2-26『裏話/魔法仕掛けの神』
その名を聞いた瞬間、メロは弾かれたように動きを作った。
ひと言で表すなら突進だ。
動きとしては、ただ前に向かって直進しただけ。だがその速度も圧力も、単に《突進》などと表現するには埒外すぎるものがある。
余波に晒されただけで、シャルはそのまま後ろへと吹き飛ばされた。まるで目の前で火魔術の爆風が生じたかのような勢いに、シャルは堪らず尻餅をつく。
立ちはだかるもの全てを薙ぎ倒す台風のように、あるいは大気を貫き星さえ穿つ隕石のように。
《天災》の二つ名に恥じぬはずの、それは理屈を超越した攻撃だった。
そう、攻撃だった。
数メートル以上の先にいた魔法使いは、けれど動じることがない。
魔術師失格の、名乗りさえない不意打ちを、アーサー=クリスファウストはただ片手で受け止めた。
わずか前に、メロ当人がアルベル=ボルドゥックの魔弾を片手で受け止めて見せたのと、形としては同じものだ。
意趣返しのように見せつけられた行為だが、先ほどの戦闘を魔法使いが知っていたかはわからない。いや、おそらくは知らなかっただろう。
だが結果として、その行為はメロに格の違いを植えつけるだけの意味を生んだ。
そう、魔法使いの行為は――防御でさえなかったのだから。
ふと気づけば。メロは、つい一瞬前まで自分が立っていたその場所に戻っていた。
「な――」
理解できない異常が、メロの意識に空白を生む。それは隙と呼ばれて然るべき失態だったが、魔法使いはたた泰然とそこに在るだけで、攻撃の意思さえ見せていない。
すぐ背後では、転んでいたはずのシャルまでもが同じく立った状態に戻っていた。
まるで攻撃そのものをなかったこととされたみたいに。
メロが攻撃する直前まで、時間が巻き戻ってしまったかのように。
魔法使い、アーサー=クリスファウストは、悠然とその場所に立っていた。
違いといえば、彼が右手を挙げていることくらいのものだ。
それがなければ、メロは本当に時間を巻き戻されたと疑わなければならなかっただろう。
「……《天災》、だったな。なるほど、上手い名づけをする奴がいたものだ。いっそ皮肉なほどにな」
魔法使いが言う。
メロは、自身にいつ以来かの冷や汗が浮かんだことを自覚した。
ここまでの死線は、久しく潜った記憶がない。
「だが駄目だな。攻撃する意思なんて、何かを害そうとする思考なんて――そんな小賢しい瑣末を持っている時点でお前は災害たり得ない。天災は理屈が通じないから天の災いなんだろうが。先手を取ろうだなんざ――そんな間抜けを考えた時点で名前負けだぜ?」
「知った風に……言ってくれるじゃんか」
「知っていれば言うさ。だからこそ《自己自身者》と呼ばれている。今、お前は考えて行動をしたな? それが間違いだ。天災に敵なんて存在しない。だから天災は攻撃をしない。ただ在るだけだ。そうでなければならなかった。にもかかわらずお前は今、《先手を取らなければ勝てないかもしれない》と保身に走った。そんなものが――オレに通じると思ったか」
「このあたしが、保身で攻撃したと?」
問い返す声がわずかに震えていた。
どこかで認めていたのだろう。
「ああ。お前はあくまで理屈に、法則に則って動いている。それがほかの誰にも理解されないだけで、お前自身の中には確固たる論理が存在している」
アーサーの口調には、たとえるなら教え子に理を説く教師のような風情がある。
シャルはふと、目の前の男がアスタ=セイエルにとって魔術の師であったことを思い出していた。アーサーが残した研究室には、彼がアスタと合同で行ったらしき魔術関係の書物や、そのもの魔導書が多く残されていたことを覚えている。
だからシャルはアスタがアーサーの弟子だと知ることができたのだし、残された魔術書を読み解いて独学から魔術を学ぶことができたのだ。
