6-23『愛』
――正直、展開としては予想外だった。
それは認めなければならない。
メロは……メロは、まあ、わかる。あいつなら確かに、俺を止めにくることもあるだろう。
察知さえすれば、後追いでも最速で俺に追いつける――そういう能力がある。だからこそ俺は誰にも気づかれずに迷宮へ潜る必要があった。
結果から言えば、それは姉貴やピトス、フェオたちには通じなかったわけだが。
読まれているわけだ。
俺の性格が。アスタ=プレイアスならば、レヴィ=ガードナーを奪還するために必ず迷宮へ潜るだろうと。
もちろん俺だって、そう考えられていることは知っていた。
来る前にシャルやピトスにも言われたことだったし、ウェリウスだっておそらくそいつを前提として動いている。
現状、事態が俺の想定通りに進んでいるとは言い難い。
ある意味で想定より悪いとも言えたし、ある意味では想定よりも楽だったと言える。その揺らぎが不可解で、さきほどから俺を内心に嫌な予感を浮かばせていた――その正体は掴めないまでも。
たとえば、できればピトスやフェオに気づかれたくないと思っていた一方、バレる可能性も考慮はしていた――理想ではないが想定外とも言えない。シャルやアイリスを、ある意味そのために使ったのだから、俺は。帰ってからが恐ろしい。
結果的に想定し得る全味方から邪魔されている気がして、そういう意味ではまあ予想外な気もするけれど……。
その中でもキュオネの参戦は最大のものだ。
これはさすがに予想していなかった。死者であるキュオが物質世界に現れている時点で横紙破りも甚だしい。
何より、俺はキュオならば――むしろ俺を応援してくれるものだと思っていた。
そもそも止めに来ないと思っていたのだ。
キュオに止められていることは、キュオが現れたことそのものよりも俺にとって驚きということ。
「じゃ、条件をつけよっか」
そのキュオが言う――メロの姿とメロの声で。
なんだかちぐはぐだ。というか、こんな状態でもメロではなくキュオに見えてしまう精神性がもうこわい。こわい。マジ本当にこわい。泣きそう。メロってよく見たら超かわいいよな。こわくねえもの。これに比べて。
「……条件って?」
と、俺は訊ねる。キュオが何を言い出すか、それが俺の死活とか生死とかをリアルに分けそうだ。
全力で警戒している俺に、メロとは思えないほど朗らかな笑みを見せて、キュオが言う。
「いやいや。ていうか怖がりすぎでしょ、アスタ。せっかく会いにきてあげたのに、そんな態度じゃ悲しいぞー?」
「……え、と……」
「ほーら。で、すぐ悲しい顔するし。そういうところが放っとけないんだよ。どんなアスタも大好きだけど、やっぱり笑顔がいちばんなんだけどな?」
「……ごめん」
「謝られてもなあ。アスタってホントに女心がわからないよねー」
「…………」
「それとも――ほかの女の子が好きになったから、昔の女なんてもう邪魔ってことなの、かな?」
――泣きそう。
本当に。冗談とかじゃなくて。胃がキリキリしてきた。勝てないよぅ……ふえぇ。
「あっはは! もう、相変わらずかわいいんだから。食べちゃうぞっ?」
一方のキュオは俺を言葉攻めすることにご満悦のご様子。
楽しそうだなあ……。ていうか、俺はいったい何をしてるんだろうなあ?
もう少し、こう、なんていうかシリアスな状況だと思うんだけど。
「……食べられたら、困るな……」
お陰で、絶対に言わなくてもいいツッコミしか出てこない。
そこ、どうでもいいよ。何言ってんだよ俺。
挙句にキュオは、そんな俺を見て攻め手を緩めない。
「そう? なんかムラムラしてきちゃったんだけどな」
「――――…………」
「なんだろ。肉の体は久し振りだからかな? 疼いてきちゃう」
「――――――――……………………」
「どう、アスタ。慰めてくれる? 今からいっしょに宿に行ってもわたしはいいけど」
「――――――――――――――――…………………………………………」
「久し振りに、朝まで熱く過ごすっていうのも、うん。いいんじゃないかな? そういう交換条件を思いついちゃった」
「もうやめてくださいお願いします!!」
下ネタ! 下ネタが来たんですけど! しかもメロの顔で!!
