2-28『日向の狼藉者』
七星旅団において、各自の持つ番号――たとえば俺が六番目であるというような話だ――は、基本的に旅団への加入順を示している。
要するに地位や年齢、実力を示すものではない。一応、一番目である俺の義姉――マイア=プレイアスが団長という形にはなっているが、それこそ形式以上の意味はなく、七星には基本的に縦の繋がりというものがなかった。
強度至上主義の魔術師が徒党を組む場合にしては、珍しい形であると言えるだろう。
ただ仲間内で集って冒険に乗り出す、言うなれば学生の部活動にも似たユルい集まりでしかない。命令系統なんて確立してはいなかった。
とはいえ、全員が初めから素直に旅団へと入ったかといえばそんなことはない。
縦ではなく横の繋がりだけでできた集団にもかかわらず、俺たちの仲は初め、決していいと言えるものではなかった。
むしろものすごく険悪な関係性だったと表現していいだろう。
マイアがなんとなく「七人くらい仲間を集めよう」と立ち上がった際、素直に加入したのは二番目くらいものだ。
あとは俺を含め、全員が一度は誘いを断っている。
あえて自分を棚上げにして言うが、根本的に我が強い連中が多かったため、そう簡単に他人の傘下へ(形だけでも)入ろうとする奴などいなかったのだ。例外の二番目は……まあ単に何も考えていなかっただけだろう。あの男はそういう奴だ。
中でも特に加入に逆らったのが、何を隠そうセルエ=マテノだった。
今の穏やかで優しい彼女からは想像もできないくらい、当時のセルエは荒れに荒れていた。
その理由の大半が、セルエにとって学院時代からの先輩であるマイアに振り回されていたからだというのだから同情に値するとは思うが、正直あのときは本当に大変だった。
セルエを身内に引き込むための駆け引き。まだ加入していなかった俺でさえ、なぜか駆り出されての全面抗争。
――そう、それは抗争だった。
当時の七星旅団である四人と、拒否権なく巻き込まれた俺の計五人。
対するは、セルエが掻き集めてきた荒くれ者の魔術師、総勢三百余名。
それが正面からぶつかって雌雄を決し合ったというのだから馬鹿げている。何をどう間違えばそんな最終戦争へと参加する羽目になるのか、俺は大いに理解に苦しんだ。
あとから話を聞いたメロなどは「なぜあたしを呼ばなかった!」とトチ狂ったことを叫んでいたが、俺だって代われるものなら代わりたかった。あのときはまだメロと敵対していたようなものだったから仕方ない、というかそもそも喜んで参加するだろう彼女の思考には微塵も共感できない。
まあ、それも今となっては昔の話だ。
酒の肴の笑い話。その程度のものでしかないだろう。
――セルエ=マテノは丸くなったのだ。
これでも。……それでも。
※
「――大丈夫? 怪我は……あるみたいだけど、うん。とりあえず死ぬことはなさそうだね」
こちらへと駆け寄ってきたセルエが、そう言って、安堵したように胸を撫で下ろす。
一瞬、俺の腕を見たときに目つきが鋭くなっていたが、まさか味方にやられたとは思うまい。俺もそんな恥ずかしい事実を暴露するつもりはなかった。
「先生……どうしてここに?」
首を傾げて訊ねたピトスに、セルエは「うん」と頷いて答える。
「アスタと、それからメロに呼ばれてね。役目が終わったから駆けつけてきたんだ。……どうやら、正解だったみたいだ」
正確に言えば、俺はセルエを呼んでいない。
確かにメロをセルエの元に差し向けたのは俺だったが、俺はセルエに銀色鼠のことを調べてもらえるよう、メロへ伝言を託したに過ぎない。
呼んだところで、本来ならきっと間に合わないだろうと思っていたからだ。こう都合よく迷宮に現れたのは、あくまでメロの機転である。
「とりあえず管理局には掛け合ったよ」セルエが言う。「動きが遅いから、尻を叩くので大変だったけど、学院長にも協力してもらってね。なんとか、一部隊出してもらうことができた」
セルエの言葉にほっとひと息つく。
どうやら、なんとか間に合ったくれたようだ。
ガードナー学院長にも、のちほど感謝を告げねばなるまい。