――しかし、だとするのなら。
理を超越した魔法使いこそが、最も理に則った行動を取っていることになる。
魔法使いは言葉を続けた。
「それが悪いとは言わねえけどな。どんな災害だって、物理法則の上に生じている。だがそれは災害そのものの意思じゃねえだろう。作られた法則なんぞに追従するな。随従するな服従するな。呑み込んで上に立て、お前が法則の側になれ。それができないうちは、一生かかったってオレにゃあ届かねえよ――わかったか、なあ、天才少女?」
――ふざけたことを言う。
とは、メロも思わなかった。それが自分でさえ意外だった。
反発する気持ちがないわけじゃない。けれど、どうしてかアーサーの言葉は、すとんと抵抗なくメロの腑に落ちていった。
今の言葉を聞かされただけで。それだけで、魔術師としてのレベルが一段階上がったような。
そんな気分にさえさせられていた。
だが換言すれば、それは現状での敗北を認めてしまったことにほかならない。
世間で《最強の魔術師は誰か》という議論が話題に上がるとき、自分の名がその候補に上がることにメロは自覚的だった。それくらいの《強さ》というものを、メロは自身に認めていた。
とはいえ意外にも、メロは自分自身を《最強》だと思ったことは一度だってない。
メロは《最強》という称号に憧れている。その頂を目指すためだけに魔術師となった。
伝説と呼ばれる《七星旅団》の中でさえ、本心で最強を目指しているのはメロだけだろう。ほかの連中は、そういった俗な肩書きに一切の関心を持たない。
七星の中ですら、メロより強い人間のほうが多いのだ。自らの師である《超越》の魔術師に、メロは数え切れないほどの敗北を重ねてきた。教授とあだ名される、七星で唯一《魔導師》の称号を持つ相手だって、メロと互角以上の戦いをするだろう。
あのアスタまでもが、初めて会ったときにはメロを正面から下している。
だが、その誰を相手にしたところで、メロは《勝ちたい》と思っても、《勝てない》と思ったことはない。
にもかかわらず、メロは魔法使いを相手に《勝てない》と思ってしまった。
思わされてしまっていた。
その上で――しかし《勝ちたい》とは決して思わなかったことが不思議だ。
いや、わかってはいるのだ。
だって、メロと魔法使いでは戦いにさえならなかった。
目の前の魔法使いは戦う人間じゃない。ただそこに、そうあるべくして在ったに過ぎない。
単に越えられない壁へと自分からぶつかって、当然に跳ね返されたというだけ。
その上で壁自身から、「そのやり方じゃ登れないぞ」と助言まで受けているのだから始末が悪い。もはや喜劇、単なる笑い話でしかなかった。
「そうだな。次からは、まず自分の魔術に《名前》をつけてみろ。まずは論理から極めてみせろ。話はそれからだ、《天災》」
あくまでも助言に徹する魔法使いの言葉。その正しさをメロは本能から察していた。
けれど、だからこそメロは同時に理解する。
壁は越えられない。少なくとも今の自分では。
そして同時に――壁もまた、乗り越えようとする人間には干渉できないのだ。
「……わかった。今回は諦めるよ」
メロはそう言葉にした。
敗北宣言ではない。次は殺すという意思の宣告だ。
その発言に、魔法使いは盛大に口角を歪めた。
「その言葉が言えるなら充分だ。あのバカよりはずっと見どころがある」
「あのバカって……アスタのこと?」
「ああ。せっかくオレが手解きしてやったっつーのにな。オレはアレより救いのないバカを見たことがねえよ」
魔法使いは愉快げに笑う。
その言葉の意味を、果たして額面通りに受け止めていいものか。
メロにはわからなかったし、蚊帳の外に置かれたシャルもそれは同じだった。
だが、流されてばかりはいられない。
