6-05『《世界》を統べし者』
「死んじゃダメなんだ、アスタは」
異世界における義理の姉は――マイア=プレイアスは言う。
義理の弟は、その言葉をただ無言で受けた。
「これは私が感情的に、アスタに死んでほしくないって言ってるわけじゃないよ? そういう、個人の観念を切り離して考えてもなお、っていう、そういうお話。わかるよね?」
「……ま、姉貴はどっちかといえば、命を懸けたチャレンジとか全力でやってこいって言うタイプだしな」
「そうだね。仮に勝算がほとんどゼロでも、それでも可能性があるなら、それを掴めると思うなら――それをやりたいと、アスタ自身が願うなら。私はそれを止めたりはしない。それは、七星旅団の数少ないルール。だけど、」
だけど。と、彼女は言う。
「今回ばかりは話が違う。アスタの存在そのものが、この星の行く末に直結してると言ってもいい」
「……そんな自覚は、さらさらないんだがな」
「私もね、別に実感として抱いてるわけじゃないんだよ。少なくともほかの人ほど、私はアスタを特別な人間だとは思っていない……私にとって、特別に大切な義弟であったとしてもね」
その思考が、むしろアスタにとって救いではあったのだろう。
さもなければきっと、こんな異世界で生き延びることはできなかったとアスタは思う。
この厳しい《異世界》という環境は、決して平和に暮らしてきた地球人にとって優しいものではないのだ。それは善悪の問題ではなく、初めから生み落とされるのと、あとから適応する者の違い。その大枠における常識の有無というものは、あるいは生死にさえ直結するものだ。
だが。だからこそ。
一ノ瀬明日多にそれができてしまったということが。
できるだけの環境に恵まれたという事実が。
逆接――アスタ=プレイアスという存在の特別性の傍証と言えるのだ。
それを、運命に活かされたからではないと否定する論拠を、神ならざる人間は持ち得ないのだから。
「でも、オーステリアに送り込んだアスタは実際、こうしてここまでやってきた。アスタの特別性を否定するものは、結局この最後のときまでひとつとして現れていない。むしろ状況証拠なら多すぎるほどにある」
能力に、環境に、そして人間に恵まれた。
それが単なる運だったのか、それとも星の意志だったのかなんて、誰にとってさえわかるものか。
言えることはひとつ。
異世界にいきなり送り飛ばされた一ノ瀬明日多という人間が、アーサー=クリスファウストに拾われ、マイア=プレイアスと出会い、能力を磨いて七星旅団として名を馳せ、このオーステリアで出会うべき人間と出会ったという七年の軌跡だけである。
それが、かくあるべしと仕組まれた状況でなかったなんて否定することは、誰にもできないのだ。
「――だからアスタは死なせない。死なせるわけにはいかない。ねえ、どうして《日輪》は、あれほどの力を持ちながら、教団を作り、幹部として星の名を冠した手足を必要としたと思う?」
「どう、して……?」
「もちろん、それが必要だったからだよね。それが必要なものであるのなら、彼は必ず手に入れる。――それぞれ、教団の幹部たちは《日輪》にとって欠かせない能力を持っていた」
遠きIFの魔導師たる《火星》による未来の情報が。
魔術の頂点を見る魔女《月輪》による技術と知識が。
変身/変心魔術を使う《水星》による手数の増幅が。
人体と獣に造詣の深い《金星》による魔人化理論が。
遥か太古から生きる鬼《土星》による魔人化実証が。
「《日輪》には必要だった。たったひとりの幹部を除いて、その全員が教団の思惑に寄与している」
「……たったひとりの、例外……」
「そう。教団において《木星》だけが、必ずしも《日輪》の目的に不可欠ではなかった」
無論その隠蔽技術は活用されたことだろう。
だが必須ではない。世界の裏側を見遣る能力ならば、ユゲルでさえ一端に手をかけていたのだから。
「けれど彼は幹部でも最古参のひとりとして《日輪》に付き従っている。そして彼が執着していた相手は、ほかでもなくアスタだよね。つまり――」
「教団において《木星》が担っていた役割は、俺を――アスタ=プレイアスを殺すこと」
「に、なるよね。だってアスタだけは、本来なら完成があらかじめ約束されているも同然な《日輪》の計画にとって、ただひとり邪魔になり得る存在なんだから」
