5-43『もう叶っていたはずの願い』
――学院に入学したことに、理由があったわけではない。
それは彼の意志によるものではなかったから。
いや、そもそも意志なんてものはとっくに見失ってしまったあとだった。
鬼であるクロノスは、道具として生きると決めていたのだから。
善悪を問わず、価値観を受け入れ、ただ拾った者がいいように自分を利用すればいい。
見返りさせ求めず、意味も、価値もなく。使われるだけの、ただ戦う機能を持ったひとつの道具としてクロノスは徹していた。
別の人間に拾われていれば、別の使われ方をしていただろう。それだけのことでしかない。
ゆえにクロノスは、おそらく学生としては失格も甚だしい青年だった。
用があったのは学院ではなく街自体で、その用事ですら命令されてのものなのだから。言ってみれば、ただお使いに来ただけのようなものでしかない。
いずれこの街で、コトが起きるとわかっていて。そのときのために、ただ控えていただけでしかない。
教団の中でも幹部と呼ばれる、七つの星の名を冠した魔術師たちは、それぞれが王たる《日輪》の意図に大筋では沿って動いていたものの、だからといって言われること全てに従っていたわけではない。むしろ自由に、勝手気ままに思惑を持って動いていた。
明確に忠誠を誓っていた者など、《土星》から見た限りでは《木星》と、せいぜいが《月輪》くらいのものか。それだって、別に確信があったわけではない。
自分のことさえわからないクロノスに、他者を判断できるはずもい。しようという気持ちさえ、そもそも持っていなかった。
救われた恩返しのために、その理想を叶える礎になると決意したアルベルも。
かつて、ただひとり救世を達成した魔法使いの理想に共感し、その道をともに歩むと決めたノートも。
破綻した未来からの来訪者でありながら、世界ではなく自己の救済を願ったクリィトも。
人間という存在に価値を認めず、完成された生命として魔物に焦がれた芸術家としてのレファクールも。
分裂する自己との摩擦を受け入れ、忠誠も共感も願望も美学も叛意も忘却も何もかもをないまぜに、あるがままにあったドラルウァも。
自己という個性を捨て、ただ振るわれるがままに振る舞ったクロノスよりは、個としてよほど上等だった。
少なくともクロノスはそう思っている。それは今も変わらない。
元より人でありながら、同時に何より鬼としての側面が強かったクロノスだから、摩耗して狂った精神でも、数百年を生き延びるくらいはわけなかったということだ。
ただ在るだけで、鬼は何者より強固だったのだから。
あるいは、いっそ不幸とさえ言っていいほどに――強すぎたのだから。
だから街にいた間も、クロノスは何をすることもなく、ただ生きていた。
学生会に入った理由も、単にミュリエルに勧誘されたから、という以上の何かはない。その場所にいることが命じられた彼の役割で、それ以外に何をしているかは自由だった。
かといって自由の使い道を忘れたクロノスには、何をすることもできなかった。自分で選ぶ方法を、彼はすでに捨て去っている。
あの日。かつて住んでいた山が燃え去り、住処を失ったのと同時に。
だから自分を新しく使いたい者がいるというのなら、それに従おうと思っただけだ。いや、思ってすらいないのだろう。最初の持ち主がしばらく保管しておいた箱から、その間だけ借り受けようという人間がクロノスを持ち出した――認識としてはその程度だ。
そうしてクロノス=テーロは、オーステリア学生会の庶務職となった。
※
魔人となったクロノスだが、もともと彼は狭義の魔術師とは少し異なっている。
魔術なんてさほど使えるわけではなかった。単に、在り方が世界のそれと同じだっただけ。鬼という、神秘の根源に近しい概念としてそもそも成立していただけのこと。
