5-46『伝説』
――気を失っていたのは、ほんのわずかな時間だったと思う。
それでもメロ=メテオヴェルヌは、目覚めたときほんの少しだけ戸惑った。
終わらない夜に沈んでいたはずの世界を、いつの間にか天頂の日輪が照らしていたからだ。
そんなに長い間、気を失ってしまっていたのかとメロは一瞬だけ疑って、
「……ああ」
街に満ちていた、迷宮の瘴気を思わせる濃い魔力が、霧散していることに気がついた。
月輪の夜天結界が破られているのだろう。
時刻は――外はそろそろ日が沈み始める頃合いか。せっかく夜が去ったのに、また再び夜に向かおうとしているらしい。
周囲を見ると、どうやらメロは人の避難した建物の中にいるらしい。
おそらくウェリウスが避難させておいてくれたのだろう、と解釈する。周囲に張られていた結界を打ち消して、メロは立ち上がった。
――いったい自分は何をしているのだろう。
そんな気持ちがある。神獣を、送り返すだけとはいえ打倒したことに対する達成感、あるいは誇りなどといった感慨がないわけではない。
ただそれが、思ったほど気分をくすぐるものではなかっただけだ。
その理由はたぶん明白だ。
周囲を探れば、街の危機が去っていることがわかった。新たな神獣が現れたことは気絶する直前に悟っていたから、ウェリウスか――あるいはほかの誰かが解決したらしい。
戦果だけを見れば、メロは間違いなく街を救った功労者のひとりだ。
――ああ。たぶんそのせいなのだろう。
メロは静かに思う。それを誇る気持ちがないことに気がついてしまったから。
だって、メロはただ単に強いから、力があるから戦っただけだ。街を守りたいとか、大事な人を助けたいとか、そんな感傷は抱いていなかった。
戦いとなれば、気分に左右されるような馬鹿はしない。だからウェリウスと組んで戦いに赴いたし、実力がまたひとつ向上したような、そんな達成感もあった。
だから終わってみた今、こうして盛り上がることのない気分が意外といえば意外だ。
だって、メロが気絶していた間に事態は終息している。
それはつまり、翻ってみれば、必ずしもメロがいなくてもこの街は事態を解決できたのではないか――という思いに繋がっているのだ。気分の上昇を抑えているのは、その感傷だろう。
無論、わかっている。そんなことはないのだと。
またよしんばそうだったとしても、それでメロの参戦が無意味になるわけではない。いないよりは、いたほうが遥かによかったことは事実だ。天災の戦力は非常に大きい。
――では自分は何が気に喰わないのか。
考えて、その答えは、けれど考える間でもなく出てきた。
だってメロは、今日だけじゃない。これまでもずっとそうだったのだから。
戦うことに理由がなかった。
メロにとって、戦いは手段ではない。それ自体が目的だった。
それを悪いと思ったことなどない。悪いのだとすれば、誰かがそれを証明するべきだった。けれど今日まで、メロにそれを突きつけた人間などいない。少女はあまりに強かった。
いや、負けたことがないわけではないのだ。
シグには幾度となく負けている。タラス迷宮では魔法使いに圧倒的な力の差を見せられた。あのアスタにだって、一度は敗北したことがあるのだ。
ただそれは、特別が特別と競っただけの話だとメロは認識していた。
メロは自分を特別だと認識している。その理解は正しい。
そして世界には、メロ以外にも特別と呼ぶに値する人間がいた。魔法使いであったり、魔人であったり、あるいは七星旅団の仲間たちであったりだ。
その《特別》の中で優劣がつくのは当たり前の話である。
メロはそれを受け入れることができていた。確かに戦いは好きだったし、負けるのはとても嫌いだ。勝てば楽しいとも思っていた。
――けれど、それは目的ではなかった。
その落差を今、メロは痛烈に自覚せざるを得なかった。
この街に来てアスタと再会し、その在り方を見せつけられたということもある。タラスの迷宮で魔法使いに、行くべき道の先を提示されたということもあった。アスタの友人たちが――たとえばレヴィであったり、ウェリウスが――それぞれの目的を強固に持っていることも知った。それがひとつの強さであるのだと、メロは学んだのだ。
だから先へとメロも進んだ。
