EX-4『アスタとセルエの五年目3』
それは、生まれつき自らの内側に棲んでいた獣だ。
飼い慣らすことの難しい、悪と負の面を凝縮した純黒の獣。
※
「セ、セルエ!? 大丈夫か……!?」
ぶっ倒れていたセルエに、慌てて駆け寄って俺は叫んだ。
セルエは「う……」と呻きながら、わずかだけ這うようにこちらへ近づく。どうやら生きてはいるらしい。
「何があったんだ……!? お、おい……セルエ? いったい――」
セルエは強い。彼女より強い魔術師など、この世界にほとんど存在しないという次元で。
それこそユゲルやシグ辺りの埒外を連れてこなければ、正面切っての戦闘でセルエを倒せる人間などそうはいないだろう。それが人間ではなく、魔物だったところで大差はなかった。
「アス……タ……!」
「なんだ? どうしたんだ!?」
小さく呻くセルエ。その体を抱き起して俺は問う。幸い、服や肌はぼろぼろに汚れているものの、外傷らしい外傷は見受けられなかった。いや、あるいはだからこそマズいのか――わからん。
見たところ深刻な魔術や呪いの影響下にあるという様子でもない。
答えを待つ俺に、セルエは――言った。
「――お腹が、空いた……っ!!」
「そんなテンプレなギャグみたいなこと深刻そうに言うぅ!?」
驚きのあまりものすげえツッコミを入れてしまう俺だった。
背後から近づいてきたキュオが、「だから大丈夫だって言ったじゃん」と小さく零した。いや、そりゃ確かに慌てている様子ではなかったけれど、まさかこんなオチだなんて思います? 思わないよ。
今どきギャグマンガでもこのオチはねえって。いやもう今どきのマンガなんて知らないんだけど俺は。
ただ考えてみれば、確かにキュオが大丈夫だと見た時点でそんな深刻な話であるはずもなかった。
治癒魔術師として医療知識も押さえている彼女だ。魔術師としての観察眼も相まって、ひと目見ればセルエが問題ないということがわかったのだろう。
「……どうすんの、これ。食料なんて持ってきてないんですけど……」
ほとんどピクニック気分だったからな、正直。
これが迷宮にでも入るって話なら相応の装備をしたかもしれないけれど。範囲のわかっている禁域程度、危地としては捉えていなかった。味方が頼もしすぎる弊害というか、なんというか。
腕の中で「うあー……」と呻くセルエさん。
この、やり場のない感情をいったいどうしてくれようか。
「……魔力欠乏だね。こればかりは、下山しないことにはどうしようもないだろうなあ」
と、そこでキュオが言う。俺も認識が甘かったことに思い至った。
そもそもの話、セルエが餓死寸前(なのか?)まで下山もできずにいること自体がまずおかしい。
セルエは単にお腹が減っているわけではない。それは、魔力のほとんどを一度に失ったことによる弊害だということ。
そして――こればかりは、魔術でどうこうすることができない問題だ。キュオにもメロにもどうしようもない。
俺ならば、ルーンを用いれば魔術を使って魔力を譲渡すること自体はできる。だがそれは、その場で使用することを前提としたものであって、俺の魔力をセルエの内側に留めておくことはできないのである。他者の魔力を強引に身の内に留めておけるのは、一部の異能力者か、あるいは伝承に聞く吸血鬼といったような存在だけ。
セルエも一応は普通の人間であるため、それこそ食事や睡眠を取って、時間経過で魔力を回復する以外にないのだ。
「……つーか、これ、さっきの奴に奪われたってことでいいんだよな?」
「だろね。ちょっと違和感あったけど、思い出してみればアレ、確かにセル姉の魔力だった気がするし」
答えたのはメロだった。彼女は未だに山の反対側を睨んで警戒している。
吹っ飛ばしたからといって油断はできない。あのセルエ風の人影の身体能力と魔術を思えば、どんな奇襲を受けるか知れたものではないからだ。
メロだけに任せるのではなく、本当なら俺もまた警戒していなくてはならないが――、
「――ん……?」
謎の違和感。その理由に、けれど思い至ることがない。
何かがおかしいと俺は思った。にもかかわらず、何がおかしいのかがわからない。やがて、おかしいと思ったこと自体がおかしかったかのような、おかしいことなんて何もなかったかのような気分になってくる。
まあ、どうでもいいか。