ゆえにクロノスは、魔人になったからといって劇的に戦力を向上させたわけではない。魔人化する前から、空間に融けた魔力を強制的に奪う異能を、機能を所持していたのだ。無尽蔵に等しい魔力なら初めから所有していた。
ただ、それでも星の全域を血管のように走っている地脈――魔力流に乗ることで移動ができるようになったのはありがたい。
でなければこの場に間に合わなかった。
学生会の四人を守って、戦うことさえ許されなかった。
敵は神獣。銀狼と呼ばれる、神域の魔獣だ。
その肉体は鬼に匹敵し、その魔術は不死鳥に比肩する怪物。肉体と精神の両面を、強固に誇る生命種の頂点――その一角。
対するはひとりの鬼。
鬼でありながら人であり、鬼とは違う、魔人としての進化を果たした比類なき怪物。
「…………」
乱入し、その上で名乗りを果たした鬼人は、相対する銀狼をまっすぐ見据えた。
銀狼ほどの魔獣ならば、クロノスの接近には気づいていたことだろう。ミュリエルたちが打倒されながら、それでも奇跡的に生き永らえたのは、その理由が裏にあったはずだ。
かの狼は初めから、クロノスひとりを敵として見据えていた。
こうして目が合ったからこそ、改めて視線を交わしたからこそそのことがわかる。おそらくまだ教団の面々ですら気づいていないクロノスの離反に、銀狼だけが気がついてくれていた。
ならば生涯最後の戦いとして、これ以上の相手はないだろう。
元より鬼種とは、戦いの中に生きて死ぬ概念。こうまで華々しい戦場ならば、命を散らすだけの価値がある。
そう、素直に認めることができていた。
だからこそ言葉はいらない。交わすのは殺意さえ不純な生粋の戦意のみ。
それが、意志を交換することに繋がるのだから。
ゆえに言葉通り、挨拶代わりにクロノスは異能を全開とした。空気に融けた魔力が荒れ、暴風となって辺りを揺らがす。
その勢いを推進力に変え、クロノスが動く。
一歩で近付き、二手目で力を溜め、瞬く間のうちに隠された三は破城槌の如き打撃となる。
顔面に鬼の一撃を受けた銀狼が、弾き飛ばされて宙に行く。錐揉みするように回転する銀狼の口の端から、呻くような吐息がひと塊、零れた。
そこからは原初の戦いだ。
お互いの了解から生じた決闘である。
弾き飛ばされた銀狼が、それでも宙で態勢を整え、何もない虚空を蹴り飛ばした。まるで目に見えない空気の壁でもあったかのように、飛ばされた銀狼が、今度はその軌道を逆向きに、けれど勢いを増して跳んでくる。
丸太の如き前脚、その先に鋭く生えた爪がクロノスの肩を切り裂いた。
クロノスは防御を考えない。交差するように後ろへ通過していった銀狼へと振り返り、着地の隙を狙って蹴りを放つ。その一撃が、地面から突如として突き出した氷の棘に止められた。
天へ牙を剥く氷柱を、クロノスの右足が破砕した。直後、撒き散らされた氷の破片それぞれが、意志を持つかのようにクロノスへと突き進む。体中を氷の破片に貫かれたクロノスは、さすがにその挙動をわずか鈍らせた。
――いや。その理由は何も傷や痛みだけではない。
突き刺さった氷が、そのまま肉体そのものを侵蝕し始めたのだ。肉体ではなく、その各部位を駆動させる概念としての《動き》が、氷によって《停止》させられていく。
神獣と呼ばれる存在は、土着のわずかな信仰を含めれば数に限りなどない。
だが実際問題、魔術において実在するとされる神獣は十体だ。言い換えればそれが、この世で最も畏れと信仰とを獲得している神獣だと言える。
陽の属性を象徴する不死鳥。
水を属性を象徴する大海蛇。
地の属性を象徴する純粋鬼。
そして銀狼は、氷の属性を象徴する。
元素魔術の概念に基づいて神獣種が成立したのか、あるいは神獣種が在ったからこそ魔術における八つと二つの元素概念が成立したのか。それは定かではない。