シグに頼んで鍛え直してもらった。
魔人を倒した。
神獣とさえ戦った。
そこには彼女なりの意味が、価値が――命を賭して戦うに値するだけの目的が、確かにあったのだ。
――目的を見つけたい、という目的が。
親に捨てられ、自分を拾った魔術師と別れ、ただ持っていた力を縦横無尽に振るった。
そこに並べるだけの仲間もいた。一時期は彼らが目的をメロに与えてくれていた。彼らとともにいることは楽しく、アスタが、マイアが見せてくれた全てが楽しかった。
そうして、メロは伝説と呼ばれる位置にさえ至ったのだ。
もし七星旅団に入っていなければ、実力以前にメロが伝説と呼ばれることはなかった。そう思う。だってメロは、ひとりでなんでもできた代わりに――何をしたいとも思えないから。
与えられ、魅せてくれた《楽しさ》に、引きずられていただけなのだから。
――だからわからない。
欲しいと思った。生きる意味が知りたかった。
けれど、実力で上回る《火星》を死に物狂いで倒してさえ、天才と並んでたったふたりで神獣を退けてさえ――少女の手の中に答えはない。
なまじ、できてしまったことがいけなかったのだろうか。
それともメロは本当に空っぽで、自ら求めるものには一生かかっても辿り着けないのか。
街を守るために、戦い抗った人々がいた。
そうして彼らは勝利を勝ち取った。
それは、ほとんど全員がメロよりずっと弱い人間だ。けれどその全員が、メロの持っていない目的意識を持っている。
そして――その価値を見事に証明してみせた。
――なのに、あたしには。
何も残っていない。メロにはいつだってわからないことばかりだ。
あの日、自分より遥かに弱かったアスタがどうしてメロを倒すことができたのか。
あの迷宮で、どうしてキュオネはみんなを守って命を投げ出すことができたのか。
その答えはいったいどこにあるのか。
天災には――わからなかった。
「……だからって、どうしようもないじゃんか……っ」
ただ待ち構えていたわけじゃない。きちんと自分から求めて戦って、その上でなお答えを得られなかったのだから。
これ以上はどうしようもない。どうしようもないことを、天災はいちいち考えない。
だからメロは立ち上がる。戦いが終わったのだから、とりあえず誰かと合流しようと考えて歩き出し――。
――そして、その違和感に辿り着いた。
おかしい。何か、見逃してはならないものを見逃している。
思考ではなく、それは感覚だ。今、メロは確かに何かを感じ取った。その直感に、突き動かされるようにメロは周囲に視線を這わせた。
目に映るのは街の光景。取り立てて変わった箇所はない。
人はいないし、建物はあちこち崩落しているが、それは現状を鑑みれば当たり前のことだ。違和感の理由にはなり得ない。
――目に見える景色が理由じゃない。
――空間が。
――この世界そのものが、まだ歪んでる……?
天災の、あまりに鋭敏な魔術的感覚がそれを告げている。魔物が消えたとはいえ、魔力はそれでも残っているのだから。その違和感に気づけたこと自体が驚異だ。
あるいは五大迷宮での経験があったのだろう。
そう。これは場の雰囲気の問題だ。あの迷宮の地下に――魔力に満ちた世界の裏側に、街の雰囲気があまりに似通っている。
メロは賢い。
その上で感覚が鋭い。
だから――答えに辿り着く。
はっと、弾かれたようにメロは建物から踊り出る。
そして通りに出るや否や上を見上げた。
――そこに。
結界に隠されていた空の外側に、今、街にあった全ての魔力が集っている。
いや、多すぎる。それは魔力を呼び水に魔力を呼んでいた。
際限なく膨れ上がっていく暴食的な魔力。それが形を結び成す寸前であることは見ればすぐ理解できた。
気づかなかったのは、目に見えないその魔力の集中が空にあったから。そんな単純な、ほんの少しの位置のずれが答えを隠していたのだ。
だが、目に見えないうちはまだいい。
問題は、それが目に見える形を取ろうとしていることだ。
――やばい。
まずい。これは、ダメだ。
こんなの、もうどうしようもない。
終わってる。
本能が悟り、理性がそう判断を下した。
それでも、今この場で、それをどうにかできる可能性があるのはメロひとりだ。呼べるかもわからない助けを呼んでいる暇はない――そもそも誰に何ができる。
