3-03『喫茶オセル』
「……どーしよ、マジで……」
と、俺は呻いた。呻かざるを得なかったからだ。
隣の椅子にちょこんと座る、というか嵌まっているアイリスが、きょとんとした視線で俺を見上げてきた。
俺は視線で「なんでもないよ」と告げ、彼女の綺麗な髪を撫でてやる。藍色というか、あるいは黒というか紫というか青というか……単純には表現しづらい、深い色をした美しい髪だ。
――可愛いなあ、ウチの義妹は。
もう超いい子だもの。親バカになる奴の気持ちが、少しだけ理解できた気がした。
まあ、とはいえだ。
目下のところ、俺が悩んでいる原因は――ぶっちゃけこの子なのだった。
単純な話として、問題なのは生活費である。
なにせメロに続いてふたり目の子どもを養う必要が出てきたのだ。
いやメロは自分で稼げよ、と思うけれど。無職のままだと、正直さすがにちょっとキツい。
親父さんは微塵も優しくなくて、人数が増えたらその分の家賃を払いやがれよ、とかあっさり言ってくれちゃいやがる。
あの親父、冒険者なら全員が金持ちだとでも思ってんじゃないだろうな。
どうしようかな、本当に……。
稼ぐ手立ては、まあないわけじゃない。だがそのためには家を空ける必要がある。
よもや冒険者の仕事にアイリスを連れて行けるわけないし。あり得ない。
必然、俺はこの街で仕事をしなければならなかった。
オーステリア迷宮の封鎖は現在、すでに解かれている。
だが言ってはなんだが、この迷宮程度で稼げる額はそこまで多くないのだ。毎日数時間を通い続けるか、あるいは一週間くらいかけて中に潜り続けるくらいしないといけない。
それは嫌だ。というか、そんな時間はない。
迷宮にいる間、この子をどうするんやねんという話もあるし、そもそも学生がそこまで長い時間を迷宮で費やせるはずがないのだ。普通に授業があるし、学院主催の魔競祭も近い。
……あとまあ単に、あの迷宮でいいことが起こった試しがない、という事情もある。
呪われてるんじゃないかな、俺。
いや実際、呪われてはいるんだけれど。
そもそも俺は、この呪いをどうにかするために学院を、オーステリアを訪れたはずだったのに。最近、その本分を見失いがちになっていることは否めなかった。
進展ないしなあ……金もないし、あとそもそも運がない。
結局、溜息をつくことしかできない俺だった。
「はあ……」
「……ヒトの店のカウンターで盛大な溜息をつくな」
と、そんな俺に溜息交じりの苦言を呈してくる男がひとり。
座っているカウンター席の向こうで、香り立つカップをふたつ持った男だった。
「ただでさえ陰気なツラしてんのに。つーかなんだその腕、折ったのか?」
「うるせえ。店員がお客様に口を出すなよ、珈琲屋」
俺はその男に文句を返球。だが男は皮肉げに肩を揺らして、俺の言葉を受け流した。
――なんというか、見た感じどこか不良っぽい男だった。
別段、特徴的な外見をしているわけではない。言うなれば纏う雰囲気の話。
黒髪黒眼。まあそれは俺と同じなのだが、何が悪いって、奴の左目を覆う無骨な黒の眼帯だろう。
たとえて言うなら海賊のそれ。地球人が相手なら、この表現でだいたい伝わるだろう。
無論、お洒落や格好つけのために着用しているわけではないと思う。だから直接そこへ言及するような真似はさすがにしないが、とはいえ客商売に向かない特徴であることは事実だろう。
残された右目の鋭さも合わせれば、かなり威圧的な容貌であることは否定できない。
とはいえ、これでこの店はそこそこ繁盛している。
目の前の眼帯男は、オーステリアで、というか下手したらこの世界に唯一かもしれない喫茶店――《オセル》を経営する店主であるからだ。
ちなみに俺からは、もっぱら《珈琲屋》と呼ぶようにしていた。
「ここは俺の店だ。俺が客に文句言って何が悪いんだ、煙草屋?」
接客のなんたるかを、微塵も心得ていない不遜な態度で珈琲屋は言う。
ここで「俺は煙草屋じゃねえ」と返すと、それはそれでお決まりのやり取り感が出てしまい、なんとなく腹が立つので俺は黙った。
その頃にはもう珈琲屋は俺から視線を外しており、代わりにアイリスに向き直って言う。
「――はい、どうぞ。ココアだよ」
「あり……がと」
こくり、と頷いてアイリスは珈琲屋から湯気の立つカップを受け取る。
お礼の言えるいい子だなあ、と頬を緩めながらも、俺は珈琲屋へ釘を指すのを忘れなかった。
「テメエ、言っとくがアイリスには手を出すなよ」
「黙れ煙草屋。珈琲飲んで、金だけ置いて早く帰れ」
ごん、と音が立つほど乱暴に、珈琲屋は俺の前のカウンターにカップを置いた。
ちょっと態度が違いすぎませんかねえ……?