「……地上は今、どうなってる?」
「銀色鼠のクラン員は全員、管理局で保護してる。もちろん抜けはいるだろうけど――」
「そいつらは、初めからクランを裏切ろうとしていた連中だろう」
「……そうなるね」
ちら、とセルエはシルヴィアの顔を窺ってから答える。
彼女が銀色鼠の団長であることは知っているらしい。
「管理局に登録されてる名簿のうち、数人が偽証の身分だってことがわかってる。といっても、正直ほとんど調べられなかったんだけど、アスタからの伝言を聞く限りじゃ状況は一刻を争うみたいだったからね。ちょっとばかり、管理局には働いてもらうことにしたよ」
その『ちょっとばかり』に、いったいどれほど恐ろしい手段を採ったのかは想像したくない。
少なくとも、俺はセルエに凄まれたら即時降伏して財布を渡す自信がある。
管理局もご愁傷様だ。戸籍なんてないに等しいこの世界では、クランの登録名簿もまた形だけなのだから。裏を取るのはずいぶんと骨が折れたことだろう。数名を虚偽と断じられただけ充分早い。
「……ま、その辺りの話は戻ってからでいいか」
「そうだな。セルエさえいれば――もうどうにでもなるか」
「アスタはともかく」セルエがばっさりと言う。「メロまでいて、地上に戻れないってことはないんじゃないの?」
「そう思ったんだけどな……」
俺は視線をメロに向ける。実際、かなり大部分を彼女の力に頼っていたことは否めない。
正直、この程度で機能停止する魔術師じゃないと思うのだが……。
どうしてなのかわからないが、合流してからのメロは(彼女にしては)割と大人しいのだ。
とはいえ、その辺りの話も今は後回しにするべきだろう。
「――そういうわけですので、ここからは私が先導します」
と、セルエが言う。視線はシルヴィアに向いていた。
一応、迷宮での行動は全て自己責任だ。本来ならたとえ《助ける》という形でさえ、他者が介入するべきではない。
もちろんそれは建前で、実際は死ぬくらいなら助けてもらうほうを誰だって選ぶだろう。選択肢がある時点で恵まれている。まあ、これも形式ということ。
「失礼ですが、貴女は……? オーステリア学院の職員の方ですか?」
と、シルヴィアがセルエへ訊ねる。
「すみません。申し遅れました、私はオーステリア学院で教師を務めております、セルエ=マテノです」
「えっと……教師の方が、どうして……?」
「そこのアスタから頼まれまして。まあ教師として、というよりは、彼の友人として来たつもりですので、そこはご安心を。生徒と、加えて貴女方の安全は私が保証します」
「セルエは元同僚です」
「……じゃあ!」
と、口を挟んだ俺の言葉に、目を見開いたのはフェオだった。
いや、ほかの連中もそう大差ない。唯一、ピンときていないのはシルヴィアくらいだろう。
セルエは苦笑すると、それから改めて別の肩書きを名乗る。
「はい。一応、これでも元七星旅団です」
「……もしかして、《日向の》――」
「すみません」
言いかけたシルヴィアに、セルエは頭を下げて答える。
その表情には、いくぶん朱が差していた。
「――その呼び方は、どうかやめていただけると助かります……」
恥じらうセルエである。
俺と同じく、七星ではただふたりの《二つ名嫌い派》なのだった。
※
実際、セルエの《強さ》というものは言葉にしにくい部分がある。
見るものが見れば、その強大な魔力と、鍛えられた肉体には気がつくことだろう。一見して、セルエは俺やメロと違い、真っ当に魔術師として強いような雰囲気を持っている。
だがそれは大きな勘違いだ。
仮にも七星の一員。
彼女もまた、実際には《真っ当》から大きく外れた魔術師である。
セルエは悠然と先頭を歩いた。俺たちは、その後ろにただついて行く。
それだけのことを、数十分に渡り続けていた。俺たちは数層の範囲をただ歩いていた。
――だが迷宮において、《ただ歩く》という行為がどれほどの異常が、この場にわからない人間はいないだろう。
「魔物が……いない?」
さすがに不審に思ったのか、フェオがそれを言葉にした。
