2-27『ぼくのかんがえなかったさいきょうのみかた』
メロとシャルに追いついたとき、ふたりはすでに引き返してきているところだった。
砕けて折れて、一部肉を突き破って骨が顔を出していた俺の腕をグロ状態から回復させるまでに、時間がかかりすぎてしまったのだろう。
なんかもう足しか引っ張っていないような気がする。気のせいだと思いたい。
正直、迷宮下層を覆っていた内部結界が壊れ始めたときは焦った。
そして何より、ピトスの口から聞いた《アーサー=クリスファウスト》の名は、俺をひとつの絶望へ叩き込むに充分すぎる威力があったと言える。
――あの男は、そう簡単に世界へ手を出せる状態じゃない。
そのことは知っていた。しかし、その範囲を自ら超えるであろうメロと、奴の実子であるというシャルの存在は不安要素として大きすぎる。まさかあの魔法使いがいようなどとは考えなかったのだ。甘かったことは否めないが、こんなところに奴が出てくると考えるほうが無理があると言い訳したい。
だから、というわけでもないが。
至極普通に、あっさりけろっとした様子で現れたメロを見たときは、安堵より先にちょっとした理不尽さを感じたものである。
「――メロ、シャル!」
とはいえまあ、普通に歩いて戻ってきたところで合流できたのは僥倖だ。
メロはいつも通りあっけらかんとした様子で、こちらに向かって片手を挙げて笑う。
「や、アスタ……ってうわ、どしたのその腕?」
「いやまあ別に」さらりと誤魔化す。「つーかお前ら、無事か?」
「うん。いちばん奥まで行ったんだけど、何もなかったから普通に引き返して来たよ」
「え……ええっ!? どうして……」
その言葉に、ピトスが最も驚いていた。まあ、あのクソジジイなら、途中で『飽きた』とか適当な理由で引き返してもおかしくない。
あの男は常に自分だけの理屈で動いている。決してそれ以外の法則に左右されることはない。
どうやら、メロたちが奴と遭遇することはなかったのか――。
「…………」
そう断じかけ、直前で違うと思い直した。今、メロはおそらく嘘をついた。
メロ自身というよりは、シャルの様子からその考えに辿り着く。合流してからというもの、シャルの様子がどこかおかしい。
考えてみれば、もし本当に何ごともなかったのなら、メロはもう少しつまらなそうにしていただろう。
どこか機嫌がいい時点で、気づくべきだったのかもしれない。
「わたしはいったい、なんのために……」
割と本気で落ち込んでいるらしいピトスは、とりあえず放っておく。
ともあれ、今は一刻も早く迷宮から出るべきだろう。
遭遇してしまったにせよ、無傷で帰ってこられたのなら問題ない。運がよかった、というか、悪運がよかったというべきか。
因果律それ自体から放逐されているあの男は今や、そう簡単に運命へ干渉できる立場にない。
だからこそ、その縛りを超えたときは厄介なのだが。
「メロ、壁抜けの術式頼む。さっさと帰ろう」
俺はメロにそう告げた。あの術式を使えれば、厄介な土人形と戦うことなく地上まで帰れる。
だが、なぜだろう。メロはにこりと嫌に綺麗に微笑むと、優しい口調でこんなことを言った。
「あ、ごめん。あれ無理」
「――ふぁっ!?」
思わず変な声が出た。
無理って。……いや無理って!
