6-29『父への手向け』
蘇るのは、打ち据えられた過去の記憶。
俺が積み重ねてきた、敗北という名の時間だった。
「――っ、ぐ……!」
地に倒れ伏す。それが果たして、幾度目であったのかなど数えてもいない。
元より、それがアーサーの教育方針だった。
手取り足取り教えるようなことはない。打ち据え、転がし、叩きのめすことで魂に染み込ませる。
その反復。
「駄目だ、駄目すぎる。てんでなってねえぞ、アスタァ! それで終わりなのか!?」
「る、っせえ……、げほっ!」
そこに恨みはなかった。
俺はアーサーから強いられたのではなく、あくまで自ら望んで訓練に臨んだのだから。そうしなければ生き残れなかったことは事実だろうが、だとしても――俺はそうしてでも生き残ることを選んだということだった。
実際、ある意味でそれが最も俺に合っていた。
それは別に、身体に染み込ませて覚えるのが得意とか、そういうことではなく。
無理矢理にでもハイペースでレベルを上げなければ、ある日どこかで殺されていただろう、ということ。
世界は俺を待たないし、敵にも待ったはかけられなかった。
今日このとき襲い来た者を打破する力量が、明日つくのでは遅すぎる。無理に無茶を重ねてでも、道理として通すことでしか生存の目がなかったのだから仕方ない。まあ要は、そういう運命だった――なんて皮肉が相応しいだろうか。
アーサーはむしろ、俺を鍛えることに乗り気ではなかったと思う。
「別に、いつやめたっていいんだぜ」
奴はいつもそう言っていた。
俺を鍛えるのが面倒だったというわけでも、なんとなくなさそうで。まあ面倒がってはいたけれど。
というよりはむしろ――俺が鍛えられていくことをまるで悲しんでいるみたいな。
そんな雰囲気を、奴はいつも纏っていた。
それは、今思えばという話だが。
少なくとも、奴が本気で俺を鍛えてくれたことだけは、揺らぎようのない事実だろう。
「この程度じゃ、まったく足りてねえんだよ」
そんな失望の言葉を、何度聞いたかわからない。
俺は、まったく不肖の弟子だった。
「――諦めて、素直に元の世界に戻る方法でも探したらどうなんだ」
※
致死の熱量が迸る。
回避は能わず、さりとて防御も希望がない。圧縮され、吐き出されたのは魔弾であって魔弾ではない。
それは、いわば時間という概念そのもの。
正しい積み重ねにより、築き上げられた歴史だ。その反則的な正当性とでも言うべきものを、覆すのは並ではない。対抗しようというのなら、こちらにも同等以上の神秘が必要だった。
それでも。
諦めるという選択肢だけは、最後まで絶対に選べない。
アスタ=プレイアスはそういう魔術師だ。
そいつは一ノ瀬明日多の特性ではない。この世界に来た結果の、選択がゆえの特性だろう。
俺は大層な人間ではなかった。自分ひとりでは何もできないただのガキが、それでも粋がることを選んだ。
そのために、きっといくつかの代償を支払ったのだと思う。
聞く人が聞けば、あるいは同情も誘うだろうか。だとしても後悔はなく、むしろ誇らしいとすら思う。
だって、誰かの助けがなければ生きられないということは。
いつだって、助けてくれる誰かに恵まれてきたということなのだから。
ゆえに、今だって信じている。
迫りくる光の奔流。
その中で、思う過去のあることが不思議だった。
時間が引き伸ばされたみたいな感覚がある。
「――――」
勝負は一瞬で決まる。
この状況下で、試せる選択肢などひとつだけだった。
まともに考えれば、わずかなチャンスを祈って防御を試みるべきだろう。
あるいは、それで稼げる時間があるかもしれない。
この土壇場で、今まで一度だって成功させたことのない――どころか試したことすらないものに縋るべきだろうか?
