2-22『英雄に非ず』
――困っている人間を、無条件で助けてくれる正義の英雄。
そんなモノは物語の中だけにしかおらず、現実には存在していないという事実を、いったい人はいつ学ぶのだろうか。
シャルロットはふと、そんな思考を頭の片隅に巡らせていた。
英雄の第一条件とは、自分自身を救済した人物であるということだ。
決して他者を救う人間のことではない。そもヒトが自分以外の誰かを救うことなどできない。
窮地に都合よく現れて、颯爽と助け出してくれる――なんて存在を望む思考自体が決して健全だとは言えないだろう。
世に救済があるのならば、それは自らの手によってのみ為されるほかないし、そうであるべきだ。
――そんなことは、ずっと昔から知っていた。
シャルロットはそう思っていた。
そのはずだった。
※
そのとき、まず真っ先にシャルの胸中を占めた感情は、わずかな《悔恨》と、それよりずっと大きな《諦念》だった。
――ピトスのことを、自分はいったいどれだけ見誤っていたのだろう。
突きつけられた事実に、自らの盲目さを知らしめられる。ピトスの実力が、その戦闘能力が、ここまで高いものであるとシャルは想像さえしていない。
何もわかっていなかった。何ひとつ見てはいなかった。だからこうして今、彼女に追い詰められている。
その事実に、シャルは悔いる以上に諦めを強く覚えてしまう。
これがヒトとの関わりを断ってきた代償だというのなら、まったく高くついたものだ。
自嘲が胸中を満たしたが、そんなものは現実を前にして寒々しく響く以外ない。
「――――」
ピトスが無言で床を蹴る。その衝撃だけで、迷宮内の結界が大きく揺れるほどの踏み込みだった。
床を蹴り、次いで壁を蹴り、さらには天井までをも蹴って。文字通り縦横無尽に跳び回るピトスの挙動を、もはやシャルは目で追うことさえ叶わない。
重力を無視し、歪な螺旋を描くようにピトスが距離を詰めてくる。
決して壊れないことが約束されている迷宮において、冒険者が警戒するべきは前か後ろの二択に限られる。対処は二次元的なそれで充分なはずだった。
だがピトスは、まるでボールが壁にぶつかって跳ね回るかのような動きで、上からも下からも襲い来る。どの場所から、どの体勢から攻撃へ移るのか、察知することさえ難しい。
前衛に立つフェオが、かろうじて反応できるという領域だ。
「く……っ!」
壁を蹴り、横合いから斜めに降り落とされるピトスの回し蹴り。袈裟懸けに刀で斬りつけられるのと変わらない威力の一撃を、フェオは剣で弾いて受ける。
読めない軌道の攻撃を、彼女は勘と感覚だけで防御していた。
剣と脚が火花を散らす。本来なら戦いにさえならない両者が、まるで石柱同士をぶつけ合わせたみたいに硬質な音を立てていた。
初撃の影響から、すでにフェオの剣はわずかにひしゃげてしまっている。受けた刃を、ピトスはただ脚を振り落とすだけで鞘ごと歪めてしまったのだ。
その威力は、とてもではないが、人類から放たれる蹴りのそれではない。
――強化魔術だろうけど、でも……っ!
