5-40『神殺し(偽)』
実力差があるからこそ、格下は刹那に勝機を見出すべきだ。
鬼神。そんな概念を強制送還しようというのだから、ちまちま戦っていてはじきに押し切られてしまうだろう。もしも長期戦になってしまえば、負けるのはメロとウェリウスの側だ。
だからこそ初手から乾坤一擲。
切れる切り札は、切れるうちに全て切ってしまうべきであり――。
「《全天二十一式》――」
メロの言葉が、空に響いた。
直後。沸き起こる魔力に反応したのだろう、鬼が動く。
落下ではない。
そんな概念はとうに超越して。
踏み締めていた虚空を蹴って、鬼は空中から斜め下へと跳躍する。まるで雷のようにまっすぐ、メロという避雷針を目がけ。
メロの魔術起動より、鬼の行動は遥かに速い。周囲の空間そのものを捻じ曲げているせいだろう、鬼の移動は、ほとんど瞬間転移のような領域だった。ただ動いているだけでも。
だからその隙はウェリウスが埋める。
「――――」
言葉を発さず。その身の周りを妖精の如く舞う八色の輝きに指示を下す。
それらは中空で溶けるように混じり合い、まるで虹を思わせる新たな色に変化した。
赤が青を飲み込み、そこに混じった緑を黄が彩る。その込められた《質》の重さを知る者はない。たったひとりの天才を除いて。
いかな概念の発露だろうか。その一撃は、ほんのわずかな間、だが確かに鬼を止めた。いっそ無駄と言えるほどに込められた魔力は、鬼神が肉体に持っていた抵抗力を上回る。
その一瞬で、メロには充分だった。
「――《橙の魔術》」
メロは思考する天災だ。
考えて、考えた上で常人の考えなど踏み躙らなければ天災である意味がない。
かつてそう指摘したのは魔法使いだったか。
無茶苦茶を言う、とメロは思った。
言うは易しとはこのことだ。それができれば、確かに魔術師としては文句ない。
だが実際問題、そうそう相手の意表ばっかり突いてはいられない。というかメロは、そもそもその手の行いが苦手だった。
だって、考えなくても勝てたのだから。
確かにメロは、魔術師としてはおよそ異常種だ。
だが、それは七星旅団のほかの六人もあまり変わりない。異常でなければ、そもそも伝説などと呼ばれることがなかっただろう。ほかとは違うから名を残すのだ。
ゆえに少女にとって、他者の思惑を上回るなど容易いことだった。
そもそも生きている常識が、その次元が違うのだから。メロにとっての普通が、ただほかの魔術師にとっての異常だったというだけの話でしかない。むしろ相手の常識の枠内に収まることのほうが、メロにとっては難易度が高いだろう。
それが――ほかの魔術師との違いだったのだろう。
彼女は相手の考えを読み、思考することで思惑を外していたわけではない。
彼女にとっての当たり前が、ただそのままでほかの魔術師の常識を逸脱していただけだ。
それで、勝てていたうちはよかっただろう。
だが現実、今、目の前にある存在はメロを上回る強さを持っている。
なにせ神に比喩されるのだから。いくら強かろうと、異常であろうと、人間であるメロでは勝てる理屈がない。でなければ《神》などとは呼ばれていない。
しかし考えてみれば、そもそも人間にすらメロが敵わない相手はいるのだから。
それと、どれほど戦ってきたのかという話である。
「――《堕落姫》――」
メロの詠唱が終わると同時。
あるいはその寸前。
鬼神の動きが復活した。
その強さの大半を支える肉体の性能。ただ在るだけで周囲の空間を捻じ曲げ、生半な魔術では通用しないその強度。いくらウェリウスでも、一瞬止めるのが限界だ。
直後、歪んだ空間を鬼神が泳いだ。
肉体の性能だけではない。距離という概念そのものを鬼は崩している。
そう。鬼の戦法など決まっていた。
近づいて、殴る。
それだけだ。それさえできれば何物をも砕く。
魔術など使わない――いや、おそらくは使えないのだろう。使う必要がないし、ただその拳を当てさえすれば、壊せぬものなどないのだから。火力としての魔術を必要としていない。
ならば、残る必要な性能は殴るためのものではない。
近づくためのものだ。
ゆえに鬼は空間を歪めている。無論、そのために歪めているかどうかは定かではないが、結果としてそれが《近づくこと》に役立っている時点で同じことだ。
