EX-6『アスタとメロの六年目1』
「お、い――っす!!」
「――おごあぁっ!?」
という、いささか以上に間の抜けたやり取りから一日が始まった。
俺がこの世界を訪れてから六年近く。もう地球での思い出をほとんど忘れた頃である。
人間の脳というものは実に都合よくできているらしく、必要のない記憶はやがて頭の奥底のほうに仕舞い込まれる。思い出そうとすればそれを想起することもできるのだろうけれど、そうすることがないのだから、そうしようとさえ思わない。
忘れるということはきっと、そういうことなのだと思う。
記憶を失うのではなく、思い出そうとしなくなること。思い出そうという意思を持たなくなること。そうしなければ思い出せなくなること――。
などと考えていたのは単なる現実逃避であって。
「……おい。なんの真似だ?」
眠っていた俺にダイビングアタックをしかけてきた侵入者――メロ=メテオヴェルヌ。
人体において鳩尾は急所であるということを、こいつは学んだほうがいい。あるいは本能で理解しているがゆえに、こうして朝っぱらから俺に急襲してきたのかもしれないが……だとしたらそのほうが厄介だ。
「朝だよ、アスタっ!」
メロは満面の笑みで言った。
俺のツッコミなど聞いていたかどうかも怪しく、悪びれる素振りは一切ない。
この、にへらっとした楽しそうな表情を見ていると、怒るのも馬鹿らしいという気分にさせられた。毒気を抜かれるというか、いちいち指摘するだけ面倒というか。たぶん計算でやっているわけではないことだけが救いだろう。
「おっはよぅ! ほら早く起きて起きて! 遊び行こっ!!」
「……人の部屋に勝手に入るなよ」
そうとわかっていてなお、指摘することだけはやめない俺はもはや健気の域にあろう。
この天災少女を前に常識などないも同然。俺自身、メロならまあいいか、と思っているのだから始末に負えない。
――なんというか、またずいぶんと懐かれたものである。
ただの子どもが、身に余る力ほどのを持ってしまうことに対する功罪。
魔術という不可思議が実在するこの世界においては、もっぱら取り沙汰される問題ではあった。
魔術は半分は学問であるが、もう半分は芸術と言うのが近い。才能さえあれば、幼い子どもでも大人を上回るような力を持ってしまうことがままあった。そうした者の行き着く先なんてパターンが決まっていて、結局はどこかで行き詰まり鼻っ柱を折られるか、そうしてくれる誰かに出会わず堕するか。そんなところだ。
だがメロの場合、その才能があまりに常軌を逸していた。
常識ではおよそ考えられない類稀な才覚。ひとりだけ世界観が違うとさえ言っていいほどの埒外。
とはいえ《怪物には怪物を当てればいい》理論に基づくなら、俺の身の回りにはシグを筆頭に同じ埒外側の設定無視系人類がひと通り揃っている。それと比べてしまえば、将来的にはともかくとして、メロもまだまだ子どもではある。
ただ、こいつがその程度で折れるような人間ではないだけ。
確かに今のメロが相手ならば、シグは百回やって百回勝てるだろう。どっちかっていうならシグのほうがおかしい。
教授やキュオ、セルエだってそれは同じ。連中ならメロを力で押さえつけることができる。
確実に勝てるとまでは言わないが、なんだかんだで勝っているのがあの連中のおかしいところなのだ。俺の如き凡人では理解できないところに、奴らの強さは隠されている。
――だがメロは、その程度では自分の敗北だと認めない。
いや、負けていることはわかるだろう。現状で自分の力が皆に及ばないことは理解している。
それを認めないほど、メロは馬鹿ではなかった。
というか、馬鹿の癖に考え方だけはクレバーなのだが問題なのだ、こいつの場合。
メロは力の差を冷静に計算する。
それを埋めるために必要なものが奴にはわかる。
だから彼女は考えるのだ。――今は無理でもいつかは届く、と。
そして、それはおそらく全員が認めていることだ。メロの才能ならば、いずれ俺たちの中で最強になれるはず、と。
まあ、だからって増長するわけでもないのがメロなのだが。
いや……どうなんだろう。正確なことは、もちろん俺にだってわかりゃしない。
とりあえず現状、メロは結成された七星旅団の一員として皆に懐いている。
それこそ家族だと思っているのか。彼女は皆を兄や姉と呼び慕った。
