6-13『それぞれの思惑』
「還った、かあ」
小さな――それは、一滴が零れるかのような呟きだった。
おそらく、彼女はそれを誰かに聞かせるつもりはなかったのだろう。
研ぎ澄まされた感覚が、勝手に拾い上げた情報。それを知らぬうちに言葉にしていただけに過ぎない。
感傷、なのだろうかと自ら思い、
違う、とまた自ら否定を思った。
いずれにせよ今、重要なのは彼女が何を思考しているのかではなかった。
誰にも届かないはずだった小さな雫を、けれど拾い上げた男がいるということのほう。
「――どうしたの?」
と、問われて少女は顔を上げる。
迷宮の深層。
とはいってもガードナー家が代々守護してきた秘密域ではなく、表向き最深部とされている地点。
オーステリア迷宮第三十層。
かつて、アスタ=プレイアスはこの場所まで、トラップに巻き込まれて辿り着いた。
七曜教団幹部《火星》クリィト=ペインフォートによる疑似転移術式によって。
それは《木星》アルベル=ボルドゥックが施した隠蔽によって隠されていた。
アスタ他、四名の生徒が巻き込まれた。
五人はその先で、神獣――を模して創られた魔物《合成獣》と対峙することになる。
当然、それも教団の《魔人化研究》、その実験台だったということ。
肉体干渉技術を《水星》ドラルウァ=マークリウスから。
魔物の知識を《金星》レファクール=ヴィナから。
それぞれ提供を受け、そこに《日輪》が、研究の指示を出したのだろう。
あのときから、自分たちはもうとっくに教団の企みに巻き込まれていたということだ。
その割には、長く蚊帳の外にいた気がするけれど。
それは本来ならば、目の前の男――ウェリウス=ギルヴァージルも変わらなかったはずだ、と少女は思う。
「別に……」
どうもしていない、と答えようと思った。
だが、目の前の男には通じまい。どうせ読んでいるのだから。
だから結局、少女――レヴィ=ガードナーは首を振った。
「いえ……ちょっと感知しちゃったから」
「ははあ」なんて、ウェリウスはわずかに笑う。「驚きだね。この距離から上層の様子がわかるんだ。しかも、なんの魔術も使わずに」
「……閉じる気配に、敏感になってるってだけ」
「充分すごいよ」
「直線距離ならそう大した距離じゃないわよ。迷宮だから広く感じるってだけ」
「瘴気に満ちた迷宮で、魔力のほんのわずかなブレを悟ることは本来、大したことなんだけどね」
「……ウェリウス。貴方にだって、できないことじゃないと思うけど?」
「今、僕は魔力を無駄遣いする気はないよ」
ウェリウスは静かに断言した。
待っているからだ。
ここに、必ず現れるであろう青年を。彼は。
来ないはずがないと信じている。
ゆえにそのとき、敵として相対するための備えを怠らない。
「……今のウェリウスを相手に、アスタが勝てるとは思えないけれど」
レヴィは小さく、そんな風に呟いた。
それは、この深層まで降りてくるがゆえの疲労や、その間の戦いにおける消耗を考慮せずとも、だ。
すでにウェリウス=ギルヴァージルは魔術師としてほぼ完成形にある。
単純比較では、呪詛を受ける以前、全盛期の《紫煙の記述師》でも到底及ぶまい。
そして、そんなことはウェリウスにだってわかっているはずだった。
「――いいや。僕はね、レヴィさん。アスタに期待しているよ」
だがウェリウスはそう言ってかぶりを振った。
「期待……」
「うん。まあそうでなくとも、油断できる相手じゃない。彼はなにせ、伝説だ。まだ何も成し遂げていない僕と違って、彼はとうに、成し遂げたことがある側の人間だ。その経験値は、考慮に値する」
「――ウェリウス」
「おっと」レヴィの言葉をウェリウスは途中で留め。「その先は、どうか口にしないでほしい」
「…………」
「君にはわかると思うおけれど。だからこそ、僕は本気で行かないといけないんだ」
「……難儀な性格してるわ、アンタ」
「ははっ! レヴィさんから雑に扱われるのはいいなあ」
からからとウェリウスは笑う。
そんなことで喜ばないでほしかったが、指摘を入れるのも馬鹿らしい。
「難儀だわ。本当」
「君も含めてね」
ここにウェリウスが立っているということは、レヴィの死を受け入れているという意味に繋がる。
本来ならば。たとえそれが、本人の望んでいることだとしてもだ。
だがふたりの間に含みはなかった。それはお互いを理解しているというよりも、単にそういう距離感だからだ。
「あんたほどじゃないっての」
レヴィは言う。肩を竦めるウェリウスに、
「第一、あんたはアスタが来るって疑ってないみたいだけど――」
レヴィはふと天井を見つめた。
あるいはその先に、何かを知覚しているかのように。
