6-26『い(く)つかの決着のための』
――その瞬間。
俺は最速で踵を返し、真後ろに向かって走り出す。
要するに――全速力で逃げ出した。
あれだけ格好をつけてとか、進行方向に逆行してるとか、そんなことは考慮していられない。考える意味もないどころの騒ぎではなく、純粋にそんな余裕がない。
そうしなければ死ぬとわかっているのだから、そうするというだけの話だ。自殺願望でもない限り、誰だって同じふうに考える。
「……それができるのが、君の強さなんだろうけど――」
背後から、そんな声が聞こえた気がした。優雅ではないことを責められているのだろうか。
誇りのない戦いで、最強を得たいとは思わない――。
あるいはウェリウスは、そんなことを考えているのかもしれなかった。もちろん、ぜんぜん的外れかもしれないが。
いずれにせよ知ったことではない。
優雅さなんて初めから求めていなかったし、そもそも《最強》という称号自体が、別に俺の預かりではないのだ。
欲しけりゃシグのところにでも行ってくれという話である。
こっちだって譲歩した上でこうなっているのだ。これ以上はさすがに譲っちゃやれない。
「クソ……、」
一歩。足を進めることが、あまりにも絶望的だった。
勝てない。
そんなことは百も承知で、それを知った上で俺はここに来たけれど。それでも、こうも絶望的な能力差を見せつけられては、さすがに来るモノがあった。
ファンタジー系の小説で最強のキャラクターに、無惨に敗北する雑魚キャラの役割でも担わされた気分だ。
あのクソ師匠でさえ、俺を殺しかけたことは何度もあったが、俺に対して明確な殺意をもって向かってきたことは一度もない。これほどの実力差を感じる独りの戦いは、俺でさえ、生まれて初めてと言ってよかった。
逃げ切れないだろう。
そうだ。そんなことはわかっている。全霊のウェリウスを前にして、いったいどこに逃げるというのか。
この世界は、遍く全て、彼の庭でしかないというのに――。
「クソっ! 《軍――」
それでも俺は足掻くためにルーンを起動しようとして。
「――もう、遅い」
それが、すでに意味のない行いであることを、まざまざと突きつけられてしまった。
足を、止める。それは逃亡を諦めたとか、そういうことではない。
単に走ることが不可能になったからだ。
――何も、見えない。
世界の全てが黒へと染め上げられている。
そこに光はなく、視覚に意味はなく、――つまり。
「ま、ず……っ!?」
「うん、やっぱり。これは君には効くと思っていた」
印刻が、起動できない。
魔術を失敗したのではなく、そんなものはそもそも不可能だというように世界の在り方を変えられた気がした。
当然だ。
ここは暗闇。
ただ光を奪われたわけではない。忘れてはならないのは、ウェリウスの元素は全て概念干渉が可能であるという点。
世界を、暗闇で満たされた。
ここは初めから暗闇の世界だったのだ。視覚という機能が機能しえないほどに。
ならば。
当然。
文字という概念そのものが存在し得ない。
「……勘弁してくれよ、おい」
ゆえに魔術は不発で終わった。俺が起動しかけた魔力がまるで無為に終わっている。
観測する者がなければ形に意味はない――いや、形などという概念そのものがこの世にあり得なくなる。
「おや。もしや詰みかな? それは……少し考えものだけど」
声は届いた。これほどの魔術を、なんの儀式もなく成立させた天才の声が。
そうだ。光はなくとも空気はある――いや、光がない、という言葉さえ正確ではないだろう。光がないのではなく、その全てを塗り潰すほど、ここには闇があると言うべきだ。そのほうがまだ近い。
もはやウェリウスが生み出す魔術を、言葉で完全に説明することなどできないだろう。
奴はそういう域にいる。
概念を感覚で理論化するような。そういう矛盾なしに、このレベルの魔術師は理解することができない。