ここまでの領域に至れば、もはやそれは強化を通り越して硬化に等しい。鉱物を穿ち、金属さえ圧し折る肉体の一撃に、壁から壁へ、そして天井へと跳ね回る獣じみた機動――その全てをただ《身体強化》の術式だけで為しているというのだから、埒外としか言いようがない。
ピトスは治癒魔術の使い手だ。
それは翻せば、肉体に干渉する魔術を得意とする術師だという意味でもある。常識を逸脱した身体能力の向上は、おそらくそれに由来するのだろう。
強化された肉体は、人類の限界を容易く突破する。
世界の法則を歪めるのが魔術の在り方だが、極まれば膂力だけで物理さえ超越してしまうらしい。
「――舐め、るなぁ……っ!」
蹴撃を受けたフェオが、その威力を外に逃がし、半身を回してピトスを狙った。
返す刀の一撃を、ピトスは右手で払いのける。振るわれた刃の真横を、的確に腕で薙いだのだ。
反撃を弾かれ、無防備に胸を晒したフェオ。そこに、ピトスが逆の掌を叩き込まんと突きを打った。
なんらかの武術に精通しているのだろう。両腕が円を描き、回転運動するように叩き込まれた左の掌底突きを、フェオは上体を反らす――否、ほとんど倒れこむ形で回避した。
そのまま後転するようにフェオは脚を振り上げ、ピトスの掌底を爪先で打ち上げようと狙う。
だがピトスは突き出した掌を、指の先を軽く伸ばすように下へと向けた。打ち上げられたフェオの爪先を、そのまま掌で握るように軽く添え、勢いを借りて宙に跳び上がる。
フェオの蹴りに打ち上げられたピトスは、くるりと空中で逆立ちするように身体を回転させ、器用に足の裏を天井につけて――それを蹴った。
直後、後ろに回転して位置をずらしたフェオ目掛けて、弾かれたようにピトスが跳ぶ。
流星のように落ちるピトスは、そのまま腕を突き出しフェオへ殴りかかった。体勢を崩し、受ける以外の選択肢を失ったフェオは、咄嗟に剣を盾とすることで一撃を防ぐ。
だが静止しているフェオでは、運動するピトスのエネルギー量に敵わない。盾とした剣がつんざくように不快な音を立てて折れ、殺しきれなかった勢いに押されフェオは後ろへと吹き飛んだ。
凄まじいまでの攻防。その軍配がピトスに傾いた。
もしも武器さえまともならば。
あの初めの強襲さえなければ。
おそらくはフェオも、もう少し食い下がれたことだろう。
彼女が思い悩むほどに、フェオ=リッターの戦闘者としての能力は低くない。むしろ十二分に誇れる練度だ。魔術を扱う者として、そして迷宮攻略者としての実力が評価されていないのは、彼女がきっと対人戦に特化した戦闘者だからに違いない。
彼女の実姉であるシルヴィアは、そういえば元は騎士だったと聞いている。
あるいは、その手解きを受けていたのかもしれないとシャルは思った。
後ろに吹き飛ばされたフェオを、追い打つようにピトスが迫る。
シャルは咄嗟に前へ進み出て、ピトスを静止するように右腕を上げた。フェオを庇う位置に立ち、追撃を防ごうと魔弾の弾幕を放つ。
着地したピトスは、だが軽く身体を揺らすような動きで、シャルの弾丸をことごとく回避していた。
ほとんど俯いたまま、最小の動きで前進したまま弾幕を躱すピトス。
風に遊ばれる紙のように軽やかな動きだ。躱すというより、もはや撃っている魔弾のほうが勝手にピトスを避けているかのように見える。
――なんて、デタラメな動き……っ!