直感的にメロは上空へと向かった。
疑似転移魔術《北落師門》。
その入り口を広げ、自ら飛び込むことで、メロはオーステリア上空へと移動した。
――脅威が、形を為したのと。
その存在に街の人間全てが気がついたのが、それとほぼ同瞬だった。
「……はは」
と、乾いた笑いが天災の口から零れた。
その視線の先に、神獣を超える魔力の塊が生物の形を取って成立している。
黒い体躯。
巨大な翼と硬質な鱗。
見下ろす貌は首を合わせ七揃い十四眼。
空を征く獣。
全ての魔獣の頂点に立つ幻想種。
かつて、一度戦ったことのあるそれよりも、そいつは種としてさらに完成されている。
これまで街を襲った神獣と、それはもう比較にならない。
それは人間世界に、完全に存在として成立していた。
――魔竜。
破壊と破滅を司る生命種の頂点。神獣の最上位。その完全体。
比喩ではなく、それは言葉通りに世界を滅ぼせる獣だ。
それが、オーステリアの上空に姿を成立させていた。
メロの判断は早かった。
早かっただけだ。意味なんて持っていなかった。
「う――ぁあああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
北落師門を全開に。魔竜を強引にオーステリアの上空から移動させる。
ふたり揃って、オーステリアの外壁の外へと墜落する形で、メロは街の空から魔竜を動かすことに成功した。
賭け、だったことは事実だ。魔竜が少しでも抗っていれば、どうなったかわからない。
それでも咄嗟に、街を守るほうへとメロは動いた。魔竜はそれに逆らわない――というより認識すらしていなかったのだろう。
オーステリア外周部の、街道が続く平野。
ちょうど、シグと訓練を重ねていた辺りに墜落しただろうか。
悠然と魔竜は地に降り立つ。
見上げるほどの体躯の、その目前にメロは立っていた。
「……はは。何、やってんだろ――あたし」
何かを誤魔化すようにメロは呟く。
体が、震えていた。
恐怖とは、少しだけ違う。畏れている理由は、全身が逃げろと叫んでいるから。竦んでいるのではない、動こうとしているそのことをメロは抑えていた。
――勝てない。
鬼種と戦ったときと、それは意味合いを異にする勝てないだ。
確かに、あの戦いだって命懸けだった。火星との戦いもそうだ。
だがその戦いは、本来なら勝てない相手に食い下がり、倒し得るだけの策があった。命を懸けなければ倒せない相手とは、命を懸ければ倒せるかもしれない相手ということだ。
だが、これは、ダメだ。
五大迷宮では七人揃ってようやく勝利を獲得した。記憶にある最大の死闘だったと言える。
ましてこの七つ首の黒竜は、おそらくあのときの竜の強さを上回っている。
実力がどうとか、作戦がどうとか、そういう次元を超えていた。前に立つことなど自殺以外の何物でもない。それは、天災にとってさえ、だ。
それだけの実力差があるから、だろう。
黒竜はメロを見ていない。だからメロならば、あるいは今から全力で逃げ出せば、少なくとも自分ひとりだけは生き永らえることができるはずだった。
だけど。
それができない。
「……ああ。もう――なんで、あたし……何やって。クソ……こんなの。違うのに……!」
死ぬ。絶対に死ぬ。
メロ=メテオヴェルヌはここで死ぬ。
なのにどうして戦おうとしているんだろう。
どうして逃げ出さないんだろう。
わからないのに立っている。
街を守る義理はない。
あったとしても、それは鬼を打倒した時点で返している。
なら逃げ出すべきだった。それは誰にも責められない。
体が震えた。
涙が零れていないことが奇跡だった。
死にたくないと心が叫ぶ。
今すぐ逃げろと魂が震えている。
怖い。
嫌だ。
ここにいたくない。
死にたくない。
メロだからこそわかる。
その、どうしようもない力の差が理解できる。
無謀なんて次元じゃない。
こんなものは自殺だ。
いったい何分生き残ることができるか――そういうレベルの話だ。
でも。
それでも。
――メロは、戦いを決意してしまっていた。
少女には何もない。
ずっとそう思っていた。今だってそう思っている。
けれど、だから、だからこそ。