どういうことだよ。おかしいよ。今なんか窮地の仲間を助けにボスラッシュしていくみたいなパートじゃん。
なんで敵の本拠地のど真ん中で味方から下ネタ喰らってんだよ。どういう状況だよ。
連れ込み宿に行くからやっぱり帰りますとかこの状況で言う奴いるか? いませんよね!?
――あとメロで言うのホントにやめてほしい!!
次からどういう顔してメロに会えばいいんだよ俺が! ていうか、これメロが聞いてるとかないよね!?
「冗談だよ。……そこまで面白い顔見れるとは思ってなかったな、あははっ」
「……勘弁してくれよ」
「そうだね、そろそろ勘弁してあげる。わたしの中で、メロがすっごく焦ってるし。かわいいなっ」
……聞いてたわ。あ、聞いてんだそっか。メロ意識あるんだ。ふーん?
もうダメだ。キュオの奴、俺だけではなくメロにすらダメージを与えていた。
「ま、時間も何もかも足りないし、初めから無理なんだけどね。――それじゃ戦うとしよっか」
「……キュオ、でも――」
「いいから。そのためにメロにわがまま言って、体まで貸してもらってるんだから。わたしが勝ったらアスタは帰る。でもまあ、それじゃ悪いからね――わたしが負けたらそのときは、きちんと対価を支払ってあげる」
「対価……ってのは」
「そうだね……ひとまず秘密にしとこっか。でもアスタ、このわたしが――アスタを手伝ってあげるんだよ?」
にっこりと。
かつて、誰よりも見たはずの笑顔を彷彿とさせるような表情で。
キュオネは俺に微笑みかける。
「――心強いでしょ?」
「ああ。そうだな……最高だ」
薄く笑った。なるほど、それは確かに心強い。この上なく。
「けど、いいのか?」
「いいって何が?」
「さすがに、今のキュオには勝ち目ないだろ。いくら俺が死にかけだからって」
俺は断言する。
いかにそもそもキュオに俺が勝てない(精神的に)とはいえ、今のキュオと正面戦闘して負ける理由がない。
メロの体を借りている状態では、彼女本来の能力なんてほとんど扱えないだろう。格闘技術がトレースされているとしても、そもそもの肉体能力が違いすぎる。メロの肉体で、キュオの体術を再現することは不可能だ。
それだけじゃない。魔術だって、メロのものもキュオネのものも、大半は使用不可能になると思っていいはず。どういう理屈で、どんな術式でふたりがこの奇跡を再現したのかはわからないが、そこは確か……な、はずだ。
いくら魂が当人のものでも、出力口となる肉体が他者のものである以上は――物質世界において相応に縛りを受ける。
いつかのように、俺が精神世界側に入っている場合なら、キュオの魂魄が直接、魔術を行使することも不可能ではないのだが。人間世界ではできないはずだ。
それともふたりは、そんな魔術の常識さえ覆すような裏技を用意しているのだろうか?
