3-09『魔術講義Ⅱ』
「――で、なんの本を読んでたの?」
ひと通り俺を苛めて満足したのか、あっさりとフェオはそう言った。
俺としては憤懣やる方ないというか、いや本当にもうどこへこの思いを向けるべきなのやら。
結局、感情の矛先を見つけることができず、諦めて俺はこう答えた。
「机の上にあるの見ればわかるだろ。それだよ」
「いじわるな答え方するなあ。ごめんってば」
「……別に。ただ、タラスで俺たちに噛みついてきたフェオにしては、なんかずいぶんなことを言ってくれたものだと思うだけで……」
「それは忘れてよっ!」
瞬間、顔を真っ赤に沸騰させるフェオ。彼女にとって、あれは黒歴史であったらしい。
思い返せば、俺の周りにはいきなり喧嘩を売ってくる奴が多いものだ。ウェリウス然り、シャル然り。レヴィもメロもそうだったし、あとマイアやセルエとも殴り合ったことが……。
「あれ?」
よく考えると俺、たいていの知人と一回はどつき合っている気がする。初対面ではなかったにせよ、ピトスとも迷宮でやり合っているし。
……どうして俺の周りはこう、血の気が多い奴ばかりなのか。
それと比べれば、まだしもフェオなんて問題じゃなかったという気になる。
「悪かったよ。そうだな、お前なんてぜんぜん可愛いほうだよ」
「可愛いって……褒められてる気がしないんだけど」
「いやいや本当だって。そうだよな、フェオはちょっと気を張ってただけだもんな、本心じゃなかったんだもんな。ただクランを守ろうと思って、少しはしゃいじゃっただけだもんな。うん、わかってるよ」
「その言い方やめてくれない!?」
べしべし、と肩を叩かれてしまう。その程度で済むことに、むしろ安心している自分が怖い。
傍若無人な変人たちに、なんだか俺もちょっと毒されていた。反省だ。
顔を赤くして怒る、そんなフェオの反応は素直に可愛らしいと思っていた。
初対面のとき、あれだけ噛みつかれてなお、ちっとも怒る気にならなかった理由。それが今さらのように理解できる。
自分のためではなく。彼女の向けてくる感情が全て、クランを守らんとする気持ちから出ていたからなのだろう。
――要するに。
俺はこの、不器用で一生懸命な少女のことが、どうしても嫌いにはなれないのだ。
いや、かといってからかうのをやめることはしないけれど。
だって面白いから。
「最悪。もう、アスタの癖に……人がせっかく……もう、もうっ!」
感情を剥き出しに、唇を尖らせてぷりぷり怒る少女。
腹に一物抱えた奴ばかりが多い中で、ここにいる年下の少女たちは、俺にとって一種の清涼剤のように感じられていた。どうにも新鮮なのだ。
「だいたい何これ! こんなに強くなかったじゃん! 誰のこと、これ!?」
書の記述を指差して、憤りながらフェオは言う。
まあ、この本に書かれている内容が間違いばかりなのは事実だった。
「それは俺も同じように思うなあ」
「だいたい、なんで印刻魔術なワケ? そんなマイナーな」
「もうお前は何に怒ってるんだよ……」
よくわからないところに噛みつかれて、思わず苦笑してしまう。
なんで、と訊かれたところで、答えはひとつだ。
「印刻しか扱えなかったからだよ」
「……? どういうこと?」
俺の答えに、フェオは怒りを静めて首を傾げる。
素直というか、ここまでくるとちょっと単純すぎるかもしれない。
ともあれ、俺は説明を続ける。
「言葉通りだよ。俺は、印刻魔術以外の魔術が一切、何ひとつ使えない」
「は……はあ!? そんなわけ――」
「あるんだよ、それが」
彼女が困惑する通り、本来ならそういったことはあり得ないのだ。いったいなぜなのかは俺にもわからなかった。
別段、今となっては気にするほどのことでもない。
ほかの才能が一切ない代わりに、こと印刻に関しては高い適性を持っているのだから。
喜びこそすれ、嘆く理由はないだろう。
曲がりなりにも俺が若いうちから冒険者として生きてこられたのは、印刻という、それだけなら負けない《絶対》を持っていたからにほかならない。
「ま、それで実際に通用したわけだから」騙し騙しだとしても。「別にいいんだよ」
「……そもそも、印刻魔術っていったいどんな魔術なの?」
フェオが首を傾げ、根本的なところを問うてきた。
この超絶マイナーな魔術は、確かに扱える術者がほとんどいない。当然といえば、だから当然の疑問ではあるのだろう。
……ふむ。
仮にも学院の先輩になったのだ。後進に、ちょっと魔術の講義をしてやってもいいかもしれない。
迷宮の中でも一度、彼女には魔術の説明をしたことはあった。