特別ではなく、それでも価値を証明してみせた全ての街の人間の――彼らが守り、形作ってみせたものを、こんな形で壊させるわけにはいかない。それさえ認められないのなら、だったらメロにはもう何も残らない。
戦わないわけにはいかなかった。
何もない自分だからこそ、街を守った人間の、その成果を否定させてはならないと。
けれど違うのだ。
本当は、そんなはずがなかった。何もないようなつまらない人間に、誰がいったい笑って付き合ってくれるというのか。
その気持ちに、当の本人だけが気づかないままで。
「――竜星艦隊――」
天災が、撃鉄を上げた。
竜の息吹。その再現たる最高位の魔弾が魔竜に直撃する。
それを受けて、初めて黒竜がメロを見た。赤い、鋭い双眸に見下ろされ、心胆が凍る。見るだけで呪詛を撒いている――邪視の魔眼だ。
それをレジストして、メロは駆けた。
足ではない。魔術を使ってメロは移動する。
考えがあっての行動ではなかった。とにかく翻弄しなければならない。魔竜の攻撃など、どんなものであれ一撃でも喰らえば当たり前に終いだ。そういう戦いの経験値を、シグや鬼を相手にメロは積み重ねてきていたのだ。
だから、それがメロの新たに生み出した戦法。
天災として完成させた技術。
短距離疑似転移を繰り返しながら、全力の砲撃を撃ち込み続けるという移動砲台。
この土壇場で、メロはさらにその実力を向上させたのだ。
魔弾が。竜星が奔る。
幾度となくそれが黒い鱗に弾かれていた。
それは人類最高峰の攻撃だ。わずかだが確実に、メロの攻撃は黒竜にダメージを与えている――それだけの能力を、天災は所有していた。
「硬すぎ、だっつの……っ!」
魔力の続く限り、メロは魔弾を撃ち込んでいく。
反撃はほぼ自動だった。竜麟から溢れる瘴気はそれだけで毒だ。まるで太陽のプロミネンスを思わせるように、魔弾に反応して撃ちあがる竜気を、メロは疑似転移で躱し続ける。
綱渡りだった。
それを成立させていること自体が、メロの強大な才能を物語っている。
けれど、それは綱渡りであるからこそ終わりも刹那だ。ほんの一手を仕損じるだけで――あるいは全てを完璧にこなしたとしても、上回られればそれで終わる。
魔竜に、その口許に――魔力が集中していく。
七つの首の中心。真ん中の一本が、大きく口を開いて溜めを作っていた。
それが意味することは明白だ。
竜の攻撃。その最もメジャーなものは言うまでもない。
メロは、それをただ躱すだけではいけない。街のほうに向かって――いや、地平線に沿って撃たせるわけにはいかなかった。どんな被害が出るかわかったものではない。
これまでの天災は、そんなことなど気にも留めなかったはずなのに。
ゆえにメロは、上空へと逃れる。
宙に設置した円から円へ、移動することで上に逃れようとしたメロに対し――。
魔竜は、咆哮をやめた。
「な――」
いきなり口を閉じた黒竜――だが驚きはそれだけじゃない。
「――っづ――!?」
次の瞬間、メロは目に見えない何かに直撃して、真下へと叩き落とされたのだ。
落下しながらメロは気づく。
魔竜の、その恐ろしいほどの周到さに、だ。
竜の息吹を、黒竜は直前でキャンセルした――というより、初めから撃つ気などなかったのだ。
それはフェイクだった。
それによって、街を守ろうとするメロが上に逃れることを黒竜は読んでいたのだ。通り道さえわかってしまえば、メロの移動はあくまで疑似転移――通り道を塞ぐことで、叩き落とすことができてしまう。
「……考えて攻撃してきた……っ!!」
メロは咄嗟に、再び疑似転移を使うことで逃れようとした。
だが、それを黒竜の纏う瘴気が邪魔する。それを躱したせいで、隙が生まれた。
――直後。
天上から襲った強大な重力に、メロは数十メートル下の地面へと一気に叩き落された。
魔術による攻撃だ。
空気の圧力が、まるで蝿叩きのようにメロを落下させたのだ。
その衝撃によって、メロの墜落した地面がクレーターを作るように陥没した。
「つ――――、ぁ」
メロが生き残ったのは、落下の衝撃を咄嗟に障壁で殺したからである。
だが、それでは無傷とはいかない。代償は確かに残っていた。
――右腕が完全に折れている。
彼我の距離はおよそ百歩。咄嗟に立ち上がろうとしたメロの目の前に――そして、今度こそ絶望が広がっていた。
