3-00『謎の少女と義姉からの手紙』
こういうとき、どう対処するべきなのかまったくわからない。
目の前の少女は、透き通るほどに無垢な視線でこちらを見上げている。きょとん、と小首を傾げる形で、俺の返答を待っているらしい。
その双眸は、俺の考えを見透かしているようでもあったし、逆に何も考えていない風でもあった。
いずれにせよ、自ら身体を売るような言葉を発するように見えないことだけは事実だ。
別に春を売る職業自体を否定しようとは思わないが、この少女をそれと結びつけるのは難しい。
――よし、わかった。とりあえず落ち着けアスタ、冷静になるんだ。クールが大事。
こういうワケのわからない展開へ巻き込まれることに、俺は慣れているはずではなかったか。そう、大丈夫だ。嫌な慣れだがまだ平気だ。あのマイアやメロたち七星の人格破綻者どもより、目の前の彼女が厄介な存在に見えるのか? 違うだろう。ならどうとでもなる。そうに決まっている。
俺は自らへと言い聞かせた。そうすることで、どうにか平静を保とうと試みている。
果たして成功しているのかどうかは、まあ、よくわからなかったけれど。
「……何か、違った……?」
と、少女が俺に向かって問うた。
「はい……?」
「言われた、の。アスタに会ったら、そういうふうに言いなさい、って」
「…………」
「へやに入る、あいことばって」
「……誰から?」
「マイア」
オーケー完璧に理解した。要するにまたあの阿呆義姉の仕業か。
こんな見るからに幼く純粋そうな子に、いったい何を吹き込んでんだよ馬鹿じゃねえの。
俺だけだったからいいようなものを、親父さんや誰かほかの奴に聞かれでもしていたら、どんな誤解を受けるかわかったものじゃない。
周りに誰もいない場所で本当によかった。
「アスタ……?」
まったくの無表情を保ったまま、少女が俺に問いかける。
返事を促しているというより、これは単に、俺が本当に《アスタ》なのかを確認しているらしかった。
……うわあ、違うって答えてえ……。
だが目の前の少女にそんな嘘をつくのは躊躇われる。
ものすごく簡単に信じそうだ。良心の呵責に堪えられる自信がない。
「ああ、そうだよ。俺がアスタだ。君は?」
しゃがみ込み、目線の高さを少女に合わせて俺は訊ねた。
義姉の名前が出た時点で、俺の関係者であることは疑いようがない。早くも逃げ道を塞がれていた。
だからマイアに下宿先を教えるのは嫌だったのに。恨むぜセルエ……と俺は胸中だけで毒づく。
「わた、し……?」
少女はきょとんと首を捻る。
問われたことの意味がわからなかったみたいに。
「そう。えーと、名前は?」
「……なまえ」
「うん。できれば教えてほしいんだけど」
「わたし、なまえ……ないよ?」
「――――」
瞬間、表情筋が硬直した。一瞬のうちに、さまざまな思考が脳裏を駆け巡ったが、それを言葉には変えられない。
少女はやはり無表情のまま、特有の淡々とした口調で言葉を重ねる。
「なまえ、わたし、ないの」
「……それは、なんだ? 過去は全て捨ててしまったという決意表明的な――」
「なまえ、は。ひとから、もらうもの……だから」
「…………」
「わたし、もらったことない、の」
茶化すようなことを言うんじゃなかった。その後悔で死にたくなる。
これは、だって……駄目だろう。
――普通じゃない。
少女の返答は明らかに異常だ。名を捨てたのでも、忘れたのでもなく、初めからないと彼女は言った。
異世界だろうと地球だろうと、生まれるということはそのまま名をつけられるという意味にほかならない。
言うなれば命の定義づけだ。生命は名前をつけられることで初めて固有の存在となり得る。少なくとも俺はそう思っている。
だから、名前がないということは――すなわち少女自身が、その生まれから狂っているということの証明にほかならない。
あるいは狂わされたと言うべきか。
彼女には、自分という《個》が存在しない。
にもかかわらず少女自身は、そんな異常を覆い隠すほどに無垢で、透明で、どこまでも汚れなくそこにある。