今回はその続き――印刻魔術講座といこう。
俺はフェオに向き直って告げる。
「それじゃ、ちょっとついて来てくれ」
「――はい?」
※
といっても、単に図書室の外へと出ただけ。
実際に使ってみせるほうが教えやすいと考えただけだ。
図書室から出たのは一応の配慮である。さすがに室内で魔術を使う気はない。
ちなみにアイリスは、読書に夢中なので置いてきた。
「――それで。フェオは印刻魔術について、どこまで知ってるんだ?」
訊ねると、フェオはあっさりこう答える。
「ルーン文字を書いて、それで発動する魔術だってこと」
「ああ。要するに何も知らないと」
「……うるさいな」
耳を赤くして視線を逸らすフェオだった。別に恥じらうことなどないと思うのだが。
こんな廃れきった魔術、知らないほうがむしろ普通なくらいだ。
「ま、基本的にはあってるよ。ただし違う」
「何それ。どういうこと?」
「印刻とほかの魔術、その最大の違いは、術式を構築する必要がない、という点なんだよ。なぜならルーン文字そのものが、ひとつの術式として機能するから」
「……?」
理解できていない様子のフェオ。俺は噛み砕いて説明する。
「通常、魔術の発動に必要なのは《魔力》と《術式》のふたつだ。前者は魔術そのものを発動するために使う要素あり、発動にも維持にも、術式の構築にも影響する。どんな魔術だろうと、魔力がなければ絶対に発動しない」
「……うん。それはわかるけど」
「で、術式だけど、これは《どんな魔術であるか》を指定するものだ。いわば《命令書》だね。術式による指定がなければ、魔力は単なる力の塊でしかない。ここまでが基本」
術式には様々な種類がある。
いちばん単純なのは想像そのもの。《こういう魔術を発動する》という考えそれ自体を再現する手法で、何より速度に優れているのが特徴だ。なにせ《思う》だけでいいのだから、ほかの術式に比べて格段に速く魔術を発動できる。
理論上、どのような魔術でも《完全なる想像》さえあれば発動できると言われている。だが、人間の想像力には限界があるし、粗も多い。発動する魔術に対する深い理解がなければ思考だけで発動することは難しく、それゆえ基礎にして奥義とも呼ばれる術式だった。
そのほか、術式の有名どころは《詠唱》や《儀式》だろう。
前者は呪文を口にすることで、後者は特定の場所や行為に左右された魔術が発動できる。口にする言葉や行為それ自体が、どういう魔術であるのかを指定する意味合いを持っているのだ。
当然、思考発動より速度は落ちる。だが代わりに確実で精度が高く、より強い力を持った魔術を完成させやすいのが特徴だろう。
それ以外は固有の術式が多いだろうか。《術式の編み方》によって定義される魔術も中には多い。《儀式魔術》なんかは、まあ文字通りの意味だろう。
物体の形に意味を持たせる《錬金魔術》や、数字に意味を持たせて発動する《数秘魔術》、またはそれらの複合解釈による《混沌魔術》などが例になる。
そして《印刻魔術》は当然、印し刻んだルーン文字が術式となる。
「ここで重要なのは、ほかの魔術が自分で術式を作るものであるのに対し、印刻魔術は文字自体が術式であるってとこ」
ルーン文字は、初めから文字自体が意味を持っている。
それは、そのものがすでに魔術の術式として成立しているということだ。
「勘違いされがちではあるけどね。印刻魔術で重要なのは文字を《書く》ことそのものじゃなくて、むしろ書いた文字をどう《読む》のか――どう解釈するのかってほうなんだ」
「……いまいち、言ってる意味がよくわからないんだけど」
「だろうね。俺も最初は意味不明だった。だから、具体的に実例を出そう」
言って、俺は地面に指で文字を刻む。
記したルーンは《火》。形としては、アルファベットの《K》に似ている。
「これはカノ――火のルーンだ。ルーン文字には形ごとに意味があって、これは燃え盛る松明の炎を意味している」
「ふうん……文字ごとに意味がいろいろあるんだね。それを覚えてないとルーンは使えないんだ?」
「もちろん。でも見ての通り、それだけじゃまだスタート地点にさえ至らない。ただルーン文字を書いただけじゃ、魔術は起動しないからね。なんでだかわかる?」
「魔力を通してないからじゃないの?」
あっさりと答えるフェオ。実際、それは正しい答えだ。
「その通り、だけど足りてない。本当にそれだけでいいなら、印刻はむしろ簡単な魔術だろ? 世間で言われてるような、難易度の高い魔術だとは言えない」
