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セブンスターズの印刻使い  作者: 白河黒船/涼暮皐
第五章 学院都市陥落
239/308

5-42『たとえ許されぬ思いでも』

 伸ばされた腕を掻い潜る。

 それは硬質化した弾丸に似ていた。あるいは刀剣による突きか。

 金属質の輝きを放つ指先は、いかな魔術による作用か、肉を抉る刃物に変わっている。ただ当たれば心臓を貫き、命を止めるであろう魔手を、ピトスはほんのわずかな共同で躱した。

 元より動きは最小限でいい。

 魔術の謎を解いたとはいえ相手は水星。魔人ならざる魔人なのだから。

 常人の四十九倍の精神を、魔力を持つ怪人を相手にしては、むしろ動き回るほうが愚の骨頂だ。持久戦の先に勝利はなく、動作も魔力消費も最低限で済ませなければならない。


 だが、水星の挙動は脅威であっても技術に欠ける。

 人体の構造など完全に無視した動きでも、慣れてしまえば動くだけの的だ。修練を積み、研鑽を重ね、技術を磨いた武芸者を前には及ぶべくもない。

 人体を伸ばすことで攻撃範囲を増そうと、ひとたび懐に潜り込んでしまえば意味はない――どころか与しやすいと言えよう。

 足に力を込め、地面を蹴り抜く。

 前へ、という意志そのものを推進力に、ピトスはひと息で懐に潜り込んでいった。


「来るな来るな来るな来るな来る来る来る来る来るななななな……!」


 狂気に侵された水星人格のひとつ。その声は、けれど元は別の個だったものなのだろうか。

 その命を――肉体、精神、魂魄の三要素全てを余すところなく凌辱しきった怪人。犠牲者に憐憫はあれど、今この場でその足から力が抜けたりはしない。


「やかましいん――」

 水星の胸に、その心臓の上に、ピトスの掌がそっと触れた。

 びくん、と直後、水星の身体が跳ねる。強い電撃で心臓を打たれたかのように。

 事実、それは埋め込まれた《雷の種》による衝撃だ。ピトスが起動し、内側から肉体を焼き焦がす電撃に水星が苦悶に沈む。それは彼女の全身を血のように巡って焼きながら、けれど、終わりなく永劫に続いていく。

「――デス、よ」

 ピトスの掌から流し込まれる、治癒の魔力によるものだ。

 治癒魔術。本来、それは人間を傷つけない、無害なものでしかない。

 無害であるがゆえに無敵――抵抗レジストは著しく難しい。内側から破壊されるがごとに癒されていく肉体は、常に苦痛だけを与え続ける地獄の拷問だった。

 肉体を支配する精神は、その終わりのない苦痛に耐えられない。


 いや、耐えてはいるのだろう。水星の持つ驚異的なまでに強固な自我が、意識を手放すことすら許さない。

 当然だ。肉体を操るものが精神である以上、それを喪失しては水星は変身を維持できない。個という概念を群により塗って、なお自我を保つ怪物であるからこそ、水星は逆にその責め苦に耐えることができてしまう。――いつまで経っても終わらない、その痛みに。

