2-29『後日談/そして再びの届けモノ』
眼を覚ますと、見慣れた板張りの天井が視界に広がっていた。
木材を汚す染みの位置まで記憶した、オーステリア居住区にある煙草屋二階の一室。
広さはおよそ六畳間ほど。壁は薄いが家賃も安い、そんな自室を眺めていると、しばらくして明るい声が聞こえた。
「――あ、起きたんだ。おはよ、アスタ。水でも飲む?」
寝台から上体を起こし、部屋の中にいたメロへ向き直る。
……ほんと、普通にいるなあ、こいつ。別に彼女でもなんでもないのに。
「…………びっくりした」
「何が?」
「いや……別に」
無論、こいつが俺の家にいたことを驚いたわけじゃない。
忘れがちだが、そもそも俺はメロの分の家賃を稼ぎ出すためにタラスまで行ったのだから。
……なぜ俺がメロの分まで稼がなければならなかったのだろう。
普通は、これ逆じゃないか? メロのほうが俺に金を入れるべきじゃないか?
そんな疑問が一瞬だけ頭をよぎったが、すぐ忘れることにした。
なんというか、それを考えてはいけないような気がしたのだ。なんだか、理不尽さこそ世界の心理である、みたいな覚りを開きかねない。
というか今さらすぎる。
仕方なく寝台から降り立って、俺はメロに挨拶する。
壁の時計が、そろそろ朝食の時間だと言っていた。
「――おはよう、メロ。珍しく早いな」
「たまにはね。ていうか、アスタこそどうかしたん? なんか夢見が悪かったみたいだけど」
「いや……少し、時間が飛んだような気がして」
「はあ?」
「迷宮にいたときのことを思い出してた」
「……ああ」
もちろん夢落ちではない。
久し振りに命まで関わるやり取りを経たせいか、どうにも気が立っているようだった。
相手がメロでもなければ、寝惚けて攻撃してしまいかねないくらいには。
日常というもののありがたみは、つくづく非日常でしか感じられないものなのだと痛感する。
タラス迷宮から脱出して、すでに三日が経過していた。
※
セルエが土人形を撃破したおかげで、もはや帰り道に障害はなかった。
上に戻るほど魔物も弱くなっていくし、ていうかあの土人形より強い魔物などいて堪るかという話だ。
その後はすんなりと、俺たちは地上まで戻ることができた。
問題は、だからむしろ迷宮を出たあとのほうだろう。
地上には、管理局から派遣された、いわゆる宮仕えの魔術師が一団で訪れていた。
セルエの手引きで、オーステリアからタラスまで派遣されてきたのだ。
目的はもちろん、銀色鼠を陥れようとしていた連中の拘束である。
それだけで罪は罪なのだが、この程度のことだと「迷宮の内部だから」という理由で当局はあまり動かない。ここまで初動が早かったのは、セルエとガードナー学院長の名前があったからだろう。
先日のオーステリア迷宮での一件も考えれば、何かよからぬ計画を立てている連中がいることは明白だ。
当局が動き出すに充分足る。
だがその甲斐も空しく、当局は結局、ほとんど成果を得ずに引き返すこととなった。
あのアルベルや魔法使いはもちろんのこと、銀色鼠に潜り込んでいた連中は、全員がすでに逃げ出したあとだったらしい。
銀色鼠からの離反者は、そのほとんどがいわゆる幹部クラス、つまり銀色鼠創設初期からのメンバーだったという。
副団長であったガストも、すでに何処かへと消えていた。
シルヴィア曰く、ガストは「銀色鼠結成当初からの付き合い」だというが……果たして初めからシルヴィアを殺すつもりで近づいたのか、それとも途中で七曜教団の連中に唆されたのか。
今となってはそれもわからない。
そもそも、いなくなった銀色鼠のメンバーが今、果たして生きているのかさえ不明だった。
用済みということで、消されていてもおかしくはないだろう。
無論、それが同情に値するかは別として。