いずれにせよ銀狼を相手取るとき、何より厄介なのはその体躯に基づく身体能力もさることながら――氷を概念として用いる魔術現象である。
その意は停止。
その意は終焉。
始まりの神獣たる不死鳥と対の、終わりの神獣たる魔竜とはまた別の意味で、銀狼は終わりの概念を秘めている存在だった。
気づけば、周囲の世界が徐々に氷に覆われ始めている。
神獣とは在るだけで環境を変えるモノだ。建物が、道が、肉体が、徐々に霜に覆われていく――それは物質ではなく世界そのものを凍らせる概念の《凍結》である。徐々に、徐々に、エネルギーそのものを止めていく。
「う、――あ」
その権能が全開にされた今、周囲にいる者は堪えられない。
強大な暴風に守られたクロノスならばまだしも、寒気に無防備な全身を包まれるスクルは、意識を保っているからこそ体力を奪われ続けていく。
当然だ。銀狼は、世界の温度を奪っているのではない。
温度の奪われた世界を作っているのだ。それは気絶してしまった三人以上に、むしろ意識を保って世界の改変を目の当たりにしているスクルにこそ絶大な効果を発揮する。
あるいはクロノス以上に、その傍にいる少女のほうが限界に近い。
ゆえにクロノスには、最短での決着が求められた。
ただ自己のために戦う鬼ではなく、それを人としての意志で為す以上。
勝利に意味はなく、
敗北に価値はなく、
ただ、守れるかどうかで彩りを変える。
クロノスは、それが守るべき少女の時間をさらに縮めると理解した上でなお、その異能をさらに強めていった。
常に抑えていた、制御の効かない能力だ。魔力流はすでにクロノス自身の肉体すら傷つけている。それが銀狼の《停止》を破り、身体を動かす役に立つのなら構わなかった。
直後、距離を取ったはずの銀狼が再び前に跳ぶ。
その動きはめちゃくちゃだ。エネルギーを停止させる銀狼は、作用や反作用といった物理的な法則を完全に無視して縦横無尽に戦場を駆ける。世界そのものを支配下に置く神獣の権能。
太く鋭い牙がクロノスを狙う。
ゆえにこそクロノスは、その大あぎと目がけて腕を突き抜いた。
相性は最悪だ。
膨大なエネルギー量を武器とするクロノスに、エネルギーそのものを無に帰す銀狼では勝ち目が薄い。
そんなことは理解した上で、だが鬼はこの場に立っているのだから。
ゆえに、
左の二の腕に突き立った巨大な牙が、そのまま左腕の大半を食い千切って飲み込むことさえ彼の想定した通りだった。
腕を喰われる痛み。その一切を無視してクロノスは、腕を喰うという行為それ自体を相手の隙として認識した。その一瞬の間は、想定していたがゆえに行動の支障とならない。クロノスは、腕を喰い千切られながら、そのまま銀狼を蹴り飛ばした。
「――――!」
さすがの銀狼も、クロノスの持つ莫大なエネルギー全てを一瞬で無効化することなどできない。
腹部で爆発が炸裂したに等しいエネルギー量が、銀狼の腹部一点に集中する。それは獣に確実なダメージを与え、銀狼を傍らの建物へと叩きつけると――そのまま壁を砕いて中まで吹き飛ばした。
その瞬間にクロノスは反転し、スクルへと駆け寄っていく。
このわずかな交錯ですら、彼女の体力を大幅に奪っているのだから。もう耐えられないことは明白だ。
「クロ、ノス……く、ん……っ」
小さく、弱々しい声で、少女が鬼の名を呼んだ。
消え入りそうなその呼びかけを、鬼は確かに聞いて取った。
跪き、今にも倒れ込みそうな少女――その最後の力が抜けるかのように、前のめりに倒れ込んだスクルを、クロノスが抱き留める。
謝罪は、口にしないと決めている。
謝れるはずがない。それは許しを乞う行いだ。
クロノスは自分が許されないことを知っている。
許されるべきではないと理解している。
ゆえに、その場で口にすべきことはひとつだけだった。