引き攣る頬を自覚する。だがここで喧嘩を売るのは礼儀的にノーだ。
店内にはほかの客もいる。何より、店主はともかく、この店の雰囲気自体は俺も好きなのだ。
――いわゆる、欧風喫茶とでも言えばいいのだろうか。
異世界で欧風も何もないけれど。荒くれた冒険者の町とは思えない、瀟洒で落ち着いた空気が俺は好きだった。その雰囲気を壊すのは俺の意に反する。
割と折り合いの悪い俺たちが、それでも絶妙な点で険悪にならないのは、たぶんこの辺りの感覚が似通っているからなのだろう。
俺もさすがに出禁は嫌だ。
この街で――あるいはこの世界で――まともなコーヒーが飲めるのは、この店を措いてほかにない。
だから仕方なく、小声で嫌味を言うだけに留めておいた。
「……この幼女趣味野郎め」
「何か言ったか、義妹偏愛」
そして普通に言い返された。……クッソ、やっぱ俺コイツ苦手だわ。
嫌い、という感情とは少し違う。
ただ苦手なのだ。絶妙に馬が合わないというか、似ているのだけれど、奇妙な点で違いを感じさせられるというか。
おそらく、この点だけは目の前の珈琲屋と同じ結論に達するだろう。
これで俺と珈琲屋は、この世界でもほかに例を知らない、ある一点で同じ境遇を持つ仲間であるわけなのだが……。
まあ、それでも苦手なものは苦手なのだ。仕方ないとしか言えない。
――喫茶《オセル》。
その名はルーン文字の《故郷》――オシラの別読みに由来している。
ルーンを用いている時点でわかるかもしれないが、命名したのは実は俺だ。
故郷、の意を持つ言葉を店名にしたのは、ぴったりではあるけれど、同時にかなり皮肉的でもある。
まあ俺にしては、珍しく的確なネーミングだと思う。
「――それで。なんの用だよ、煙草屋?」
と、珈琲屋から問われる。俺は苦笑して、
「なんだ。用があるって、知ってたのか」
「そうでもなきゃ、わざわざカウンターには座らないだろ、お前。いつもひとりでテーブル占領するじゃねえか」
「まあ、そうだ。ちょっと訊きたいことがあるんだよ――レン」
俺は普段の《珈琲屋》という呼称ではなく、あえて名前で《レン》と呼んだ。
その意味を、ほかでもない、この男だけは理解するだろう。
『……お前が俺を名前で呼ぶときは、たいていロクな用事じゃないな』
珈琲屋が言う。声音を、それ以上に言語そのものを変えての返事。
その言葉に、隣で座るアイリスがきょとんと首を傾げた。
当然ではあるだろう。
彼女には、奴が使った言葉が理解できないはずだから。
『そう言うな。マジで訊きたいことがあるだけだ。お前の厨二知識を貸してくれ』
だから、俺も同じ言葉で答えた。
――厨二、という言葉は地球のスラングだ。中学二年生辺りに特有の病、ということでネット文化などに膾炙している。
当然ながら、異世界においては絶対に通じない言葉だった。
対応する語彙さえ存在しないだろう。
『厨二言うんじゃねえよ。インテリなだけだ』
『なんでもいい。お前のほうが知識あるのは事実だからな。ちょいと力貸せ』
『……なんの用だ?』
『――この前。この世界で、俺は漢字を目にすることがあった』
俺は、この世界でただひとりしか知らない同郷の男に問いを投げる。
――珈琲屋、レン。
フルネームで言うならレン=イブスキ。
異世界まで来て珈琲屋になどなる生粋の変わり者。
漢字で書けば、指宿錬。
目の前の珈琲屋は俺と同じ――地球出身の日本人だった。
※
「――これ、なんだか知ってるか?」
と、俺は珈琲屋に魔晶を手渡す。ちなみに、普通にこの世界の言葉を使った。