そもそも、銀色鼠がタラス迷宮の攻略に挑戦した理由は、ガストが言い始めたからだったという。
どこからか例の《転移の指環》を七つ入手してきたガストは、「これさえあれば七星旅団にも追いつける」と言って迷宮の攻略を進言したそうだ。
元より攻略クランのつもりで銀色鼠を結成したシルヴィアだったが、予想しなかったことに、歳若いシルヴィアに憧れて銀色鼠へ入団してくる魔術師はシルヴィアよりさらに若い、あるいは幼い魔術師ばかりだった。
そのため全体の実力を底上げできるまでは攻略を見送るつもりでいたのだが、指環さえあれば前線への補給も楽になるし、何より若い連中を放っておかずに済む――いい機会だと説得され、シルヴィアは決断に踏み切った。
「学院から治癒魔術師を……ピトスを招こうと提案したのも、ガストだったな」
あのあと、シルヴィアはどこか達観したような表情で言っていた。
多くの仲間に裏切られたクランリーダーが今、どんな気持ちでいるのか、俺には推し量ることしかできない。
かけられる言葉などなかった。何を言ったところで欺瞞になる。
今のシルヴィアに言葉を告げていいのは、仲間であり、そして実の妹でもあるフェオだけなのだろう。
「……姉さん」
とはいえ、そのフェオもまたかける言葉を見つけられないようだった。
彼女もまた、裏切られた側であるとはいえ。
蚊帳の外に置かれていたことが、フェオにとって負い目となっているのかもしれない。
その不安を、逆にシルヴィアが解消する。
「本当は、攻略パーティの七人目には、フェオが入るはずだったんだけどね」
「……そうなの?」
「当たり前じゃないの。貴女はウチでも私に次いで強かったんだから。……でも、ガストが強行に反対してね。結局、エイラを通じて治癒魔術師を呼ぶことになった。ウチに回復魔術を使える人間はいないから」
フェオを弾いた理由はわかる。シルヴィアといちばん連携を取れるのが彼女だからだ。
それくらいなら無関係で、戦闘能力に欠ける治癒魔術師を招き、漁夫の利を狙ったほうがいいと判断したのだろう。
実際は奴らの想定を遥かに超えて、ピトスには実力があったわけだが。結局、襲撃に失敗し、そのために用済みと判断された銀色鼠の面々は殺されたということだろう。
――それを、あの魔法使いがやったとは思えない。
時間的にアルベルでもないだろう。
つまり、あの場には最低でももうひとり、七曜教団のメンバーがいたということになる。
奴らが直接、シルヴィアやピトスを狙わずに帰ったのは、おそらくセルエの動きに気がついたからだろう。迷宮に入っていた奴ら以外にも、外部に連絡役がいたと考えるほうが自然だ。あるいは、それがガストの役目だったのかもしれないが、詳しくはわからない。
もしセルエに連絡していなかったら、最悪の場合、ピトスとシルヴィアは殺され、かつ地上に残った若い魔術師連中まで虐殺されていた可能性もある。
もちろん、連中の考えなどわからないため、初めから銀色鼠の下っ端など歯牙にもかけていなかった可能性はあるが……メロに伝言を託したのは正解だった。
あの時点ではまだ《嫌な予感がする》程度だったのだが。もう少し早く気づいていれば……いや、そこまでは無理だろう。俺は責任を感じることまではしない。
その責任は、俺が奪ってはならないものだろう。
なぜ奴らが治癒魔術師を狙うのか。その理由は未だに判然としなかった。
わざわざ面倒な手順を踏んでまでシルヴィアを殺す理由も結局、確たることは何もわかっていないままだ。
この辺りは、引き続きセルエに情報の収集を頼む以外ないだろう。
……本当に。
面倒な事態ばかりが進行して、肝心なことは何ひとつわからないままだった。
自分の能なし加減に吐き気がする。
ともあれ、その後、俺はオーステリア管理局の診療所まで搬送された。