その事実が、どうしてか恐ろしく感じられてならなかった。
まるで無菌室の中で、外界と完全に交流を断って培養された人工物のように。白ではなく、それは無の気配だった。
彼女には何もない。何も。――何もかも。
続きを訊ねることに躊躇して、俺は咄嗟に質問を変える。
「……まあ、とりあえず中に入れ。いつまでも立ち話はなんだからな」
正確にはしゃがんでいるが、無論そういう話ではない。
これからどうなるにせよ、彼女が客人であることには変わりないのだから。最低限のもてなしはしよう。
「わかっ……た」
少女は独特の、どこか間延びしたような口調でこくりと頷く。
たとえ何を告げても「わかった」のひと言で済ませてしまいそうな様子に一抹の不安を覚えながら、俺は部屋の中へと少女を招き入れた。
「少し煙草臭いかもしれないけど。悪いが我慢してくれ」
しばらくこの部屋で煙草は吸っていないから、大丈夫だとは思うのだが。
基本的にここへ客人を招くということがなく、そのせいで感覚がよくわからなくなっていた。
俺にとって、煙草は嗜好品以前に重要な魔術の媒介であるため、禁煙することはできないのだ。
「ん……」
きょろきょろと、いくぶん興味深げに少女は室内を見渡す。
そして、それから小さく言った。
「いいにおい、だよ?」
「……そうか」
「アスタのにおい……だね」
なんだか嬉しそうに少女は微笑む。相変わらず無表情だったけれど、少しだけ声が弾んでいたような気がしたのだ。
彼女が初めて見せた感情らしきものに、言い知れぬ感慨を覚えながらも俺は問う。
この子の前で喫煙はできないなあ、などと考えながら。
「――ちなみに、歳はいくつだ?」
「決まって、ない」
……。そうきたか。
「わかった、じゃあ次の質問。なんで俺のところに来た? 誰からここを聞いたんだ?」
感情の薄い少女。強い疑念が俺に纏わりつく。おそらく、決して愉快な背景を持っているわけではないのだろう。
だが直接それを訊ねるには、まだ互いの関係性が薄いという気がしていた。今はまだそこまで踏み込めない。
俺を越して部屋に入った少女は、振り返るように首を傾けて、こちらのほうへと向き直る。
「マイアが、アスタのところ、行きなさいって」
「『マイアが』、ね……なるほど」
わかりきってはいたが、やはりあの女の差し金か。周囲で起こる厄介ごとの、八割はマイアが原因じゃなかろうか。
そこはかとない不信感を胸の裡に抱きつつも、やはり俺は遠回しに訊ねていく。
「マイアは、何か俺に言ってなかったか?」
「これ」名前のない少女は、先ほどから持っていた封筒を俺に手渡す。「わたしなさいって」
「……マイアからか」
「うん」
見るに、筆跡は確かにマイアのそれだった。
頷く少女から手紙を受け取り、俺はその封を切る。果たして、何が記されているのだろうか。
こんなに読みたくない手紙は初めてだ。メロからの手紙を受け取ったときでさえ、ここまでの忌避感は――あるいは危機感は――覚えていない。
渇いた唇を舌で湿らせて、俺は手紙の文章に目を落とす。
そこには、こんな文章がしたためられていた。
※
やっほいアスタ、久し振り。元気かな? まあ元気だよね。
大方また口から血を吐いたり、無駄に骨を折ったりと、誰より元気に楽しんで生きているだろうと信じています。
おねえちゃんですよ。
まったく、私に住所を隠すなんて無意味な真似するよねえ。
オーステリアにいるのはわかってるんだから、そんなのばれないわけないじゃん。
いやいや、アスタの気持ちはわかるよ?
愛しのおねえちゃんに見つけてほしい、構ってほしいって気持ちはじゅーぶんにわかってる。
でもさ、もうアスタもいい歳なんだから。そろそろおねえちゃん離れしないと。
もちろん私も、アスタの気持ちは嬉しいんだよ? でも最近はいろいろこっちも大変でさ、そうそうアスタにばっかり構ってる時間は取れないワケ。
おねえちゃんは、アスタがもっと大きな人間になることを期待しています。
うん、いいこと書いたなあ。
ちゃんとしたおねえちゃんっぽくない? そう思わない?