渡したのは先日、オーステリアで手に入れた例の魔晶だ。レヴィから預かって以来、俺が保管することで話はついている。
珈琲屋は魔晶を手に取ると、隠されていない片目を細めて、それから言った。
「念のために確認するが、煙草屋。これはお前が書いたものじゃないんだな?」
「もちろん違う。あと俺は煙草屋じゃねえ」
――あ、言っちゃった。
と思ったが、珈琲屋は普通にスルー。代わりに俺は迷宮での顛末を簡単に告げる。
珈琲屋は視線を魔晶に落とし、刻まれた文字を読み上げた。
「……《封縛/大江山酒呑童子》ね。漢字、というか日本語だな」
「大江山、ってのは日本の地名だよな。少なくともこの世界にはない」
「ま、だろうな。封縛……は、まあ封じて縛る、というような意味だろう。そんな語彙があるのかどうか知らないが、読んで字の如くだと思う。……お前、酒呑童子の伝説をどのくらい知ってる?」
「生憎と、ほぼ名前くらいしか知らない」
俺がこの世界に訪れたのは、年齢にして十四の頃だった。
今は二十一歳なので、それから実に七年ほどが経過している計算になる。
短い人生の、ほぼ三分の一を俺はこの世界で暮らしているのだ。向こうの知識など、今はもうあまり覚えていないし、そもそも当時はまだ高校一年。知識を吸収する時間も少なかった。
名前を知っていただけでも運がいい。
「簡単に言えば、大江山は京都にある山だ。鬼に纏わる伝説が数多く残された土地で、その中でも特に有名なのが《酒呑童子》だな。日本三大悪妖怪に数えられている」
一方、滔々と語る珈琲屋は、この世界を訪れてまだ二、三年だという。
奴は妙にこの手の知識に詳しかった。地球の魔術に限らず、歴史学や民俗学、宗教や神話関係に対する造詣が異様なまでに深いのだ。
年齢的に、大学で専攻していた、というわけでもないと思うのだが。俺が思っているより珈琲屋が年上なのかもしれないけれど、たぶん単に、奴がかつて厨二病だったということだと俺は思っていた。
その知識が正直、この世界においてかなり役立っている以上、面と向かって指摘したことは一度たりともないのだが。
少なくとも知識だけなら、珈琲屋は俺より魔術師に向いていると思う。
「日本三大悪妖怪……そんなのがいるのか」
「ああ。大江山の鬼《酒呑童子》に、加えて白面金毛九尾の狐である《玉藻御前》、そして大天狗《崇徳上皇》――合わせて日本三大悪妖怪だ。ちなみに、単に三大妖怪と言った場合は鬼、天狗、河童の三種を示すことが多い」
「聞いたこともねえ……」
そして明日にはもう忘れていそうだ。
珈琲屋もいったい、どこでそんな知識を得たというのやら。
「さて、酒呑童子だが。なにぶん古い伝説だから出生には諸説ある。どれが正しいとは一概に言えないが――平安時代、一条天皇の御世に、大江山を拠点として暴れ回った鬼だと言われている。茨木童子など数多くの鬼を配下に京都で悪逆の限りを尽くしたが、かの陰陽師、安倍晴明に居場所を突き止められ、そして源頼光とその四天王による討伐隊が結成された」
「ああ、さすがに安倍晴明は知ってる」名前くらいだけど。
「それでまあ、彼ら討伐隊に毒の酒を呑まされ、酔ったところを討伐されたわけだ。――その辺りが、おおむね共通して語られている伝説だろう」
「酒呑、ってのはその辺りから来てるのか……」
俺が直接に見たわけではないが、あの迷宮にいたという鬼種を模した合成獣は、つまりその酒呑童子を原型に生み出された使い魔なのだろう。
