2-04『平凡なる学生の一日』
にわかに騒然とし始めた食堂から、俺は転がり出るように逃げ去った。どいつもこいつも、こちらの話を盗み聞きしすぎだろう、と思いながら。
まあ騒ぎになることも読めていたといえば読めていた。誘ってくれたピトスには悪いが、妙な面倒に巻き込まれるより先に、さっさと退散させてもらおう。元はといえば、彼女が名前を出したのが悪いと言えないこともないわけだし。
……というか、やっぱり嵌められたのかな、これ。
魔術学院に通っている人間で、《七星旅団》と《天災》メロ=メテオヴェルヌの名前を知らない人間など、断言できるが絶対にいない。
単独の冒険者としては当代最強にして最年少、最多迷宮踏破記録者の称号を持つ魔術師だ。冒険者志望でない学生だろうが、研究にしか興味のない引き籠もりだろうが、名前くらいは知っている。
そのメロが学院に中途入学してくるというのだから、そりゃ騒ぎになって当たり前だ。
当然、お近づきになろうと目論む奴は何人も出てくるだろうし、その場合、知り合いという情報の流出した俺がどんな目に遭うのかは想像に難くない。
今のうちに、逃げてしまうのが得策だった。
メロの噂は即座に学院中へ巡ることだろうが、俺の名前まで一緒に流布したりはしないと思う。思いたい。あの目立つ面子の中で、俺なんてきっと埋没していたことだろう。たぶん。
隣に誰かを引き連れてさえいなければ、俺個人が目立つということはない。
というかどうせ目立つなら、恋人を連れて歩ければ多少の自慢くらいにはなっただろうに。残念ながら、そちら方面はさっぱりと言わざるを得ない。
青春に見放された学生というものは、かくも侘しいものである――。
などと心中で嘯きながらひとり歩いた。
少し早いが、そろそろ午後の講義の教室まで移動したい。
「魔術史学は……確か三番講堂だったな」
あまり厳密に出席を取っていない教諭だったため、サボる学生は多い授業だった。そもそも出席率自体、魔術学院ではそこまで重視される要素でもない。普通の学校とは違う。
まあ、とはいえ異世界にも代返の概念はあるらしい。しばしばそんな光景を見かける。
もっとも、友人の少ない俺は、その裏技を一度たりとも利用したことはなかったが。
※
魔術史学とは、その名の通り魔術に関連する歴史を学ぶ授業である。説明になっていないが、説明をする必要がまずないだろう。
完全に座学であるため、勉強次第で魔術の実力にかかわらず単位を取得できる。一部の実践主義ならぬ実戦主義的な、エリート志向の強い学生からは受けが悪いが、迷宮の歴史などもひと通り教えてくれるため冒険者志望の学生なら受講して損はないだろう。
知識とは基本的に、あればあるほどいいものだ。
講堂にはすでに人影がまばらにあった。俺はなんとなく知人の姿を探す。
目当てのふたりはすぐに見つかった。この授業を受けていることは以前から知っていたのだ。
そのうちの一方が、俺を見つけるや否やすぐに近づいてきた。それまで話していた友人に断りを入れてまで、わざわざ俺のほうに向かってくる。非常にやめていただきたい。
「――やあ、アスタ。調子はどうだい?」
片手を挙げて親しげに語りかけてくる男。
俺は口元を歪めてこう答えた。
「ああ。そうだな、最悪って感じだ」
金糸の短髪に碧玉の双眸。整った顔立ちには、裏を見せない爽やかな笑みが張りついている。
若くして貴族の風格というものを過不足なく体現しているその姿は、あまりにも完璧すぎて引け目や嫉妬さえ感じさせてくれない。
例の事件以来、皮肉にも最も話す男子学生になってしまった――腹黒優男ことウェリウス=ギルヴァージルである。
「なんだか今、失礼なことを考えていなかったかい?」
妙に嬉しそうな笑顔で言うウェリウス。何がそんなに面白いのやら。
少なくとも俺は、いるだけで目立つ奴と話すことは、そんなに楽しくないのだけれど。
ある意味ではいちばん、何を考えてるのかわからない奴である。
「別に何も考えてねえよ。俺はいつだって何も考えてない」
適当な返事でお茶を濁す。まさに反射でのことだった。
そして、ここまで明確に返答を拒んでも、ウェリウスには一向に通用しない。
嫌味のない、という事実が嫌味なほど爽やかな笑みでもってこの男は言う。
「そういえば、聞いたよ」
「何をだよ……」
「――メロ=メテオヴェルヌさんが、この学院に来るらしいね」
呆れさえ通り越して閉口した。なぜ噂の発生源から歩いてきた先に、すでに噂が流れているというのか。
どんな伝達速度だ。風の魔術でも使ってんじゃねえだろうな。
「まあ、そうらしいぜ。よく知らんけどな」
俺は誤魔化し混じりにそう答える。
実際、メロが何を考えているかなんて知るわけもない。だから嘘ではないのだ。嘘では。