「これで、君の印刻は完全に塗り潰した。《陰の元素》で覆い尽くしたこの空間に、文字という概念は存在し得ない。そして文字がなければ君はもう――」
ルーン魔術を使えない。
言われずともわかる当然の理屈。印刻魔術師は印し、刻まなければ完全に無力だ。
奴はそれを、場を《陰》元素の概念で満たすことにより力業で封じた。煙草の火は消え、煙は形を刻まず、たとえ地面を掘ろうが、光源を出そうが、あるいは指の軌跡で文字をなぞろうが――ないのだから、ない。
魔術を、世界に対する自らの解釈を押しつけ合う行為だとするなら、こいつがその完了形。
「……、……」
本気で詰んだ。否、本気で詰まされた。
全力で殺意を向けてくるウェリウス=ギルヴァージルを相手に、これが当然の理屈であるというように。
いや、それさえ異なっている。
これは単に、実力差が出たという以上の意味合いだ。
「……いや、参ったわ。ここまでとは正直、思ってなかった」
「それは酷い話だ。まだ君に見縊られていたと思うと、僕も残念さを隠しきれないよ」
「抜かせ。視覚の機能しない世界で、どうやってお前を見縊れって? お前の残念な表情とやらも見えやしねえよ、安心しろ」
「さて、どうかな。感情を伝えるのは何も視覚だけに限らないだろう。こうしてお互い声は聞こえるし――そもそも魔術師である者同士、魔力視なんて初歩中の初歩じゃないか。君の韜晦は口だけだね」
「お前のバラ撒いた邪魔な元素がなけりゃな。《陰》属性なんて架空元素、あっさり生み出すんじゃねえよ。つーかなんだ陰の元素って。意味わからんわ」
「ふーむ。しかし逆を言えば、僕は単に元素をばら撒いただけではある。魔術らしい魔術なんて、実のところ使っていないわけなんだけど、これで詰ませてしまうってのもどうなんだろうね?」
「……複雑な魔術を使えばいいってもんじゃねえさ。そこだよ、ウェリウス。俺が驚いたのは、そこだ」
「へえ。というと?」
「お前は本当に、俺を倒すために策を練っていたんだな。ここまで周到に……俺なんかを相手に」
「ふ――何を言い出すかと思えば、君らしくもない。それとも、それこそ君らしいのかな。少なくとも僕にとって、それはあまりにも当然のことだっていうのに」
暗闇に塗り潰された世界。
彼我どころか自己の境界さえ曖昧な虚の内側で、ウェリウスは当然のように断言した。
「――初めて戦ったあの日から、君に勝つ方法を考えなかった日なんて、あるものか」
「……そうかよ」
それを、よりにもよってこんなときに披露しないでもらいたい。
まったく空気の読めない野郎だ。そんなんだから腹黒だのなんだの言われるんだ。
とはいえ、俺も俺だろう。
この男からの――ウェリウス=ギルヴァージルからの、そんな最大の称賛が。
ああ。嬉しくないと言えばそれこそ嘘だ。
無論、だから俺は困っているのだし、だからそんな本心を伝えてやる気もない。
そんなことを伝えて図に乗せては勝ち目がさらに減ってしまう。いや、減るほど元からない気もするが、いいや。知ったことじゃない。――単に癪だってだけで充分だろう。
「お別れ……に、なるのかな?」
さして悲しげでもないふうにウェリウスは言う。
俺は答えた。
「は――バカ言えよ。お前、この程度で俺が諦めると思ってるわけ?」
「どうかな。人格への信頼はともかく、単純に、ここから君が逆転できる方法があるとも思わない。少なくとも、僕の知る限りにおいては、だ」
「……、お前」
「そうだね。うん。だから僕は、それでも君なら、何か僕の想像もつかない方法で逆転してくるんじゃないかとは、実は少しだけ思っているんだ。七星旅団が一員、紫煙の記述師――アスタ=プレイアスなら」
「…………」
「君にだって切り札のひとつくらい、まだ隠しているものがあってもおかしくない。呪いだって徐々に解けていると聞いているし、今までできなかった新たな術のひとつやふたつは、解禁されているんじゃないのか?」
……そういうこと言うかね。
本当、やってくれる。
