6-16『生涯、記憶に刻むため』
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彼のはじまりは実に平穏なものだった。
その生涯で唯一、穏やかと表現して構わない時期だったと言えるだろう。
なぜなら彼にとって、その人生は紛れもなく《日輪》との出会いがスタートなのだから。
それ以前を――彼は人生とは呼ばないのだから。
「何をすればいいですか」
初め、少年はそう訊ねた。
掃き溜めのようなこの世の片隅から、わけもなく自分を拾ってきたわけではあるまい。舞い上がったのも束の間、それは単に自分が資源として見初められたに過ぎないのだと彼は自分を律した。これは、ゆえの問いである。
あるいはそれは、幸福への拒否反応と言ってもいいのかもしれない。
幸せな自分が想像できなかった、わけではない。
彼は確かに社会的には最底辺と言っていいだろう状況に身を置いていたが、上があることなら知っていた。この王国は周辺諸国と比べれば遥かに裕福で、たとえだからこそ必然的に生じた格差に呑まれた者こそが彼であったのだとしても、社会的に恵まれるということがどういうことなのかは認識できていたからだ。
あるいは決して裕福とは言えない境遇に生まれたとしても、こと《魔術》というものの才覚を磨けば社会的に成り上がることも容易な仕組みだ。無論、魔術の初歩を学ぶことができる時点で恵まれているとも言えるのだが、奢侈に溺れさえしなければ、冒険者として生きる道もあった。
だから、自分がそれで幸せになれるかどうかはともかく、幸せとはそういうものなのだろうという思考はできたのだ。
元より拾われた時点で――今日飲む安全な水と、明日食べる食事が約束されている時点で――彼にとっては充分に幸せなことだと言えた。
もう幸せになっていると言えた。
だから、それがいずれ奪われてしまうかもしれないという想像が恐ろしかったのだ。
彼にとって《所有する》という概念はそういうものだ。抱え込んだ段階から奪われることが想定される。だから持たず、持ち越さず、奪われるという不幸が訪れないようその場で消費してしまうに限る。
しあわせになることが怖い、とはそういう意味だ。
だって、それは長期的なものだから。
その場で消費する限りのものではない以上、やがては奪われ失ってしまう。
それは怖い。
維持しなければならない。
そのために、自分は何かに役立たなければならなかった。
だって与えられたのだから。
与えられたものを知ってしまったのだから。
温かな食事を、奪われる心配をせず食べられる安心を、汚染など想像もできない澄んだ飲み水を、雨風や寒さを凌げる寝床を探し回らずとも、扉を開けらば綺麗な毛布が出迎えてくれるという環境を。
与えられてしまった。
それが与えられなくなることは、奪われることに等しいのだ。
知らなければ心配しなくてもよかったのに。
知ってしまったがゆえに、怯えなければならない。
「何をすればいいですか」
この問いの意味はそれだった。
だから狼狽えた。
混乱した。
「別に何も」
そんな風に、あっさり言われてしまったことに。
意味もなく拾ってきたとでも言わんばかりの態度に。
「何も……?」
「というか、それは君が決めることだろう? 君が何をしたいか、さ」
「何がしたいか……ですか」
「いや。まあ手伝ってくれるならありがたいこともあるんだけどね。それを君が選ぶかどうかは、また君次第だから。僕としては単に、そういう運命を望んでいるだけのことでね」
後から思えば、それは選択を委ねる優しさなどではなく、単に彼にとってはどちらでも同じことだったに過ぎないのだが。
それでも表面上その対応は真摯ではあったし、結局はその表面さえ繕われていれば構わなかった。
「運命なんてそういうものだよ」
魔法使いは語る。
それこそ、言葉それ自体が魔法の如く。
「いいかい? 君は唯一無二でもなんでもない。君の代わりなんて、どこにだっている」
「――――――――」
「だけど、そいつは喜ぶべきことだ。代替が効くことほどの幸運はないんだよ。それほど幸せな運命はない。世界というものは結局、《誰が》《何を為すか》の積み重なりだろう? 君がやるべきことはほかの誰かがやるし、いつか必要なことならば必ず成し遂げられると決まっている。《誰が》も《何を》もいくらだって変動する。最終的には辻褄が合う――」