あまりに巨大な、人を数十人丸ごと飲み下しそうな大あぎと。
盛大に開かれたそこに集中する魔力。今度こそ、それはフェイクではあるまい。
――竜の息吹。
神話に謳われる、それはこの世界における最高の火力。
地面に叩きつけられ、その防御だけで手いっぱいだったメロに、もはやそれを躱すことなど不可能だ。まして防ぐなど、いったいどんな硬度の障壁なら可能だというのか。
それでも、メロは立ち上がって前を見る。
諦めることはできない。
たとえ理性が死を確信していても。本能が目前の死を受け入れていたとしても。
胸で熱を出すその想いが、いったい何に起因するものなのかさえ定かではなくても。
――そして。
魔竜の一撃が放たれる。
視界を埋める白光。いっそ美しささえ感じる輝き。
メロに、何ができるわけでもない。
それでも手を前に伸ばして、何かをしようと少女は動く。思考はすでに働いておらず、心はもう、とっくに折れていたのかもしれない。
だけど、その小さな体だけは動いていた。
天災がなんだ。少女はこんなにもちっぽけで、弱く、何もできない子どもみたいで。
だけどその意志は、確かに――これまでを形作ってきたのだ。
だから。その光に飲まれる寸前、少女は感じた。
嗅ぎ慣れた香りを。鼻をわずかにくすぐるそれを少女は知っていた。
ついに体から力が失われる。目前に迫る魔力の奔流に、少女の小さな身体は立つことすらままならなくなって、後ろ側へと倒れ込んでしまう。
そんな、誰より小さな――天災の身体を。
抱き留める者がそこにいて。
――そうだ。メロは、それが誰だか知っている。
彼はいつもそうだったと覚えている。
それが、きっと英雄の条件。
たとえどれほどの死地であろうと、たとえ策など何もなくても。
彼は――きっとそこに立つ。
誰かの背中を押しにくる。
支えて、並んで、歩いてくれる。
――だってこの青年は、いつだって。
必ず、都合のいいときに現れるのだから――。
※
「なーにシケたツラしてんだ。らしくねえぞ、メロ」
※
わずかに感じた煙草の香りに、メロは意識を奪われる。
「……あ――」
障壁が。魔力によって構築された壁が、メロの目前に突き立った。
それは魔竜の咆哮と比すれば、あまりに脆く頼りないものにしか見えなかった。
けれど違う。彼にとってその程度は前提だった。
青年はいつだって、自分より強いモノとばかり戦ってきたのだから。
障壁が、そして破滅の一撃と衝突した。
――防いでいた。
力で対抗しているのではない。それは魔力を吸収し、その全てを地面に流していく。壁面を伝って地面へ、地面から龍脈を通して世界へ――力の逃げ場を作っている。
そう、いかな魔竜とはいえ。世界を滅ぼす終わりの獣とはいえ。
この惑星そのものを、ただの一撃で破壊するなんてことは不可能なのだから。
「……ぅ、あ……っ」
黒竜の一撃が防がれる。魔力は完全に消滅した。メロを守り切ったのだ。
少女の小さな両肩が、とすん、と何かにぶつかった。後ろ向きに倒れ込んだ体を、その背中を、後ろで誰かが支えてくれた。
「ありがとう――よく、持ちこたえたな、メロ。がんばった。助かったよ」
「なん、で……どう、して……っ!!」
どうしてこんなにも都合よく、当たり前みたいに現れて。
今、いちばん欲しい言葉を少女に与えてくれるのか。
――いや、そうじゃない。
そんなことを言っている場合じゃない。
「バカ――なんで、来ちゃうのさ……っ! 早く、逃げてよ……っ」
ひとり助けが来たくらいで、覆せる状況ではないのだから。
そんなこと、わかっているはずなのに。
ここに来たらもう逃げられない。だってこの男は、もう絶対にメロを見捨てない。
諦めるなんてことができない人間なのだから。
そう。それは彼にとって当然だった。なぜだなんて聞かれても、そのほうが困ってしまう。
だから――青年は。
アスタ=プレイアスは。
当たり前みたいに笑って言う。
「は? なんで。逃げるわけないだろ。お前がここまでがんばったんだ。その想いは、絶対に無駄になんてさせてやらねえ」
「アスタひとりが来たくらいで、どうにかなる状況じゃ……っ!」
「おいおい。お前、まだ気づいてねえのかよ。誰がひとりで来たっつった?」