そんな選択肢は、そうだ。普通に考えれば、間違っているという以前の問題だった。
では確認だ、アスタ=プレイアス。
この状況ではもう、俺は、誰の助けも借りられないのだろうか。
俺は、俺ひとりの力で切り抜けねばならないのだろうか。
――そんなことは、ないだろう。
手を伸ばす。
自ら光に触れるかのように。
それは、賭けと呼ぶことすら烏滸がましい選択だった。
死を受け入れていると思われても無理はない。
だが、たったひとつだけ、見過ごせない矛盾がそこにはあって。
俺は手を伸ばす。
指先に、魔力の明かりを灯す。
それはアーサーの魔弾のうねりと比べれば、まったく弱々しい輝きで。
そんなもの、より強い輝きに呑まれるのが当然でしかなくて。
けれど魔術師とは、そこから奇跡を起こす者だ。
そうだ。それが奇跡でしか覆し得ないほどの攻撃ならば、必要なことを為してみせればいい。
だから信じよう。
俺ではなく、俺を助けてくれてきた全てを。
確かな証拠なんてまるでない。
それでも俺は確信していた。
もう、言葉さえ必要じゃない。
「――――」
そして。
俺の指先が、ついに魔弾へと触れた――。
※
「――は。それでいい。その間違いが、初めての正解だよ、バカ弟子が――」
※
そこに、俺は立っていた。
アーサーの攻撃を、たった一撃、凌いだだけ。
それだけの、けれど確かな奇跡の結果。
「……訊いておいてやろうか、アスタ。その場所に立った実感はどうだよ?」
目の前で、ニヤリと笑いながらアーサーが問うた。
俺は、その目をまっすぐに見据えながら。
「……え? 俺、今、何やった……?」
「おい、ふざけんなボケ。台なしにも限度があんだろうが!」
今、俺は無傷で立っている。
その時間に生きている。
けれど、それを為したのが自分であるという実感が、いまいち湧かないままでいた。
それくらいの無理を、確かに俺は通したからだ。
「……できたのか」
「できると、信じたからやったんじゃねえのかよ」
「それは……そうだけどな。できちまうと、逆に信じられなくなる」
「はっ。凡百の感想吐きやがって、面白くもねえ。もうちょいまともなコメントはねえのかよ」
「いや……いや、なんで面白コメントを求められてんだよ今むしろ俺は」
俺の言葉に、アーサーが小さく笑う。
それから、言った。
「何がきっかけだった? 参考までに聞かせておけ」
しばし、その言葉を聞いて俺は黙った。
少しあってから、言う。
「……何がって、わけじゃねえが。疑問に思ってることはあった」
「言ってみろ」
「時間魔術の影響で、俺の肉体が昔に戻ってるのに。――俺の腕が戻ってねえ」
アルベルに消し炭にされた、俺の左腕。
それはつい最近のことで、アーサーと出会った頃の俺に戻っているのなら、腕も戻っていなければおかしい。
だが俺の左腕は、今も存在していないままだ。
それはひとつ、明白な矛盾点だった。
「……それで?」
アーサーは話の続きを問う。
やはり少し考えてから、俺は言った。
「どういうことか、考えてみた。まあそんな暇は事実上なかったんだが――もしも時間魔術が俺に、不完全にしかかかっていなかったなら、その理由はなんだろうか、ってな」
「…………」
「時間魔術を俺は防げない。そのはずだ。もし防げるとしたら同じ魔法使いだけだし、だけど俺は魔法使いじゃない。にもかかわらず、どうしてか一部がレジストされているんだとしたら」
その理由はひとつだけ。
ほんのわずかでも、俺には魔法に干渉できる何かがあったということになる。
「……だとしたら答えはひとつ」
俺は言う。
それはほとんど、嘘みたいな話だったけれど。
「俺には、時間魔術が使えるってことだ」
だから俺は、時間圧縮によるアーサーの砲撃を、時間魔術によって防いだ。
積み重ねられた時間を巻き戻し、破棄することで値をゼロに。反則には反則でしか対応できない。
ならば、俺だって反則を使うしかないという、そいつは実に論理的な矛盾だった。
「……できるとは正直、本気では信じちゃいなかったけどな」
「あァ。それでも、可能性があんならやってみるのがお前だよな。よくそんな、分の悪い賭けを選べるもんだ、土壇場で」
アーサーには珍しい、それは手放しの称賛だったのか。
それとも単に呆れているだけなのか。どちらとも判別のつかない表情。
「――この世で、時間魔術を使えるのはアーサー=クリスファウストただひとりのはずだ」
俺の言葉にアーサーは頷く。
「そうだな」
それが奴を、《世界最悪の犯罪者》と呼ばせるに至った。
