゃちな窃盗を繰り返していた男だ。

 自分自身、チンケなコソ泥だという自覚がある。

 それでも彼は、盗人なりにそれなりの矜持を持って生きていた。

 だからこそ仕事は選んでいたのだが、金に目が眩んだのがそもそもの間違いだったのだ。

 ――オーステリアの街に入り、学院の様子を探ってくる。

 与えられた仕事はたったそれだけ。誰にでもできる、ガキのお使いのような仕事だったのに、その報酬はしばらく遊んで暮らせるほど高額だった。


 だが。美味い話には裏がある。

 そんなこと、理解できていたはずなのに――。


「――づっ!?」


 突如、男はバランスを崩して前のめりに転倒する。

 ついに脚がもつれたのだろう。盗人はしたたかに地面で身体を打つ。

 なんという無様か。恐怖のあまり、走ることにすら失敗するなんて。

 自身を罵倒し、そして追っ手と依頼主を同時に呪いながら、男は立ち上がろうとする。


 そして――それができなかった。


「あ……?」


 脚に力が入らない。まるで脚がなくなってしまったかのように。

 思わず男は自らの下半身に視線を落とす。


 だが、そこにはただ、赤い水溜りが広がっているだけ。


 胴から下が――消失している。

 ないのだ。脚が。両方。今の彼には腰から上しか身体がない。


「なんだよ……どこだよ脚……、――がふっ!?」


 口から、何か赤いモノが盛大に零れ落ちた。でもそんなことはどうでもいい。

 脚だ。脚はどこに消えた。脚がないと走れないし脚がないと逃げられないし脚がないと脚脚脚脚脚――。


「――いや、とんでもないですね本当に」


 ふと気づけば。

 目の前に、ひとりの男が立っていた。

 先日、彼に依頼を持ち込んだ、枯れ草色の外套ローブを纏った男だ。

 枯れ草色の彼は、血溜まりに倒れる死体おとこになど目もくれず、オーステリアの城壁の方角を見据えている。

 何を悠長な。

 男は、助けを求めようと声を発する。


「あ、だず――ぶ」

「この距離から、これですか。いや、さすがは《魔弾の海》。魔術師最強の看板に偽りはありませんね。……これだから旅団の化物どもは嫌いなんです」

「げ――あっ、だずげ――」

「さて、報告書だけは一応、今のうちに回収させてもらいます。早く逃げないと、こちらまで殺されてしまいますからね」


 枯れ草色の男は、盗人の上半身をから一枚の紙片を取り出す。


「ま、こうなった以上はもう役に立たないかもしれませんが――念のためです。ご苦労でした」

「――待っ……だ、だず――」

「すみません」


 男は、慈愛に満ちた表情で微笑んだ。

 ――助けてくれるのだろうか。

 そんな期待を抱いた盗人は、けれど直後に絶望さえなく絶命する。


「痛みがないのは、もう死んでいるからですかね。いや、お見事な手際です。お陰で手間が省けましたよ」

「あ――え……?」

「というか、先ほどから何を言っているんですかね、貴方は。《魔弾の海》に比べ、なんと貴方の生き汚く醜いことか」


 枯れ草色の男が、ふっと片足を宙に上げる。


「――ぶつぶつと煩わしい。死体の言語なんざ知りませんよ」


 ぶちゃり、と。

 肉塊の、踏み潰される音が響いた。



     ※



 ――それから、およそ十日ののち。

 機は熟し、それぞれが思惑を浮かべるオーステリアの街において。


 陰謀に彩られた魔競祭が、高らかに始まりの鐘を告げる――。

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