「――え……」
「ほら。前を見ろよ、メロ」
一撃を防がれた黒竜が、まっすぐふたりを見据えている。
だが直後。その全身を――地面を割るように向かってきた強大な光の奔流が呑み込んだ。
黒竜が宙に逃れる。巨大な両翼をはためかせ、物理法則を無視した動きで空に逃げた。
そう――逃げたのだ。
魔竜が。この世で間違いなく最強の生物であるはずの竜種が。
本能的に逃げを選ぶ、それだけの理由があったのだ。
「――はあ! まったく本当に、もうっ!!」
その呆れたような、それでいて開き直ったような声は、竜自身から聞こえてきた。
正確には、その七本ある首の真ん中。いつも間にか黒竜の額の上に立っているひとりの女性から届いた声だ。
「いつもいつも無茶ばっかりで……! 挙句に魔竜とか、本当にもうっ!!」
その女性は、嘆くようなことを言いながらも片腕を真上に伸ばす。
開かれた掌の指が、一本ずつ、力強く握り締めるように折り畳まれていく。
「まあ、でも……アレだ。とりあえず――落とし前はつけるから」
そして、その腕が。
まっすぐ――竜の額に突き刺さる。
「――おい。頭が高えぞ、爬虫類」
衝撃が、空間そのものを振動させた。波及する風がメロさえ揺らす。
額に乗った小さな女性が、比較にもならないほど巨大な魔竜を真下に殴る。ただその一撃だけで空気が震え、飛び立ったはずの竜が地面に向かって文字通りに叩き落とされた。
肉体限界や物理法則を当たり前みたいにブチ破る、橙色の髪の女性を――もちろんメロは、知っている。
「……セル、姉……っ!!」
セルエ=マテノは、身内を傷つける存在を絶対に許さない。
たとえ相手が神なる獣でも、その顔面を殴り飛ばすくらいはわけがない。
「な? ――みんな、来るに決まってる」
「――わ……っ」
わしゃわしゃと、後ろから乱暴な手つきで頭を撫でられた。そこでメロは、青年が片腕を失っていることに気がついた。
アスタはメロの前に立つと、魔竜に完全に背を向けて、少女に向き直る。もはや竜など警戒さえしていないとばかりに。
口に煙草を銜えて、まるであやすみたいにメロの頭を撫で続ける。そのがんばりを讃えて、心からの感謝を伝えるように。
「がんばったよ、メロは。全部お前のお陰だ――本当にありがとう」
「あ、あたし――は。だって……何も」
「いいから」全てをわかっているかのような笑みで、アスタはメロに笑いかける。「わかってる。お前が俺のいない間、この街をちゃんと守ってくれたんだろ? ありがとう。本当に」
「……ぅ、っ――」
メロは俯き、弱々しく首を振る。
違う。そんなんじゃない。
街を守ろうと思ったわけじゃなかった。ただ逃げるのが嫌だっただけだ。
何も目的がないから。
何も持ってはいないから。
探しても、探しても、どうして戦うのかの理由が見つけられなくて。
それが嫌だったからここにいるだけなのに――。
「――いいんだよ。いやもう、つーかしつこい。守ってくれてありがとうっつってんだから素直に受け取れ知るかもう」
だというのに、この男ときたら。
知った風な顔をして、メロの苦悩を笑い飛ばす。
「なん――で……アスタ、は……っ!」
言い募るメロ。もうぐちゃぐちゃになりそうな顔で、それでも言う。
だが、アスタから見ればそんなことは自明なのだ。当たり前のことを言っているに過ぎなくて。
「見てわかれ、バカ。なんでみんながここに来たと思うんだ?」
「それは……街を」
「違う」
そんな理由で人は動かない。
メロにはちゃんと、そうされるに足る理由がある。
それを本人だけが気づいていない。
だからアスタが、代わってそれを教えてやった。
「みんな、お前のことが大好きなんだ。だから来たんだ。大好きなお前を、助けに来ないわけがない」
「う――あ……っ」
「お前がみんなを守ってくれたから。そんなお前を、今度は俺たちが守るんだ――単純だろ?」
「――――、っ」
「ほら。これ、首にかけてろ。そんで、少しだけ休憩しとけ」
そう言ってアスタは、自分がかけていたペンダントを外すとメロの首にかけた。
そこから、柔らかく暖かな魔力が流れ込んでくる。
懐かしい、いや、忘れたことのない、全てを包んで癒すような優しさが、メロの身体を包んで少しずつ傷を癒していく。