目の前の存在は、シャルがずっと焦がれていた相手なのだから。
ここで言葉を作らないことを、シャルロット=クリスファウストは自身に対して許せない。
「――ね、ねえ!」
と、シャルは言葉を発した。
魔法使いは「お」と驚いたような表情になり、それからにやりと笑ってみせる。
「意外だな、オレを前に言葉を作るか。まあいいぜ、せっかくだからお前にも褒美をやるか。誰だか知らねえが、何かあるなら聞いてやる」
――その言葉が。
どれだけシャルに衝撃を与えたか、きっと彼ですら想定していなかった。
きっとそれがなければ、シャルが《その呼び方》を使うことはなかっただろう。
運命はここで変わった。
きっと、誰にとっても想定外の方向へ。
「お父……さん」
呟くように、零すようにシャルはそう口にした。
その言葉を聞いた瞬間に、魔法使いの表情が一変する。
それまで笑みで保たれていた魔法使いの表情が、驚くほど真剣なものへと変わったことに、この場ではメロだけが気づいていた。
「――なんだと?」
「え……」
「待て、んなわけあるかよ、あり得ねえ。お前――まさか。ふざけるな、どうしてお前が動いてる?」
「う、動いてるって……何言って」
「――は。はは……ははははははははははははははっ! 傑作だ!!」
魔法使いが、狂笑する。
シャルも、メロでさえ言葉を挟めない狂気の笑い。
その異常さは、きっと魔法使いにしかわからない。
「――やられたぜ。道理で、何もかも逆に運ばれるはずだ」
シャルは言葉を失っていた。目の前の男が、いったい何を言っているのかわからない。
わからない。わからないわからないわからない。
――否。
それを決して理解してはならない――。
そんな確信に襲われている。
「どうしたの、おじさん?」
と、メロが言った。
魔法使いが、外見上は正気に戻る。
「なんでもねえよ、話を戻してやる。つーか、おじさんってオイ。そんな歳じゃねえぞ」
「アスタもよく、おじさんのこと《クソジジイ》って言ってたけど」
「……まあそれよりはマシか。礼儀のなってねえガキだ、本当に。まったく見込みがねえ」
「アスタの師匠だったんじゃないの?」
「昔はな」魔法使いは吐き捨てる。「目をかけてみよう、って思わせるくらいの気概を持ってたんだ。だが今はダメだ、てんでなってない。今のアレは、たとえるなら煙草の燃えカス――なんの役にも立たない灰だ。それは、お前もよく知ってるんだろ。だからわざわざオーステリアくんだりまでやって来た」
「……なんで知ってるのさ」
などと魔法使い相手に突っ込むのも馬鹿らしい、とメロは苦笑。
その反応のどこがお気に召したのか、魔法使いはやけに気分よさそうに大笑した。
「今じゃお前のほうが、余程《奇術師》に相応しいぜ。いやマジで。オレは今回の事態に、アスタ以外の七星を介入させるつもりはなかったんだ。やってくれたぜ本当に。お前さえいなけりゃ、シルヴィア=リッターかピトス=ウォーターハウスの、どちらかは確実に死んでいたはずなんだけどな。まあ、それも運命ってことなんだろうが」
「……おじさんが、あのふたりを殺すつもりだったの?」
「違えよ。つーか違うってわかって訊いてんだろ、お前も。いいぜ、答えてやる。オレは単にバランスを取ろうとしただけだ。今のままじゃ七曜側が不利すぎるからな。ちょっとばかし肩入れしてやったに過ぎん。オレ自身はもう、運命には干渉できないのさ――お気づきの通りな」
「それじゃ、あの治癒術師のお姉さんを唆したのは、やっぱりおじさんなんだ?」
「正確にはそれもオレじゃねえ。アスタのバカは気づいてねえみたいだが、オーステリアのときも今回も、七曜教団からはふたり出張ってたんだ。その片方が、オレの名前を勝手に使ったんだよ。さすがに《魔法使い》が相手となっちゃ、あの嬢ちゃんも諦めざるを得ないだろ」