たとえ謝れずとも、
受けたものに応えることは、きっと義務だと思ったから。
それをしたいと、クロノス自身が願ったから。
「――スクル。ありがとう」
「……、ぁ……」
「君のお陰で立っていられる。そのことに、お礼を。心からの感謝を」
「クロ、……ノス……く、」
「だから、しばらく休んでいて。君のことは僕が守るから」
残った右腕に抱き留められた少女は。
ただ、それを言うために。それだけのために銀狼へ背を向けた青年を見遣って。
その背に銀狼が迫っているのを目にしながら。
最後の力を振り絞って、鬼の残された手に、自らの掌を重ね合わせるまでで限界だった。
意識を途絶えさせたスクル。その身体をゆっくりと地面に横たえるクロノスの無防備さには理由があった。
その背後で、銀狼の動きが止まっている。どこか苦悶したように痙攣している様は、まるで毒にでも侵されているかのようだ。
クロノスがあえて喰わせた左腕。
そこに込められた膨大な魔力が、毒として銀狼を冒しているのだ。
その異能で、常に周囲から魔力を奪い続けてきたクロノスの片腕を喰ったのだから。そこに混ざり合った大量の魔力は、いかに悪食でもそう容易くは消化できない。
「……落とした腕を武器にするという発想は、今まで持っていなかったが……」
無論、ここまでやって数秒の時間が稼げるだけだ。左腕の対価にはいくぶん安い。
あるいはスクルの命を、それでも左腕で買ったとするのなら、妥当な取引なのだろうか。
銀狼は、クロノスに渡された膨大な魔力を飲み込み切ると、再びまっすぐクロノスを睨みつけた。殺意のない、いっそ理知すら伺わせるその視線は、おそらく冷徹な計算を働かせてのものだろう。
だが。そんなものはクロノスの望むところではない。
理性だの保身だの損得勘定だの、そんな余分をこの戦いに介在させられるなど侮辱だ。
だからこそ言葉ではなく。
鬼人は駆け出す。
駆け出そうとした。
残された腕があれば、銀狼を打擲するには充分だ。
ゆえに、その足が凍りついたように動かなかったことは、彼にとっても想定外だった。
「――……!」
理解は、驚愕に一瞬遅れてやってきた。
喰った腕自体を媒介に、銀狼は魔術でクロノスに干渉したのだ。
繋がりを――乗っ取られた。
クロノスの腕には、クロノスのものではない魔力が雑多かつ大量に含められている。その中から的確に本物を探り当て、その一本の線から逆流するようにクロノスへと繋げた。
鬼にはない、それが銀狼の魔術の技量。
人間の魔術師にたとえれば、間違いなく最高峰――魔導師級に匹敵しよう。
どんな攻撃も、当たらなければ意味はない。
ゆえに極まった魔術師たちの交錯は、いかに相手の回避と防御を超えて、敵に魔術を当てるか――言い換えるなら、どうやって敵へ道を繋げるかにかかっている。
たとえばユゲルとノート――ともに最上級の魔術師であるふたりの魔術戦が、儀式と対抗、解析と解体のやり取りとなるように。卓越した魔術師ほど、なんらかの経路から相手へ繋げることに長ける。
翻ってクロノスは、魔術師としては三流もいいところだ。
魔術師としての能力の容量を、鬼人種としての機能に喰われている、と言ってもいい。本来ならオーステリア学院になど、とてもではないが入学できないレベルでしかない。
ゆえに、外側からの攻撃には屈強なクロノスも。
ひとたび内側に回られてしまうと、酷く脆いのが実情だった。
――全身が、氷の概念に侵蝕されていく。
肉体が凍りつくなどという生易しい次元ではない。その停止は世界そのもの変質させる――クロノスは身体が凍っているのではない。
肉体そのものが、氷に変えられていると言ったほうが近かった。
末端、足先から氷へと変貌していくクロノス。
これが現実、これが限界だ。