「――それだって決して、容易じゃないことはわかってるでしょう」
※
「づ――はあ。くそっ……」
迷宮を進みながら俺は悪態をついた。気づけば出ていたと言ってもいい。
それは疲労や負傷、あるいは精神の不快さから来るものではない。
単に魔力の消費が著しく、その影響が出ているだけだ。ある意味で最も悪いと言えるだろうが。
「……こんなんで、持つのかね俺は……」
嘆いたところで始まらない、むしろ終わりが近づくだけだが、にしたってもう少し考える必要はあるだろう。
この先、何度戦うことになるのかは不明だ。魔物こそ消えているが、ガストのような予想外の相手が待ち構えている可能性はある――いや。
それを言うなら、警備としては薄すぎると言ってもいい。
俺にとっては好都合だが、どうだろう。
教団側が、一番目がそれで充分だと考えているのなら、あまり歓迎できる状況ではない。
今さら敵の甘さや油断などは期待できないだろう。その戦力予測は、単に正しいだけのものとして捉える必要がある。
少なくとも俺がレヴィを追って迷宮に入ったことは知っているはずだし、ウェリウスを引き込んでいる以上、初めから予測されていたことも間違いない。なにせ相手は、《運命》を司る魔法使いである。
「……まあ」
そういった現状把握が、俺に冷静さを与えていることだけは間違いない。
それだけは歓迎すべきことだった。
少なくとも、どうやって状況を挽回するかに、思考を向けることはできているのだから。
無理矢理、前向きになっているだけかもしれないけれど。
ともあれ多少なり回復はできた。
長く冒険者をやってきた経験とでもいうか。迷宮で移動しながら体力を回復するやり方はある程度、備えている。
というか普通は何日もかけて少しずつ集団で進んでいくのだが、七星旅団というチームは残念ながら腕力ゴリ押し脳筋集団だった。適当に数日分の食料だけ持って行き当たりばったりでとりあえず突っ込む――で、しかもだいたいどうにかしてしまう。
俺はついて行くので必死だったが、結果論、その経験が活きていると言えるだろう。
言えるだろう、ではない。
「あとは……誰だ? そろそろウェリウス辺りが出てきてもおかしく――」
「――さて。彼はいちばん奥で君を待つと、この僕にそう言って憚らなかったが」
返答があったことに驚くまで、一瞬とはいえ時間を要した。
「……おいおい」
マジか。――接近にまったく気づけなかった。
気づけばすぐ真横に、ひとりの女性が立っていたのだ。
狭い廊下だ。壁に背中を当てて、俺は前も後ろも怠りなく警戒していた。
にもかかわらずふと気がついたときには、彼女は当たり前にいた。
反射的な全身の硬直を、高速回転する思考が解く。
その一方、けれど安易には動けない。動けるようになった俺の、出した結論は《動かない》だった。
「こんなに早く、……アンタが出てくるとはな」
「おや。僕を知っているのかい?」
「知らねえわけねえだろ、何言ってんだ……もともと、有名だしな」
「そんなものか」
「そりゃな。この王国に十人しかいない《魔導師》、それも教授と並んで名高い魔女様を、知らないほうがおかしいってもんだ。そうだろ――」
魔導師。
魔女。
彼女を呼び表す肩書きはいくつがあるが、この場で最も相応しいものは。
「――七曜教団幹部。第二位、《月輪》ノート=ケニュクス」
「いやあ。そう仰々しく呼ばれてしまうとね。なんだ、僕としても照れがあるよ」
まるで世間話のようにノートは語る。
だが。たとえ彼女が、敵意さえ感じさせず俺の横に立っているだけだとしても。
現れるまで、一切の前兆が感じられなかったことは問題だった。
――これは本番だ。
俺を止めにきた仲間と戦うのではない。
今回は完全に敵である。
それも間違いなく遥か格上。
なぜなら彼女は、魔人であるという以前に――。
「参ったね……魔術師の中でも、教団の化物連中と比べてさえ、あんただけは別格だ」
「んん、こっちこそ参る。そう持ち上げられても、僕としては面映ゆいんだがね。そう言ったろう?」
「……魔術師は数多くいても、《魔女》と呼ばれる人間はほとんどいない」
それだけで、最上級の警戒に値する。
「そうかな……魔術の技量や知識ならリィさんと大差ないし、アルくんたちのような異能もない。まして魔法使いになんて及ばない僕だよ」
謙遜しているという風情ではない。
どちらかと言うなら、言葉通り恥ずかしがっているように感じられた。
けれど、その自然体がむしろ俺には恐ろしい。
――参るぜ、本当。
こんな怪物に、いったいどう抗えっていうんだか――。
※
レヴィ=ガードナー奪還戦。
第四戦。
vs七曜教団副長《月輪》ノート=ケニュクス。