先頭を行くセルエは振り返らない。だから代わりに、俺がその種明かしをする。
本来なら魔術とは秘するものなのだが、見せた以上はあまり関係がない。
というか、知っていたところで彼女と同じことができる魔術師などそうはいないだろう。
「いないわけじゃないよ。単に、出て来られないだけ」
俺は答えた。興味を持ったように、シルヴィアが言う。
「……どういうこと?」
「ひと口に説明するのは難しいんだけど」断ってから続ける。「魔物は人間を襲う。これは魔物の本能というか、根源的な衝動というか――とにかく、魔物にとって逆らい得ない絶対の命令のようなものだ。どんな状況であれ、そこに人間がいれば、魔物はそれを殺そうとする。ほかのことは一切無視してでも」
「それは知ってる。だからこそ、迷宮で魔物に襲われるんでしょう」
「でも逆を言えば、そこには理由がない」
「理由……?」
「そう。たとえば野生の動物がほかの生き物を襲う理由は、究極的には《生きるため》だ。まあ《食べるため》だったり、あるいは《身を守るため》だったり様々ではあるんだけど、少なくとも野生の生物はなんの理由もなく、たとえば快楽なんかを求めて殺しをしない」
ひと息。俺は疲れを払って説明を続ける。
「けれど魔物は《人間を殺す》という行為そのものが目的だ。そこが違う――なら、それさえ取り払ってしまえば、魔物が人間を襲う理由はなくなってしまう」
「ま、魔物の精神に干渉してるの……!? そんな馬鹿な! いや、その領域までいったらもはや魂の改変に近い。喪失魔術の領域じゃない!」
シルヴィアの驚きはもっともだった。
ただでさえ精神干渉系の魔術師は稀少だ。ルーン魔術並に少ない。まあ治癒魔術師よりは多いだろうが、それでも稀有な術者なのだ。
なぜなら、精神干渉は難易度が高い割に効果が低い。特に相手が魔術師ともなれば、魔力で簡単に抵抗されてしまうのだ。費用対効果が悪すぎて、覚えようという者が少なかった。
それも相手が魔物となればなおさらだ。人間にとって《理解できないモノ》である魔物の精神に、魔術師が干渉できるはずがなかった。そんな技術が存在しているかどうかさえ疑わしい。
だから――当然、セルエにもそんなことはできなかった。
「もちろん違う。セルエの魔術は精神干渉じゃない。まして魂の改変なんて――普通に無理に決まってる」
「じゃ、じゃあ彼女はいったい何を……」
「わからない」
「はあ!?」
「いや、本当にわからないんだよ。セルエの魔術はかなり概念的で、同じことができない俺じゃあ理屈はともかく、感覚的にそれが理解できない」
「私からすれば、アスタの印刻魔術のほうがよっぽどわかんないんだけど」
前を行くセルエから茶々が入るが、無視である。
お互い、ほかには滅多に術者がいない稀少な魔術を使っているという点では同様だ。だが俺はセルエの術式が微塵も把握できないし、セルエもまた俺の術式が欠片も納得できないという。
まあ、知らない分野の技術なんて、そんなものではあるのだろうが。
「ともあれ、それがセルエの魔術です」
霊魂や概念に作用する複合的技術。
魔術によって世界観転換を引き起こす、あらゆる魔術の中で最も《矛盾》に寛容な系統。
「――それが、《混沌魔術》」
印刻魔術もかなり解釈に幅の利く系統ではあるが、セルエの魔術はもはや応用が利くというレベルではない。
まったく別の魔術を混ぜ合わせ、なんの因果関係もない複数の神話を引用し、その発生から異なる宗教観をごちゃごちゃにないまぜにして、ひとつの魔術として発現する。
普通魔術、元素魔術、儀式魔術、召喚魔術、結界魔術、護符魔術、占星魔術、錬金魔術、数秘魔術――。
その全てを足し合わせて、結果としてまったく新たな《一》を生み出す系統。
それが《混沌魔術師》セルエ=マテノが用いる術式であり。
そして驚いたことに――あくまでその一側面でしかない。
※
俺たちは、戦いの大半を避けて十一層まで戻ってきた。
ときおり抵抗力の高い魔物との、避けられない遭遇がないではなかった。
だが、それもセルエを前にしては砂上の楼閣よりも脆い。ましてメロまでいれば万全と言えよう。