「確かに、印刻魔術は難しいって聞くけど……じゃあどうするの?」
「読むんだよ、書いたルーンを」
このルーンは確かに《火》のルーンだが、そこには恐ろしいまでに多様で複雑な意味が込められている。
ただ火というだけじゃ、火花のひとつも熾せないのだ。
これはたとえば元素魔術でも同じ。火の魔術を使うときは、その規模や威力、持続時間に温度や出す場所、果ては炎の色まで、あらゆる想像を必要とする。
ルーンも当然、だから解釈によって、それがどのような《火》であるのかを指定してやる必要がある。
「見てろ」
そう言って、俺は懐から煙草を一本取り出し、その先端を文字に当てた。
それから左手を地面につき、刻んだ文字に魔力を流し込む。
「――《火》」
瞬間、煙草の先に小さな火が灯った。
すぐ煙草を口まで運び、息を吸い込んで着火を確かにする。
肺に紫煙が流れ込んでくる独特の感覚。それを味わいながら、煙を空へと向かって吐く。
――実は煙草を吸いたいだけだったのは秘密。
「《K》の一文字に、煙草へ火を灯せる程度の魔力と解釈を与える。そうすれば、あとは勝手に文字自体がその通りの効力を発揮してくれる。――これが印刻魔術だ」
「へえ……つまり、この解釈が難しいってことなんだ」
「ああ。凄まじく多くの意味を持つ印刻の術式を、ある特定の意味だけに絞って発現させる。これには相当の慣れが必要だ。文字に対する理解、解釈を一点に絞る集中力。それだけの労力を払ってようやく、これだけ小さな火を灯すのが精いっぱいなのさ。本来はね」
「大きな火を作りたければ、その分の魔力を込めればいいんじゃないの?」
フェオが問う。当然の認識ではあるだろう。
あらゆる魔術が同じ法則のうちにある。別に印刻だって例外ではない。
「もちろん、魔力の量である程度まで力を増やせる――けどね、印刻には限界があるんだよ」
「限界?」
「もともとルーン文字にあった多くの意味。そこに解釈を与えるということは、裏を返せば初めに多くあった強い力それ自体を、人間が理解できるレベルまで削ぎ落としてしまうという意味でもある」
ルーン文字の大元は、神が創り出した文字だという説がある。
その、言うなれば《原典印刻》とも言うべき文字は、けれど神ならぬ人間には決して理解できないものであるらしい。
印刻魔術を使うということは、強力なルーン文字の意味を人間に解釈できるレベルにまで引きずり落とすということである。
この落差があるせいで、印刻魔術単体で大きな力を発揮することができないのだ。
「ま、そんなわけで力は抑えられてるけど、代わりに幅広い魔術を印刻だけで使うことができるのは利点だね」
たとえば――と俺は、地面に落ちていた石ころをひとつ、怪我のないほうの手で拾う。
そしてそれを、俺は地面に向けて思いっきり投げつけた。
地面で跳ね返ったそれは、ぼとりとそのままその場にまた落っこちる。
「普通に石を投げてもこの程度だ。でも、《火》のルーンにはこんな使い方もある」
咥えていた煙草を指に持ち、その灯火の軌跡を使って、俺は小石に《火》を刻む。
その解釈は――力の付加。
「火の意味を持つカノのルーン。それは転じて、純粋で大きなエネルギーや、ある種の攻撃性をも意味している」
だから、と俺は魔術を発動すると同時、石を拾い上げてまた地面に投げ捨てる。
だが今度は放たれた小石が地面で跳ね返らず、そのまま大地を数センチ抉って地面に埋まっていった。
石そのものに、ルーンでエネルギーが付加されたからだ。
まあちょっとした宴会芸ではあるが、フェオは目を丸くして驚いてくれる。
「……今のも、さっきと同じ火のルーンだったんだよね?」
「そう。同じルーンでも、解釈次第でぜんぜん別のことができる。これもまた、印刻魔術の特徴ではあるね」
「なるほど……うん、すごい。けど――」
「どうした?」
問いに、フェオは首を振って言う。
「ううん。ただ、そんなに難しい魔術を、七星旅団の一員になれるほど鍛え上げるなんて、すごいなって思って。どうしてそこまで?」
「……ま、俺も印刻魔術に関してだけはそこそこ才能があったみたいだから」
「才能、なの?」
「別に努力って言い換えてもいいけど。どっちでもいいよ」
一応の師である魔法使いからは、見事に落ちこぼれの烙印を押されている俺だ。今さら言葉尻など気にしない。
印刻に関してだけならば。
俺には、かの魔法使いすら上回っているという自負がある。
それで充分だった。
「それに、俺にだって切り札のひとつやふたつや……七つはあるからね。教えないけど」
「七つもあるんだ」