「ま、確かにわたしの術式はほとんど使えない、かな。少なくとも固有のやつはね。もちろん、わたしがメロの魔術を使うこともできない――まあ基礎的なのなら、なんとかってとこかな」
「……それでも俺に勝てると?」
「どうかな。アスタだって死にかけなのは変わんないし。普通はそんな状態で、魔術なんてロクに使えないものだけどね。それこそわたしと大差ないでしょ」
「だったらキュオ。それなら今のお前は、単にメロが弱体化した状態ってんでしかないことになるが?」
俺はそう問いかける。
ああ、そうだ。
なんのかんの言ったところで――俺は結局。
「んふふ。――そう思うなら、それなりに油断してくれて大丈夫だけど。わたしが勝つから」
「……そうだよな。お前ならきっと、そう言うと思ってた」
――キュオが切り札を用意しているだろうと、初めから信じていたのだと思う。
「じゃ、行くね。――こうして向き合うの、本当に久々だ」
だから。
「ああ、いつでも来い。お前から、一回くらい勝ちを貰っておくのも悪くない――」
ボロボロの自分に出せる、全力を。
後先すら考えず、彼女に預けてもいいと思ったのだ。
※
交錯は一瞬で済む。彼我の状態と戦力差から言って、キュオに魔術は使えて一度。
さきほど言った俺の言葉は正しく、死に体だろうとこちらが圧倒的有利であること自体は何も揺らがない。
――要するにキュオが、どのスタイルの自分を選ぶかである。
攻め手の予想はいくつか立っている。だがそれには固執しない。
お互いの手の内をよく理解しているからこそ、考える意味のないこともあるのだ。ここまで来るともはやじゃんけんで、要するに考えるだけほとんど無駄。正攻法を外してくる、と考えるだろうから正攻法で行く、と読んで正攻法を外す――そんな思索のいたちごっこに意味はなく、だったら反応に全て投げたほうがよほどマシ。
そもそも、じゃんけんと言うには――キュオの《手》はあまりに多すぎる。
――キュオネ=アルシオン。
彼女の本領は、特定のこだわりを持っていないこと点にある。
本来、魔術師であるなら何かひとつ《得意》を用意する。
いや――用意と言うと少し違う。魔術の性質上、何かひとつはその個人に合った特性を必ず持っている。持ってしまうのだ。誰であれ、その前提からは逃れられない。
俺が《印刻》に偏るように、姉貴が《錬金魔術師》という道を選んだように。何かひとつは特化したものを持ってしまうし、それは普通に考えれば利点であるはずだった。
一見して万能に見えるユゲルですら、それは《万能性》という一点に特化している、と言うべきなのだ。魔術において、応用力とは本来ひとつを極めた先でこそ見出すモノである。
だが。
だが《魔術師》キュオネ=アルシオンだけは違う。
「――行く、」
よ――という音だけ遅れて聞こえた。
いや、それは印象だ。実際にはむしろ近くから聞こえた。
一歩――。
踏み出したキュオネが身を屈め、至近距離まで肉薄してきたのだ。
速い。
だが遅い。
矛盾した感想は相対論。
キュオの全速はこんなものではなかった。
俺は咄嗟に手を前に出す。
この距離で、不意を打った接近が俺に気づかれている時点で、全力にはまるで程遠い。
防御ではなく反撃を選べてしまうほど、今のキュオには速度がない。
いや、これでは強化したメロにすら劣るかもしれない。
当然だ。他人の肉体を使って動く、ということがそもそも決して簡単ではないのだ。
身長、体重、体格、筋肉量、反射神経――全てが異なるのだ。いかに当人より優れた運動性能をもってしても、本人より遅くなってしまうほど動きに違和感が出る。いや、魂魄と肉体の反発を精神で抑え込んでいる時点で、普通なら無理筋だ。
「っ、」
キュオが身を捩り、伸ばした俺の手を躱す。
打撃というより掴みかかるに近い挙動。ダメージより拘束と、それに連なる魔術を恐れたのだろう――やはり遅い。
とはいえ俺に油断はなかった。
キュオならきっと想定を超えてくるはずだという、どこか信仰にも似た信頼。
その彼女が――キュオネ=アルシオンが。
思ったより弱いという時点で、罠にしか思えない。
バックステップで距離を取ったキュオを、あえて追わない。
長期戦なら有利は増す。そうでなくともツッコんでダメだから引く、なんて安易な誘いにわざわざ乗ってやるものか。
「さすが、この程度じゃ乗せられない――か」
「騙されて痛い目は見たくないんだ」
「信頼っていうか、なんかな。それはそれで釈然としないけど」