セルエの混沌魔術は、はっきり言って、あらゆる魔術の中でもいちばん意味がわからないと俺は思っている。
いや、わからないという意味ではメロの創作魔術やピトスの治癒魔術も変わりないのだが、これらは初めから《理解できないモノ》として納得しているから問題ない。翼を持たない俺が、空を飛ぶ鳥に疑問を抱かないようなものだとたとえればいいだろうか。
だがセルエは逆だ。理解はできても納得はできない。
なまじ中途半端に理解できる理屈で、微塵も納得のいかない結果を引き起こされるのが、正直いちばん始末に負えないと思う。
印刻魔術を漢字でたとえるのなら、俺が《火》とか《雹》とか書いて必死に相手を攻撃している横で、セルエは《仏恥義理!》とか書いて敵を倒してた、みたいな感じ。
ちょっといい加減にしてくれませんかね、と俺じゃなくても思うだろう。
無論、その彼女に助けられてここまで戻ってきた以上、文句などあるはずもない。
というか今さらだ。セルエの意味不明っ振りはこれまでさんざん味わっている。考え方次第では、まあメロよりマシという気がしないでもない。
先ほどの漢字のたとえで言うなら、メロはもはや文字さえ書かずインクぶちまけて染みを作っただけで魔術を発動させているような感じか。「え、これ読めないの?」とか言いながら。
一方、セルエから見た俺も、理解はできるが納得はいかないらしい。
俺の場合、《火》と書きながらそれとはまるで関係ない魔術を使ったりするわけで、それがセルエにはちんぷんかんぷんなのだとか。
……まあ、お互い様といったところだろう。
というわけで十一層――例の土人形がいる層である。
土人形は、なぜか先ほどよりわずかに巨大化しているようだった。
「……まずいな。強くなってる」
俺は零すように呟いた。迷宮の瘴気を、胸元の魔晶から吸引したのだろう。
その効果は主に防御力として発揮されているように見えた。
セルエが小さく、わずかに困ったように言う。
「うん、魔術干渉に対する抵抗力も高いみたいだね。私でも直接干渉は無理かな、これは。驚いたな……こんなところに出てくる魔物じゃないでしょ、これ」
「どうするの?」
シルヴィアが言った。最悪、自分が犠牲になると言い出さんばかりに鬼気迫っている。
だが、そんなことはもう求めていない。ここまで来たら、あとは全員で帰るだけだ。
俺はちらり、とメロに視線をやり、それからセルエにこう言った。
「――俺がやるよ。あと一枚くらいなら、切れる札もある」
大嘘である。俺がやる気など微塵もなかった。
案の定、セルエは露骨に嫌な顔をした。というか明確に怒っていた。
「何それ……馬鹿にしてる?」
「なんで」
「腕まで折れてるのに。前に立たせるわけないじゃん」
「いや、奴とは二戦目だからな。やられっ放しじゃいられないから、ここらでリベンジしようかと」
「リベンジ……?」
「ああ。なにせ一戦目は酷い目に遭わされたからね。俺だけじゃなく、シャルも。あとフェオも」
「……そっか。おかしいと思ったんだよ、アスタがここまで怪我するなんて。なるほどね……コイツにやられたんだ、その腕」
すっ――と声音が冷え切った。
セルエが纏っていた穏やかな雰囲気が、急激に零下まで冷え込んでいく。
「え、あの、いや……それは、」何かを言いかけたピトス。が、「むごっ!?」
その口をメロに押さえられていた。
悪いな、ちょいと黙っててくれ。
別に嘘は言ってない。でも、セルエが勘違いする分にはね、ほら、俺のせいじゃないし。
……心苦しいとは思うが、そうでもしなければ、セルエは昔の彼女に戻らない。
セルエは、身内を傷つけられることを何よりも嫌う性格だ。
かつての仲間である俺や、教え子であるシャルとピトスを傷つけたのが目の前の土人形だと(違うけど)知れば、彼女はきっと怒ると思っていた。
鬱憤も溜まっていたことだろう。前回、オーステリアのときにセルエは間に合わなかった。
明確に身内を傷つけた相手へ、それは報復の機会を逃したということだ。
――そう、勘違いしてはならない。