俺は結局、そんな風に判断する。
そう、なんの問題もない。セルエを見つけたのだから、あとは下山すればお終いだ。
だから俺は、セルエを連れて帰ろうと、ふたりに提案しようとして――腕の中のセルエがそこで言った。
「……アス、タ……っ!」
「あん? どした、セルエ? まあ、よくわかんねーけど、とりあえず山降りて――」
「――目を、覚まして……」
「目……?」
何を言っているんだろう、と思った。
セルエも変なことを言うものだ。
覚ますも何も、そもそも俺は起きているのに。
――いや待ておかしい。
はっとした。そして違和感を得た直後、すぐ後ろを衝撃が吹き抜ける。
キュオが、いきなりその体を吹き飛ばされたのだ。まるで何かに殴り飛ばされたかのように。
「――キュオっ!!」
咄嗟に叫ぶ。その言葉にギリギリのところで反応したのだろう、真後ろへと吹き飛ばされ、地面を跳ねながら飛んでいくキュオの体が淡く明滅した。地面を跳ねるたび、仄かな緑色の魔力光が円形に広がって衝撃を殺す。運動エネルギーを逃がして身を守る、咄嗟の魔術構築だった。
物理法則を捻じ曲げて、キュオがブレーキをかけて受け身とともに立ち上がる。
その右腕は、手首と肘のちょうど中間あたりから折れ、だらりと下に垂れ下がっていた。完全にイカれている。骨が、肉と皮を突き破って、外側にまで顔を出している。赤い色が垂れていた。
しかし、そこは治癒魔術師。
患部に残った左腕を当てると、彼女はあっさりと傷を治療していく。まるで時間でも巻き戻っていくかのように復元する肉体は、光景だけ見れば、あるいはおぞましいのかもしれない。
とはいえ無論、そんな益体もない感傷に浸っていていい状況ではなかった。
「……あはは。アスタ、メロ。思ったより、今、ここやばい感じかも……」
小さく呟くキュオ。
気づけば、いつも間にだろう。山の上のほう――十数メートルほど離れた先に、先ほどの偽セルエ(?)がいた。
俺の脇にいるメロがきょとんと首を傾げて言う。
「あれ……いつの間に」
俺は、直感で魔術を放った。警戒した偽セルエが後ろへ跳ねて距離を取るが、何も俺は攻撃したわけではない。
俺が放ったのは、魔術を破壊する魔術だ。いや、上書きすると言ったほうが近いだろうか。
地面に足で描いた三つのルーン。こういう技術ばかり無駄に上手くなっていくが、まあ命がかかっている以上はむしろ誇るべきだろう。たぶん。足癖の悪い男になってきたぜ。
巨人――意味するところは集中力、警告。
主神――意味するところは知性、完成を高める。
保護――意味するところは守護、霊的な守り。
水――意味するところは感性、感情、浄化。
考えつくルーンを全て重ねて、俺だけではなくキュオとメロも影響下に置く。
これで成功するかどうかは微妙な辺りだ。また最悪なのが、仮に失敗してもそれに気づけないかもしれないこと。
そもそも俺のルーンは酷く抽象的かつ強引な解釈を現実に当てはめるモノである。
これこれこういう魔術を使う、というのとは違う。これならこういう結果が起こるだろう、というのを呼び寄せているに過ぎないのだ。厳密な意味での印刻魔術とはそこが違う。
今回は、幸いにも効力を及ぼしたようだ。
はっと気がついたようにキュオが顔を上げて、メロは驚いたように山の上を睨む。
「今の……まさか」
メロの呟きに俺は答えた。
「精神干渉。どうやら、あいつに頭の中を弄られてたらしい……厄介な魔術使うぜ、マジで」
「……最悪。あいつゼッタイぶっ倒してやる」
警戒心を解き、危機感を薄れさせ、気づかぬ間に術中へと嵌める。
言うなればそんなところか。どうやら俺たち三人は、魔術で頭の中に干渉されていたらしい。
俺がそれを解くことができたのは――たぶん、セルエに触れていたから。
セルエだけはおそらく、精神干渉術式の支配下になかった。だから最後の力を振り絞って俺を正気に戻してくれた。
「――――」
それが最後の足掻きだったらしい。腕の中のセルエは完全に意識を失っていた。
だが、これではっきりした。だろうとは思っていたけれど、やはりこのセルエは俺の知るセルエだ。
――問題は、なら俺たちに襲いかかってくるこちらのセルエは何者なのかという点。
強靭な身体能力に、それを補助する移動・及び強化魔術。
一撃で必ず倒し反撃を許さないその戦い方。