「結界が壊れた影響かな。瘴気が乱れて空間が変異してる。あの魔術も一応は空間干渉系だからね、無理に使ったら反動で身体が真っ二つになるかもしんないけど。それでもいい?」
「……いいわけねえー……」
「あともうひとつ言っておくと、いい加減に魔力もやばいんだよねー。もともと粗の多い術式だし、壁一枚抜けるたびに新しく使わなきゃいけないじゃん? さすがにねー」
「……」
もはや言葉も返せなかった。合流の喜びから一転、俺は一瞬で絶望する。
いや、まずい。普通にまずいコレやばいマジかオイうっそだろ、えぇぇぇ……。
あれだけの強敵を乗り越えたあとに、迷宮の魔物から普通に殺されましたとか冗談にするにはタチが悪すぎる。
「――なら、私が前に立つわ」
ふと、そのとき俺の背中から声がした。
後ろから、という意味ではない。
俺が負ぶっていた彼女が、意識を取り戻したという意味だ。
「姉さん、起きたのっ?」
弾かれたように顔を上げるフェオ。
シルヴィア=リッターは、如何とも形容しがたい表情で頷いた。
「ええ――なんだか、だいぶ迷惑をかけてしまったみたいね。アスタくん、ありがとう。下ろしてくれて構わないわ。腕も怪我しているのだし」
「……では」
と俺はしゃがみ込む。正直、自分の足で歩いてくれるのならありがたい。
格好つけて「俺が背負う」と言い出したはいいものの、片手が塞がった状態で人ひとりを運ぶのは不安がある。
地面に降り立つと、さすがにシルヴィアはふらつくこともなく立ち上がった。
病み上がり、というか気絶から回復したばかりではあるが、体力的にも魔力面でも、現状でいちばん余力を残しているのが彼女だろう。
彼女はなぜかまず俺に向き直って言う。
「正直、状況は掴めていないけれど。今はもう、地上へ戻るところなのよね」
「ええ……そして起きたばかりで申しわけありませんが、状況は最悪のひと言です。現状そのもの以上に――貴女を取り巻く環境が」
上層で死んでいた《銀色鼠》のクランメンバーが、経緯はどうあれ、彼女を裏切ったことは間違いがない。
おそらくは幹部クラスであろう攻略チームのメンバーが揃って背信したという事実は、それ以上の現実さえ想像させる。今の彼女に、それを受け止められるかどうかはわからない。
それでもあえて告げたのは、一応、彼女に対する信頼の証のつもりだった。彼女自身もわかっていることだ、隠す意味さえない。
そこに気づいてか、気づかずか。
シルヴィアは小さく頷くと、こう告げる。
「私が前に立つわ――フェオ、手伝ってもらっていい?」
「姉、さん……」
「事情はどうあれ、これは私のクランの――《銀色鼠》の不始末には変わりない。今さらだけど、地上に送るくらいのことはさせて頂戴」
「……わかった。姉さん、この剣」
と、フェオが預かっていた銀剣をシルヴィアに返そうとする。
しかしシルヴィアは小さく首を振り、
「それはフェオが持ってて。あなたは剣がなければ戦えないでしょ。私は魔術もそれなりに使えるから」
思うところは、お互いにいろいろあったことだろう。
けれど、ふたりはそれを口にしなかった。
フェオは小さく頷くと、「わかった」とだけ姉に答える。
シルヴィアもまた首肯するとこちらに向き直り、
「そういうわけだから、わたしとフェオのふたりで先行するわ。申し訳ないけれど、周辺警戒だけは任せても構わないかしら。……ふたり揃って、そういう魔術はからっきしダメなのよ」
元は騎士、つまり迷宮外で戦う人間だっただったというシルヴィアと、その彼女に師事したフェオでは、確かに索敵や警戒網の効果を出す魔術を覚えていなかったようだ。
特に不満はない。というか初めから彼女たちだけに責任を押しつけるつもりはなかった。
「もちろんです。迷宮に入った以上、戻るまでの責任は全員で均等ですから。といっても、俺はもうほとんど役に立たないと思うので――」
「んじゃ、それはあたしがやるよ」
「わたしも。――たった一回とはいえ、銀色鼠のメンバーに入っていましたから」