――もう、それ以上は耐えられなかった。
「ぅ……あ――っ、あ、ああぁ……っ!!」
その魔力を覚えている。
忘れられるはずがない。
大好きだったのに。
だけどいなくなってしまって。
抱えていたものをいつだって優しくいっしょに持ってくれた大好きなその少女に、今日まで何も返せていない。
そのことがずっと心残りだったのに。
けれど、メロには、どうしていいかもわからなくて。
何をすることもできなくって。
なのに――彼女は、死んでもなおこうして、メロを守りに来てくれた。
また、助けに来てくれた。
「キュオ、ねぇ……キュオ姉……っ! ――っ、うぁあ……っ」
その温かさを胸に抱きしめる。
たくさんのものが、満ちていく。
いや。心の中に、それはずっと確かに残っていた。
どうして何もないなどと思っていたのだろう。
こんなにもたくさんのものを、いつだって渡してもらっていたのに。
溢れるほどの感情に、胸を締めつけられていた。そんな温かさのひとつひとつが、水滴に変わって目の奥から零れていくのを堪えきれない。
「ごめっ、ごめんなさ……あたし、は――う、ぁ……」
強かっただけのただの少女が、見失ってしまっていたものがあって。
だから彼女は、自分が戦う理由を忘れてしまっていた。それだけでは足りないのだと、亡くなった姉が、仲間が、この街が、全てが――ずっと責めているような気がしていた。
だって、メロは生きている。
キュオネは死んで、それでもメロは生き残っている。
みんなキュオネが大好きだったのに。
だったら、残った自分は、その代わりをしなければならないと思っていた。だけどメロにはそんな器用なことはできなくて。その罪悪感が、きっと――ずっと残っていた。
だから許せなかった。
自分だけを責めて姿を消したアスタも。
何もできず、キュオネがいない世界を漫然と生きていた自分も。
「なんで謝ってんだ」
アスタが、小さく苦笑して言う。
メロはぶんぶんと首を振った。まるでいやいやをする子どものように。
「だっ、て……あたし、は……何も、キュオ姉に――っ」
「言ってないだろ、そんなこと。キュオが責めてるかよ、お前を」
違う。そんなわけがない。
この優しい少女が、命を落としたあとまで助けてに来てくれる姉が。
メロを責めたりするわけがない。
首を横に振る。もう言葉が作れない。
「うあぁ……っ! あ――ああぁ……っ!!」
「ん。――まあ、久々の再会だ。握っててやれよ」
アスタはそう言って、メロの顔を下に向ける。
泣き顔を見てしまわないように。
――ずるい。
と、メロは思う。こんなときばかり、そんなことに気を回して。
いったいどうすればいいのか。
天災と呼ばれた少女にさえ、もう何もわからない。
「――ああ。それは、とてもいい考えだろう。メロ」
セルエによって地面に叩きつけられた魔竜が、その全身を魔力の糸に縛られる。
さきほどの光の奔流は、どうやら地下の迷宮からの移動魔術だったらしい。
気づけばすぐ傍に、ユゲル=ティラコニアが立っていた。地下の迷宮からピンポイントで、この場所に現れたというのだから驚かされる。
「きょう、じゅ……」
「もう忘れるな。それだけで、お前はきっと大丈夫だ」
普段は厳しくて、難しいことばかり言う、優しいことなんて言わない捻くれ者のくせに。
こんなときばかり心を見抜いて、そんなことを言うなんて反則だ。
その隣には、シグウェル=エレクも立っていて。戦いの師匠はこんなときも、いつも通りのマイペースさでダメ出しをする。
「――ダメすぎるな、メロ。手本を見せてやろう」
超越と――魔弾の海と呼ばれた魔術師の全力。
再び口を開いた魔竜は、それと相対するように魔力を溜めていた。
だが。
「遅い――」
その貌を、文字通りの光速でシグの魔弾が貫いた。
収束していた魔力ごと弾かれ、中央の首が後ろ側へとのたうった。
人類最高峰の魔弾は、威力はともかく、速度において――すでに魔竜を超越する。
「は――はは……エレ兄は、相変わらず……ムチャクチャだ……」
「心が乱れすぎだな。そんなんでは、魔術の質もだいぶ落ちる」
「こんな、ときまで……師匠は厳しいなあ……」
もはや自分が泣いているのか、笑っているのかさえわからない。