帰還ではなく、搬送である。
俺だけ断トツで重傷だったため、さすがに医師の制止が入ったのだ。
別に命に関わる傷ではなかったのだが、腕に後遺症が残る寸前くらいまでは酷い骨折であったらしい。
魔力がほぼ枯渇寸前だったのも不味かった。内臓や筋肉があちこちやられており、当局付きの医師が生きた死体でも見たかのような表情になってしまった。
魔物が実在するこの世界では、割と冗談で済まない表現かもしれない。
結局、俺はそのままパーティから離脱。
本当はいろいろと話しておきたいこともあったのだが、セルエに問答無用で魔力を打ち込まれ――もとい麻酔をかけられ、そのまま馬車でオーステリアまで運ばれてしまったらしい。
次に起きたときは、管理局の中で知らない天井を見上げる羽目になっていた。
肉体のほうはまあいつものことと言えばいつものことだったので、特に問題なく魔術で完治。魔力さえ取り戻してしまえばどうとでもなるのだ。
しかし負傷した腕のほうは、そう簡単には治らない。俺は全治一ヶ月の診断を受けてしまった。
幸い、通院せずともピトスが無料で治癒を請け負ってくれるとのことだった。しばらくは彼女の元へ通うことになるが、治癒魔術がなければ軽く三ヶ月から半年はかかるだろう傷だ。
かなり恵まれていたと言っていいだろう。
ただ問題というか、なんというか。
昨日、一回目の治療に行ってきたのだが、どうもピトスの様子がおかしかった。
というのも、なぜかピトスは俺の腕を胸に抱きながら治療してくるのだ。慈しむように、労るように、彼女は俺の腕を抱く。
直接触れてさえいれば、治癒魔術は使えるはずなのだが。決して抱く必要まではないはずだ。しかも胸に押し当てて。
疑問に思う俺の視線に気づいたのか、ピトスは「こうしているほうが、魔術の効きがいいんです」と言った。
かつてまったく同じコトを言っていた治癒魔術師がいたので、たぶん嘘ではないのだろう。
だが正直、毎回これをやられては、身体以前にまず俺の精神が持たない気がする。俺とて一応は男であるからして。ちょいと無防備すぎませんかね、お嬢さん、と思ってしまうのだ。
だが真剣な表情で、一切の他意はないとばかりに治療へ集中するピトスに、そんな下種なことを訊けるはずもなかった。
俺の自爆なのだから、ピトスが気に病む必要はまったくない。それともこれは、迷宮でのセクハラに対する意趣返しなのだろうか。そんなことさえ勘繰ったが、やはり直接は訊けなかった。失礼すぎる。
開き直って感触を楽しんでしまえれば楽なのだろうが、それは俺には難しかった。
これからしばらく、この針の筵のような感覚を味わい続けるのかと思うと……こう、如何とも言いがたい気分にさせられてしまう。
まあ、今回の冒険の代償としては、安い買い物なのだろうが。
※
「――んじゃ、あたしちょっと出かけてくっからー」
とかなんとか言い残してから、ふらりと姿を消したメロを見送って、たぶん三十分くらいが経った。
その間、俺は何をするでもなく、ただ漫然と虚空を眺めていた。
考えることがたくさんあるような気がするが、頭のほうがまともに働いてくれない。そんな感じの気分だ。
こういうときは、何か別のことを考えたほうがいいだろう。
それにしても、メロは相変わらず猫のように気紛れだ。
このまま学院にも興味をなくして、また元の冒険者生活に戻ってくれないかと密かに願っているのだが。
生憎と、それは叶うべくもない願いらしい。
一服でもしようかと、俺は机の上を右手で漁る。
煙草が吸えなくなるのが嫌で、俺は犠牲に左腕を選んだと言っても過言ではない。
だが生憎と、煙草は迷宮と入院で吸いきってしまっていた。
なにせ下宿先が煙草屋だ、手に入れようと思えばすぐに買える。だから逆に、そう多く貯蔵を用意していなかった。