この世界は、そういう風に創られた――。
「……そういう、風に……」
「そう。だからこそ喜ぶべきなのさ。だって、別に君がやらなくてもいいんだぜ? 何をやっても帳尻は合うんだ。なら、誰かが何かをやってくれるなら、君は君がやりたいことをやっていいんだ。ぼくが君に与えてあげられるものは、せいぜいその贖宥状くらいのものなのさ」
「……僕は」
「うん。だからね、だからこそ――その誰でもいい場所に、君が立ってくれたら面白いな、とぼくは期待しているわけだ」
呪いのような言葉だった。
毒にも似て、甘く艶やかに響く声だった。
君しかいないからではなく、
誰でもいいからこそ君を選んだと言われるほうが、少年には嬉しかった。
「――それなら」
少年は言う。
「うん」
「それなら僕は、あなたの役に……立ちたい」
決意でも覚悟でもなく、その宣言は言うなれば祈りで。
信仰の如き宣誓を、魔法使いは人の好い笑みで、ただ受け入れた。
どこまでも気楽に響く言葉で。
「そっか。ありがとう」
以降、少年は魔法使いを師と仰いで魔術の研鑽に励み始める。
やがて《七曜教団》が設立され、その最初のひとりとして《木星》の名を与えられる頃には。
アルベル=ボルドゥックは、人間になっていた。
※
「――どんな気分なんだ?」
と、アルベル=ボルドゥックは訊ねた。
「……何がだよ?」
「確実に殺したと思った相手が、生きて戻ってきたときの気分さ。聞かせてもらえないかな?」
皮肉げな言葉だ。
だがアルベルは笑いもせず、むしろ憎々しげですらある。
「あのときの意趣返しのつもりかよ、お前」
「期せずして、と言ったところだけどね」
「普通に最悪の気分だ。お前、しつこいにも程があるってもんだろ」
「は、ならよかった。――あのときの僕の屈辱の、ほんの一部でも君に返せたなら上等だ。戻ってきた甲斐がある」
「……バカ言えよ」
首を振る。決してこれは、あのときを逆に焼き直したものではない。
俺は、言わなければならなかった。
「死者は生き返らない。――絶対にだ」
「…………」
「俺は厳密に言えば死んでなかったから回復できただけだ。本当に死んだら生き返れない」
死んだも同然、とは生きているという意味だ。
それは蘇生ではなく回復に過ぎず、魔術だからこそ成し得た奇跡と言えよう。
だが、魔術にだってできないことならば、それはできないのだ。
「お前は生き返ったわけじゃない」
「……その通りだね」
アルベルはそれを否定しなかった。
いや、当然だろう。誰よりアイツ自身がそれをいちばん理解している。
自身の手のひらを見つめ、それをアルベルは握り込んで。
「魔人化していたがゆえの裏側との接続、術式を用いることでの自身の魂の隠匿、他者の魂魄を飲み干しての魔力の増強。そこまでやって、ここが迷宮だからこそなんとか戻ってこられたに過ぎない。しかも力尽くで、だ……優雅じゃないね」
「……ふざけた話だ」
「君にだけは言われたくないね。死んでも、だ」
「は。死人が言うと説得力があるな」
「死後の世界も、あれでなかなか悪くない住み心地だったよ。案内くらいならしてやるさ」
「生憎とまだまだ死ぬ気はねえよ。これでも女を待たせるもんでね」
「気の多いことだ」
「うっせボケばーか!」
思わず子どもみたいな返しになってしまった。
締まらねえなあ。もしかしたら俺ってば呪われてんのかね。
「……で? やる気なのかよ」
訊ねた俺に、アルベルは肩を竦めた。
「らしくもない問いだ。不要な確認だと思うけど」
「死人に構ってる暇はねえよ。お前は放っておくだけで魔力切れで自滅する」
「…………」
「第一、もう格付けは済んでる。お前じゃ俺には勝てねえよ」
決して、根拠のない話ではなかった。
魔人化で得た魔力も今となっては減少する一方。何よりおそらく、アルベルはもうあの魔術を使えない。
あらゆる攻撃から自己を隠す《ただあるがままに》。
強力な魔術だが、一度は破ったものだ。何より自身を世界の裏側に隠す魔術である以上、今使用してはおそらくあちら側に引きずられる。
魔術的に完全な死者である以上、現世に留まる力より裏側へ引っ張る力のほうが強いはずだ。留まることに力を費やしている以上、あの魔術はもはや単なる自爆、使った時点で強制的にまた裏側へ戻され、二度とは帰ってこられない。
切り札を失ったアルベルに負けるつもりはなかった。
だが――。
奴は、それでも言った。