 肉体の麻痺が行動を許さず、精神の苦痛が魔術を認めない。

 無力化した水星は、それと同じ精神が操っているのだろう幾体かの肉体とともに地面へくずおれた。ただ痙攣を繰り返すだけで、それ以上のことは何もできずに。


「……これで、ちょうど二十ですか」


 何体目かの精神を再起不能に陥れたところで、小さくピトスは呟いた。

 水星の群体に動きはない。もはや、詰みを目にしているからか。

 その傍らに寄り添うフェオが、だから小さく呟いた。隣のピトスを責めるように、


「……エグいなあ……」

「ちょっと? 共犯のクセに何を引いてるんですか」

「まあ、それはそうだけど」


 この作戦を提案したのはピトスだ。

 これまでの戦い、そしてもたらされた情報から見出した、たったひとつの勝利への道。全てこの状況に持ち込むために重ねてきた策である。

 そのように戦場を記述した。全てを読み、超えて、重ねるためだけに。

 ピトスひとりでは水星に勝てない。フェオだけでも同様だろう。

 それでも、ふたりで戦えば群体すいせいに勝てる。


 ――恋する乙女の力を、舐めてはならないということだ。


 実際、ここまでは上手く嵌まっている。

 ただピトスは、このままでは終わらないだろうとも考えていた。

 実のところ余力もそう残っているわけではない。そもそも治癒魔術は魔力消費の多い部類の魔術だ。はっきり言って、四十九の精神全てに終わらない治癒を施す魔力量はない。

 あくまでもフェオの――吸血種の魔力操作能力が前提となっての策なのだ。


「二十。これで、水星わたしが消えたわけですか――」


 小さく水星が呟いた。

 彼女にとって、余力を削られる(丶丶丶丶丶丶丶)という経験自体がいつ以来か。

 少なくともその変身/変心魔術を大成させてからはおそらく初めてだろう。

 確かに策は上手く嵌まっていた。詰みだ、と宣言したのは、もちろん挑発でもあったが確信でもある。この状況を、覆すだけの能力を水星は持っていない――はずだ。

 では。


 その確信があってなお、それでも勝利を確信できないのは、果たして臆病のせいなのか。


「……違う」

 と、少なくともピトスは考える。フェオも、それは同意見であった。

 魔術師ならば、切り札のひとつやふたつは秘めていて当たり前だ。切り札それ自体が普段の戦法であるような水星でも、奥の手を持っていないとは考えていない。


 ――ではなぜ(丶丶丶丶)それを切らないのか(丶丶丶丶丶丶丶丶丶)


 このままでは負けるとわかっているはずだ。

 ならば、そのために抗うことが水星には必要なはずだった。

 ただ同じ行動を繰り返し、負けるとわかっている戦いを続けるほど愚かなはずがない。


「……少なくとも、アスタくんならそう考えますよね? おかしい、って」

「まあ、……そうだろうね」

「え、なんですかそれ? 自分はアスタくんを理解してますアピールですか?」

「自分が先に名前出したくせに!?」

「だってわたしのはアピールですから。恋敵への牽制ですから」

「余裕かよ……」


 と、ツッコミを入れられる辺りフェオもピトスに相当慣れたらしい。

 奇しくもこのふたりは、同じ男に陥れられたことを理由に距離が近づいたようだった。


「うん、ああ……まあ、そうか。こんな風に受け入れちゃあ、逆に不自然に見えちゃうか」


 水星が妙な言葉を口走ったのは、ちょうどそんなときだった。

 その言葉にピトスは、フェオは前を見据える。油断も慢心もそこにはない。


「じゃあ、そうだね。奥の手を切ろうか」

「――ピトス」

「わかってます。ここからですよ」

 当たり前のように為された宣言。それが強がりや駆け引きの類いだとは捉えない。

 口にするからには当然、まだやれることが残っているのだ。

「いや」そんな思考を読み取ってか、水星は言う。「別に勝敗まで覆せるわけじゃない。確かにわたしは詰んでいる。この場に在る四十九の精神わたしは確かに、君たちを倒せないし逃げることもできない」


 だから戦場を学院にした、ということでもあった。

 ガードナー学院長の結界がある限り、水星はこの場に持ち込んだ精神を外へ避難させることができないのだ。少なくとも魔術を用いては。

 可能性があるとすれば、それは物理的な逃走だけである。肉体ごと、一体でも結界の外へ逃亡することができれば――ただそれだけで水星は死なない。ひとつでも精神が残れば、再び肉体を無制限に増やせるのだから。


 だが、それはできない。

 水星の能力で、ピトスとフェオから逃亡を果たすなど不可能だ。


「当然、君たちには疑念があるはずだけどね? 水星わたしは、本当にここにいる四十九わたしで全てなのか、という疑念が」


 さらに続けられた水星の言葉。それも事実ではあった。

 もし、たったひとつだけでも人格がほかの場所(丶丶丶丶丶)にあれば、たとえこの場にある四十九全てを潰したところで、水星は生き残る。

 五十人目の水星が、再び活動を開始するだけのことだった。


「ええ。実際、少なくともわたしなら、絶対にひとり分の人格は戦いの場に出さず、どこか安全な遠い場所にでも隠しておきますけれどね」

 ピトスは答えた。

 極端な話、どこかひと目につかない僻地の小屋にでも、水星の人格をひとつ隠しておけば、この怪人は戦いで全滅しない。その保険は、取っていて当たり前とも言えるだろう。その場所を突き止められ、直接襲われない限り、実質的に水星は不滅だ。