鬼神は、ほぼ転移に近しい動きでメロの正面に現れた。
人間の魔術師ならば二番目以外には再現できないそれですら、神獣ならば在るだけで発生させ得る埒外である。
常識という枠を存在するだけで改竄する。
常識を読み取り、それによって改変を行う魔術師では敵わないのも無理はない。
――だから。
その結果は必然だ。
メロは、抗う隙すらなく、その拳を真正面から受けた。
いや――受けて立ったのだ。
※
鬼種の顕現から、最前線の魔術師たちはミュリエル指揮の下すでに撤退している。
全員が例外なく理解しているからだ。あの怪物を――鬼神を相手に生存できるような実力が自分たちにないということを。
目にして今なお生きていることがそもそも奇跡。
無様だろうとなんだろうと、この戦いはあのふたりに委ねるほかない。手伝うどころか、逃げないことで足手纏いになることしかできない以上。
悔しさはある。この街の命運をメロとウェリウスに委ねなければならないことが、あるいはその場で戦う権利すら獲得できないことが、悔しくない魔術師はいないだろう。
だが、その慙愧に身を委ねるほど愚かな人間もまたいなかった。
「各自、予定された方面に向かってくれ! まだ街中は魔物だらけだ!!」
指揮を執るミュリエルも、そのうちのひとりではある。
彼女だって本当なら街を守るために鬼神に立ち向かいたかった。死線から下がることができたと安堵できるような性格ではない。自分より年下のふたりに、重荷を背負わせたことも、それを肩代わりできないことも、呑み込んで歩くべきものだ。
悔しさなどおくびにも出せない。集団の先頭に立っている以上、そんな考えは気取らせることすらしてはならない。
「街の四分の一は鬼神と、あのふたりの戦場になるだろう! 急いで、次に受け持つ地区へ向かってくれ!! 怪物大戦争に巻き込まれたくなければだ!」
あのふたりは鬼神を抑えるだけで精いっぱいだろう。
ウェリウスとメロだけでは街を救えない。名もなき魔術師たちは今もなお戦場の主役だ。
街全体が危険域である以上、どこにいようと戦いは起こる。
だからこその主役だ。
とにかく殺せるだけ魔物を殺すことが、今この場で必要とされる戦略なのである。
だからその意味で言うならば、あれほどの神獣が発生したということは、ひとつの勝機であるのも事実。
なにせ顕現するだけで、莫大な量の魔力を消費するのだから。あるだけで周りの魔物を喰らう神獣――つまり、街の瘴気がひとところに集まっているということでもある。
それを神獣ごと纏めて異界に送り返せるのであれば、魔物を一体一体倒するより遥かに効率はいい。もっとも、必ずそれができるという確証あっての話だったが。
ミュリエルは――いや、この街の魔術師たちはそれに賭けた。
学生会役員も、ほかの学生たちも、あるいは冒険者まで全員が揃って、メロとウェリウスの勝利に自分の命をベットしたということである。
この街に設置された《創獣魔術陣》――その維持だけで街の魔力の大半を使っている。要するに、長くは持たないということだ。
魔物それ自体と、街に設置された魔術陣。そのふたつに魔力が消費されている以上、たとえそれを呼び水に異界から神獣を呼び寄せたとて長くは続かない。ましてその魔力を呼び寄せた神獣自身が吸い上げていく以上、限界は必ず訪れる。あとはそれを、メロとウェリウスが纏めて送り返すことに成功すればそれで終わりだ。教団の思惑は――それがなんであるにせよ――必ず破綻させられる。
制御を考えるのであれば、呼べる神獣など一体で限度だろう。オーステリア迷宮を構築する全ての魔力を費やしたとしても、だ。
そのはずだった。
だから。
だとしても。
「――――…………ッ!!」
その瞬間に感じ取った強大な怖気。
ミュリエルにはその意味が理解できた。想定を外されたということが、だ。
それはそのまま、賭けの敗北を意味している。
彼女が瞬間に行動できなかったのは、けれどそれが理由ではない。たとえ思惑を外されたとしても、その程度で次の行動を反射的に誤るほど、ミュリエルは未完成な魔術師ではない。
動けなかったのは、だから、単に力が足りていなかったせいだ。
あるいは――準備が。
「――引き退れ……ッ!!」
その叫び声を、果たして彼女はどこまで聞き取れていたものか。