彼女の言う「間に合った」は、もちろん俺たちを助けられたという意味でもある。
だが同時に――復讐の機会に「間に合った」という意味でもあるのだ。
彼女の裏の人格は、発散の機会を決して逃さない。
「そっか。そっかそっかそっかそっかそっか」
俯き、震えるような声でセルエは言う。
それは怒りに対する震えであり、同時に歓喜の震えでもある。
彼女にとって、それは矛盾しないことだ。
どちらも正。彼女の二面性に、だから本当は、表も裏もないのだけれど。
セルエは噛み殺すように、小さな声で言う。
「――テメエが、オレの身内に怪我させやがったワケだなオイ」
……うん、表も裏もないんだけれど。
便宜的に、こちらが裏ということで満場一致だと思う。
いや、だって恐えから。
「せ、先生……?」
この状態のセルエを見たことのないピトスが、どこか怯えたように声を震わせる。
セルエは聞いていなかった。
「なるほど……いい度胸じゃねえかコラ。つまりはさあ、それ、壊される覚悟はできてるってコトだよなあ……?」
「……えぇー……」
まあ、あの《優しいセルエ先生》がこんな風になれば、誰だって怯えるとは思うが。
ほかの連中も、メロを除けば軒並みセルエの豹変に戸惑っている。
ともあれ、俺はピトスに告げた。
「見ておいたほうがいいぞ、ここからのセルエを」
「アスタくん? な、何が……?」
「たぶん、セルエはお前が目指す先に立ってる魔術師だから」
「――それは」
「いや。単純な話――」
す――とセルエが、ゆったりとした歩調で前に歩いていく。
その様子は、いっそ無防備でさえあった。
当然、土人形はセルエを押し潰さんと腕を振り上げる。
巨大な石柱の腕。そんなものを振り落とされれば、セルエの細身はひとたまりもないように思える。
だが、気づくべきだった。
メロと同じく魔術を用いる戦法のセルエが、けれどメロとは違い肉体までしっかりと鍛え上げられている事実に。
左足と左手を前に、セルエが半身の構えを取った。
それから右手を握り込む。その内に、暴風の如き魔力が秘められた掌を。
そして――、
「セルエは、混沌魔術なんて使わないで、生身で戦ったほうがずっと強いからな」
《日向の狼藉者》は、その右手を思いっ切り抜き放った。
「――吹き飛べ、人形」
振り下ろされた腕を、セルエが真正面から殴りつける。
――。
と、そのとき音が消えた。彼女の右腕は空気の振動さえ置き去りに放たれていた。
比ぶべくもない巨大な腕を、その細腕で、真正面から弾き返してみせるセルエ。
直後。爆音が、遅れて迷宮に轟く。
ただの打撃でしかなかった。振り被って右腕でパンチを放つ。言葉にすればそれだけの行為。
だがそれも、極めれば必殺の一撃だ。自身に数倍する巨体を押し返し、どころか弾き飛ばし破壊し、石を単なる砂にまで戻す。
巨腕を豪腕に撃ち返された土人形は、その身体を崩壊させながら迷宮の壁際まで吹き飛んだ。
いったいどこにそれだけのエネルギーが秘められていたのか。
魔弾より速い速度で壁にぶつかった土人形は、その質量を完全に爆散させ、元の魔力へと戻っていった。
文字通りの一撃必殺。
放つは通称、《裏人格セルエさん》。
かつて百余名の舎弟を直属に、そしてその指揮下数十からなる族と、数百名に及ぶ部下を傘下へと収めた女傑。
孤狼と呼ばれた、最恐の格闘型魔術師。
それが、なんつーか、荒れていた時代のセルエ先生だった。
似合わないと思うだろうか。
だが、そうでもなければ《日向の狼藉者》なんて恐ろしい二つ名はつかないだろう。
混沌魔術で意図的に人格を分離させた、魔術的二重人格者――。
それが、彼女なのだ。
セルエはこちらへ振り返ると、にっこりと笑って俺たちに言う。
今はもう、元の《表人格セルエさん》に戻っているのだろう。
だが初めて見る連中からすれば、今のセルエの笑顔などもう怖くて仕方ないと思う。
実際、慣れている俺でも普通に怖かった。メロまで歯向かわせないのだから本物だ。
「――さて、先を急ぎましょうか?」
たぶん、全員が一斉に頷いたことと思う。