「本当にこの程度なら、それこそ俺が勝つだけだし」
「……そりゃそうだ」
それに――口にはしないが――このやり取りでも理解できたことは少なくない。
少なくとも今回、キュオが格闘術に特化したスタイルは取ってこないだろうということ。
「……呪詛狙いか」
「んっふふ」
俺の呟きに、キュオは笑う。
さも見抜いた風を装ってのカマかけは失敗ということ。ま、そりゃキュオには通じんか。
ただ、おそらく正解だろうという印象はあった。
「女の恨みは怖いからねー? 特に、捨てられた女の怨念ってのは」
実際、キュオも否定はしていない。
この場合、否定しなかったからなんだという話だが。
「……キュオに言われると、マジで洒落にならんのですけど」
呟きつつ、思う。キュオがどう来るのかを。
――キュオネ=アルシオンは優れた格闘家であり、天才的な治癒術師であり、そして恐ろしき呪詛使いである。
それらはその時々によって、彼女がどう戦うかを決めた上で振るわれる。もちろん全て当人の技術である以上は、同時に用いられることもあるが、場合によってはどれかに特化した戦法を選ぶこともあった。
その戦い方はおよそ同一人物とは思えないほどかけ離れている。
キュオの持つ、それが多面性だ。見る者によってまったく異なる印象を与える、おおいなるやみ。
彼女を、天使の如く心優しき医術師だと思う者がいる。
彼女を、修羅の如き卓越した格闘家だと思う者がいる。
彼女を、悪魔めいて慈悲なき暗殺者だと思う者がいる。
――彼女を、そのいずれとも異なる何かだと思う者もいるだろう。
『女の子ってそういうものでしょ? ひとつのものでできてるわけじゃないんだから』
いずれもが彼女でありながら、いずれもが彼女ではない。
見る者によって表情を変えるなど当然だ。だがそれは仮面ではない。
天使のような悪魔ではなく、悪魔のような天使でもなく。
天使であり、悪魔であり――そのいずれでもなく彼女はキュオネ=アルシオンであるという矛盾。
そう。セルエが人格を切り替える魔術師であるのなら、キュオネ=アルシオンは性質を切り替える魔術師だ。
儚く散る命に慈悲の涙を流しながら、敵対する者を容赦なく無慈悲に殺す。
それを同一の人格の下、ただ生き方の選択としてやってのけている。セルエと違って、キュオネという人格はただ一個――にもかかわらず。
彼女を見て、そして生きのこった者は、誰もがまるで違った何かをそこに見出す。
ある者はその慈悲を《白の微笑み》と讃え、
ある者はその強靭を《破壊の忌子》と畏れ、
ある者はその残酷を《終わりの黒》と嗤う。
キュオは一時期、つけられた複数の二つ名全てが別人のものであると勘違いされていた。
そして、特にそれを訂正しようとも思わなかった。
七星旅団の《万象の昏闇》が、《終わりの黒》と同一人物であることを知っている者のほうが、おそらく今でも少ないだろう。というよりほとんどいないはずだ。
俺ですら知らない名前があり、どこかで聞いた有名な二つ名を持つ魔術師の正体が、実はキュオだった――なんてことはよくあった。
彼女は《万象の昏闇》であり《万象の昏闇》であり《万象の昏闇》であり《万象の昏闇》であり《万象の昏闇》であり《万象の昏闇》であり《万象の昏闇》でありそれ以外であり俺の知らない何かであり――その全てで呼ばれながら、どれもが違う。
しいて言うなら、『どれも自分で名乗ってるわけじゃないんだよなー。恥ずかしいよ』が正解である。
どうするかが、
どうあるかが、違う。
キュオに殺されかけて命からがら逃げだした者が、別の場所で彼女に治療を受けても、自分を殺した者と救った者が同一人物であることに最後まで気づかなかったことがあるという。顔が変わっているわけでも変装しているわけでもないのに、だ。
なぜなら彼女は全てにおいて、その場でのスタイルを――スタンスを決めてその通りにしているに過ぎない。
人格どころか考え方すら変えているわけでもないし、同じものをみれば同じ印象を抱くほどむしろ一定している。それは単に、外部から彼女に貼りつけられた、一側面を彩るレッテルに過ぎないのだ。
ゆえに。戦う相手としてはこれ以上なくやりにくかった。
「…………」
キュオは戦法を変える。
それは彼女の思考とは無関係で、二つ名とも特に関係がない。周りが思っているだけのこと。
実際には、キュオはそのときどきで各ステータスに割り振る制御魔力量を、驚くほど綿密に切り分けているだけの話。