とはいえ《日輪》は、必ずしも絶対に排除しようとまでは考えていなかった。
それ以上に、やはり彼は自身の能力に絶対の自負があるからだ。負けるなどとは露ほども考えていない。
そこが、つけ入る隙になっていた。《木星》を打倒できたのは、その辺りが理由なのだろう。
「そしてだからこそ、二度はない。今度こそアスタにできることは何もない。――それが、」
それが。
それこそが。
「――私が、レヴィ=ガードナーを見捨てろって言う理由なんだ」
※
「敵に回る……ね。そいつはまた、いきなりな発言じゃねえの?」
軽く言った俺に対し、ウェリウスもまた気負った様子はない。
「あはは。まあ、そうだろうね」
「そもそもお前を無条件に味方だと思ったことは一度もねえ」
「それは酷いな……」
「ったり前だろ。お前ひとり味方につけるために、どんだけ苦労したことか。魔競祭でのこと、忘れたとは言わせねえぞ」
「いやあ、あのときは負けちゃったからね。そりゃ忘れられないさ――あれは悔しかった」
「は。あんな無茶苦茶、勝ったうちに入るもんかよ。ルールのある試合だからあの結果になっただけだ」
軽く言ったアスタに対し、ウェリウスは笑顔を浮かべたまま。
「――そうだね。僕も、まだ完全敗北を認めたつもりはない」
「…………」
「試合で負けたことは認めるけどね。それを覆すつもりもないさ。だけど、まだ僕は、君と本気で殺し合いを演じたことはなかったはずだ。だから、まだ、――負けていない」
相変わらずの調子だけれど。
わかる。俺にはわかってしまった。
それがウェリウスにとって偽らざる本心であるのだと。
理解できてしまったのだ。
「だから、なんだ? リベンジのためにわざわざ敵に回ったってか?」
「そんなわけないだろう? そこまで馬鹿じゃない、状況くらいは弁えているさ」
「状況弁えたら敵に回るのかよ。おかしいだろ」
「おかしくないだろ? ――状況を考えたら、君には大人しくしてもらうのがいちばんいいに決まっている。それとも誰にもそう言われなかったかい?」
「……、お前」
「このままじゃ星が滅ぶんだろう? それは困る。僕は、それは――とても困ってしまうんだ。夢が叶わなくなるからね。だから、アスタ」
ウェリウスが、俺に手を伸ばす。
こちらを指差して彼は言う。
「――君に、邪魔をさせるつもりは、ない」
それは夢の邪魔だから。
彼にとって生きる理由であるそれを奪う者を、誰であろうと許す気はない。
ウェリウスの信条は、身上は、心情は。
初めてここで会ったあの日から、一度だって揺らいじゃいないのだ。
「だから別に、教団についたわけでもないよ、僕は。単純に彼らは気に喰わないからね。だけど、世界を救うというなら、それはやってもらう。それは完遂してもらわなければ、僕が困る」
「……レヴィを見殺しにするってのか?」
「ひとりの命で世界が贖えるなら対価としては破格だろう。第一、当人がそれを望んでいる。止めるほうがどうかしてると思うけどね」
「正論、……かよ。この期に及んで。お前らしくもねえ」
「そっくりそのまま返そうか。むしろ君が何を考えているかのほうがわからないね。助けるつもりかい? どうやって? いや――それとも本当はやる気がないのか? だったら、覚悟した人間を責める資格は君にはないぜ」
「……俺は」
「いや、もういい」
ウェリウスは小さく首を振った。
その瞳は――どこか。
「――失望したよ、アスタ=プレイアス。よりにもよって、君が未だに何も選択できていないとは思わなかった」
信じていた何かに、裏切られたような感情を浮かべていた。
その双眸が、俺に突き刺さる。
「前言は撤回しようか。今の君には僕が敵と見定める価値すらない」
「……、……」
「レヴィさんも浮かばれないな。これから死ぬというのに――死ぬより残酷な目に遭うというのに、肝心の君がそれじゃあ報われない」
「……お前が、それを、言うのかよ……!」
「僕以外の誰が君にそれを言った? 仲間ばっかりで甘やかされて、図に乗ってるようだね。――見苦しいよ、アスタ」
「――テメェ」
思わず、頭に血が昇った。
この状況で教団につくような奴に、したり顔で説教される謂われはない。
それを挑発だと理解した上で、なお頭に血を昇らせた俺に。
「――それが甘いっつってんだよ」
直後。
ウェリウスの拳が、胃の腑へと突き刺さった。