いかな鬼種の先祖返りとはいえ、フェオを遥か上回る純粋鬼に近似するクロノスとはいえ。
それでも人間であることに変わりはない。
策もなく、戦術もなく、ただ対等の戦闘者として神獣に臨んだ、これがその結末だ。
――これでいい。
と、それでもクロノスは思っていた。
銀狼は気絶した四人をわざわざ殺そうとはするまい。ならば少なくとも、かつての仲間たちを生き永らえさせるという機能は完遂することができたのだ。それ以上に望むことなんてなかった。
あとならば、自分ではない誰かが継いでくれるだろう。
守るという約束は果たされたのだ。それだけで来た甲斐はあった。
元より《勝ちたい》などという欲求は希薄だ。
戦意はあっても、それは単に鬼種という単位を構成するだけの概念でしかない。戦闘への欲求と勝利への欲求は、必ずしも両立しないのだ。
意志を捨てた鬼だから。
やりたいことなんて持っていないから。
だから。
クロノス=テーロは、ここで終わろうとしていた。
自らの生まれてきた意味がわからずとも、せめて最後に、自分ではないものの価値を遺して逝けるのなら、それで満足だと考えていたから。
「――クロノス……くん……っ!」
背後から、そんな少女の声が届くまでは。
※
こんなものは痩せ我慢だ。
少女はそれを痛いほど理解していた。
自分がいたところで、役に立てることなんて何もない。どころか足を引っ張ってしまいかねない。そんなことは嫌というほどに理解している。
それでも、ただ甘やかな微睡みに包まれるよう意識を手放すなんてできない。
そんな無責任を、少女はもう自分に許せない。
だから、これは単に責任を果たそうというだけの話。
一度は自分で始めたことを、そのまま誰かに投げ渡すなんてダメだ。意味がなくても価値がなくても、立っていなければならないときは必ずある。
だって――立つと決めたのは自分なのだから。
スクル=アンデックスは、いつだって誰かに責任を投げてきた。
そういう風に、自分を捉えている。
彼女は自分が特別ではないことを知っている。けれどスクルにとって《特別ではない》ことは、むしろ救いだった。特別ではない自分だから、特別な誰かに責任を投げても許される。
自分より優秀な誰かに解決を任せられる。
自分より才能のある人間に解釈を背負わせられる。
自分より強い魔術師に、解法を委ねられる。
その、どれほど自由で楽なことか。天才の指揮下で動く秀才ほど気ままな立ち位置はない。
諦めていたわけじゃない。投げ出してしまったことなどない。
彼女は彼女にできる範囲のことを全力でやった。そのことにきっと嘘はないのだ。
だけど、それでは足りなかったのだ。
その無責任が、クロノスをひとりにさせてしまった。
彼が抱えているものに、気づいてあげることができなかった。
だって、クロノスはとても頼りになったから。
物静かで落ち着いていて、自分から口を開くことなんて滅多になかったけれど。それでも、任されたことは全力でこなすのが彼だった。誰より強い力を持ちながら、それを誇示することなどなく、いつだって穏やかにその場にいてくれた。
その在り方は、スクルと同じようでいて決定的に違う。
「――ねえ、クロノスくん?」
いつだったか、スクルはクロノスに訊ねてみたことがある。
なんの日だっただろうか。決して、何かのきっかけがあったわけではない。
それはきっと穏やかな日常の一幕だった。なんでもない一日の、取るに足らない、埋没してしまいかねないような一瞬だったと思う。
「クロノスくんは、どうして、そんなに強いのに優しいの?」
妙な質問をしてしまったものだと、言った瞬間に自分で思った。捉えようによっては失礼ですらあったかもしれない。
でも不思議だったのだ。