たとえば身体能力に制御の7割を割り振り、残り3割を別の魔術に振るというような。同一人物とは思えないほど、その能力にバラつきが出るのはこれが理由――治癒魔術師であるからこその人体運用。
それが手品のタネだ。複数の二つ名は戦法そのものというよりも、それに付随して彼女が起こした結果や、そのときどきの立ち位置によってつけられたものに過ぎない。
だとしても。
おそらく今回の彼女が使ってくるスタイルは呪詛特化型としてのスタンスだろう。別に彼女が、そう名づけているわけではないけれど。
かつて、総勢数十名にも及ぶある冒険者団体を、たったひとりで、たった一夜のうちに殺し尽くしたという謎の魔術師。
その正体は杳として知れず、現場には血の一滴すらなく、ただその集団の人数と同じだけの真っ黒なヒトガタが、彼らの本拠地に無造作に転がっていたという――冒険者の間では都市伝説としてすら語られる事件。
ゆえにその正体不明の下手人を、人はブラックオールと呼んで恐れた。
それがキュオネ=アルシオンという、たったひとりの女の逆鱗に触れてしまっただけで、文字通り全てを黒に染め切ってしまった顛末だと知る者はごく限られる――。
「――っ!」
次の瞬間、俺は床を蹴って、今度は自分からキュオに肉薄した。
その直前にキュオが動こうとしたのがわかったからだ。
肉体強化にほとんど力を使っていない彼女は、今や俺ですら機先を制せるほどに弱い。
本当なら肉体の魔力振りがどれほど低くても、ここまで弱体化はしないが……それはメロの肉体を使っているせい。
相手の動きに被せる形で先んじて、俺はキュオに迫る。
正直、実力差――というより能力差がありすぎる。手刀で首筋から魔力を打ち込めば意識を断てそうなほどだ。
だから実際、俺はそれを狙いに行った。
キュオに対してというより、この肉体をボコボコにするのはメロに対して普通に悪いから。それに手加減とはいっても、それは結果に対して。過程自体は全力でやっている。
急接近。そこからステップで、キュオの横側に回る。
果たしてキュオは、それを読んでいたかのようにくるりとこちらを向いた――動きを察知されていた。
廊下の狭さを利用して、こちらの行動を自然に誘導していたのだ。能力が低くとも、そこはさすがに肉弾派。運用技術は俺じゃ勝てない。
だが、そこからのキュオの行動は、はっきり悪手だとわかる行いだった。
そのことに逆に驚く。
彼女はこちらの動きを読むと、逃げるでも躱すでもなく、むしろこちらに手を伸ばしてきた。
確かに壁を使って俺を自身の右手側に誘導してしまった以上、壁のある方向に下がることはできない。だからこそ誘導を予想しなかったのだが――にしたって、それではあまりに遅すぎる。
万全のキュオならここから俺を殴り飛ばせただろう。
だが今のキュオには優れた一般人、という程度の速度しかない。魔術による強化とは単純な筋力増強ではなく、身体能力という概念そのものの強化だ。動きを読み、先んじて動き出したにもかかわらず、今のキュオでは俺に追いつかれる。
だからそのまま、俺はほとんど反射でもってキュオの手を払おうとしていた。
けれど、脳の中では違和感が大声で叫んでいる。
そんなことがあるか? と。俺は今、追い詰めているつもりで詰められているのではないかと。
疑念と、それを思案する冷静さを併せ持つのは魔術師としての要件だ。
広くなっていく視界が直後、ある情報を俺にもたらす。
――キュオが、汗を掻いていた。
いや、正確なことを言えば肉体としてはメロのものだろう。だがこの場合はあまり変わりがない――いずれにせよ行いに無理が出ているのだから。
俺は気づく。もしや、全てがフェイクだったのではないかと。
「く……!」
それは当然の思考だ。
いくらキュオネとメロでも、やはり魂魄を肉体に結びつけるだけで限界だったのではないか、と。それは当然で、むしろこのふたりならそれ以上があるはずと思った俺のほうが定石から外れている。
上に見すぎた――いや、そのようにキュオが俺を誘導した。
実際には本当に限界だったのに、さも余裕があるように見せかけていただけだった。――だとすれば。
「っ……キュオ!」
「アスタ――」
ほんの一瞬、硬直した腕。その隙を逃さず、キュオはそのまま手首を掴んだ。
強い力。だとしても、振り解くのは容易い能力差。
もしキュオが無理をしているのなら、この戦いを続ける理由はない――すぐにでも止めなければならない。
そう、思考した。
してしまった。
――切り札があるに決まっているという俺の認識を、揺らがすことに成功した――!