こうなれば、あのとき不死鳥のほうの魔晶を確認できなかったことが悔やまれてならない。あちらにも、ともすれば英語か何かが記されていたのかもしれない。
「まあ、今となっちゃその伝説を知ったところで、という話ではあるよな……問題は、なぜこの魔晶が迷宮にあったのかという点だから」
ぼやくように俺は言った。聞くだけ聞いておいてなんだが、正直あまり役立てられそうな情報ではないということか。
わかったのは、この魔晶が確実に地球由来の文字であるということ――その点くらいだ。
だがそこで、珈琲屋はふと目を細めてこう言った。
「――そもそも、この世界そのものがおかしいと俺は思うけどな」
吐き捨てるでもなく、淡々と紡がれた言葉に俺は反応した。
なんとなく、引っかかるものを感じたからだ。
「……どういう意味だ?」
「この世界は、本当に地球と無関係な世界だと思うか?」
「…………」
咄嗟には、俺は返答を作れなかった。
隣に座るアイリスは、すでに俺たちの会話に興味をなくしたのだろう。今までずっと息で冷ましていたココアに、ようやく口をつけ始めた。どうやら猫舌らしい。
ひと口飲み、ほんのわずかだけ表情を綻ばせるアイリス。
その表情に和まされる。少しずつ、この無表情な少女の感情変化がわかるようになってきた。
ちなみにこのココア、わざわざ魔術を使って《ココアパウダーを製造する機械》から作り出している。そうでもしなければこの世界でココアなど飲めないからだ。
機械それ自体から発明するという、呆れるほどの労力がかけられた飲み物なのだが――変わり者の珈琲屋はたいへん安価な値段でココアを提供していた。
子どもに人気らしく、むしろコーヒーより売れているのだとか。
コーヒー自体、ほとんど罰ゲームみたいな飲み物としか思われていない世界だ。嗜好品など酒と煙草を除けば、ようやくお茶が庶民にも飲まれ始めたくらいの世界である。
それが果たして、元の地球文化と比べて、どの程度の文明が進歩しているのか俺にはわからない。そこまで歴史には詳しくない。
まあ歴史を知っていたところで、一概には比較できないだろうが。科学レベルは中世中期程度だと思うが、魔法の影響で、一部の技術は近代から現代に近いところもあったりする。
なお紅茶だけではなく、地味に緑茶もあったりして、元日本人の俺としては喜ばしいが――このあたりはさすがに余談か。
ともあれ、俺は視線を珈琲屋に戻して問う。
「無関係、とは言えないんじゃないか? こうして俺たちみたいな、いわゆる漂流者がいるわけだし。ふたりいるんだから、俺たちが知らないだけで、三人以上いたっておかしくない」
「そういう意味じゃない」珈琲屋は小さく首を振る。「俺はそもそも、この世界の成り立ちそれ自体から疑っている」
「成り立ち……それ自体?」
「たとえば魔術だ。――魔術師には実力に応じて位階があるな」
「……ああ」
管理局が定めた、魔術師に対する階級制度のことだろう。
戦闘における強さや冒険者としての技量に関係なく、純粋な魔術の腕によってのみ認定される王国内での十一の指標――。
第十一位階《新参者》。
第十位階《熱心者》。
第九位階《理論者》。
第八位階《実践者》。
第七位階《哲学者》。
第六位階《小達人》。
第五位階《大達人》。
第四位階《被免達人》。
第三位階《神殿の首領》。
第二位階《魔導師》。
そして第一位階――《魔法使い》。
これが、この世界における魔術師の階級だ。
だが――珈琲屋は言う。
「この制度は何も、この世界にしか存在しない独自のものじゃない」