何も言葉にはできなくなってしまっていた。
いつだって、大事なものを無償で手渡してくれていた仲間たちがメロにはいる。
目的なんてはっきりしていた。
迷うようなことは何もなかった。
――だって、メロはみんなが大好きなのだから。
楽しく遊んでいたかった。
強く強く鍛え上げてほしかった。
いろいろなことを教えてほしかった。
厳しく叱ってほしかった。
優しく抱きしめてほしかった。
そうして、いつまでもいっしょに笑っていたかった。
それが家族だから。
メロがただひとつ知るものだったから。
涙を拭いて、顔を上げて、メロはまっすぐ前を見据える。
その先に映る魔竜の――そのさらに後ろに。
いったいどこから現れたのか。おそらく最初の光の奔流に、紛れていい場所を狙っていたという辺りだろう。
あるいは彼女は、弟以上に、いちばん盛り上がる場所を外さない。
「なんせ主人公気質だからな、根っから」
アスタが笑う。
その視線の先にいる人を見つめて。
「ここまで盛り上がって、出てこないわけがねえんだよな。そうだろ――姉貴!」
「――もちろん! ここがわたしの出番だからね!!」
その女性は空にいた。
シグの魔弾に乗っかって、竜より上に飛び上がったのだ。
もちろん、人間は空を飛べない。だから地面に縛りつけられた竜に向かって、自然と彼女は墜ちていく。
けれど、その女性を知る者ならば、まさか彼女がただ落ちるとは思わない。
かつて伝説の旅団のリーダーとして暴れ回った彼女は、なにせ根っからの主人公だ。
いちばんいいときに、いちばんいいところを根こそぎ持っていく。
「即興錬金、七連装剣――」
七つ首の、伝説の魔竜。その双眸が目撃する。
その女性は伝説の旅団を率いて、一度は神獣さえ打倒した魔術師である。
そう。魔竜如き、一度は超えた障害だ。今さら恐れることはない。
キュオネを連れて、アスタが竜の息吹を散らし。
セルエが地面に叩き落として。
ユゲルがそこに縛りつけ。
シグが首の一本を跳ね上げたのだ。
ならば、最後を持っていくのが誰かは決まっている。
重力に従って落下していく女性――その手に、突如として巨大すぎる剣が顕現する。
その刃渡りは、それこそ竜の首を断つのに充分すぎるほどのもので。
「――喰らえっ! 即席魔竜撃滅剣――ッ!!」
辰砂の錬成師――マイア=プレイアスが。
ふざけた掛け声と同時に、七つ首のひとつを断ち切った。
「は……はは」
メロは、もう、思わず笑ってしまっていた。
――どうしてだろう。
あれほどの絶望があったはずで。勝てるわけのない戦いだったはずで。
それが気づけば、今となっては負ける気がしない。
いったい何に悩んでいたのかさえわからなくなるほどに。
そんな様子に気づいてか、アスタが小さく、メロに向かって声をかける。
「おう。泣き止んだか、メロ?」
「別に……泣いたりなんかしてないしっ!」
メロは右袖で涙を拭って、力強く言ってのける。
左腕では、胸にかかったペンダントを強く握り締めた。
――みんながいる。
そうだ。なら何も怖いことはない。
アスタは、だから笑って答えた。
「そっか。なら悪い、さっそく手伝ってくれ。ちょっとトカゲを倒すから」
「ん。――仕方ないから手伝ったげる」
メロも笑った。
手伝うのではなく手伝ってもらう、と。あくまで自然と、当たり前にそう表現するアスタの変わらなさに。
敵は魔竜だ。首のひとつを断ったからといって、その状況は変わらない。
本来なら人数を増やすなど悪手だろう。ひとつで済んだはずの死体が、六つに増えるだけのことなのだから。
だが、もはやメロには一切の不安がない。
アスタがいて、マイアもいて、シグもいて、ユゲルもいて、セルエもいて――キュオネもいる。そこにメロがいるのなら、もう負ける理由がない。
――この七人なら、最強だ。
肩を並べて、笑い合って、楽しく生きていくために。
忘れていた当たり前だった目標を、少女は確かに思い出したのだから。
さあ、伝説の魔竜よ。残る六つ首で見るがいい。
ここに集うは、かつてその名を王国中に轟かせた伝説の旅団の魔術師たち。
それは前人未到の五大迷宮が一角を踏破し、神獣さえ打倒した最強の七人の冒険者。
伝説の再来。
――七星旅団の、復活だ。