「あったとして、使えたらとっくに使ってると思わん?」
「確かにね。まあ僕は、ほら。これでも君のことは高く評価している男だから」
「持ち上げてくれるぜ……ったく。お前ホントあとで覚えとけチクショウ」
「男とは約束しかねる僕さ」
「蹴倒すぞ」
ふう、と息を吐く。
――もう体が動かせない。
「はーあ。あとはマジでもう、お前が急に病気になって倒れるとか、そういう奇跡に賭けるしかねえな」
「はは、面白い。そんな可能性があるのかな?」
「うるせえよ嫌味かクッソボケ。知らねーよ。少なくとも迷宮の奥深くに隕石が落ちてきてお前にぶち当たる可能性よりは高いだろうが」
「――――。ははっ!」
その発言のいったい何が面白いというのか。
薄く笑うウェリウス。そして。
きっと、それが最後の挨拶だった。
「じゃあ終わりだ、アスタ。あえて別れの言葉はやめておくよ、空々しいからね」
「……お前ホントにロクな死に方しねえぞ絶対」
「死出の呪いには充分な言葉だね。肝に銘じておこう。――それじゃあ」
直後。
ほんの一瞬だけ、光が見えたような気が――……。
※
レヴィ=ガードナー奪還戦。
第六戦。
勝者――ウェリウス=ギルヴァージル。
※
そうして、闇が晴れた。
為した術者、すなわちウェリウスが息をつく。その目の前には何もない。
彼は無言だった。
だから代わりに言葉を発したのは、彼ではなくほかの人間で。
「……死体がないみたいだね」
小さな、しかし確かに響く、それは女の声だった。
いつの間に、その場に姿を現したのか。ウェリウスに淡々と声をかけるひとりの女性が、目を細めて続ける。
「まさかとは思うけれど、彼を逃がした――とは言わないよね?」
「――まさか」
ウェリウスは静かに首を振る。それは心外だと。
「僕はきちんと殺すつもりで戦いました。余計なことも一切口外していない。そこを疑われては、僕としても黙ってはいられない。貴女のほうこそ、まさか約束を反故にするとは言いませんよね――《月輪》ノート=ケニュクス」
「――まさか。それはしないよ。だってその意味がない。それに何より、君を敵には回したくない。割と。あのとき一度、殺されたことは記憶に新しいからね、なにせ。今の君は、もう、僕も軽々には敵に回せない魔術師だ」
「よく言うものです」
「よく言われました」
魔女――ノートは冗談めかすふうもなく言った。
なぜ彼女がここにいるのか。上に出たはずではなかったか。
少なくとも、ウェリウスがそれを疑問する素振りはなかった。
「では、約束を果たしていただいて構いませんね?」
ウェリウスは言う。
「人質は解放していただきたい。僕を敵に回したくないというのなら」
だがノートは首を振って。
「いいや。コトの全てが終わるまではまだ、彼女を――君の師を解放するわけにはいかないかな」
「……ノートさん」
「わかっているよ。これで契約を不履行にする場合、貴方は確実に敵に回る。けれど日輪の思惑はどうあれ、僕はあくまでも紛れは避けたいタイプでね。ちょっと小細工を打ってでも、ここで《二番目》に復活されては困る」
「……彼女は」
「日輪を敵に回して敗北したんだ。生きているだけでも感謝してもらいたいくらいなんだけどね――おっと、怒らないでくれよ。別に僕は、その点には何も関与していないんだから。そもそも二番目が日輪と対峙したのは、ウェリウス」
「僕を助けるため――わかってますよ、そんなことは。だから腹立たしいんだ」
あのとき。ウェリウスがノートと戦ったとき。
空から隕石を落とすことで、ウェリウスを助けた《二番目の魔法使い》。
フィリー=パラヴァンハイム。
彼女はその後、一番目の魔法使い――《日輪》との交戦に入り、そして、敗北した。オーステリア奪還戦の裏側で人知れず行われていた、それがおそらく人類最高峰の魔術戦。
敗北した彼女は、けれど殺されることなく教団に捕らえられていた。
そして、――ウェリウスに対する人質として使われていた。