七星の中で、例外はただひとり――俺だけだ。
俺だけが、メロに《兄》と呼ばれることがなかった。
ていうか最初は明らかに興味なしとして見下されていたのである。
「どしたん、アスタ? そんなぼうっとあたしのこと見て」
考え込んでいたせいだろう。首を傾げてメロは訊いた。
俺は首を振る。まあ、どうでもいいだろう。
「別に。それよか遊ぼうってなんだよ。どっか行きたいとこでもあんのか?」
「特にないけど」
「ないんかい」
「や、暇だからさー。アスタに構ってもらおうと思って!」
年相応の笑みでメロは言った。その腹の裡で考えていることまで年相応だとは、俺は信じていなかったが。
だとしても、こうまで明け透けに好意を見せつけられては、簡単に無碍にするのも憚られる。
「わーったよ……わかった。メシ食ったら街でもぶらつくとするか。久々に戻ってきたばっかだしな」
「へへ。やたっ!」
「となると――」
さて、どこへ行こうか。
今の滞在地は王都。見て回れる場所ならいくらだってあった。
エウララリア殿下に呼び出されるのも面倒だし、しれっと街に繰り出してしまうことは意外と悪くない手筈である。王都に訪れるのは久々だったから、会っておきたい顔もいくつか思い浮かんでいた。
「……まあ、宿でメシ食ってからでいいな。どうする?」
俺はメロに訊ねてみる。メロはきょとんとした顔を俺に向けて、
「どうするって何が?」
「いや。ほかの連中はどうするって話。キュオやセルエならついて来るんじゃないか?」
「…………」
「あ、マイアは却下な? あいつといっしょにいるとロクなことにならない。シグといっしょに放置しとこう」
「――いいよ」
「あん?」
「別に、誰も呼ばなくていいでしょ。アスタだけでじゅーぶん」
「……あっそう」
まあ、メロがそう言うならそれでいい。
何を狙っているのか知らないが、どうせ下らないことだろうし。さしづめ買い物の荷物持ちにでもさせる算段か。
最近はこうして話すことも多くなっているけれど、しばらくギスギスしていた関係であることだし。ここらで仲を深めておくのも悪くないだろう。
そんな風に算盤を弾いてから、メロに対してこう告げる。
「んじゃメシにしよう。……時間早いが、まあ大丈夫だろ」
「……、わかった」
「あん? もしかしてなんか怒ってるのか、お前?」
「うっさいばか! 早く来てよ!」
言うなりメロは扉をバタン! と勢いよく閉めて部屋の外へと出ていった。
いったい何に怒っているというのだろう。こいつはもう、本当にわけがわからない。
「……まあ、今みたいに話すようになったきっかけがきっかけだしな。そんなもんなのかね」
小さく呟きながら、俺は寝間着を脱ぎ始める。
やっぱりどうにも天災はわからない。天才に輪をかけて、と言ったところだ。
――そもそもの話。
今のようにメロが絡んでくるようになったのも、俺がメロと戦って勝ってからのことだった。
何か下手な関心を買ってしまったのだろうが……はてさて。
「根本的には、やっぱ嫌われてるのかね、俺」
※
朝食が終わり、出がけになる頃にはとっくにメロの機嫌も治っていた。
もともと気分屋(しかもアッパー系)だから、不機嫌が長続きしないのだろう。別に忘れるわけではないところが面倒ではあるが、ずるずる引きずられるよりはずっとマシだ。そういうところはありがたい。
しばらく、俺たちは王都の表通りを歩いた。
だからって何があるでもない。ごく普通の街の様子を、穏やかに眺める時間だった。
俺だってそういつもいつも厄介ごとに巻き込まれてばかりではないのだ。
このところ、七星旅団の名も広まってしまったけれど。こうして歩く分には、声をかけられるようなこともなかった
俺の場合、出回っているのはあくまでも《紫煙の記述師》という二つ名だけだし(それも恥ずかしいから嫌なのだが)、名前まで広く知れ渡っているメロだって、顔を見ただけで本人だと同定できる人間が多いわけではない。
そのメロも、思いのほか穏やかであるように見える。
無論のことハイテンションではあるが、かといって無駄に問題を起こすということもない。そもそもの基準点が低すぎるとも言えるだろうが、それをきちんと達成している時点で何も文句はないというもの。
いつもこうならいいのに、と言わずに思う俺であった。言うわけない。