アーサーは時間魔術を独占した。どんな才能でも、アーサーが固有している限り時間魔術には至らない。
それは、ただ使い手がいないだけの、ほかの魔術とは意味が違う。
奴は本当に、ある魔術を自分ひとりのモノに限定した。
それはあらゆる魔術師によって許されざる蛮行だ。可能性の剥奪を魔術師は絶対に許さない。
ゆえに、最悪の犯罪者。
そう呼ばれているはずだった。
「だけど――もしも、それさえ伏線だったなら」
「……、……」
「お前は時間魔術を自分ひとりのモノにした。いや、もっと正確に言うなら、時間魔術を使える人間をひとりだけに限定してみせたんだ。それは、裏を返せば」
「――――」
「――世界で誰かひとりだけは、確実に時間魔術を使えるという魔術的な意味づけだった」
アーサーは答えない。だが俺は確信していた。
答えなかったことこそが、答えみたいなものだった。
なぜなら、俺に時間魔術の才能はない。
たぶん生まれつきの適性が、そもそも向いていないのだろう。当然だ。アーサーとは属性からして違う。
けれどアーサーは、そんな俺に、時間魔術を継がせようとしたのだということ。
時間魔術を使える人間をひとりに限定することで、逆接、時間魔術を誰かひとりは必ず使えるという因果に結びつけた。
魔術的な概念の玩弄。
いや、そもそもそれが、初めからアーサーが意図していたことだというのなら。
「……なあ。もしもと思って訊くが。俺が、印刻以外の魔術を一切使えないのは――」
「は、決まってんだろ。お前、この世界に来て最初に、誰に頭を弄られたと思ってんだ」
このクソジジイ、開き直りやがった。
だが、その答えで確定だ。
俺が通常魔術を一切使えないこと自体が、そもそもアーサーのせいだったということ。
本当に、やってくれやがった。
「ここまでの苦労、だとしたら割とガッツリお前のせいかよ」
「お前が元来持っていた魔術の才能を縛ることで、その適性分を全て時間魔術に回しただけだぜ? 《ほかの魔術に一切の適性がない》ということ自体が――」
「――《時間魔術に適性がある》という逆説だってことだろ。お前、そのために他人の才能ごと捻じ曲げたのかよ。やっていいことと悪いことがあんだろ」
「便利だろ? 時間ってのは一個世界への概念干渉だ。もともと元来は、そういう小技に向いてんだよ」
「――じゃあ、お前は」
「幸い、この空間は時間が捻じ曲がってるからな。俺が因果を限定した時間じゃない。だから使い手もふたりいる――が、それじゃ通常空間には戻れねえ。俺のほうが因果が強えからな。こっから出たら、お前はまた使えなくなる」
「――――」
「どうすればいいか、わかるよな?」
わかりきっている答えだった。アーサーは言っている。
時間魔術を使える人間は、必ずひとりでなければならないと。
言い換えるなら、それがどちらなのかをここで決めていけということだ。
師であるアーサー=クリスファウストを排除し、俺に唯一になれと奴は言っている。
自分を超えろと。
自分を殺せと。
奇跡に至った魔術師が、まさかそれを否定はしないだろうと、奴は言っていた。
「――ジジイ、」
言いかけた俺。何を言おうとしたのだろう。
その答えは自分ですらわからない。
何を言うよりも早く、アーサーがそれを潰したからだ。
「俺は《一番目》に負けた。わかってると思うが、二番目もとうに敗北している。同じ魔法使いですら、あの運命干渉には敵わない」
「…………」
「だから弟子には、どんな手を使ってでも奴を倒す力を与える必要があったんだよ。お前の戦力に、さらにプラスして時間魔術のオマケをつけてやった。どうだ? なかなかの玩具だろう、これは」
「――――お前な」
「こいつは、まあ、割かし面白え力だぜ? お前なら、俺ほどとは言わずとも使いこなせる」
「……初めから、俺に……《日輪》に勝てる力をつけるために」
「勘違いすんなバカ弟子が。お前は、――この件でむしろ俺を恨むべきなんだよ。こんな押しつけは、お前にとってなんのプラスにもなりゃしねえんだ」
「――――っ!」
そんなことを。こいつは、ずっと思い悩んできたというのか。
俺に、本当は力を与えたくなかったから。
そうすれば、俺に戦いの運命を確定させてしまう。だから本心では、どこかで折れてほしがっていた。
そんな責任は負わず、元の世界に戻る方法を探したり、この世界でも平穏に生きればいい。
世界を救う責任を、俺ひとりの肩に背負わせようとはしなかった。