それがこの状況で、ウェリウス=ギルヴァージルが教団側についた理由である。
彼にとっては母代わりでもある師の身柄。それを交換条件に出され、ウェリウスには断ることができなかった。
そして、彼女の身柄を解放する交換条件として提示されたのが、
「……アスタは倒した。約束は、それで履行されたはずだ」
「無論、きちんと僕はそれを見届けている。あの状況から紫煙が生還する方法はなかっただろうさ」
ノートは、ウェリウスを微塵も信用していない。
だから彼がアスタを確実に倒すよう、隠れて監視し続けていた。少しでも手を抜いた素振りを見せたり、あるいは現状をアスタに伝えようとしたら、その瞬間にノートは契約を不履行と断じていただろう。
ウェリウスは本気でアスタを殺しにかかる以外に選択肢がなかった。
「だが、まだだ。最低限、レヴィ=ガードナーが閉錠に成功するまでは《二番目》も解放しない。ただしそれが終わったら即座に解放する。よしんば紫煙が生きていようと、二番目が邪魔に入ってこようと、全てが終わったあとならなんの問題もないからね。――そうなったあとなら生きていたって別にいいさ。契約の不履行は責めないよ」
「……、油断のない人ですね。死体がないのは陰属性の支配下にあった空間だからですよ。視覚の機能しない世界で、死が――無が形を留めるのは理屈に反するでしょう?」
「もっともらしいかもしれないけれど。生憎と、僕は君の言葉の真偽を判断できない。こちらは何も譲らない」
「それが、《魔導師》の言うことですかね……」
「その程度には君たちを評価しているのさ。こちらも危ない橋を渡っているんだからね、そのくらいは譲歩してもらわないと、脅しの意味がない。立場はこちらが上だというコトは忘れないでもらうよ」
「……そうですか」
小さく息をつくウェリウス。不満では、まあ、あるのだろう。
無論、それに絆される魔女ではない。彼女が感情で行動を決めることはない。
ゆえにこれも、単にウェリウスを縛るためだけに、ノートは言った。
「まあ、声くらいならあとで聞かせてあげてもいいんだけれど。まあ時間はあと少しだ。いらないならそれでもいい」
「いいんですか? 師匠がどこに捕らえられているのか、僕が知ったら方針を変えるかもしれない」
「そう簡単に手出しできる場所じゃないし、見つけたところで意味もないね。それに――待て」
と、その瞬間だった。
ノートは、視界の隅に一瞬、奇妙なものを捉えて言葉を止めた。
「……あれはなんだ……?」
さっと、ノートはウェリウスに視線を流す。
だがウェリウスのほうも、目を細めて疑問気に言う。
「あれは……シャルの、使い魔……? なんでこんなところに」
黒い、毛玉のような妙な使い魔――クロちゃん。
――ウェリウスの仕業ではない。
魔女に、嘘は通じない。
だがその上で、ノートは直感的に違和感を悟っていた。
見落としはないはずだ。
ウェリウスは完全に監視下だ。一度だって《人質が取られていて逆らえない》と伝える手段はなかった。言葉どころか、筆談だろうが魔術を使おうが、アイコンタクトですらノートなら気づいた。その自信がある。
アスタのほうにも釘は刺している。仮に――絶対にあり得ないとして――ウェリウスが人質を取られていると、アスタが知ったとしよう。その気配にだってノートなら気がついた。
彼女があえてアスタの前に一度姿を見せ、外に向かうと伝えた理由自体、アスタの行動を縛るためのもの。それはひとえに、ウェリウスがもし裏切っていようとアスタに何もさせない――その油断を確実に見て取るための行いだった。
ならば。
いいや。
「――待て、シャルロット=クリスファウストの――……それは!」
ノートはそのとき、最悪の可能性に気がついた。
それができたこと自体が、半ば奇跡のようなものだっただろう。
だが。それでも、もう――遅すぎたのだ。
時間が。
次の瞬間、――ノートは全身を魔術の枷によって拘束された。