「……そうなのか?」
「ああ。地球にも、これとほとんど同じ位階構造が存在する」
――知らなかった。
俺は、地球にそんな制度が存在するなんて、想像さえしていなかったと言っていい。
魔術なんて、地球には概念だけが存在するものだと。
勝手に、そう信じ込んでいたのだ。
「アレイスター=クロウリー、という人物を知ってるか?」
珈琲屋に問われ、俺は首を横に振る。
「……いや、知らないが。有名人か?」
「有名といえば有名だけど、別に誰もが知っているってほどじゃない。――彼は地球における、要するに実在の魔術師だった」
「ち、地球にも魔術師がいたのか? 本当に!?」
驚き、俺は思わず立ち上がってしまう。隣のアイリスが、びっくりして肩を竦ませていた。
怯えさせたことを反省し、「ごめん」と謝ってから席に座り直す。
珈琲屋は苦笑し、けれどすぐ真面目な表情に戻ってから言葉を続けた。
「クロウリーが本当に魔術師だったかどうかはわからない。ただ本人はそれを自称し、それを信じる人間もまた多くいたという話だ。地球にだって、実在はともかく、魔法というものが信仰されている時代もあったからな。魔女狩り、という言葉くらいなら知ってるだろう」
洗い終わったコーヒーのカップを拭きながら、なんでもないことのように珈琲屋は言う。
俺は今さらながらに、奴がまだ仕事中だということを思い出していた。
「クロウリーは《銀の星》という組織を結成している。いわゆる魔術結社というヤツだ」
言いながら珈琲屋は、指先に点した魔力で《A∴A∴》という文字を刻む。
それが、銀の星を示す文字であるらしい。
「この世界で使われている魔術師の位階は、銀の星のそれとほぼ完全に同じだ。少なくとも偶然で片づけられる一致じゃないことは確かだろう」
「……だろうな」
「まあ、こんなものは一例だ。ほかにも、たとえば迷宮の魔物――鬼にしろ、不死鳥にしろ、スライムにしろ、これは地球における空想上の生物だろ? いや、なにせ剣と魔法の世界だからな、こういった生物がいても、別におかしくはないのかもしれない」
珈琲屋はそこで一度言葉を切り、それからわずかな溜息とともに続けた。
「とはいえ名前まで同じなのは――果たして本当に偶然か?」
俺は「確かに」と思わされていた。この手の偶然では片づけられない符合を、俺も知っていたからだ。
たとえば言語。
この異世界で使われている共通語は、当然だが地球のそれと異なっている。
だが――かなり似ている。
顕著なのは英語だ。文字が語彙が、たまたまだとは口が裂けても言えない一致を見せていることに、俺はきちんと気がついていた。
ただその事実を――そんなこともあるのだろう、と安易に流してしまっていただけ。
だって、そんなことを言ってしまったらお終いだから。
そんなところは、ファンタジーにおいて突っ込んではいけないところだからだ。
――だが、この世界は無論、創作物じゃない。
ただの現実だ。
普通に使う言葉はまだいい。似てはいるが、似ているだけで完全に別種の言語なのだから。
問題なのは――いわゆる《魔術語》と呼ばれるものだ。
呪文の詠唱や魔術自体の名前、あるいは魔術師の二つ名などにのみ用いられる言語。その意味を正確に理解している魔術師はほとんどいないだろう。会話で普通に使われることもない。
例示すれば、たとえば元素魔術を表す《エレメンツ》という語彙、メロの二つ名である《天災》。
――完全に英語だ。
似ている似ていないの次元ではない。完璧に同一の言語だというほかにない。