苦笑するフェオ。冗談だと思ったのかもしれない。
実際、たとえば切り札のひとつである《逆式》の技術は、この世界の魔術師でも俺しか使えないだろうから、あながち嘘でもなかったりする。
七つと言ったのは無論、あえて言えば、という程度のものだったが。
「じゃあ、あの本の記述もあながち嘘じゃないんだね」
素直に感心してくれるフェオ。
それは嬉しいのだが、残念ながらその期待は裏切る以外になかった。
「いや、あれはほとんど嘘」
フェオはなんだか、難しい顔をして押し黙った。
えっと、うん……なんかごめん。
※
図書室内に戻る。アイリスは未だに例の本を読み続けていた。
……やめてほしいなあ。
とは思うものの、やはり告げることはできず、俺は無言で席に戻って本を片づける。
結局、大した収穫もなかった。そろそろ家に帰るとしよう。
「……種族の本か。どうしてこれを?」
本を重ねていると、ふとフェオがそんな風に訊いてきた。
普通に考えれば、そりゃ関係ない類いの本だと思うか。
「異種族の人たちが使う魔術の中に、何か使えるもんがないかと思って。外れだったけどね」
「使えそうなものはなかったの?」
「というより、そもそも記述がなかった。まあ絶対数が少ないから、ある程度は仕方ないと思うけどな」
「ふぅん……」
フェオは机の本に目を落とす。
それから、ごくなんでもないことのように言った。
「――吸血種の能力なら、少しわかるよ?」
「え、どうして?」
「だってわたし、吸血種の血を引いてるから」
あっさりと。
爆弾発言を落とすフェオである。
「……うぇ、あ、えっ――マジで!?」
「うん。かなり古い先祖みたいだから、血はほとんど薄まってるけど。どっちかっていうなら、人類種の血のほうがずっと濃いよ。九割以上だと思う」
「…………」
いやはや。異種族も人間とほとんど差がないとはいえ。
こうも近くに異種族人がいるとは。結構マジでびっくりした。
これはちょっと話を聞きたいところである。
「吸血種、ってことは、やっぱ血とか吸うの?」
「別に好き好んでは吸わないけど。吸えないこともないよ。血を吸って、魔力を吸収するくらいならできると思う」
「へえ。それは、種としての能力なのか?」
「それに近いけど……原理的には魔術でも再現できるんじゃない? 確かに、魔術師の血液には魔力が籠もってるけど、そんなに大した量じゃないでしょ」
「そうだね。媒介として使うにはいいけど、魔力量自体が多いわけじゃない」
「だから正確には、吸血種は血液を通じて相手の魔力を魔術で汲み上げてるんだよ。互いの間に道を作るっていうか。だから生粋の吸血種なら、一滴でも血を吸えばかなりの魔力を奪えるみたいだね。わたしもやったことはないけど、やろうと思えばできるはず」
ちょっと自慢げにフェオは語る。
先ほどとは逆に、俺へモノを教えられるのが嬉しいのかもしれない。
「血か……なるほど。……ん? 血液……から、魔力……?」
「……あれ。アスタ?」
ふと、何か脳裏をひらめきらしきものが横切っていた。
それを手放してしまわないよう、手繰り寄せるように俺は思索を深めていく。
――何か、面白いことに気がつけそうだ。
そんな予感があった。
「単純に血を吸っても魔力は回復しない。つーか俺は魔力自体がないわけじゃないから、仮に吸えても意味がない……でも、要はそれ、道を作るってことだよな……なら」
直後。俺は無意識に快哉を上げていた。
「すげえ。いける――いけるかもしれんぞ、これ!」
「ど、どうしたの?」
「だから呪い! そうか、なんでそんな簡単なことに気づかなかったんだ、すげえ! やった、フェオお前、天才! 愛してる!! ひゃっほう!」
「あ――愛!? ええっ!?」
思わずテンションが振り切れて、俺はフェオの手を握ってぶんぶんと振り回してしまった。
傍目に、目を丸くしているフェオとアイリスの姿が見える。
待て待て、落ち着け――俺は自らに言い聞かせた。思い浮かんだ考えを、冷静に頭の中でシミュレートする。
それが本当に再現可能なものであるか。
印刻だけで構築できる魔術であるか。
再確認だ。それらを頭の中でもう一度組み立て直し、出た結論を噛み砕く。
――よし、今すぐ帰って実験だ。
「行くぞ、アイリス、フェオ!」
「ん」
頷くアイリス。その一方でフェオは狼狽える。
ああもう、そんな場合じゃないってのに。
「いやいや……ええ? どうしたの、急に……?」
「いけるんだよ!」
「何が!?」
「――思いついたんだ、呪いを誤魔化すことのできる方法を!」