適当に立ち並ぶ商店なんかを冷やかして回る。
魔術の存在ゆえか、こうして見ているとあまり異世界という実感も湧かないものだ。もちろん魔術をもってしても、現代の日本ほどの発展は望めない。とはいえ、なんだろう。海外旅行をしている程度の気分にはなる。
欧州の田舎とか、そんなイメージか。海外旅行の経験はなかったから、これはもっぱらテレビ番組なんかで得た印象だけれど。
――たまにはこういうのも悪くないな。
そんなことを一瞬だけ考えて。
それから俺は絶望した。
――違くない? そうじゃなくない? たまにじゃなくて、いつもこれでいいんだけど……。
いつの間に、俺はこんなにも騒動に慣れてしまったんだ。
そうであることを当たり前のように思っている。そんなの望んでいないってのに。
軽く洗脳されつつあることに、決して小さくない絶望を覚える俺だった。
と、そんなときだった。
ふと正面に、俺は見知った顔を見つける。
「――お」
「あ? プレイアスじゃねえか」
そいつは端正な顔を嫌そうに歪めて、けれど生来の人の好さからか無視することなく近づいてきた。
王都にいる数少ない知人だ。俺としても顔を見ておきたかったから、片手を上げてこう答える。
「よう、リグ。久し振りじゃん?」
「そうか? お前とは割と頻繁に会ってる気がするがな……残念ながら」
「またいきなり失礼なエルフだな、お前は」
「会うたび厄介ごと持ち込む奴に言われたくねえよ」
「いや、それ俺のせいじゃないから」
青年――リグは軽く手を振って、はいはい、とあしらうように言った。なんでだ。
実のところ青年と言えるような年齢ではないはずだったが、それでも見た目は実に若い。森精種と呼ばれる種族の特徴だ。
メロがきょとん、と首を傾げて問う。
「あれ? アスタの知り合い?」
「ん……ああ、まあな。顔馴染みの同業者ってとこだ」
「へえー。本当に知り合いいたんだ?」
「どういう意味?」
俺のツッコミは封殺された。
「そいつは……なるほど。メロ=メテオヴェルヌか」
顔を知っていたのか、単にそう判断したのかリグは言う。
メロはやはり首を傾げて笑いつつ、
「あたしのこと知ってるんだ?」
「この仕事やってて、お前の名前を知らない奴はいないだろう。噂はかねがね、ってヤツだ」
「ほんじゃ、自己紹介の必要はないかな?」
「ああ。こっちからは端的に名乗っておこうか。――リグだ。この辺りで、しがない冒険者をやっている」
「よろしくどうぞー」
一時期は触る者皆ブッ飛ばす、と言わんばかりだったメロも、最近は少し成長が見えている。
まあ、冒険者としてやっていく以上は、強さにかかわらず横の繋がりは重要だ。最低限ギリギリとはいえ、コミュニケーションが取れるようになってくれたことは進歩だろう。
やり取りを見て取ってから俺は訊いた。
「顔を見に行こうと思ってたんだが、手間が省けたな。今は暇か?」
ちら、と一瞬だけ、リグはメロに視線を向けた。
けれどそれをすぐに戻して、こう答える。
「――いや。悪いが今は仕事中だ」
「仕事?」
きょとんと問うメロ。こういうとき、まっすぐ訊けるのはメロの強さだろう。
それに流されるリグではないが、特に考え込むでもなく答えた。
「ああ。人探しってヤツだ。ついでだアスタ、お前、協力していけよ」
「……こっちには戻ってきたばっかだ。知ってるとは限らんぞ?」
「なら探すのを手伝え。お前には確か貸しがあったな? それも大量に」
「わーってるよ……」
リグにはいろいろ融通を利かせてもらっているし、その恩を返すどころか迷惑をかけまくっている。
だから断れない。少しでも恩を返したい側の身としては、手伝えと言われては弱かった。
「ちょうど事務所に戻るところだ。ついて来い、水くらいなら出してやる」
「……いや、せめて茶くらい淹れてくれや」
「喧しいぞボケ」
けんもほろろなリグであった。
メロはしばしそのやり取りを見ていると、急ににへらと笑って言う。
「ねえ、リグ。それ、あたしもついてっていいよね?」
「いいけどよ」
リグは眇めるようにメロの顔に向かい、まっすぐ告げる。
まるで恐れを知らないように。
「――来るからには働いてもらうぞ。役に立たなかったら追い出すからな」
「当然! あたしを誰だと思ってんのさ。期待しててよね?」
その言葉を、メロはむしろ嬉しそうに受けるのだった。