魔術語はかなりあやふやで、俺も地球の言語にそう詳しいわけではないが、たとえばドイツ語やフランス語に似た語彙も数多く存在する。
これらは言葉というよりは、ただそういう音として魔術師に使われているに過ぎないが――言うなれば地球の文化をしっちゃかめっちゃかに混ぜ合わせたような、奇妙な不合理がそこには在る。
というか、ここまで気がつけばそれ以前の問題だろう。
――俺は印刻魔術師だ。
もちろん地球にいた頃から使えたわけじゃない。俺はこの世界を訪れて、初めてルーンを暗記して魔術師になった。
だが、そんな俺でも知っている。このくらいのこと、たぶん誰だって知っている。
ルーン文字が、そもそも地球の文字であるということくらい――。
そうだ。言われてみればどう考えてもおかしい。どうして今まで流していたのだろう。
漢字で驚く前に、俺はまずルーンや魔術語に驚くべきだったのだ。
今までまったく気にも留めずに受け入れていたが、今思えばなんて間抜けだったのだろう。
この世界と地球とは、明確に相互関係がある。なんらかの関連性なくして、こんな奇妙な対応があり得るはずないのだ。
そして一度気がついてしまえば、もはや疑問だらけになってしまう。
そも地球とはなんだ。
それは広い視点で見れば、太陽系の第三惑星だ。だがそもそも《太陽》は固有名詞であって、たとえ同じ恒星であっても、この世界のそれを太陽と呼ぶのは本来なら絶対に間違っている。
だが俺はなんの違和感もなく、この名前すらない世界を照らす恒星を太陽と呼び、夜に見える衛星を月と呼んでいる。
本来、これらは太陽でも月でもないはずなのに。
「まあ、これは俺個人が疑問に思う、ってだけの話だ。別に意味なんざねえ」
と、思索に耽る俺を、ばっさりと切り捨てるように珈琲屋が言う。
考えてみれば、この男はすでに以前からこの符合に気がついていたのだろう。
「もっと言えばどうでもいい」
珈琲屋は俺から視線を切り、手元のカップへと落とした。
「どうでもって……」
俺は困惑しながらそう言ったが、珈琲屋は「だって、そうだろうが」と呟くだけ。
「そんなことどうだっていいんだよ。俺たちになんの関係がある? 何もないだろうが。少なくとも生きていく上で支障がなければ、それで何も困らない。事実なんざどうだっていいんだよ。下らないし――興味もない」
「……意外と割り切ってるんだな」
「逆に、お前がどうして割り切ってないのかが不思議だね。お前は俺より、この世界で長いだろう。実際、今までなんの不都合もなく生きてこられたんじゃねえか」
「それは……その通りだが」
「関係ないんだよ。つか、仮にそんな《世界の真実》とやらに迫ったとしよう? それでどうするんだ? 学者でもあるまい、んなもん解き明かしたところでなんの意味もねえよ」
その言葉は、どこか自らに言い聞かせているかのような風情があった。
だが言っていることは事実だ。そんなことを知っても意味がない。
俺が珈琲屋に訊ねたのは、その辺りの事情を知ることで、降りかかる火の粉を防ごうと思ったから――言い換えれば、今の日常を守ろうと思ったから。それだけのことだ。
そのために、現状の世界そのものを揺るがす意味なんて存在しない。
「俺はもう、この世界で生きていくことを決めた。元の世界に戻るつもりも、この世界で何かを為すつもりもない。ただ、この店さえ守っていければそれでいい」
ならば、翻って。
アスタ=プレイアスは――否。
一ノ瀬明日多はどう思っている――?