怖気が――圧倒的な恐怖感が、存在感が、ミュリエルの行動を縫い止めた。
その場で呼吸をすることすら許さないほどの、それは魔力の気配だ。魔術師である以上、いや、たとえ魔術師でなかろうと、この夥しいまでの圧に気づかないはずがない。
それはミュリエルだけではない。おそらく、街で戦っていた魔術師の大半が、瞬時に行動を止められたことだろう。気の弱いものであれば、意識まで奪われかねなかった。
動けたのはただひとり。叫びをあげた男――レフィス=マムルだけだ。
それは能力の高低ではない。単に役割と気質の問題だった。
「レフィ……ッ!?」
直後、再起動を果たしたミュリエルが叫ぶ。
彼女は自分が、ほんの一歩、わずかだけ位置を移動したことに気がつている。
レフィスの数秘魔術によるものだった。
あの一瞬、彼だけがその存在の発生に備えて、咄嗟に全員を移動させた――その三次元的な数字を動かしたということだ。
「……間に、あったみたいだね――へへ」
力なく笑うレフィス。すぐ傍にいたミュリエルは、その結果を目にした。
レフィスの足元とが凍りついている。
それは次第に、彼の全身を埋めるように上へと昇っていく。なんらかの魔術攻撃を受けたことは明白だった。
「……お前が躱さなくてどうする……っ!」
ミュリエルは歯噛みした。詮のない発言だが零さずにはいられなかった。
わかっている。今の一瞬で、レフィスは自分を犠牲に、街の魔術師全員を守ったのだ。
どんな魔術であれ当たらなければ意味はない。ゆえに数秘魔術師レフィスの秘術は、攻撃よりむしろ防御に向く。学院長が張った結界の外側、攻撃範囲にいた味方全員の立っている位置をほんのわずか動かすことで、レフィスはその不意討ちから街を救ったのだ。
だがそれは、自分まで移動させられるほどの魔術ではなかったのか。
違う。そうではない。三桁に上る人間を動かせるレフィスが、そこに自分を含められなかったわけがない。
ならば単純に、レフィスは加えて別の攻撃を受けたということだった。
「待ってろ! すぐに魔術を解いて――」
ミュリエルは言った。庇われたことの不甲斐なさから、歯噛みするかのように。
だが、その言葉にレフィスは首を振る。その無意味さを、あるいは傍で見ているミュリエル以上に悟っていたからだろう。
「神獣の攻撃ですよ? 話に聞く第三王女の魔眼でもない限り、破戒なんか無理だって」
「だが、このままではお前が――」
「なーに。死ぬこたありませんって! ちゃんと想定通りですよ」レフィスは笑みだった。「神話に謳われる怪物――まして神獣の域になるモノとなれば数は決まってる」
「……お前」
「新しく現れた二体目の神獣、その正体はこの氷を見れば一目瞭然ってもんでしょう? なら会長さん、アンタの仕事はその対処さ。俺は役目を果たしたんで、早めの脱落くらい許してくださいよ」
そう。これは役割の問題でしかない。
ミュリエルが全体の指揮を一手に担う以上、思考はそれに全て割いてもらわなければ困る。余計なことを考える余裕など、そんなものを持っていてはならないのだ。
だから、それをレフィスが請け負ったというだけの話。当たり前の、これは役割分担だ。
「……想定していたのか」
「魔競祭じゃ、情けないとこ見せましたからね。あれ以来、常に最悪を想定して、備えをしておくことにしてるんですよ」
「……、よくやった」
そう告げることが、この場でミュリエルにできる全てだった。
だから、その意を汲み取ってレフィスは笑うのだ。
「はっは! なに、数秘魔術師ですからね、これでも。――計算は得意なんですよ。なあに、倒す部分は任せるんだ――こっちのほうが楽ってとこまで計算なんでね?」
その身をもって街を、抗う人々を守った男が。
倒せと。絶望に折れず戦いを続けろと、口にしている。
ならばミュリエルがやることなど決まっていた。
「――任せろ。この街は、残った人間で必ず守る」
「ええ。そんじゃ――お休みってことで」
その言葉を最後に、レフィスの全身が完全に氷結し尽くした。
どう考えても死んでいる。だが、レフィスならばきっと手は打っているだろう、と根拠のない信頼をミュリエルは手向ける。それだけが、彼女のするべきことだから。
無論、このやり取りに意味などない。
感動的であるはずもない。茶番にすら等しい一幕だ。