「ですが、それはない」

 それでもピトスは断言した。

「ふむ。どうしてでしょう? わたしの能力を考えれば当たり前の保険だと思うけれど」

「今、この場に水星は必ず来る。今はあなたが主人格ですが、魔競祭のときまでは違った――主人格をアスタくんに滅ぼされたから、あなたが取って代わっただけです」

「……つまり」

「ええ。あなたは人格同士の統制を取れない。何かは知りませんが、何かの目的があって教団に協力している以上、全ての人格がこの場に居合わせようとする――はずです」

 その言葉に続けてフェオも言う。

「それに、別にほかにいたっていいんだよ」

「……ほう?」

「だって、あなたではもうわたしたちには絶対に勝てない。タネの割れた手品は、手品じゃないんだ。余力の削がれたあなたなんて、ひとつふたつ残っても敵じゃない――もう、何もできない」

「ま、そういうことです。実は全部で百あった、とかなら話は変わるかもしれませんが――四十九なんて意味深な数字には意味がある。それで全てでしょう?」


 なにせ七の七倍だ。その数にはきっと意味がある。

 水星に、これ以上はない。それが、ピトスとフェオの判断だ。


「――ふむ。説得は不可能ということですね」

 それを、水星はことのほかあっさりと受け入れた。

 受け入れた上で、こう言った。

「では最終手段です。あなたたちの策がなる理由はひとつ――身体的に、わたしに勝っているから。なら、その根幹を崩せば話は変わる」

「……、……」

「――わたしたちは、そういう結論で合意しました」


 その言葉が響くと同時、水星の分体が話していた一体を残して、溶けていった。

 魔力に戻ったのだ。肉体が跡形もなく消滅した。ピトスたちが潰したものまで含めてだ。


「《残る二十九を統合します》」


 その言葉は、まるで複数の同じ声が重なって告げられたように響いた。

 水星は、ピトスとフェオに潰された二十の精神を破棄したのだ。

 そして残る人格を――たったひとつの肉体に統合していく。いわば合体のように。


「《――さて。これで最後の戦いといきましょう》」


 そうして。現れたのは、一体の怪物だった。

 比喩ではない。それは文字通り、人間の形をしていない。


「あー……予想外では?」

 ピトスが小さく呟いて、

「まあ、だね。この期に及んで意思を統一するとは思わなかった」

 フェオも答える。

 現れた、巨大なヒトガタを目にしながら。


 ――それは全身を巨大な金属で構成されたヒトガタだ。


 鉄人形。ゴーレム。

 体躯にして、全長十五メートルは下るまい。

 かつてタラス迷宮でふたりが見たそれを、種として上回る合成人形の粋。

 ひとつの精神で複数の肉体を動かしていた水星が、複数の精神でひとつの肉体を操作するという逆転の一手。

 それは下策だ。本来なら採るべきではない手法だと言える。

 なぜなら、全ての魔力を一ヶ所に集めては後がない。それを撃破された時点で、完全な敗北が確定するということなのだから。


「が、合体しやがった……!?」

 目を剥くピトスだった。

 アスタが見れば、古来より怪人は追い詰められたら巨大化と相場が決まってる、くらいの妄言は吐いただろうか。

 それにしても限度はある、とピトスは叫んだ。

「いや、これのどこが変身で、どこが人間ですか」

「まあ変身はしてるよ。ある意味、さっきまでより言葉通り」

「バケモノだとは思ってましたが……いや、ここまで人間やめますかね?」

「ピトスも充分バケモノだよ」

「はははブッ飛ばしますよフェオさん?」


 その威容を前にしてなお、ふたりは余裕を崩さない。

 当然だ。これが奥の手だというのなら、それを切らせたというのなら――追い詰めているのはこちら側なのだから。

 これが文字通りの、水星との最後の戦いになる。


「いや、まあ――わかりやすくていいかもしれませんね。殴って、倒して、ブッ飛ばして泣かせてしまえばお終いってことでしょう?」