「捕まえ……、た」
「お前……!」
直後。――キュオネ=アルシオンが、俺の胸の中へと飛び込んだ。
※
「――――」と、息が止まる。
いや、止められた。それも精神的に、だけではなく物理的にも。
あるいは塞がれたと言うべきか。
俺の胸に飛び込んだキュオは、そのまま俺の口元まで顔を近づけると、そこに自分の唇を這わせる。吐息が、舐るように口内へ潜り込んでくる感触。思わず背筋がぞくっとした。
あるいはもっと端的に表現するのであれば。
「ん……、っふ」
「――――」
思い切り口づけされた――唇を奪われたと言えばわかりやすい。
キュオは何も言わず、身じろぎもせず、まるでその時間の尊さを全身で確かめるかのように目を閉じていた。
そして俺も、もちろん何ひとつとして言葉にすることができなかった。
しばらく――どれほどだろう――そのまま、硬直するみたいに柔らかさを感じていると。
やがて、キュオが唇を離して、はにかむように笑った。
「だから、食べちゃうぞって言ったのに」
「いや、……これは予想外でしょ」
「そうだね……ふふ。アスタ、すっごくびっくりしてた」
「するに決まってると思いませんかね……」
「さあ。――ね、それよりわたしも訊いていいかな?」
「……どうぞ?」
「じゃ、遠慮なく訊くけど。――アスタは今、誰のことを思い出していたのかな?」
――本当に。
敵わねえなと思わされた。
「あっはは! そんなに面白い顔しなくったって!」
楽しそうにキュオは笑う。
面白がっていただけて何よりだった。
「はあ……まあ、わたし、もう死んじゃったからね。それは仕方のないことだから」
「…………」
「死んでまでアスタを縛るほど、重たい女じゃないつもりだよ?」
「……いいや。お前ほど重たい女、そうはいねえよ」
「あっはは! だけど、このくらいの意趣返しはせめてさせてもらわなくっちゃ。最後にひとつくらい、アスタから貰っておくものがあってもいいと思うんだ。こういうの……そう、冥途の土産って言うんだっけ?」
「それはこっちが渡すものであって、お前が奪ってくもんじゃねえよ……」
「よよよ……命を捨てて、女としても捨てられる憐れなキュオネちゃんなのに……とってもヒドいわ、およよ」
「それ言われちゃったら何も言い返せないんだよなあマジで」
あっけらかんと言わないでほしい。いや……言わないでほしいとすら言えないんだけど。
それを俺が引きずって、いつまでもうじうじしているほうがキュオは怒る。言葉で言うのは簡単でも、そこまで徹底できる人間が、果たして実際にはどれほどいることか。
――心から尊敬せざるを得ない。
「というわけで、勝負はわたしの負け。――この体勢からアスタに逆転する方法なんて、わたしにはひとつもないからね」
キュオはそう宣言した。
実際、この至近距離ではもう、何をどうしても俺の勝ちだろう。
勝ち……ねえ。負けたという気分しかないってのに。
「もともと、勝つ気なんかさらさらなかったんだろ、キュオ」
俺がそういうと、キュオは笑って。
「誰がアスタのこと焚きつけたと思ってんだか。とーぜんでしょ?」
「……ま、だよな。試合に勝って勝負に負けたってヤツだ。やられたよ」
「んっふふ。むしろ助けにもいかないでうじうじしてるようなら、思いっきりブッ飛ばしたとこだけどねー?」
「そりゃ怖いな……行くことにしてよかったよ」
たとえ、ほかの誰を敵に回しても。
お前ひとりが、味方でいてくれるほうが、いいに決まってる。
「うん。そうだね、アスタは行くもんね。だから言ったよ、初めから決まってる。アスタのことは、わたしが助けてあげるって! まったく罪な男だねっ!」
花の咲くような少女の笑み。
いやあ本当その通り。
本当、本当にね。いやこれ本当にそうだよね言い訳のしようがないよねマジでどうしようだよね。
客観的に見て俺はピトスとフェオの告白を宙ぶらりんにしたまんまメロ(の肉体)とキスしてますからね。
起きたできごとだけで言ったら、罪な男ってレベルじゃないわ。
ナチュラルに罪人というか、いっそ罪そのものだよ。女の敵とかだよ。
でも俺が悪いわけじゃないと思うんですがどうですか……?