「そうかな」
俺の言葉に、ウェリウスは笑みを深くした。どうにも嫌な表情だ。
食堂での話が、いったいどこまで伝わっているのは知らない。だが少なくともウェリウスは、ある程度の事情を掴んでいそうな気配がある。
俺にわざわざ話を振ってきたのがいい証拠だ。そこになんの意図もないとは思えない。むしろ確実に意図があるだろう、と考える方向性でなら、俺はウェリウスを信頼していた。
案の定、ウェリウスは微塵も笑みを崩さないまま、俺に向かってこう告げてくる。
「確か、君が学院まで案内してあげたと聞いたけれど」
「それがどうした?」
「もしかして知り合いなのかい?」
――違う。
などと言ってもウェリウスは信用するまい。
わざわざこの場で話しかけてきたのがいい証拠だ。俺とウェリウスの会話に、周囲で聞き耳を立てている連中をあえて巻き込むことで、下手な嘘なら自然と暴かれるように仕向けた。
今さらだが、メロと口裏を合わせておかなかったのは失敗だったかもしれない。
あいつだって決して馬鹿じゃない、俺やセルエが《七星旅団》だったことまでは口にしないだろうが、関係ないことならぽろぽろ話してしまいそうだ。
まあ、考えていたって仕方がない。
俺はもう、その場のノリで乗り切ることにした。
「まあ、そうだな。顔見知りではある」
「あの《天災》と知り合いだなんて、すごい顔の広さだね?」
「お前なら知ってんだろ。冒険者時代の繋がりって奴だよ」
「アスタは以前、冒険者をやっていたんだったね」
「仕事柄、横の繋がりは大事でな。有名人に顔を売っとくのも生き残りのための策のひとつだ。ま、その名残っつーか、そんな感じだな」
適当に言ってみただけで、実際に後半はほとんど説明になっていない。だが意外にも、上手いこと理屈の通った言い訳が完成した気がしていた。
事実、嘘はひとつもついてない。ただ本当のことを言っていないだけで。
……理屈が詐欺師のそれな気もするけど、まあいいだろう。
正当防衛である。
ウェリウスも訝しく思ってはいるだろうが、この場で追究はしてこないと思う。
「よければ今度、彼女を紹介してほしいな」
そう言って笑うウェリウスに、
「知らねえよ。勝手に会いに行け」
そう答えて俺も笑った。それから続けて、
「ほら、そろそろ教授来るぞ。席着けよ」
「そうだね。隣、いいかい?」
「断固拒否する」
「またばっさりと酷いこと言うなあ」
噛み殺すように微笑むウェリウス。沸点のわからん奴である。
俺は教室の前方へと目を向けて、それからウェリウスへとこう告げた。
「――どうせ誘うなら、前の席にひとりでいるアイツでも呼んでやれよ」
瞬間、いちばん前の席にひとりで座っていた少女の肩が、ぴくりと跳ねるように反応したのが目に見えた。
やはり一応、こちらの話は聞いていたらしい。さも興味のない風を装いながら、だ。
――シャルロット=セイエル。
彼女には、もしかして友達がいないのだろうか。だとすれば俺の同類だ。
「お前、シャルとはあんまり話さないのか?」
さして興味もないが、なんとなく俺はそう訊ねた。
ウェリウスは小さく肩を揺らして、
「どうだろう。親しいほうだと自惚れているけれど」
その自惚れを、よもや俺に対しても抱いておるまいな。
そんな危惧を抱きながらも言う。
「なら向こう行けよ。優等生は優等生同士でつるんでてくれ」
「うーん。僕があんまり女の子と一緒にいると、それはそれで噂が立つからね」
「何それ自慢なの喧嘩売ってんの買うよ?」
唇を引き攣らせて言う俺に、ウェリウスは余裕の笑みで答える。腹立つ。
「まさか。ただ、真面目に勉強している彼女の邪魔は、あまりしたくないということさ」
突っ込みどころは最低でもふたつあった。
俺は真面目じゃない前提で会話が進んでいる点と、俺の邪魔ならしてもいいという認識で会話が進んでいる点だ。
もちろん突っ込むような真似はしなかった。構ってられるか、という話である。
ウェリウスは、そこで初めて悲しそうな表情をした。
※
その後は普通に授業を受けた。特筆して語るようなこともない。
この日、俺が受けるべき講義は魔術史学だけで、あとはもう家に帰っても問題なし。非常に楽なものである。
地球の大学のように、半期ごとに時間割が定まっていたりはしないのだ。大抵の授業が、せいぜい五度程度、短ければなんと一回で終わってしまう。
面倒といえば面倒だが、緩いといえば緩い――学院はそんなシステムの上にある。
だからこそ、学生の実力には大きな格差ができていくわけである。
実力主義も極まれば、それは放任と大差ないのかもしれない。
環境は調えられている。あとは台頭する奴なら放っておいても出てくるし、そうでない奴は何をしても駄目だ、と。そういう理屈なのだろう。