「後半はいらなかったと思うけど……まあ同感。このほうが、むしろよっぽどやりやすい」

「さて……愛の力で勝利、とはいきそうにない状況なのが厄介なところですが」

「何。わたしが隣じゃ不満ってワケ?」

「いえいえ。――友情パワーでも盛り上がりには充分でしょう?」


 互いに、半身に、背中合わせに。

 構えた拳と剣とが、目前に怪物に突きつけられる。


戦闘バトルパートもいい加減に飽きました。そろそろ横槍は振り払って、恋愛日常ラブコメパートに話を持って行こうじゃありませんか」

「いいの? そうなったら敵同士になるわけだけど、わたしたち」

「え? もしかして、敵のつもりでいたんですか……? ごめんなさい眼中に……」

「よーし、こいつ終わったら次はお前だあ!!」

「――その意気です」


 水星vsピトス・フェオ。

 その最終幕の火蓋が切って落とされる――。



     ※



 戦いとは、勝てないのならばやってはならないものだ。

 そんなことは魔術師でなくとも当然の前提である。初めから負けるつもりで戦うものなどそうはいないだろうが、理想を言うなら始める前に勝っている必要があった。

 その意味で言うのなら、この戦いに意味はないのだろう。

 選んだ時点で、戦いを決めた時点で詰みだ。そんな選択を、突きつけられないように生きることを戦うと、勝つと言う。


 ピトスやフェオ、ウェリウスやメロは、勝てる状況をきちんと作った。

 策を練り、少なくともその可能性をきちんと考慮している。それを実際に為せるかどうかはやってみるまでわからないが、やる前から絶対に負けるのなら戦い出さえない。

 その意味で、そちらの四人はきちんと《戦い》を成立させていた。


 では、翻って学生会の四人はどうか。

 彼らは強い。四人全員が天才と呼ばれた魔術師だ。オーステリアという、神童だけに許された魔術学院に入学し、その中でさえトップクラスの成績を誇っている。

 将来的には全員が、王国の中枢を担う魔術師に成長しただろう。


 ――だが。現実は非常だ。

 その程度では神獣に及ぶはずがない。

 二束三文の才能など、街に賭けた想いなど、費やしてきた努力など――全てを踏み躙る力の前には、ゴミも同然の価値しかない。


 誇っていい、称賛されてしかるべき決意と戦果だった。

 たとえ成果に結びつかずとも、その点だけは否定されない。

 いや、成果ならあった。神獣――銀狼を前に五分、時間を稼いだのは紛れもない戦果だ。

 たとえ銀狼が四人を障害とさえ思っていなかったのだとしても。オーステリア学院学生会としての前例が、稚気にも等しい銀狼の癇癪の前には塵ほどの重さすらなかったとしても。

 五分。

 こうして、誰ひとり欠けることなく生きていることが成果であり、奇跡だ。


 それで当然なのだ。神獣を相手に戦いを成立させる、ウェリウスとメロが異常なだけで、今こうして四人が生きている――それさえできないほうが普通なのだ。

 四人は揃えば強い。チーム、という枠組みで見ればオーステリアでは随一だろう。

 戦いにおいて役割分担は重要だ。

 急造のチームでは足元にも及ばないコンビネーションを、四人は確立している。四対一で、ルールのある戦いならば、あるいはウェリウスやメロにも善戦してみせる実力はあった。


 ならば当然、その力はひとりが欠けた時点で成立しなくなる。


 まず最初にミルが脱落した。

 現状の学生会では唯一の男子生徒だったこともあってか、真っ先に盾となって意識を手放したのだ。庇われたのは、スクルだった。


 ――ああ、


 スクルは悲嘆に表情を歪めた。

 最も攻撃能力の高いミルを使い潰した時点で、敗北は決定したと言っていい。いや、決定していた敗北が、さらに先送りされたと言うべきだろうか。


 ――ダメだ、


 次にシュエットが落ちた。

 動揺したのだろう。どこかで勝てないことを計算していた、臆病なスクルとは違って。その普段の振る舞いからは想像もできないほど優しい少女が、おそらく最もミルの脱落に心を揺さぶられていた。