歯噛みしながらもシャルは諦めず、魔弾を打ち出す右手はそのままに、左手の指で床をなぞった。
指を筆に見立て、床に陣を描くかの様な動き。
それはかつて、アスタが迷宮で見せた印刻を刻む魔力の筆記具だ。あの兄弟子の技術を、シャルは迷宮できっちりと盗んでいた。
とはいえ、彼女が使うのはルーンじゃない。印刻魔術は一朝一夕で身につけられる技術ではなかった。
彼女が用いるのは――儀式魔術。
本来なら数人がかりで、媒介となる神殿や魔具の支援を受けて行う大規模な術式。
それを身体の動きや呪文の詠唱によって簡略化し、限定的に再現する《略式儀式魔術》――得意魔術を持たないシャルが、それでも最も好んで使う戦闘用魔術だった。
その威力の程度は、かつて一度だけパーティを組んだピトスもよく知っている。
魔弾の射出に、略式儀式の二重起動。学院でも、これが可能なのはシャルを除けば教員くらいのものだろう。単純な魔術の技量ならば、彼女はレヴィやウェリウスを凌ぐ。
いかにピトスといえど、それを正面から受けることは不可能だ。膂力でどうにかできるレベルを超えている。
受けられないならば――止めるか、躱すか、防ぐかだ。
ピトスの判断は早かった。
彼女は儀式魔術の前兆を見るや、即座に身を翻して後退した。
弾幕に遮られ、距離を詰めての妨害は難しい。かといって決して広くはないこの通路では、儀式魔術ほどの大規模術式だと空間全てを飽和されてしまい、回避する場所がそもそもない。
だから、防ぐ。
追い迫る魔弾にすら匹敵しかねない速さで、彼女は通路を駆け戻った。十メートルはあった通路を、ほとんど瞬く間に下がりきっていた。
なりふり構わない後退。何度か魔弾が身体を掠めたが、その程度では止まらない。
結果として、シャルは術式を放棄するほかなかった。
なぜならピトスは――打ち捨てられたままのシルヴィアの後ろまで戻ったのだから。
この位置では、シルヴィアさえ巻き込んでしまう。
魔術を放つことはできなかった。
シャルは舌打ちを堪える。何よりピトス=ウォーターハウスという同級生を見誤っていた自分の愚かさに。
この判断の速さは、間違いなく豊富な実戦経験に基づいたものだ。
かつてのオーステリアに潜ったパーティの中で、おそらく自身が最も実戦経験に欠けている。
その自覚がシャルを苛んだ。ただ魔術が使えるだけでは冒険者たり得ない。
レヴィたち四人に及ばないのは、きっとそれが理由だった。
――アスタならば。
あの稀有な経歴を持つらしい兄弟子なら、この状況さえなんとかしてしまったのだろうか。
魔力の量も、術式の精度も、あらゆる面で自分のほうが勝っているはずなのに。あの兄弟子に勝てるイメージがどうしても湧かない。
暗みに落ちようとする思考が、シャルの精神を蝕んでいた。
血に塗れたシルヴィアに意識はない。だが、おそらくまだ生きてはいる。
彼女の身体に、実のところそれらしい損傷はほとんど見受けられなかったからだ。
付着した血液はシルヴィアのものではないのか、それとも、ピトスが彼女を治癒したのか。
いずれにせよ、敵対しているピトスが人質としての価値を認めている以上、死んだように動かないシルヴィアを、それでも死んだものとして見做すことはできない。
ピトスはその場で立ち止まった。こちらへと追撃をしてくることはない。
距離を開けた以上、間合いの上では攻撃魔術に長けたシャルが優位だからか。
――いや。
と、シャルはその考えを打ち払う。
身体能力ばかりに目が向かいがちだが、彼女の実力は決してそれだけに留まらない。むしろ学院において彼女が評価されていたのは、治癒魔術という唯一の才能もあることながら、何より補助的な魔術に長けているからだ。事実、ピトスはそれだけで学院の選抜パーティに抜擢された。
魔術の基本として、《攻撃魔術は防御魔術より弱い》という事実がある。
防ぐ盾を築くだけならば、術式の構築に手間がかからないからだ。同じだけ魔力を込めた魔術ならば矛よりも盾が勝る――魔術の大前提だ。
もちろん魔術それ自体の実力に左右されることだが、基本的な魔術の腕においてピトスとシャルは同格だ。多少差があったところで、防御側有利に変わりはない。
短時間しか魔力を込められない攻撃では、ピトスにもきっと防がれる。