だって、強いということは強くなるだけの理由があって。言うなれば手段なのだ。街の学生たちは皆――いや、魔術師ならば誰だって、自己を鍛えるのには相応の理由が前提にある。
彼女の知る限り、クロノスだけなのだ。
強大な力を持ちながら穏やかで、目的というものを持っているように見えなかった人間は。
「――さあ。どうだろう」
クロノスは、彼女の問いにそう答えた。
彼らしからぬ答えだった。
訊き方が悪かったこともある。だがクロノスはいつだって好か悪か、是か非か、その立場を問われたならばはっきりと口にした。曖昧な返事を返すことなんて滅多になかった。
だからこそ、意外に思ったのを覚えている。
なんだかんだ言って、クロノスにも口にはしていない強い目的意識があるはずだと、そう信じていたからかもしれない。
「別に、強くなろうと思って強くなったわけじゃないんだ。鍛えてはいたけれど」
「……どういうこと? 才能があったから、ただなんとなくってこと?」
「そうじゃない」クロノスは静かに首を振った。「才能の有無なんて考えたことはないよ」
穏やかな昼下がりだった。
校庭の片隅の、一本の木の根元。クロノスはそこにいることが多かった。
こんな街だから当然、野生の生物はあまり寄ってこない。けれどクロノスの周りには、どうしてか野鳥が多く訪れたものだ。
揺るがぬその在り方を、まるで止まり木にでも見ているかのように。
「ただ、そうするべきだと思っただけなんだ」
「そうする……べき」
「最初は、ね。いつの間にか最初の目的なんて忘れちゃったけど――でも、そうだ。それが、ただ必要なことだと自分は信じたから」
「…………」
「ただ、それだけだったはずなんだ――」
クロノスの言葉の意味なんて、もちろんスクルには窺い知れない。
彼の過去に何があって、どんな生活を送ってきたのか。スクルはまるで知らないのだから。
けれどその返答は、今もスクルの胸の内に強く残っている。忘れたことなんてない。
だって、彼はあまりにも穏やかだったから。
スクルはクロノスが好きだった。それはきっと、ひとりの男として。
彼の傍にいると落ち着いた。騒ぐことは嫌いじゃないけれど、彼の隣で時間が止まったみたいな静けさを味わうことも嫌いじゃなかった。
その、大樹みたいな大らかさに――たぶん、憧れたのだと思う。
言葉少なで、自己主張なんてほとんどしないけれど、いつだってその場にいて、肝心な時ほど頼りになる青年だった。
特別な人間だったのだ。
スクルにとっても。
誰にとっても。
だからこそ、その恋には理由がない。だってスクルは特別に思えたから恋に落ちたのではなく、恋に落ちたからこそクロノスを特別に思ったのだ。
だから甘えてしまった。
止まり木のように思ってしまった。
いつだって隣で、優しく佇んでいてくれると信じ切ってしまった。
自分が支えてもらうばかりで、そんな彼に支えがあるかどうかなど考えもしなかった。
――それが、スクル=アンデックスの罪なのだ。
頼るばかりで頼られることから逃げていた。
特別に思うばかりで、特別になろうとすることから逃げていた。
そう。彼女はできることしかやってこなかった。
できないかもしれないことに、挑戦するなんて発想をまったく持っていなかった。
――だから、それは、もうやめにする。
ここに立った理由はそれだ。
勝てなくてもいい。
死んだって構わない。
許せないのは、責任を果たせないことだけだ。
責任を果たせず死ぬことだけだ。
彼を特別だと思った。
期待を寄せた。
願望を被せた。
そんな一方通行の在り方でなければ、あるいは違った道もあったかもしれない。
彼が抱えているものに、気づいてあげることができたかもしれない。
もっと話すべきだったのだ。もっと訊くべきだったのだ。
誰より強く、誰より優しい彼を、自分が支えてやらなければならなかった。