 ふたりとも、魔力を銀狼に喰われた(丶丶丶丶)のだ。

 それは銀狼からすれば、欠伸をしただけのようなことでしかない。寝返りを打っただけ、と表現してもいい。その程度の行動ですら、人間にとってはあまりに致命的すぎる。


 ――ダメだったんだ、


 初めから。

 欠けているというのなら、学生会はそもそも万全じゃなかった。

 五人の仲間がいたはずなのだから。

 その時点で、もう前提は崩れ去っていた。


 ――わたしたちは、


 そして、ミュリエルが落ちた。

 魔術の直撃を受けたのだ。なんとかスクルが防御したものの、そんなものは紙ほどの防御力もなかっただろう。即死は免れただけで、ミュリエルの傷がいちばんに深い。

 ただひとり、スクルだけが残されてしまった。


 ――何もできなくて、


 彼女たちが出会ったのは学院に入学してからのことだ。

 ミュリエルは目立つ生徒だった。ミルを、シュエットを、スクルを、瞬く間に仲間にして、これまでの学生会でも最も優秀だと持て囃されていた。

 ひとつ下の代に、四人ほどバケモノみたいな才能を持つ魔術師がいたことを覚えている。

 それに、対抗意識がなかったとは言わない。だが才能で競っても勝てないことは誰もが初めから理解していた。スクルに至っては、おそらく誰かに勝ちたいとも考えていなかった。


 ただ、楽しかったのだ。


 下の代の圧倒的な才能がありながら、それでも当代のオーステリア学生会は街の、学院の歴史に名を刻んでいる。

 もうひとり、あるいは彼らに匹敵するだろう才能の持ち主もいた。

 五人での学校生活が、どれほど充実していたことか。

 別に、魔術史に名を残したいとか、伝説と呼ばれるほど大きなことを成し遂げたいとか、そんなことをスクルは一度だって望んじゃいない。

 ただその出会いを、尊いと笑っていたかっただけ。

 ミュリエルが発案して、シュエットが広げて、やれやれと首を振るミルをスクルが補佐する――。


 ――そこに、もうひとり、


 クロノスがいた。これまでは、いてくれた。

 黙々と、ただ寡黙に、けれど為すべきことを為す物静かな青年が、スクルは好きだった。

 五人の中でいちばん強いのに、いちばん大人しくて。動物に好かれる優しい人。

 そう思っていた。

 スクルは何も街のためとか、プライドとか、あるいは世界とか、そんなもののために戦っているわけじゃない。この街の多くの人間がそうであるように、ただ自分の大切な場所を守りたいと――いや、守れるのだと証明したかっただけ。


 だって、スクルは普通の少女だ。

 どこにでもいる、ただちょっと才能のある魔術師だというだけの女の子なのだから。


 学生時代を楽しく盛り上げようというミュリエルに賛同した。縁の下の力持ちとして働いていたミルも、拡声器のようにいつも楽しく場を盛り上げてくれたシュエットも、大事な大事な友達なのだ。

 そんなみんなで企画する《楽しさ》を、静かに陰から支えてくれたクロノスも含めて。

 だから当然、盛り上げるためにがんばった魔競祭を、陰から貶めようとする魔術師がいると聞いて奮起した。事態の真ん中にはいなかったけれど、できることをがんばって、魔競祭を、悲しい思い出では終わらせないように駆け回った。


 考えてなどいなかったのだ。

 いつものように、振り返ってみれば大変だったけど楽しかったよね、と。そんな風に笑えると、スクルはどこまでも信じ切っていた。

 大切な、大好きな仲間が、友達が――いなくなるなんてことは思っていなかった。

 まして彼が、初めから悪を為す集団の一員だったなんて――。


 だからもう、スクルには何もわからなくなってしまったのだ。

 何が悪かったというのだろう。どこに努力が足りていなかったんだろう。

 わかるなら教えてほしい。

 だけど答えはなく、いつの間にか街はその集団によって占拠されてしまっている。話は知らないところでどんどんと大きくなって、多くの人間の命が危機に晒されてしまっている。