「――、っ……ぁ!?」
「躱すどころか防ぐこともできないのかい」
意識が飛ばなかった理由はひとつ。
手加減されていたからだ。
視覚で確認もできない速度。稲光を纏うウェリウスの速度は、文字通りの雷速だ。
「――ふざけるなよ」
淡々とした口調で、ウェリウスは言う。
それが、ほかの何よりも、心に深く突き刺さる。
「敵に回ると、僕は言った。そんな相手となぜ雑談をしている気分でいる? 最速で殺しにかかってくれば、あるいは僕をこの場で無力化することも不可能じゃなかったはずだ。――なぜ、そんなことすらしないんだ」
「っ――」
「そんな弱い男に、憧れた覚えはないんだよ、僕には」
「――がっ」
「馬鹿にするのも大概にしろ」
拳が顔に突き刺さり、そのまま俺は吹き飛ばされた。
防御すらできなかった一撃は、けれど魔力を一切使用していない単なる肉体の一撃だ。
なんとか堪えたが、痛みが酷かった。どんな攻撃よりも、ある意味、最も。
「……、」
無言で応戦の構えに出たのは、考えてのことではない。
体に染みついた戦闘反射とでも言うべきものが、自己保存のために暴走しただけのこと。
そして――、
「――《天網参式》」
「っ……!」
選んだのは防御ですらない、――逃走だった。
闘争を選ぶことすらできない負け犬。
このままここにいては死ぬという、敗北者の直感が反射的に俺を突き動かしたのだ。
「《全界統御》――」
※
気づけば俺は、地面へ仰向けに倒れ込んでいた。
逃げを選んだ一手が、なんとか命を繋いだ。そう言っていいだろう。
当たることすら――いや、攻撃さえされていないというのに。
ただその余波だけで、俺は地べたに捻じ伏せられているのだから。
「僕が憧れた最強の立ち位置を、僕が手にする前に投げ出すなよ。――こんなに不愉快なことはない」
……立ち上がる気にも、なれなかった。
仰向けに大の字になって、薄暗い空を見上げている。
「宣戦布告だ、アスタ」
ウェリウスは、そんな俺を見据えて――見下ろして言う。
おそらくはしなくてもいいはずのことを。あえて。
「レヴィさんを助けようとするのなら、その前に僕が立ちはだかる。挑戦者は僕だけど、前に立つなら覚悟してくれ。僕は君に勝つ。君を倒す。半端なら覚悟で来るのなら、アスタ。――オレはお前を殺すぜ」
そのまま俺は何も答えず、ウェリウスはその場を立ち去った。
――敗北だった。
初戦をなしにするのだとしても、ついにウェリウスは俺を追い抜いたと言っていい。
いや。初めから俺は、あいつに勝ち目なんてなかったのだろう。
わかりきっていたことだ。多少の力を取り戻した程度で、本気のあいつに勝てると思うほうが間違っている。
ウェリウス=ギルヴァージルは本物だ。
俺の知る限り最強の敵だ。
わかっていた。理解してしまっていたのだろう。
勝てない相手が立ちはだかるなど、これまでだってあった話だ。
だから俺は、勝てない相手を敵にしない。するのなら、それに勝てる味方を頼るだろう。
実際、そうすることでなんとかウェリウスを制御していたに過ぎない。
初めてだった。
味方なんていない。確実に敵に回るとわかっている相手。
それに――勝てないと思わされてしまうのは。
いや違う。心が負けたのではない。そう思ったなんてあやふやな理屈じゃない。
これはただの事実だ。揺らぐことのない純然たる現実。
俺は理屈で理解しただけ。だから立ち上がることができなかったのだ。言葉に心が敗れたわけでは決してない。
奴は、天才だ。
八重属性元素魔術師。
世界を統べる、最強の魔術師のひとり。
アスタ=プレイアスでは、たとえ全霊をもって立ち向かってもウェリウス=ギルヴァージルに勝てない。
まぎれや努力、精神論なんかで揺らぐ実力差じゃない。
絶対に勝てない。
百パーセント間違いなく、俺ではウェリウスを倒せない。
わかり切っていた単なる事実を、単に突きつけられたに過ぎない。
今さらショックを受けるような話ではなかったし、それが当然の実力差だ。今のウェリウスなら、あるいはシグを相手にしてさえ、勝利を拾うかもしれない。
本当に――最強という、世界でただひとりだけが持つ称号に、手をかけるだけのものがある。
「――どうしろってんだよ、なあ。俺に?」
その問いに答える者なんて、この場にいるはずもないのだった。
この噛ませ貴族ちょっと強すぎでは?