「お前は、元の世界に帰りたいのか? 地球に対して――まだ未練を持ってるのか?」
「……俺は――」
果たして、俺はどう答えようと考えていたのだろうか。
それを知るすべは、しかし永遠に喪われてしまう。
珈琲屋が、テーブル席の客に呼ばれてカウンターから出て行ったからだ。
俺は答えるタイミングを失い、言葉はただ宙へと融けていく。
もっとも、それで助かったのかもしれない。
接客に向かう珈琲屋を見送ってもなお、俺は自分がどう答えようとしていたのか、ちっともわからなかったのだから。
あるいはそもそも、答えることさえ出来なかったのかもしれない。
今となっては――わからないけれど。
「……?」
ふと、アイリスが小首を傾げながら、俺の顔を見上げてくる。
俺は彼女に視線を向けて、「なんでもないよ」と、そう答えた。
だが彼女はふるふると首を振り、
「だいじょぶ、アスタ?」
「……何が?」
「げんき、ない」
言うとアイリスはくっと背筋を張り、俺の頭に手を伸ばした。
俺は驚き、されるがままに彼女の手のひらを受け入れる。
「よし、よし」
そんな風に言いながら、アイリスは俺の頭を拙く撫でてくれる。
――まったく、情けないなんてレベルじゃない。
こんな小さな子にまで気を使わせるなんて。それでも七星旅団の印刻使いか、俺は。笑われちまう。
「さんきゅ」
アイリスに笑みを向けて言う。
別に作ったわけじゃない。自然と零れたものだった。
小さな義妹は俺の頭から手を離して、
「げんき……出た?」
「おう。ばっちり出たぜ」
「……んっ」
満足げに頷くと、ココアのカップに向き直った。
だー、もう!
しゃんと前向いてろ、俺。
自分で自分に言い聞かせてから、温くなりつつあるカップを手に取った。
※
喫茶オセルの入口。その扉に備えつけられた小さな鈴が、からりと乾いた音を鳴らす。
言うまでもなく、それは来客を告げる音だ。
店員である少女(驚いたことに、アイリスとほとんど変わらない年齢に見える。俺は珈琲屋はやはり幼女趣味なのではないかと疑っている)が「いらっしゃいー」と間延びした声で迎えていた。
特に気にも留めずに、俺はコーヒーを啜り続ける。
頭の中では、このあとの予定を組んでいた。
とりあえず学院に向かい、書庫を覗きに行きたいところだ。最近は解呪の研究も遅々と進んでいないが、それ以外にも調べたいことが山ほどある。
アイリスには付き合ってもらわざるを得ないが、そこは勘弁していただこう。というか、この子のための本もいくつか入手しておいたほうがいいだろうか。
なんて。
そんなことを、つらつらと考えていたところだった。
「――ああ、やっぱりここにいた」
そんな声が入口のほうから聞こえてきた。聞くだに意思の強そうな女声だ。
俺は目を閉じ、けれどそれ以外の反応は見せず、ただ心中だけで嘆く。
視線を向けずとも声の主はわかる。そいつが俺の知り合いで、かつ間違いなく俺に声をかけているということが。
なんだか、会うのは久々に感じられた。実際の期間としてはそうでもないが、いかんせん会う頻度が多かったためにそう感じてしまうのだろう。
そう思うと、無視するのも悪いという気になってきて、仕方なく俺は顔を上げる。
それから言った。
「……俺の人生における最大の失敗は、お前にこの店を教えたことだと思う」
「またいきなり、突然ご挨拶じゃないの」
その女――レヴィ=ガードナーは、久々のやり取りに苦笑し、それから皮肉げにこう言った。
「それじゃあ骨を折って子どもを作ったのは、あんたの人生における成功なわけだ?」
うるせえよ。
と、俺は答えずにコーヒーを啜った。