だから。もう手遅れなのかもしれないけれど。
だとしてもやることは変わらない。
遅かったからとか、意味がないかもしれないとか、そんな言葉は言い訳にできない。
伝えるべき言葉なら持っていたのだから。
それを伝えることを怠ったのだから。
今からでも、その責任をきちんと果たそう。
スクル=アンデックスは口にする。
「――ありがとう、クロノスくん」
感謝を。
これまでの全てに対する想いを。
自分の気持ちを伝えるためなどではなく。
ただ、彼がこれまで持てなかったものを渡してあげるためだけに。
「わたしは――みんなが、君のことが、大好きだよ」
だから、もうがんばらなくていい。
守ってもらう価値はない。
逃げたっていい。
逃げてほしい。
これからは自分のために生きてほしい。
だから。
君は。
今も仲間だと思ってくれるなら。
「――自分のために、がんばって……!」
※
その言葉は、きっと呪いだった。
酷く原始的な呪詛。ただ言葉だけで心を縛る。
魔力なんて必要じゃない。繋がりだけが在り方を定める。
――嗚呼。
と、クロノスは思った。理解させられた。
そんな単純なことさえわかっていなかった自分に苦笑してしまいそうだった。
贖罪とか。
責任とか謝意とか義務感とか。
そんなもののために、彼はこの場へ立つべきではなかったのだ。
――己の意志するところを為せ。
それが魔術の第一原則だ。クロノスはそれを思い出していた。
スクルたちのために立ったつもりが、むしろ思いがけない言葉を返してもらってしまっている。彼女にありもしない責任を思わせたのなら、それは紛れもなくクロノスの責任だ。
だってそうだろう。
ただ気がついていなかっただけなのだ。
スクルも、ほかの三人も、あるいはクロノス自身さえ。
彼の望みが、もうとっくに叶っていただなんて。
居場所なら――ちゃんと作り出してもらっていただなんて。
考えても見なかった。
気づいてさえいなかった。
けれど、もう忘れることはない。
「――ああ!」
クロノスは右腕の拳を強く握り締めた。
まだ動く。力は入る。四つ足の獣を殴るのに、これで足りないことがあろうか。
いや――違う。自分は獣に覚悟で負けていたのだろう。
鬼だって獣なのだから。その獣性を、ここで発揮せずしてどうする。
優しさじゃない。
強さでもない。
それは、ただの欲だ。目の前の魔性を上回りたいという、原始的で暴力的な欲求だ。
クロノスは爆ぜた。
吠えたのだ。
獣の遠吠えを思わせる絶叫。
その意志を、対する獣は完全に汲み取り――ゆえに駆けた。
ただ凍らせるだけではまったく足りない。獣の拳は必ず自らの肉に届く。銀狼の高い知性がそれを悟らせた。
ゆえにこそ、奪うべきは残る腕。
――交錯は一瞬だった。
何も、覚悟の在り方などでクロノスは劇的に強くなったりしない。
だから当然、その右腕は一瞬で食われた。
矢のように飛び込んできた銀狼。刹那の交錯が、クロノスの右腕を胴から切り離す。喰らうのではなく、ただ切断するためだけに突き立てられた牙がクロノスから武器を奪った。
血飛沫を撒きながら弾き飛ばされる右腕がその証明だ。
ついに鬼は両の腕を失った。
喰うのではなく、ただ殺すためだけに銀狼が向かったこと。それ自体が、きっと獣なりの、相対する獣への礼儀だったのだろう。
ならば、やはりクロノスの覚悟にも意味があった。
――その判断が、明暗を分けた。
すでにクロノスの全身は、完全に氷の彫像に変わっている。
例外は、切断された右腕だけ。
そこに――その腕に描かれた血文字は、さきほどクロノスが倒れ込むスクルを抱えたとき、彼女が刻んだ記述式。
いかな魔術か。きっと大した意味なんてない。
ただ、がんばれと。それは単純な応援でしかなかったのだろう。
――そう。たとえ魔術に効果はなくても。
込められた想いには力がある。