って、まあそんな話はいいんだ。
アスタに手紙なんて久し振りだから、ついつい筆が滑っちゃったよ。
本題本題。
あのさ、おねえちゃん実は女の子をひとり拾ったのね。
まあ偶然なんだけどさ。ちょっといろいろあってそんな感じなワケですよ。うん。
でさ、その子がもうあんまりにも可愛いもんだから、ついつい義妹にしちゃったのよ。
少なくとも法的な手続きはばっちしだから、そこは心配しなくてオーケー。
いやもーホンットに健気で幼気ないい子でさあ。めっちゃ可愛いの。
可愛いでしょ? この手紙を読む頃には、もう会ってると思うから書くけど。
私の義妹ってことは、つまりアスタの義妹ってことでもあるからね。
きちんと仲よくしなきゃダメだよ? きょうだいゲンカはおねえちゃん許さない女です。
って、あーまた話逸れちった。
もっかい本題。
これ書くの二回目だけど。
その子さ、しばらくアスタのトコで預かってあげて。
おねえちゃんも、いっしょにいたいのはヤマヤマヤマなんだけど。なにぶんさっきも書いたとーり、今ちょっちものすっごい立て込んでてさあ。いっしょにいてあげられないのよ。
割と危ないところにも首突っ込んでるのね。こないだも、なんかすっげー厳ついオッサンとケンカしたばっかりだし。
こんな小さな女の子を、そういう場所まで引き連れ回すのは、さすがに問題でしょ?
おねえちゃん、家族のことはよく考えるタチだから。偉いでしょー、褒めてもいいよー。
ま、そんなわけだから。あとのことはよろしくお願いね。
アスタのためにも、きっといい判断だと思うんだ。きっとお互いに感じるところがあると思う。
んじゃまたね。
風邪とか引かないよーに気をつけること。
ばいばーい。
――追伸。
その子、事情があって名前がないからさ。
アスタがつけてあげて。
文字使いなんだし、そういうの得意分野でしょ? 私がつけるよりいいかと思って。
この子は女の子なんだから、ちゃんと可愛い名前考えてあげなきゃダメだよ?
それじゃ、次は星が並び揃う頃にまた。
――マイア=プレイアス。
※
「――頼むから一回、反省してくれないかなあの馬鹿女はさあ!」
手紙を読み終えた瞬間、俺は堪えきれずに叫んでいた。
あり得ん。あり得んあり得んあり得んだろこれ!
読んでいる途中、何度この手紙を破り捨ててやろうと考えたかわかったものじゃない。
というか、目の前のこの少女がいなければ確実に引き裂いていた。
いや破るじゃ済むかよ燃やしてやるふざけんな、これを読んだという記憶ごと焼却処分してしまいたい。
馬鹿じゃないの。
いやマジで馬鹿じゃないの!?
まあ最悪、この子を拾ったことだけは評価するとしてもだ。
いや充分に意味わかんねえけど。なんだ人間を拾ったって。その時点でおかしい。
だがまあ、きっと何か事情があるんだと察することくらいはできる。その程度の気なら利なら回してもよかった。
百歩譲って、その子を俺のところに送ってきたのも、まあギリギリだが認めるとしよう。なにせ七星旅団はもともと、社会不適合者の集まりであるからして。
シグやメロじゃ確実に無理だ。教授も、まあ無理だろう。だから俺か、もしくはセルエのいずれかが選択肢になることは理解できる。そしてセルエはかなり忙しい人間だから、結果として俺以外に託せる相手がいないことまでは、かろうじて理解できると言っていい。
もちろん当惑はするけれど。同じ街にいるわけだし、忙しいセルエも多少は手を貸してくれるだろう。
でもさ、だったらさ。
――だったらもうちょい、ちゃんと事情を説明しろよ!
何ひとつわからないんですけど。本当にどこの誰なんですか、この子は。
なんで意味深なコト書くだけ書いて、肝心の説明が一切なされてないんだよ。
確実に何かワケありなのに。複雑な背景があるんだろうということまではわかるのに。
完全ノータッチって。アホか。マジで信じられん。
絶対に面倒な事件が起きる。その確信だけは俺も持っている。
けれど直感が、そして経験が――その場所へ安易に足を踏み入れるなと俺に警鐘を鳴らしていた。
なんの説明もなしに少女を預かるなんて真似、できるという気がまったくしない。何かあったときに責任が取れない。
そんな不義理、許されていいはずがなかった。
あれか。喧嘩売ってるのか、この女は。
煽られるだけ盛大に煽られた気分だ。たとえ差出人にその自覚がなくとも。
なーにが構ってほしいだ、誰がそんなこと言った。
むしろでき得る限り放っておいてほしい。
「……信じられん。完全に投げっ放しジャーマンじゃねえか……」
説明不足すぎる文章に本気で頭痛を覚え、俺はしゃがんだまま頭を抱えてしまう。