アーサーは――きっと彼は、最後までその運命に抗おうとした。してくれていた。
それでも、幸か不幸か、俺はそこまで辿り着いてしまった。
本来、使えるはずのない時間魔術すらその手にして。《日輪》という世界の敵を倒す役割を強制される俺に、それでも最後の最後まで、それ以外の道を示してくれた。
強制してもよかったのに。
そうでなければ世界が滅ぶというのなら、無理やりにでもやらせるべきだったのに。
最後まで俺に、――英雄以外の生き方を示してくれていたのだ。
「やれよ」
アーサーは言う。
両腕を広げて。
俺は。――俺は。
「……っ。いいんだな?」
「今さら何言ってやがる。敵の戦力を減らせる機会を、むざむざ捨てるってか? さすがに、死にさえすりゃあ一番目の支配も無効だ、無効」
「……わかった」
わかって、いた。
それ以外の選択肢がないということくらいは。
「制御、ミスるなよ」
「無防備の人間ひとり殺すのに、何をどうミスるんだよ」
「そっちじゃねえよタコ。帰り方の話だ。お前まだ、時間魔術には慣れてねえだろ? それに――いくら俺から継いだって言っても、さすがに俺ほどには使えねえぞ。切り札の切り方、間違うんじゃねえぞ」
「……は。誰に言ってやがる。それだけなら俺は、お前より上だよ」
「かっ! そうだったな」
小さく笑い。
それから、アーサーは言った。
「ひとつ聞かせろ。冥土に土産くらいは、持たせてもらってもいいだろう」
「……なんだ?」
「お前、さっき腕が戻ってねえことが矛盾だっつったけどよ。俺が失敗したとか、意図的にやったとか――そういうふうには考えなかったのかよ?」
「――――」
「結局、そこだきゃあわかんねえんだ。……ああ、お前のことだ。何やっても結局、正解は引くような気はしてたさ。だが解せねえよ。どうして、そこで自分を信じられた? 自分に時間魔術が使えるなんて確信には至ってなかったんだろ? さっき言ってた推測だってお前、どうせ後づけだろ。何が決め手だ? ――お前、そこ意図的にぼかしたよな」
その問いに、少しだけ迷った。
その通り。俺はそれを口にしたくなくて、言葉を弄していた。
けれど。
冥土にまで持っていくというのだ。多少の恥は、晒してもいいかもしれない。
「……言ったろ。俺は、別に俺なんか信じてねえよ」
「あ? ならなんでそんなことが――」
「――お前を信じてただけだ。言わせんじゃねえ、クソジジイが」
「――――」
そこには、本当に珍しい、師匠の驚いた顔があって。
「あんたと戦うときは。いつだって、あんたは俺を鍛えるために向き合ってくれていた」
「…………」
「反則でも使わなきゃ乗り越えられない課題なら。だったらそれは、俺ならできると思って出してくれた課題なんだろ。そう思った――いや、そうと知ってただけの話だ」
俺は。今日だって、あんたと戦っていたわけじゃない。
師匠はずっと俺の味方だったから。
今日だって、背中を押してくれていたに過ぎなくて。
「――それだけだよ。それだけの、話だ」
「は、なるほど。さすがは《紫煙の記述師》。アスタ=プレイアス」
「…………」
「――よくここまで育った。まったく期待外れだよ、バカ弟子が」
「うるっ、せえんだよ……この、クソ師匠が。最悪だ、あんた!」
目元を拭う。こんな顔、ほかの誰に見せても、師匠にだけは見せられない。
だって、そうだろう。たとえ強がりだとバレていたって、教わったことを無碍にするなんて絶対にできない。
「――さよならだ」
俺は魔術を起動する。
まず自分を、元の年齢に戻した。時間魔術の起動に支障はなかった。
それからアーサーに向き直って構える。
別段、難しい魔術は必要ない。
無防備の人間だ。魔術師であろうと、最小限の労力で決められる。
「ああ、じゃあな――アスタ。俺は謝らねえぜ?」
「いらねえよ。アンタに貰ったものを――そんな言葉で流させて堪るか」
「珍しく殊勝なこと言いやがるな。かわいくもねえ。むしろ気持ち悪ぃぜ」
「言ってろ」
魔弾を起動する。
俺は、それを師匠に向けた。
この世界での、父親に。
「――あの世じゃゆっくり寝てやがれ」
「待たせてる奴もいるんでな。あとのこたぁ任せるぜ」
「ああ」
「アスタ」
「なんだよ」
「デカくなったな」
「……」
「体にゃ、気をつけろよ」
「……うるせえ」
手向けの一撃を、せめて贈ろう。
「――これまで、ありがとうございました」
「あァ。悪くない、最期だったぜ」
※
レヴィ=ガードナー奪還戦。
第七戦。
勝者――アスタ=プレイアス。