「……仕方ねえ。腹も減ったし、買い物がてら出かけてくるか……」
そう呟いて、俺は椅子から跳ね降りると扉のほうに向かう。
左腕は固定されたままだから、さすがに料理をする気にはなれない。かといって、メロにも親父さんにも、その手のことは期待するだけ無駄だろう。
しばらくは外食が増えることになる。
エイラの奴、せめて報酬を少し増やしてくれないかなあ……。
なんて、そんな淡い期待を抱いていたところ、唐突に足音が聞こえてきた。
どたどたという足音は、たぶん親父さんのものだろう。まあほかにはないのだが。
そして直後、部屋の扉がノックされる。
出かけようとした矢先の瞬間に、俺は少し驚きつつも口角を引き攣らせた。
――何か嫌な予感がする。
動き出しを潰されるとは間が悪い――言い換えるなら、これは運命に意思を邪魔されたということだ。
こういうときは、たいていロクなことが起こらない。
経験から来る、それが俺の悪縁だった。
「――アスタ、いるか?」
「親父さん?」扉越しに訊ねる。「どうかした?」
「どうかした、っつーかよぉ……」
珍しく、親父さんの返事が歯切れ悪い。
嫌な予感はさらに加速した。
「あー……なんだ。お前に、荷物と手紙が届いてるぞ」
「……誰から?」
前もあったぞ、この展開。
警戒する俺だったが、親父さんの答えは要領を得ない。
「誰からっつーかなあ……まあ、とにかく部屋の前だから。じゃあな」
「あ、ちょっ、親父さん!」
制止は聞かず、親父さんは足早に階下へと戻っていく。
なんだかまるで逃げ出すような足取りだ。
いったい、どんな荷物が置かれたんだ……。
不吉な予感が次第に高まっていく。
とはいえ、いつまでも臆していては時間の無駄だ。
避けられないことならば、せめて迅速に処理してこそ魔術師というものだろう。
意を決して、それでもおそるおそる俺は扉を開いていく。
臆病野郎と笑わば笑え。
だがあの頭のおかしな義姉に慣れた俺は、たとえ扉の外に爆発物が仕掛けられていても驚かない――。
「…………………………………………は?」
扉の外には――ひとりの少女が立っていた。
俺は間抜けに口を開いてしまう。
なんの気配も感じなかった。まさかヒトが立っているなんて想定の範囲外だ。
普通にめっちゃ驚いた。
「……つか、え、誰……?」
見知らぬ少女だった。いや、少女というよりも、いっそ幼女と表現するべきだろうか。
外見にして、おそらくは十歳未満だろう。
少し日に焼けたような、褐色の肌が印象的な女の子だ。それはこの世界だと南方の地域に多い外見であるが、黄金色の双眸がその特徴とは相反している。
肩口くらいの髪の色は、たとえるなら夜の海のように濃く深い藍色。俺もこの国では珍しい外見だが、彼女の容貌は俺に輪をかけて人目を引くだろう。
けれどその外見に反して、少女は酷く存在感が希薄だった。
実際、俺は扉を開くまで彼女の存在にまったく気づいていなかったのだから。
曲がりなりにも冒険者としてどうなの、と思わなくもないが、まあそれはそれだ。そんなこともあるだろう。
問題は、彼女がいったい誰なのか、という話である。
酷く粗末な服を着ていた。というかもはや服ではなく布だ。単なる布。
薄れた茶褐色に近い汚れた布を、彼女は外套のように身体へ纏っているだけ。
よもや、これで手紙の配達人だとは言うまい。
わけもわからず硬直する俺。
と、少女は布の中から一通の封筒を取り出すと、俺に渡すよう手を挙げた。
受け取るべきか、取らざるべきか。本気で迷う俺だった。
そこに――少女が静かな声で、棒読みで、原稿を読み上げるみたいにしてこう告げる。
「……おかね、は、ない。けど、」
「は?」
「泊めて? ……おにい、ちゃん」
「へ?」
「報酬は……からだで、払う、ます……?」
…………うぉえあ?