かといって、時間をかけて威力を上げる隙は、彼女を前に望めないだろう。
手詰まりだった。少なくともシャルの側からは。
拘束魔術、結界魔術、あるいはほかの何か――浮かび上がる選択肢を、浮かぶ先からシャルは棄却した。
ピトス=ウォーターハウスの身体能力は常軌を逸している。
閉所に限れば、あるいはレヴィ=ガードナーさえ凌駕しかねないレベルだった。
反則だ、と嘆きたいくらいである。
対するピトスもやはり動かない。
そもそも、彼女には動く理由がないのだろうとシャルは判断する。
――『それ以上こっちに来たら、殺す』。
ピトスは確かにそう言った。
逆を言えば、それはこれ以上進もうとさえしなければ見逃す、という意味だ。彼女には自分から能動的に仕掛ける理由がないらしい。
あれ以上に語る言葉を持たないという意思表示か、ピトスは黙りこくったまま動かない。
引くべきか。
あるいはシルヴィアを見捨ててしまうべきか。
シャルの脳裏に、残酷な判断が浮かびかけた――その、刹那だった。
突如として、彼我を分かつ通路の真ん中に、魔力光を伴う柱が降り注いだ。
驚きに硬直するシャル。ようやく立ち上がったフェオもまた、突然の展開に目を見開く。
その驚愕は、だが眼前のピトスも共有しているらしかった。
「――――っ!?」
眩い光の向こう側に、わずかながらピトスの息を呑む姿が見えていた。
この魔術は、ピトスが創り出したそれではないらしい。
だが、ならば誰が――。
疑念と警戒に混乱するシャルの目の前に、直後、その解答が文字通り投げ出された。
「――ぬぉうわいっ!?」
場違いなほど間抜けな悲鳴とともに、人影がひとつ、空間を裂いて落ちてきた。べちり、と嫌な音を立てて、その人影は迷宮の床へと落っこちる。
影はやがて幽鬼のような挙動でむくりと起き上がると、一度だけ通路の前後を見やり、それから視線を天井へ向けた。
ぼさぼさの黒髪に、まるで死んだ魚みたいに活力の欠けた黒茶の双眸。
だがその奥に、どこか鋭い理知の輝きを宿したひとりの男。
状況をまるで斟酌せず、そいつは今しがた自分が落ちてきた天井の穴に向けて盛大な文句を言い放つ。
「おいコラァ、だから突き落とすなっつってんだろが!」
救いの英雄が現れたにしては、ちょっと三枚目すぎる気の抜けた調子。
だが突然の闖入者を認めて、シャルはぽつりと、意図しないまま言葉を落としていた。
「……ア、アスタ……?」
その声音に、わずかな期待が込められていたことに気づくことなく。
名を呼ばれた男――アスタ=セイエルは。
外套の汚れを払いながら、ゆっくりと立ち上がって手を挙げる。
「おう、シャルか。どうやら狙いぴったりに――」
そして直後、続いて上から降りてきた人影に潰されていた。
「――ぷげぁあっ!?」
「あ、ごめん」
軽く謝るふたり目の闖入者――メロ=メテオヴェルヌ。
《天災》の二つ名を持つ、かつての七星旅団の七番目。
伝説の一角にして、最強の称号を冠する冒険者の最上位。
その彼女が、アスタの上で馬乗りの姿勢になっていた。
地面に組み伏せられたままの姿勢で、まったく格好のつかないアスタが吠える。
「ごめんじゃねえ上に降ってくるなアホか!」
「いや、あたしだって別にアスタを組み敷く趣味とかないし。いつまでも真下にいるほうが悪いじゃん」
「…………」
論破されていた。本当に締まらない。
よいしょっ、とメロがアスタの上からどき、ようやく彼は立ち上げる。
今の顛末をなかったことにするためか、彼は改めて外套の埃を払い、それから辺りを見回して言った。
「……なんかまた、面倒なことになってるみたいだな」
「今さら格好つけても……」
「うるせえ黙れメロ」
この期に及んで続いた喜劇を、アスタは突っ込みの一発で斬り捨てる。
それからシャルへと目を向けて、どこか悪戯っぽい笑みを見せて言い放つ。
「――てなわけで、助けに来たぜ同級生」
格好いいだなんて、まったく言えないアスタの調子に。
だが、どうしてだろうか。シャルは心底から安堵してしまっていた。
なぜかはわからない。
彼女は、そこまで目の前の兄弟子を信用したつもりがない。
にもかかわらず、彼女はすでに、自身にとってさえ無意識のまま確信していた。
――まるで英雄に出会った子どものように。
この時点で、幸せな結末以外はあり得ないのだと。