本当に困った。今、俺はこれまでの人生でも最大の(というか最低の)厄介ごとに巻き込まれているという自覚がある。
何がまずいって、コトが俺個人の問題では済まされそうにないという点だ。
俺は今、ひとつの生命に対する責任を求められている。
「だいじょぶ?」
と、目の前の少女から問われてしまう。
こんなに幼い子にまで心配されてしまっては世話もない。
「ああ、ごめん。大丈夫。ちょっと、世の中の理不尽に嫌気が差してるだけだから」
「……?」
「なんでもないよ。……あー、別にお前のせいじゃない。心配するな」
俺は自分の頭から手を離し、代わりに少女の頭へ乗せた。
「わふ」と小動物みたいに呟いた少女を、軽く撫でてから手を離す。
――この子の命に対し、せめて真摯でありたかった。
避けられない現実なら、せめて一刻も早く順応するのが吉である。事実、もうこの時点で、未来は決まってしまったようなものだ。
どこにいるかもわからないマイアの元へ送り返すとか、その辺へ投げ出すなんてことが、まさかできるわけもない。善人を気取るつもりはないが、そこまで鬼にもなりきれない。
その時点で、この子はもう俺が預かるよりほかになかった。
というか、マイアもそれがわかっていたから俺の元へ送ったのだろう。俺なら絶対にこの子を見捨てないし、最低限の面倒なら見ることができると。そう、上手く使われてしまった。
何もかもあの女の掌の上。だからこそ、より腹立たしい。
……そう。考えてもみれば、マイアが冗談や過失、あるいは手抜きで説明を省いたわけがない。
我が親愛ならぬ義姉上は、馬鹿だが決して考えなしではない。むしろ人並み以上にあれこれ画策しているタイプだ。
おそらく、マイアは意図的に事情を隠した。
そこにどんな意味があるのかは不明だ。不明だが、少なくとも何かしらの意味があるという部分だけは間違いがない。
結局、最初から俺がするべきことは決まっていたというわけだ。
マイアがこうと決めた時点で、俺に逆らえるはずもない。
俺の義姉は、伊達や酔狂で七星の頭を張っていたわけじゃないのだから。
と、そのときだった。
きゅう――という、なんだか可愛らしい音が耳に届いた。
少女のお腹が鳴った音らしい。
もしかして腹を空かせているのだろうか。
そういえば、俺も朝食を摂りに出かけるところだったと、今さらながらに思い出す。
「お腹空いたのか?」
「……うん」
「俺もだ。なんか食べに行くか?」
「いいの……?」
小首を傾げる少女に、思わず眉を顰めてしまう。
その程度のことで確認を取られるのは、誤解を恐れずに言えば――不愉快だ。
この子のことが、ではない。
彼女にそんな反応を取らせてしまっていた、周囲の環境が気に食わなかった。
「仮にも義妹の食事代くらい、払える甲斐性はあるさ」
というか、嫌でも満腹まで食わせてやりたくなる。
きっとマイアも同じことをしていたはずだ。
「……わかった」
「でも、その前に着替えたほうがいいよな……」
少女が纏っている粗末な外套は、あまり飲食店では好まれないだろう。迷宮の街ゆえに冒険者や旅人が多いから、さして気に留められることはないだろうが、それでも着替えくらいは用意してやるべきだ。どうせ必要になる。
とはいえ、小さな女の子が着られる類いの服が、俺の部屋にあるわけもない。メロの分ならあるが、いくら奴が小柄とはいえ、この子には大きすぎるだろう。勝手に漁るのもなんか嫌だし。
「何か着替えは持ってないのか?」
訊ねると、少女はふるふると首を振って答える。
「持ってない。これ、だけ」
「んー、別に駄目ってことはないんだけど。でも女の子だし、どうしたもんかな……」
少しくらい着飾ってもいいだろう。
見たところ容貌は一級品だ。服装次第で化けると思う。
――と、そこまで考えたときのことだ。
刹那、俺の脳裏をある恐ろしい想像が駆け巡った。
天啓が降りてきた感じだ。
その発想に至った自分を褒めればいいのか、それとも気がついてしまったことを嘆けばいいのか。
わからないが、ただひとつ言えるのは、その想像が《最悪》のひと言で表現されるに相応しい思いつきだということである。
どうか思い過ごしであってほしい。
そう願いながら、俺はおそるおそる少女へ訊ねた。
「今、『これだけ』って言ったけど」
「うん」
「それは、つまり言葉通りの意味だったり……?」
「……?」
訊かれている意味がわからないという風な少女。
俺は「あー、つまりだな」と、なるべく噛み砕いた表現を探して――再び訊く。
「その外套の下には、いったい何を着てるんだ?」
少女はあっさりと答えた。
「何も、着てない……よ?」
――マジすか。
え、いやマジっすか? ホントに? 本当に布一枚であと下は裸なの?