「……っ、これは――」
「いや本当、やってらんねえわ」
こきり、と首を鳴らす音。いったいいつの間にだろう。
気づけば目の前に――アスタ=プレイアスが立っている。
「だけどまあ、これでミッションコンプリートだ。ったく悪辣だよな、魔女は。十字架にかかるのはそのせいだぜ?」
「……紫煙。いや――」
「というわけだ、ウェリウス。――フィリー=パラヴァンハイムは俺が助け出してきた。ここにはいないが、それは消耗してるからだ。こうして送り込んでもらったんだ、存在は感じるだろ」
「……世話をかけたね」
ウェリウスが、呟く。
アスタはそれにものすごく嫌な顔をして。
「いや本当だわ。お陰でここまで面倒な手を取らなきゃいけなくなった」
「君なら気づいてくれると思っていたんだよ。信頼だね」
「お前ホントはっ倒すよ? 普通にノーヒントだったんですけど。どんだけ無茶振り?」
「借りは返すさ。だって――今から僕は君の味方だぜ? これって心強いとは思わないかな」
「お前ホンット……、……いいけども」
なんでもないことのように交わされるやり取り。
ノートは、もちろんとうに気づいている。だがわからない。
「……驚いたよ。いったい、いつの間に伝えられたんだ? ほんの少しでもヒントが渡っていれば見抜く自信があったんだけどな。君には、彼が自らの意志で裏切ったように見えていたはずだ」
「あ? んなの決まってんだろ――コイツはマジで俺になんにも伝えなかったんだよ」
ノートの問いに対するアスタの答えは、それこそノートの理解を超えていた。
「伝えなかった……? ばかな。それでは紫煙、君は、なぜ二番目が人質に取られていると気がついた」
「あ? そりゃお前……ウェリウスが宣戦布告なんて慣れない真似しに来たからだよ」
「……」
「あんとき考えたのさ。なぜウェリウスは敵に回った? 何か必ず理由がある。その理由はなんだ、ってな。ウェリウスを動かすに足る理由とは何か。今この状況のピースに嵌まるものがあるか。……考えられた中じゃ、まあ、魔法使いが人質ってのは高い可能性だったほうだよ――そうでもなきゃ、この天才がお前らなんかの言いなりになるもんか」
「では……本当に、なんの根拠もなく――彼が自分から裏切っているはずがないと信じて、そう行動したのか。君は」
「……それで驚くから、お前は《魔女》なんだよ。ノート=ケニュクス」
アスタは言う。一切のコミュニケーションなく、本気で殺し合った上でなおウェリウスを信用していたと。
そしてウェリウスもまた言った。
「まあ僕としては、本当にアスタが死んだら、それはそれでと思っていたけれど」
「――ねえちょっとあのウェリウスさん?」
「でもまあ、君だからね。きっと気づいて、師匠を助け出して、それで僕の前に戻ってくると――まあ信じていたよ」
「もっかい言うけど無茶苦茶だからね?」
そんなやり取りを見せられては、ノートとしても認めざるを得ない。
このふたりは本当に、ただお互いの能力を信用して、この状況を創り出したのだと。
「それは……そうか。なるほど。それは、実に……腹立たしい敗北だね。――よいしょ」
と、ノートはそこで自らを戒めていた十字架の枷から逃れる。
彼女ほどの魔術師ならば、これだけの時間があれば不意打ちで喰らった拘束も破戒できよう。アスタもウェリウスも、それには反応しないし、驚くこともない。
決着は、どうせついているようなものだからだ。
「質問は以上かよ、魔女」
ゆえにアスタはそう訊ね、魔女は答えた。
「いいや。それでもまだ疑問はあるよ。どうやってこの場から逃げ出したのかとか、どうやってフィリーを助け出してきたのか、とか。でもまあ、それもだいたい予想はつく」
「ちなみに僕はわからないな。どうやったんだい、アスタ?」
ウェリウスが言った。方法の想像すらできないことを、それでもアスタがやり遂げると信じていたというのだから、信頼とも呼べない奇妙な関係が、ノートは理解できない。する気もない。