何より纏った魔力の質。そして、そこから発動される精神干渉魔術の技量。
どれひとつを取ってもセルエとまったく変わらない。
違いがあるとすれば――。
「魔術の技量は、ほんの少しセルエが上だな。だけど暴力性は増しているってとこか……なるほど」
「――人格が、肉体を持って分離したって感じなのかな?」
俺の呟きにキュオが答える。セルエの二面性は俺も知っているところだし、まあ、妥当なところか。
もちろん疑問はある。
俺はセルエの二面性がある性格を、単にスイッチの問題だと思っていた。いや――あるいは本当に二重人格だったと仮定してもいい。
いずれにせよ、それだけではこんな事態に陥らない。
まあ魔術なんておよそ想像の及ぶ限り万能だ。大抵のことなら、少なくともその《結果》を起こすことはできる。
俺がルーンの解釈で強引に魔術を使っているのと理屈としては同じだ。ある物体を破壊しようとして、肉体強化で殴り飛ばすのも魔弾で撃ち抜くのも、あるいは掛けた対象が崩壊するという効果の魔術を使うのも、結果論として世界に適用される改変の度合いはあまり大差がない。なんらかの方法を使えば、人格を分断して分身じみた行為もできるのだろう。
だって現に、できているのだから。
しかし、その一方で魔術にはやはり魔術の決まりがある。
その理屈そのものは誤魔化しが効かないものだ。どんなルーンを使おうと、俺が文字を《こういう意味だ》と解釈できなければ、なんの魔術も使えないように。
たとえばセルエが二重人格で、分断した片一方が魔力体なり人形を使うことで一個体として確立したとしよう。
俺にはできないが、あるいはそれを可能とする魔術があるのかもしれない――あってもおかしくはない。
だが、それでも魔術の大原則は超えられない。この場合、元のセルエを――その魂を――半分に分けている以上、独立した《セルエ裏》も元の《セルエ表》も、どちらも1のエネルギーをふたつに分けたことになる。
単純計算で、個々の能力値が半分以下にならなければおかしいということだ。
だが、この《セルエ裏》は違う。
あるいは元の《セルエ表》の力の大半を奪ったのだと仮定しても、やはりおかしい。
なぜなら《セルエ裏》は、《セルエ表》と比較して勝っている部分と劣っている部分の両方が存在するからだ。
「……方針はふたつだな」
理屈は、考えたところで答えが出るか怪しい。なら現況にどう対応するのかだけを考慮すべきだろう。
「ひとつは、こいつをこのままブッ倒す。どういう理屈にしろ最悪、殺せば死ぬことだけは魔術的に間違いない」
「もうひとつは?」
と、メロに問われた。俺は言う。
「倒さないで、セルエの中に戻すべきなんじゃないか――という方針。理屈はよくわからんが、セルエから分離したってことはたぶん間違いないんだろう。似すぎだし。なら、もしかしたら元あった場所に戻すべき……なのかもしれない」
「それさ。もう、アスタの中で答え出てるんでしょ」
俺の言葉にメロは軽く言った。振り向いてみれば、キュオまでもが仕方ないという表情をしている。
……まったく勝手なものだ。
どうせ、俺が言い出さなくても同じことを誰かが提案したに違いないのだから。
こいつらは単に、その選択を俺にかこつけているだけに過ぎない。
「さて。まあじゃあ殺さず無力化してセルエに返すって方針で行こうか」
「相手の強さが怪物クラスなんだけど、その点についてはどう思ってるのかな?」
キュオは笑って言った。
実際、単純な戦闘能力で言うと、シグたちも含めた年上組三人と俺たち年下組三人の間には割と開きがある。
マイアは俺の次に弱いのでどうでもいいけど。
ともあれ、俺は言う。
「……まあ確かにラスボスみてーなのがいきなり出て来たけど、まあ心配ねえよ」
「どうして?」
「そりゃ、バケモノならこっちにもがふたりいるからな?」
そんな俺の言葉に。
メロとキュオは口を揃えてこう言った。
「――よし、これが終わったら次はアスタを倒す」
「いやなんでだよ、おかしくない!?」
なんで怒るんだよ。完璧に事実じゃん。おかしいよ。
ともあれまあそういった経緯で。
ドーバ山の戦い。
セルエ(?)vs年少組。
――実際、それはちょっとした最終戦争であった。
活動報告を更新しました。
よろしければ、ご一読のほどをお願いします。