「よーしっ! それじゃ、負けちゃったものは仕方がない! 最初の約束通り、わたしがアスタを助けてあげるから。さ、ほらほら座って! はーやーくーすーるーのー!」
と、そんなことを言うキュオに、俺は強引に座らされる。
なんだよと訊ねる間もない。そのままキュオは床に胡坐を掻く俺の背中に回ると、
「えい☆」
と、後ろから包み込むように背中を抱き締めてきた。
俺は問う。
「……なんしよっと?」
「わかるでしょ。今まで何度やったことか、だよ」
「あ……」
言われて気づく。仄かに、全身を包んでいく温かな感触。
これまで何度となく俺を助けてくれた、キュオネという少女の代名詞。
――治癒魔術の光。
体の傷が、わずかずつ――しかし確実に癒えていくのがわかる。
「ふーむ。本当ならこうやっておっぱいを当てることでドキドキさせることも可能だったんだけど」
「いきなり何言い出すかな……いや、でも今、お前……体がメロだし。それは無理でしょ」
「あっはは! ……アスタさ、メロにも普通に聞こえてるの、忘れてる?」
「あっ。……い、いや今の実質お前が言ったようなもんじゃね!?」
「やっぱ忘れてるよ。抜けてるんだから……ま、大丈夫。今のメロ、ちょっとそれどころじゃなくて混乱中だから。まともに話は聞けてないみたい」
「ああ、……あー、まあ……そうか。そうだよな……メロに申し訳なくなってきた……」
「んー……わたしはむしろ逆だと思うけど、まあ、それはいっか」
昔を思い出すような会話。ああ、本当にキュオの声音で聞こえるかのようだ。
彼女がいつまでも変わりなく、彼女であってくれるから。
だから俺も、俺たちも、きっといつまでだって同じ俺たちでいられるのだと思うような。
そんな、心地のいい時間だった。
――だから。
「なあ、――キュオ」
問わずにはいられないことがある。
耳元の小さな声を、ひとつも聞き漏らすことがないように。
「何かな、アスタ?」
「……もう、限界なのか?」
ずっと感づいていたことを確認する。
「わかってるくせに」
キュオネは答えた。当然だろう、と。
「死んでからもう一年以上……さすがのわたしも、これ以上は自分を保ってられないよ」
「……、そうか」
「悲しそうに呟かないでよ、最後になるかもしれないのにさ。何度だって伝えてる。わたしは、それを呪いとしてアスタに遺すなんて――そんなことは絶対に嫌なんだから」
「……、そうだな。そうだった」
「最後に、キス……貰っちゃったからね。アスタに返せるものを考えたの。そしたら、それは……祝福しかないかなって」
「…………」
「だからアスタはしあわせになるの。ならないといけないの。今までみたいにバカやって、いっぱいの人に迷惑かけて、それを笑って許してくれる、いっぱいの人に囲まれて……美味しいご飯を食べて、笑いながら、寿命で死ぬの」
「ああ。……ああ……っ」
「それがね。それだけが、わたしがアスタに残してあげられる、最後にひとつの――祝福だよ」
言葉を作ることができなかった。
零れ出そうになるものを、堪えるだけで必死だったから。
別れには相応しくないものを、ここには残せない。
そんな思い出で、彼女と別れてなるものか。
「いやいや、泣くのは早いでしょ。いや、ある意味遅いのかな? まあとにかく! 別に、今すぐってわけじゃないんだ。まだちょっとは、アスタのこと見ていられるからさ」