アスタは一瞬だけウェリウスに顔を向け、すぐに元へ戻すと、言う。
「いや、お前は気づけよ」
「そう言われても」
「お前が支配した空間から抜け出す方法なんざ、限られてんだろ。お前が二番目の弟子なのといっしょだ。俺が……誰の弟子だったと思ってる」
「……! じゃあ、君は――」
言葉に目を見開くウェリウス。
ノートはやはり、と静かに思った。アスタは何も言わない。
「もういい。それより、《月輪》――お前は、俺とやる気か?」
「いいや」
ノートは首を振る。
「この僕ではもう君たちふたりは、さすがに敵に回せない。――逃げさせてもらうよ」
その言葉の直後、ノートの体がどろりと液体のように溶け出していく。
アスタは片眉をピクリと動かし、隣のウェリウスに問う。
「……溶けてんですけど、人」
「人じゃないのさ。ある意味ね」
「あ?」
「アレは使い魔だよ。本体は君に会ったほうだ。今頃は地上だろう」
「……今のが、使い魔? ほとんど本体と――」
「遜色ない使い魔を生み出せる怪物だから《月輪》は魔女なんだろうさ。本人から聞いたよ。ドーラの術式を参考にした、とかなんとかね」
「ドーラ……《水星》のことか。なるほど、それでお前に釘を刺したわけだな、使い魔に逆らっても本体は倒せねえぞと」
「ああ、まったく抜け目のない魔女だったよ。――逆らう方法が、ついにひとつも思いつかなかった。それより君は――」
「うるせえ、話ならあとだ。時間はねえし――そのことについて議論する気なんざ、時間があってもねえ」
「……わかった。レヴィさんはこの先だ、行ってくるといい」
言って、ウェリウスは足を踏み出した。
どこへ行くのか、などアスタも問う気はない。そのまま逆を向いて、道を別れる。
「退路については心配しなくていい。君が来る頃には快適にしておこう、アスタ」
「言っとくが、その程度で借りを返せると思うなよ? んなもんは当然の駄賃ってヤツだ。返しきるまで馬車馬になって働け、馬鹿」
「手厳しいね」
そして、アスタは一歩を踏み出す。
だがすぐに止まって、彼はウェリウスへと振り返った。
「おい、ウェリウス。――ひとつ約束してやる」
「ん? なんだい」
「全部が。いいか、全部が終わったら、一度だけだ」
びしりと。
アスタはウェリウスを指差して。
「一度だけ――お前と全力で戦ってやる」
「それは……はは! それはよかった! 君との戦いがこんな不完全燃焼で終わるのは耐えられなかったところだ!」
らしからぬ笑みでウェリウスは叫ぶ。
それほどに――それは、彼にとって譲れない事柄のひとつであった。
それを譲ってなお、優先するものなど――それこそ師匠の命くらいだったということで。
去っていくアスタを見送って、そして。
ウェリウスは、目の前で揺らぐ大気の魔力を眺めていた。
「ノートの使い魔がいなくなったせいで、蓋をされていた魔力が溢れて魔物化する――師匠の身柄が捕らえられている間は逆らえなかった理由だし、こうなってもなお帰り道を塞がれるわけだけど」
ひとつ、借りを返す機会になる。
単純な話だ。きっと力を使い果たして帰ってくる友人の退路を確保するために、今から迷宮にいる全ての魔物を殺し尽くすだけのこと。
「この借りは大きい。そうだろう、アスタ。――君は、父との別れを済ませたようだから」
――それに。
ウェリウスは言葉を重ね。
「ノートが地上に向かったのも気がかりだね。さて……」
結局、彼女はついぞ一度だって、戦力の底を見せていない。
この段階で地上に向かう理由に――嫌な予感がした。
ゆえにウェリウスは、目の前で形作られた魔物――不死鳥の姿をその目にして。
「いいね。雑魚に分散されるより、大物を倒していくほうが僕には楽だ」
その魔力を起動した。
※
レヴィ=ガードナー奪還戦。
第七戦。
勝者――アスタ=プレイアス。
死者。
アーサー=クリスファウスト。
具体的に何が起きたかは次回。