メロとピトスが口々に言う。このふたりなら、まだしも戦闘に堪え得るだろう。というか完全な役立たずは現状、俺だけだった。
あとはシャルなのだが、彼女はなぜか先ほどからまったく口を開かない。心ここにあらず、というような感じで、漫然とそこにいるだけだ。
――何かあったのだろう。そう察するのは難しくない。
だが何があったかまではわからないし、その事情を斟酌してやることもこの状況では難しい。
「シャルも、悪いが援護頼んでいいか?」
「え、――あ、うん……」
「ありがとう。助かる」
それだけ告げておいた。今はこれで充分だろうし、そもそもこれ以上は望めない。
あとはこの六人で地上に戻るだけなのだが――問題は、待ち構えているだろう、あの土人形だ。
「フェオとシャルは知ってると思うけど、上の層にちょっと強い魔物がいる。正直、ここまで疲弊した俺たちで突破できるかはわからない」
「まー、だいじょぶだと思うよ?」
と、俺の言葉にメロが楽観的な答えを返した。
実際まあメロがいればなんとかなるような気はするのだが、その彼女だって余力は決して多くないだろう。
せめて気を引き締めるよう、彼女に視線で告げようとすると――。
「――だから、だいじょぶだって」
「…………」
「とりえあず行ってみよ? 案外なんとかなると思うよー」
彼女は何も、考えなしに言っているわけではないようだった。
たぶん何かを隠している。
付き合いの長さからそのことに気づいた俺は結局、彼女を信じてみることにした。
※
そう、俺は気づいていなかったのだ。
メロは、オーステリアの街で襲われたと言っていた。それを撃退して、彼らが持っていた指環を入手したとも。シルヴィアやピトスも持っている、例の転移魔術の術式陣が刻まれているという魔具のことだ。
それを見たからこそ、彼女は擬似転移魔術を自力で開発することができた。
だが今、彼女はその指環を持っていない。どこかに隠し持っているのかもしれないが、その様子はどうやらないと思える。
もちろん、この一方通行の指環で地上に戻ることはできない。だから気にも留めていなかった。
いったいメロが、手に入れた指環をどこに置いてきたのか――誰に渡したのか。
俺はそれを、すぐあとで知ることとなる。
※
――その後は、この迷宮に入って以来、最も厳しい戦いが続いた。
危険な場面は幾度もあり、そのたびに死が脳裏をよぎる。それでも生き残ることができたのは、前を行くシルヴィアとフェオ、そしてメロがいたからだろう。
フェオの剣の冴えは圧倒的だった。ただでさえ剣技に長けた彼女が、今はエイラの作った強力な魔剣を持っている。対魔力に優れた性質を持つその銀剣は、魔力でできた魔物の身体を紙よりも容易く斬り裂いた。こと魔物との戦いに限れば、彼女の剣技は反則の範疇だろう。
もちろん粗というか、隙を見せることもある。ただ、そのバックアップをするシルヴィアの魔術もまた高いレベルにあった。剣の通じにくい、硬い身体や粘性の魔獣などは、彼女が魔術で射抜いていく。見るに、おそらくは火属性の元素魔術だろう。剣技に比べれば拙い魔術だが、その威力はかなり高い。矢のように魔物を射抜いては、その身体を炎上させていく。火に耐性のある魔物がいなかったとはいえ、手放しの賞賛に値する実力があった。さすがに銀色鼠の団長だけはある。
もちろん、それでもギリギリの戦いであることに変わりはない。
迷宮の魔物には様々な種類がいるし、数は無限に等しかった。ときには物量やその特性に隙を突かれ、前線を突破されることもある。それを零にできれば誰も困らない。
そこで前に立つのがメロだ。
その実力は言うまでもないだろう。シルヴィアとフェオが少しでも手間取った魔物は、メロが一瞬で蒸発させる。攻撃するたびにまったく別の魔術を使う彼女は、それこそ底なしのようにしか見えなかった。魔力が残り少ないだなんて、単なる嘘じゃないかと疑いたくなるほどに。
最悪、俺たちさえ見捨ててしまえば、彼女はひとりで生還できるだろう。
皆が傷を負い、少ない魔力を枯らさんばかりに戦っていた。