「……、……そうか。ああ、そいつは助かる。まだまだ、お前が目を離すと俺は危ないからな」
「いやホントだよ。何度死にかけたら気が済むんだって話だよ、まったく」
「ああ……ホント面目ない」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……ねえ、アスタ」
「ああ。――なんだ?」
「――愛してるぜ」
キュオネがそう言った。
だから俺も答えた。
「知ってる。俺も愛してる」
「知ってるよ。でも――言うのが、遅えや」
その言葉を最後に。
ふっと、その身体から力が抜ける。
「キュオ?」
問いかけ、横に視線をやる。
だがキュオは――メロの体はもう目を閉じて、気絶したみたいに全体重を俺に預けていた。
それも束の間。
直後、ぱっちりとその瞳が開く。
「ん、……んん」
そしてバッチリと視線が合う。
目を開いた少女は、こちらをまっすぐ見据えたまま――徐々にその頬を真っ赤に染め上げていった。
メロだ。
「……あー。えーと……おはよう?」
「ぅあ」
メロは視線を逸らし、けれど体重は預けたまま、耳まで真っ赤に染めて、再び俺を見つめてから――最終的にそのままの体勢で顔を伏せて。
「……ふたりの、ばかぁ……」
呻くように、そんなことを呟いた。
ああ。まったく俺たちの妹分ときたら、かわいらしくて仕方がない。
「体は大丈夫か?」
「……ぅ。だ、だいじょぶだよ……いやちょっと、すぐに動くのはキッツいけど……」
「肩、貸したままのほうがいいか?」
「は――い、いい、いいいらないよバカ! そんなこと言ってないで、アスタはさっさと先行けばいいでしょ! バカ!」
「……ははっ」
こいつは手厳しいものだ。
俺はメロを抱きかかえ、そのまま立ち上がって彼女を通路の端へと運ぶ。
「わわっ。い、いいよ……別にひとりでなんとかなるよっ!」
「俺がやりたいからいいんだよ」
「んな――」
「なんだかな……結局、俺はお前のこと好きなんだよな。どうしようもねえ」
「――ほぁっ――」
謎に呻くメロ。
だが以降は何も言うこともなく、抵抗もせず、されるがままに通路脇へと運ばれてくれた。
だいぶ消耗していることは事実なのだろう――無理もないが。
俺は言う。
「悪いが、ここに置いてくぜ」
「……ぁう、うん。わかってる――別に、すぐ回復するから平気だよ。ちょっと接続に酔ってただけ」
「そうか――キュオは?」
「キュオ姉との接続はもう切れてる。そんな持たないよ――まあでもまだ元気じゃないのかな。もうちょっと持つでしょ」
淡白な言葉。いや、覚悟はもう俺より先に決めたのだろう。
何を言われたのかは知らないが、メロが体を他人に貸しているのだ。それ相応のやり取りはあったと思う。
「んじゃ、まあ……先を急ぐわ。あと任せる」
「ん。――ま、がんば」
そんな言葉を最後に、俺はメロを置いて先へと駆け出す。
魔物もいなければ魔術師もいない。メロに関しては問題ないだろう。
というより、この先を考えれば回復次第、戦力に戻ってもらう必要がありそうだ。
幸い、今の戦いで俺のほうもかなり回復できた。
――あとはもう、最後まで駆け抜けるだけでいい。
貰ったものを、無駄にすることないように。
※
レヴィ=ガードナー奪還戦。
第五戦。
――没収試合。
サブタイトルのつけ方がいつもと違う?
……そうですね。