それが間違っているとか正しいとか、そんなことを議論するつもりはまったくない。
才能、というひと言には、様々な側面があるのだから。
煙草屋に戻ると、親父さんの姿はなかった。またぞろ呑みにでも出かけたらしい。
学院より適当にしか開いてない店から、愛用の銘柄をひと箱貰って金を置いておく。朝に切らせたのを確認して以来、ずっと吸っていなかった。
火をつけて一服する。
魔術を学んでいちばん便利だと思うのは、煙草の火種に不自由しないことだ。俺は本気でそう思っている。
――煙草を愛飲するようになったのは、この世界へ訪れてからのことである。
まあ向こうにいた頃はまだ未成年だったので、当たり前といえば当たり前の話だ。当然、酒を呑んだこともなかった。親戚の付き合いでひと口程度ならあった気もするけれど。
思い出すのは昔、俺は煙草が嫌いだったということだ。
臭いは悪いし、身体にも悪い――いい点なんてひとつも見当たらないのに、なぜ好き好んで煙草など吸う人間が存在するのか。本気で理解に苦しんだ。
今となっては、俺も一端の重篤愛煙家になってしまったけれど。
まったく、どこで道を間違えたものやら。
一服を済ませ、手製の携帯灰皿に吸殻を入れてから二回へ上った。
扉を開けて自室に入る。途端、
「――お帰り、アスタ。ご飯にする? お風呂にする? そ、れ、と、も……あたし?」
腹立たしいまでにハイテンション極まった、メロの姿をそこに見つけた。
ご丁寧に、下着姿の上に前掛けを一枚だけ羽織ったというあられもない扇情的な姿だ。生憎と微塵も興奮できなかったけれど。だってメロだし。
代わりに得たのは頭痛だけだ。
……いいけどね、うん。読めてたけどね。
俺だって自室には結界のひとつくらい張っている。人が入れば感知できるのだ。
まあなくてもたぶんわかったけれど。
「で。何してんだ、お前?」
「うん? 新妻ごっこ。マイ姉がアスタにやってあげなって」
「あの阿呆の言うことを信用するな」
裸エプロン、なんてニッチなジャンルを異世界で信奉するのは、それこそ義姉くらいのものだろう。
「うーん? まあいいや。んで、どれにするの?」
頭を抱える俺に、何ひとつ意にも介していない表情でメロは言った。
俺はもう、半ば苛立ちの発散を企図して答える。
「……んじゃお前で」
「あ、あたし!? これは意外な答えだよ……っ!」
大仰に身体を仰け反らせるメロ。対応が本気で面倒だった。
何がマイアに言われただ。本人も充分にノリノリじゃねえか。
「うるせえな。だいたい、メシも風呂もねえだろうが」
「代わりにあたしに乱暴して憂さを晴らすのねっ。きゃーっ!」
「その通りだよ!」
「ああ、そんなご無体な……って痛たたたたたたたっ!? ちょっ、アスタそれマジで痛い! 頭閉めつけんのやめて!? 乱暴ってそういう意味じゃなくない!?」
「……っとにもう」
喚くメロを、渋々ながら解放する。
彼女は頭を両手で押さえながらしゃがみこんで、こちらを上目遣いに睨みつけてきた。
「痛いな、もう……何? アスタ、もしかしてホントに怒ってる?」
「なぜ怒ってないと思うんだ」
「ふうん……でも、悪いけどあたしだって怒ってるし」
「はあ――?」
「――ねえ、アスタ。ひとつ訊きたいんだけど」
彼女は立ち上がると、こちらをまっすぐに見据えながら言う。
その透き通った視線の強さに、俺は出かかった反論を呑み込んだ。
「どうして、あたしに黙って学院に入ったの?」
「…………それは」
「あたしに言ったらついて来られると思ったから? それとも逆? 止められると思った? ねえ、どっち?」
その剣幕に、俺は答える言葉をなくす。
何も言えなかった。俺には答えがわからなかったからだ。
そんな俺に失望したように、メロは小さく溜息を零す。
「ま、いいや。でもふたつだけ聞かせて」
「……何?」
「学院の生活って、楽しい?」
「わからん」
「あ、そ」
メロはもう、問答に興味を失ったようだった。興味を失ったことは、彼女にとって全て「まあいいや」の範疇なのだ。
その選別は公平で、ゆえにどこまでも残酷に働く。
まったく意味がわからない。メロも、セルエも、俺に何を求めているというのだろうか。
あまり俺だけを責めないでほしいものだ。簡単に折れてしまいかねない。
そんなことを考えながら、ちなみに、と俺はメロに訊ねる。
「で、もうひとつの質問ってなんだよ?」
「うん? いや、だからあたしここ泊まるから。いいよね?」
「……それかよ」
「セルエも、『アスタんトコ泊まりな』って」
裏切りやがったあの女(自業自得)。
俺は嘆息し、それから諦めてこう答えた。
「――もう、勝手にしてくれ」