「……シルヴィアは生贄として選ばれたんだよね。ピトスは……治癒魔術師だからかな。それがふたりの狙われた理由。でも生贄はひとりいればよくて、つまりピトスさえ死ねばシルヴィアが狙われる理由はなくなるってわけだ。――そう教えて、ピトスがひとりで死ぬようにした」
「…………そいつは、今の段階じゃ少し気づきすぎだよ、メロ」
魔法使いは、メロの名前を口にした。
メロを一個の人間として認めた瞬間だったのだろう。
「参考までに聞かせておけ。どこで気づいた?」
「……ウェリウス=ギルヴァージルってヒトから聞いた」
「あ? 待て、意味がわからねえ。なぜここであの貴族の坊ちゃんの名前が出る?」
なんでも知っているような――知らないことがあるほうがおかしいような魔法使いから。
それでも、『なぜ』という言葉を引き出せたことにメロはいくぶん気分をよくした。
黒幕と道化による、それは機械ならぬ魔法仕掛けの、神に対する冒涜の会話。
「アスタがこの学院に来る前、最後に受けた授業は魔術史学だって聞いた。確か学院で、セルエが受け持ってる授業も魔術史学だったね」
「なるほど、だからか」それだけで、魔法使いは暗く笑った。「そこで《迷宮》の成り立ちに違和感を持ちやがったな。ったく、そんな無関係な場所を無理やり伏線にされちゃあ、そら奴らも失敗するわ。どっから拾ってきやがるっつーんだよ。いや、さすがに七星三人に表立たれちまうとな、こりゃアルベルがいっそ憐れなくらいだぜ。――つーか」
魔法使いは、射竦めるような視線でメロを見やる。
「……何かな?」
「……いや。お前――指環はどうした?」
メロは苦笑して答えた。
おそらくは、その問いが途中で変更されたものだと気づきながら。
この魔法使いは、きっと違うことを訊こうとしていた。
あえて、その質問を直前で変えたのだ。
「それ、アスタには訊かれもしなかったよ」
「……あのバカめ。だから駄目なんだ」
魔法使いは吐き捨てるように言った。
それが、この会話の終わりだった。
「――まあいい。今回は全面的に七星側の勝ちにしておけ。悪役は初め勝ってるもんだ」
「悪役って」
「あってんだろうが。――ほら帰れ、早くしねえと結界壊れんぞ」
「え」
言った瞬間、周囲を覆っていた迷宮内結界が、音もなく崩れ去っていく。
周囲の白壁が水のように溶けていき、その奥に迷宮らしい石壁が現れ始めていた。
「手遅れだったな」
「うわ最悪……」
「ほら急げ、魔物が出始めるぜ? 初めからいなかったわけじゃなく、単に位相をずらしてただけだからな――いくらお前らでも、これは普通に骨だろう」
「ただの嫌がらせじゃんか……」
「は、まあ受け取っておけ。――俺はもう、結界を持たせてるどころじゃないからな」
その瞬間にはもう、現れたときと同様の唐突さで、魔法使いの姿は消えていた。
どこへどう消えたのか想像もできない。この魔法使いといい、先ほどのアルベルといい、世界にはまだメロの想像を超える魔術師がいくらでも残っている。
その事実に、どこか充足にも似た感情を覚えながら、メロは振り返ってシャルへと告げた。
「ほら、帰ろう? もうここにいる意味ないし、魔物出てきたらさすがに面倒じゃ済まないし」
「――え、あ……」
呆然と自失していたシャルが、メロの言葉に意識を浮上させる。
先ほどの彼女と魔法使いのやり取りに、どんな意味があったのかメロは知らない。
わかるのは、今それにかかずらっている時間などないということだ。
「ま、だいじょぶだよ。別にわたしたちだけで帰るってんじゃないし」
「……えっと」
「あの魔法使いに言われたほど、奇術師なんて柄じゃないけど。でもまあ、お話を終わらせる強い味方なら、きちんと呼んであるからさ――」
そう言って、メロ=メテオヴェルヌはしたたかに微笑した。