「だからどうした。――知ったことかよ」
「…………」
「そのために僕は戻ってきたんだ。ノートに力まで借りて」
「……あの魔女……っ」
何があの術はアルにしか使えねえだっつの。
嘘をつかずに、俺を騙してやがった。これだから魔女って輩は信用できん。
あいつ、俺の意識からアルベルの存在を隠すように、言葉を繕ってやがったのか。
あるいは俺なら、ガストの例から――アルベルが戻ってくる可能性に気がつくかもしれないと思って。
買い被ってくれる魔女だよ。
「もう、いいんだ」
アルベルは首を振って言う。
諦めではない。むしろ執着の言葉として。
「もう決めた。僕の行いがどう評価されようと、ノートたちにどう利用されようと知らない。ほかの事情はもういらない。ただ僕は、君を殺すためだけにここに来た」
「……なんのために?」
「決まっている。――全ては《日輪》の輝きのためにだ」
「まだ、そんなこと言ってんのかよ、テメェは」
俺は首を振った。理解できない。
「まだしも殺された復讐ってんならわかる。そりゃ俺が憎いだろうさ」
「…………」
「だけど、なんなんだ? お前だって、自分が体よく使われていたことくらいもうわかってんだろ? なんで気づかねえ。なんでまだ、それでも一番目に肩入れするんだ」
「――わかっていないな」
問いに、アルベルは静かに答える。
だがその視線は鋭く、およそ呪詛にさえ近い。
「僕はそんなコト最初から理解していた」
「何……?」
「それでいいと言ったんだ。僕の人生は彼に利用されるためにあった。それでいいと、僕が決めたんだ」
「……理解できねえ、お前のことは」
「同感だ。安い共感なんて虫唾が走るよ。君に理解されたいなどと思ったことは一度もない。僕も、君を理解できない」
アルベルに右腕と心臓はない。
その状態で、いわば肉体なく魂の形そのもので、この世界に顕現しているのだ。
たとえ迷宮であろうと、その苦痛たるや想像を絶する。
自身を守る肉のないまま剥き出しの魂で、寒風吹き荒ぶ場所に立っているようなものだろう。
「何より君は勘違いしている。紫煙の記述師――アスタ=プレイアス」
「……何を?」
「僕は、もちろん君を、――殺したいほど憎んでいるとも!」
次の瞬間、全周から魔術が襲い来た。
発生したのは赤い刃だ。硬質に固められた血液にも似た赤い刃が、全方位からこちらへと飛来する。
俺は瞬間に魔術を起動した。
「《雹》」
全方位攻撃など愚の骨頂だ。どうであれ一撃で散らせるのだから。
その間、台風の目の中にいる俺は煙草に火を点ける。義手を失った以上、そうするしかない。
嵐が破壊となって舞った。
視界が遮られるが、魔力の気配でアルベルの動きはわかる。
果たして、視界が晴れてなおアルベルはそこにいた。
「……煙草に火を点けたか」
呟いたアルベルに、俺も返す。
「さて。そういうお前は何をしたかね?」
「教えるわけがないだろう」
「でも仕込みは今のでしたんだろ。《雹》を誘発して視界を隠し、その間に何かをする。魔力の気配を隠せるお前なら、視界さえ塞げば何をしたのかわからないからな。今の不意打ちといっしょで、発動するまで隠しきれる」
「そうとわかっていて、それでも君は《雹》を選んだんだろ? 君こそ、何か考えてるに決まっている」
「さてな? 咄嗟に起動できるのがそれだけだったのかもしれない」
「君の言うことを信じるとでも?」
「俺が嘘しかつかないとでも?」
「……やれやれ。文字さえあればなんでもできる、なんて馬鹿げた魔術師と戦うのはこれだから厄介だ」
「お前こそ。どんな魔術師でも隠せない魔力の気配そのものを隠せるなんて、地味に厄介にも程があるってもんだ」
「……お互い、手の内は知っているわけだ」
「なら、何が勝敗を決するかも君にはわかるはずだ。立場はイーブンだよ」
――言ってくれる。
ああまったく、本当に厄介だ。
アルベルは言った。
「名乗りがいるかい?」
俺は答える。
「好きにしろよ」
「なら」
果たして、彼は言った。
「もう僕に、所属を示す肩書きはないけれど。だからこそあえて言おう」
「ああ。聞いてやる」
「アルベル=ボルドゥックだ」
「アスタ=プレイアス」
「君を殺す――」
「お前を殺す――」
自らを殺す男の名が、たとえ手向けにならないとしても。
それでも俺たちは誇りを込め、相手を殺すと、決意を言葉へと変える。
「――男の名前だ」
生涯、記憶に刻むためだけに。