……馬鹿なの?
いやこの子がじゃなくてマイアが。つーか服くらい買ってやれよ何考えてんだ!?
お洒落だって言い張るには、さすがに感覚が迸りすぎている。
と、何を思ったか、少女が突如として羽織っている外套を脱ぎ始めた。……いやいやいや!
俺の質問に、視覚的な形で答えをくれようとしているのか。それは素直でいい子だと思うが、さすがにちょっと素直すぎる。
焦る俺だった。生地の下に見えてきた褐色の肌で、俺は露骨に狼狽する。
「ちょっと待て! いいから、見せなくていいから!!」
慌てて少女の暴挙を止めにかかった。いやマジでやめてください捕まっちゃうから。
恐ろしい未来図に身震いする。本当に冗談ではなかった。
しかし半ばまで外套をはだけた少女は、俺の焦燥が理解できないのか、中途半端に脱いだ姿で小首を傾げている。
情緒が本当に、生まれたての赤ん坊くらいまでしか育っていないようだ。何ひとつ笑えない。
「……とりあえず外套を着直してくれ。あまり他人に肌を見せるものじゃない」
「アスタ……たにん?」
「家族でも駄目」あえて《家族》を強調して言う。
「マイアは、いいって」
「アレの真似しちゃ駄目だから。頼む、早く着てくれお願い」
もはや懇願する俺。――たぶん、そのせいだった。
二階へと上がってくる、静かな足跡に気がつかなかったのは。
「――アスタくん? 部屋の前で何して――」
唐突に背後から声をかけられて、俺は心底から震え上がった。
驚きすぎて、本当に床から飛び跳ねてしまうくらいに。
「……えっ?」
「あー……」
最悪なことに、俺は開け放したままの扉の脇で立っている。
つまり部屋の中身は丸見えだ。
そしてその部屋の中には、何やら犯罪的な格好をした少女が見事に立っているという状況。
これを「誤解です」のひと言で誤魔化しきるのは、相当な信頼関係があっても難しいだろう。
それでも俺は言った。
「誤解です」
……いや。だって、ほかに何を言えと。
目の前には、驚きに目を見開く同級生――ピトス=ウォーターハウスの姿。
たぶん腕の治療のために、わざわざ俺の部屋を訪れてくれたのだろう。そういえば昨日、そんな話をした記憶があった。
きちんと約束をしたわけでもないし、まさか朝から来てくれるなんて考えもしていなかったけれど。
気遣いが完全に裏目っていた。
「ア、アスタくん……?」
「やあピトスおはよう、いい朝だね」
俺は歯を見せて微笑む。爽やかさ当社比五割増しだ。
そんなんで誤魔化せるなら誰も苦労しない。
「あの……その子は?」
「いもーとダヨ?」
しれっと言ってのける。どうにか誤魔化しきろうとする、浅ましい自分がそこにいた。
いや別に嘘じゃないしね。事実だしね?
実際、世に憚るようなことなど何もないのだ。けれど問題は、それを信じてもらえるか否かのほうであって。
そしてこの状況なら、少なくとも俺は信じない。たぶんすぐさま官憲へと連絡を取る。
ピトスは、震えた声で言葉を作った。
「あの……男のヒトが、女のヒトを買うことがあるのは知ってますけど」
「待って」買うってアンタ。
発想が一段階ほど飛躍してません?
「あの、だからそういうんじゃ――」
「さすがに、ここまで小さい子はどうなんでしょう?」
「話聞いて!?」
どうもこうも完全にアウトだ。異世界だからなんて言い訳にもならない。
ていうか、そういうんじゃないんですけど。ピトスもピトスでさらっとすごいことを言っていた気がする。
しかし、さまざまな弁解は脳裏に湧くが、それを言葉に変えられない。
何を言えば信じてもらえるのかわからなかった。
「あれ……アスタさん、左利きでしたっけ?」
と、ピトスになぜかそんなことを問われる。
意味がわからないが、俺は思わず素直に答えていた。
「いや、右利きだけど……それが?」
「いえ……あの、もしかして腕が折れてしまったせいで、その……ひとりでするのが難しいのかと」
「すいませんちょっと釈明させてもらっていいですか!? 時間をください!!」
――結局。
俺は場を収めるために、必殺技《土下座》を敢行した。
異世界でも土下座が通じることは、瞼を瞬かせるピトスが証明している。
「……?」
そして問題の少女はといえば。
意味がわからず、ただ無言で首を捻っていた。