氷に変えられたクロノス。
真上に弾き飛ばされた右腕が、再び真下に落ちてくるのと同時。
世界が書き換えられた。
銀狼の身体が、まるでクロノスに引き寄せられるかのように目の前に移動したのだ。
銀狼はその知性でもって理解する。
それは――紛れもない純粋鬼のみが持つ権能。世界を歪め、殴りやすい位置に相手を引きずり込む鬼の力。
そして。
クロノス=テーロは。
切り飛ばされ、落ちてきた腕をそのまま用いることで。
凍りついた肉体を自ら破壊しながら。
最後の一撃を――凍った体と落ちた腕で完遂する。
鬼の殴打。あらゆる生命を一撃で止める、それは文字通りの一撃必殺。
獣として理性を捨て、ただ目の前の存在を殺すためだけに放たれた一撃が銀狼を真正面から捉えていた。
殴り飛ばされた銀狼は、言葉通りの意味で吹き飛んでいく。
遥か彼方へ。それは街全体を包む夜天結界を突き破り、どころか文字通り銀狼を異界にまで送り返す最高峰の一撃だ。
命さえ対価に放たれた最後の攻撃。
いかな神とはいえ、鬼の、武神にさえたとえられる同じ神の打撃を無防備に喰らっては、抵抗するすべなどありはしない。
銀狼は、完全に消滅した。
あとには何も残らない――それもまた言葉通りに。
氷の彫像となった腕のない鬼は、そのまま完全に自壊して砕け散る。
残されたのは、赤く塗れた右腕だけ。
目の前に落ちたそれを、スクルは涙をこらえて見つめていた。
そうだ。泣くわけにはいかない。
だって彼は、最後にほかの誰でもない、自らの望みを叶えて逝ったのだから。
それを押したスクルが、悲しむなんて許されない。
たとえ死地だとわかっていても。行ってほしくないと願っていても。
その戦いは、ただひとりの鬼が、その長き生涯の最後に見出した希望なのだから。
スクル=アンデックスはオーステリア学生会の書記職だ。
ならば、街を守って逝った仲間の活躍は、ほかの誰でもなく彼女が見届ける。
「――ありがとう、クロノスくん」
だから言った。彼は自分の願いを叶えただけで、礼を言うことではないのかもしれない。
だとしても、それくらいの言葉は手向けに刻まなければ。
だって、たとえ戦いそのものが鬼の本望でも、それに向かう動機を彼がひとつしか持っていなかったわけではない。
居場所をくれた仲間のために、戦いたいと思ったことは嘘じゃない。
それをスクルは知っている。
彼女だけは、最後にそれを見届けたのだ。
静かで、穏やかで、優しく平和を好むひとりの鬼が。
その生涯の最期に――かつて見たこともない笑みを浮かべていたことを。
彼女は確かに目にしていた。
それを、死ぬまで彼女は忘れない。
脳裏に刻みつけて離さない。
そのことだけが、きっと彼に手向けられる唯一のものだから。
――そう。彼の願いは最初から叶っていた。
彼は戦うものだ。だけど、決してひとりでいたかったわけではなかった。
使われるのでも使うのでもなく、ただ同等の存在として、誰かに隣にいてほしかった。
そこに在ることを認めてもらいたかった。
仲間といっしょに、戦いたかった。
その願いは叶っていた。それを知って最期の戦いの望めたのだ。
スクルは、その生涯を決して不幸だとは思わない。クロノス自身が満足していることを、その価値を、助けられた少女が否定してはならない。
道具として生き、
街を裏切り、
それでも男は最期に街を守って死んだ。
仲間を救って逝ったのだ。
オーステリア事変、対神獣第二戦。
vs銀狼。
勝者――オーステリア学生会庶務職、クロノス=テーロ。
↓全て台無しにするタイプのあとがき(たぶん読まないほうがいい)
ウェリウス「くっ! 彼のほうが僕より主人公力が高いかもしれない……!?」
アスタ「ねえ? ちょっと? お前そもそも主人公じゃないけど? ねえ!?」