支援に回るシャルと、回復を担当するピトスもそれは変わらない。俺も、せめて盾くらいには活躍しなければならなかった。
進みは順調だ。俺たちは少しずつ、けれど着実に迷宮を上っていく。
だが際限なく増え続ける魔物と比べて、俺たちの余力は着実に減少し続けていた。
全滅は避けることができたとしても。あの土人形を相手取るなら、犠牲は避けられないと思わせるほどに。
――迷宮とは、本来初めからそういう場所だ。
※
そんな状況に変化が訪れたのは、およそ十数層を上に進んだ頃だった。
「――誰か、います」
通路の曲がり角を前にして、ふとピトスがそんな風に叫ぶ。
鋭い口調だった。しかし言うまでもなく、その場にいる全員が気づいている。
なんの魔術を使わずとも、ただその場にいるだけで伝わってくる濃密で強大な魔力。どんな鈍感でも悟らずにはいられない存在感。
そんなものが、この先の通路から伝わってくる。
――魔物ではなかった。
瘴気ではない純粋な魔力は、持ち主が魔術師である証左だ。
だが、なんの感知魔術を使わずとも察せられるほど強大な魔力を持つ術師が、いったいなぜこの場にいるというのか。
いい想像は浮かばない。というか、思い浮かぶのは最悪の可能性ばかりだ。
ともすれば、あの《七曜教団》を名乗る連中の誰かが、そこで待ち構えているかもしれないのだから。
楽観視などできるはずもなかった。
「……、あ」
しかし、俺はそこで気づいていた。俺を除けば、たぶんメロだけが同じことを知っていただろう。
そう、俺は以前にもこの魔力を感じたことがある。
澄んだ日差しのように清純で暖かな魔力。それだけで、この持ち主の人格がわかる気がする。
……というか、明らかに知っている人間だった。
「……お前の仕業か」
メロに問う。考えられるのはそれだけだ。
彼女は薄く微笑むと、悪戯が成功したような風に言う。
「だから言ったじゃんか、だいじょぶだって」
「なるほど、ようやくわかった。渡してきたのか、あの指環を」
「念のためね。向こうでやってもらわなきゃいけないこともあったから、まさか本当に使うことになるとは思わなかったけど……ま、間に合わせてくれる相手でしょ?」
――やられた。と、俺は素直に思った。
なるほど、これは最高に安心できる援軍だ。これ以上なんてあり得ない。
彼女がここに現れた時点で、もう俺たちには傷ひとつつくことがなくなった。そんな可能性は消え去った。
それほどの信頼を置ける相手だ。
刹那――どかん! という爆発音にも似た重たい響きが轟く。
直後、目の前の曲がり角から何かが高速で吹き飛んできて、そのまま壁に直撃した。
べちり、と肉の弾ける音がする。
――二足歩行の豚みたいな醜い魔物だった。
そいつは背中から壁にぶつかると、そのまま爆発するみたいに魔力へ還る。肉体を持たない魔物でなければ、相応に凄惨な光景が広がったことだろう。
咄嗟に身構えるみんなに俺は告げる。
「大丈夫。――味方だよ」
そして――魔物を倒した魔術師が姿を見せる。
曲がり角から、慌てたように駆け寄ってくるひとりの女性。
フェオとシルヴィアは、その顔を知らないかもしれない。それを知っているピトスとシャルだって、彼女の強さまでは見たことがないだろう。
だが、俺とメロならばよく知っている。
かつての仲間にして、世に名を謳われる最強の一角。
「――よかった。今回は、間に合ったみたいだ」
現れたその姿を見て、ピトスが瞳を丸くする。
「せ、先生……?」
――七星旅団の五番目。
世間にはその正体を隠すが、それは彼女自身の無名を意味していない。かつては名うての賞金稼ぎとして各地を渡り、賞金首以上に厄介者扱いされた暴君にして女傑。
今では丸くなったものの、その実力が衰えたわけでは決してない。
なにせ七星に入る以前には《太陽を呑む狼》、《混沌の破戒者》とまで呼ばれた、旅団きっての武闘派にして暴力派――。
「うん、そうだよ。――もう大丈夫。わたしが、助けに来たから」
――《日向の狼藉者》。
セルエ=マテノの姿が、そこにあった――。