 スクルには、それがまるで自分の責任のように感じられてしまったのだ。


 ――何が、悪かったんだろう、


 自分のがんばりが足りなかったから。どこかで辻褄が合わなくなって、会うはずの歯車がずれてしまって、そのせいでこんな事態になってしまった。

 今、こうして、明確な死を目の前にしてしまっている。

 動機が悪かったのだろうか。

 大それた信念や、強固な目的意識もなく、自分だけが流されてこの場所に立ってしまっているかのような。

 だけど、それはもうどうしようもないことなのだった。

 手遅れというのなら、スクルにとってはとっくに終わっている。

 仲間のひとりを失ってしまった時点で。


 ――どうすればよかったんだろう、


 誰かに教えてほしい。スクルはそう願った。

 目前の脅威さえ、もはや視界には捉えることさえなく。それを教えてくれるはずの仲間が、もう全て失われてしまっていながら。

 今、スクルが思うのはひとつだけ。

 きっとこの事態の始まりの。いなくなってしまった、大好きだった青年のこと。


 ――クロノスくん。


 その願いを、聞き届ける者などいない。

 いるとすればそれは神だけで、そいつは今、敵に回っている。


 だから。

 その奇跡は、何も彼女の願いが届けたものではない。


「――え……?」


 その瞬間、目に見えたものを理解できない。

 視界を塞がれたのだ。大きな、鍛え上げられた、見慣れた背中に。

 いつも自分を守ってくれていたものに。 


 そう。これは、ただ積み重ねがもたらしただけのもの。

 安易な願いを神は聞かない。だからご都合主義は起こらない。

 彼がその場所に立った理由は、初めからスクルが作り上げてきたもののためなのだから。

 その場所を大事に思って、だらか守ろうとした足掻きにはちゃんと意味があった。

 彼女は何もしてこなかったわけじゃない。いつもみんなを見守って、温かな笑みで声をかけて、ちゃんとそこに立っていた。傍に立つという役目を果たした。

 それを嬉しく思った者が確かにいたのだ。

 好ましく、温かく、受けた恩を返すために立つ者が。


 ひとりの鬼が。


 疎まれ、恐れられ、たったひとり大事な者すら守れなかった敗残者が。

 生きる目的さえ失い、長い年月を無為に過ごし、ただ拾われたというだけで意思なく意志に加担したことを恥じ、その責任を果たすために再び立ち上がった。

 その理由のひとつは――確かにスクルなのだから。


「……どう、して……」


 少女の呟きに鬼は答えない。その権利を、自分が持っているとは思わない。

 空虚なはずだった。

 何もかもを失ったのだと思っていた。

 だから自分は、使われるだけの道具でいい。

 ――その考えの間違いを、小さなあねに突きつけられた。

 そうして探してみれば、答えはちゃんと、そこにあったのだ。

 胸の中に確かに秘めていたものが。

 鬼である青年を受け入れて、笑いかけてくれた仲間たちがいたことを。

 その思い出が、空虚だった心を埋めたのだということを。


 思い出したからここにいる。

 覚えているからここに立つ。

 もう二度と忘れて、間違えたりしないように。

 今度こそ、貰ったものを返すために。


「…………」


 人を辞め、魔人に堕し、鬼にも人にも染まれなかった中途半端な男だ。

 謝罪などできない。どの口で言えたものか。ただ、果たすべきことを果たすだけ。

 かつて学生会で求められた役割が、そもそもそのようなものだったのだから。

 ならば変わらない。やることならば変わっていない。

 自分を見出してくれた人がいた。

 鬼である自分を、友と呼んでくれた男がいた。

 いい奴なんだと叫んでくれた人がいた。

 そんな彼を――いつも優しく見守ってくれていた少女がいた。

 それが今、彼がただひとつ持つものだから。

 貰ったものを、ほんの少し返すためだけにここにいる。


 だから。

 そんなことを言ってはならないと知っていて。

 許しは乞えないとわかっていて。


 それでも、ただひととき、今、この場所だけでは許してほしいと。


 彼は。

 何者でもなくなった、たったひとりの鬼は。


 その肩書きを、口にする。


「オーステリア学院、学生会。庶務職――」


 なぜなれば今、彼がここに立つ理由がそれだから。

 大切なものをくれた友人たちを守るため。

 負けるとわかった戦いに、それでも命を投げ出した仲間に意味をもたらすため。




「――クロノス=テーロ」




 裏切りの男が。《土星》の名を捨てた鬼が。

 たとえ許されぬ思いでも。

 それでも譲れないものを守るために。





 生涯最後の戦いに、自らの全てを費やすと決意した。

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