だって、いくら約束したところで――レフィスがその身を犠牲に街を守ったところで、現実問題、二体目の神獣と戦える戦力がオーステリアには存在していない。
「……スクル! シュエット! ――ミルッ!!」
それでもミュリエルは叫んだ。
魔力による通信。信頼すべき学生会の仲間が、その意を受け取って応えた。
『――地点Bに神獣発生! 全員、避難してッ!! 巻き込まれたら死ぬのわかってるね!!』
『会長、地点B結界封鎖完了です! 二度目の遠隔攻撃はありません!!』
シュエットの拡声魔術が、オーステリアの魔術師たちに避難を通達する。
無論、さきほどの攻撃範囲を思えば、逃げ場などあろうはずがない。だからスクルが結界を張り、神獣が現れた場所そのものを封鎖した。
その結界は、もちろん神獣がその気になれば容易く破壊されることだろう。だがあの凍結はそもそも、攻撃ではなかったということがミュリエルたちにはわかっていた。
あれはただの癇癪だ。
いきなり呼び出されたことに、稚気にも等しい苛立ちが魔術となっただけ。
神獣には――攻撃しようという意思自体がそもそもなかったのだ。
「レフィスは……魔術そのものを逆探知されたな。流れ込んだ力に耐えられなかったか」
『会長。――どうしますか?』
最も信頼する男の声が脳裏を響かせる。
副会長、ミルの言葉に、ミュリエルは答えた。
「――この街の迷宮全てをエネルギーとして使っても、神獣二体の制御は不可能だ」
『でも現実、二体目は現れている』
「なら単純な話。制御してないってことだろう、連中」
『……狂ってる……』
この街の人間を殺し尽くさせるために、神獣への生贄とするために魔物を放ったのだとミュリエルたちは考えていた。
だが違う。第一、呼び出すことができている時点で因果が逆だ。
教団は神獣をただ呼んだだけで、その制御なんてまるで考えていなかったということ。たとえ魔人でも神獣には敵わない――にもかかわらず、呼び出すだけで満足している。
確かにそれは、狂っているとしか言えない行いだった。
けれどミュリエルは笑って言う。
「いいや、これはチャンスだ」
『……会長?』
「いきなり呼ばれて投げ出されて、彼もさぞご立腹だろう。ここは平穏に話し合って、穏便にお帰り願おうとしようじゃないか」
その言葉に、ミルは呆れたようにこう返した。
『神獣を……説得するっつってんですか?』
「戦って倒せなんて無理難題より、幾許かは簡単ってものだろう?」
『会長も相当バカを言うんだから……』
「ああ。そうだな」
ミュリエルは認めて笑う。その通りだ。
いかに神獣の知能が高かろうが、そもそも獣だ。言葉が通じる相手ではない。
「そして悪いが、君ら三人ともそのバカに付き合ってもらうことになる」
ミュリエルは正面を見据えた。
すでに、二体目の神獣はその視界に捉えている。
対うべきは誰か。それを初めから理解していたかのように、向こうから顔を出したということだ。
その姿を、ミュリエルは素直に美しいと感じていた。
巨大な体躯――とはいえ、竜や不死鳥ほどのそれではない。だが強靭な四足と、理知を感じさせる瞳が、それだけで強大さと神性を物語っている。
白銀の体毛がなびいていた。
其は氷を司る終焉の獣。
鬼神にすら匹敵する肉体の性能と、温度の全てを支配する魔力を併せ持つ怪物。
世界の終わりに姿を見せると言われる魔物。
その名を、銀狼といった。
「こいつを今から、学生会の四人だけで止める――まあ高い確率で死にそうだが、付き合ってもらうぞ? ほかの魔術師たちにはまだ仕事があるからね」
「――ま、今さら別に構わねえよ。会長のバカに付き合わされるのは慣れっこだ」
その返答は、今度こそ音として鼓膜を揺さぶった。
いつの間にかミュリエルの周囲に、最も信頼する三人の仲間が集まっている。
「いやぜんぜんよくないけど! だってもうこれ死ぬじゃん! あああもうやってらんねー! マジやってらんね――!!」
「とか言いつつ、シュエットも来てるわけですよ、会長」
「この状況でわたしだけ逃げるとか言えねーでしょうが普通にチクショー!」
それぞれの手には今、指環が嵌められている。
タラスからセルエが持ち帰った《転移の指環》だった。稀代の天才錬金魔術師・エイラの手に寄って複製されたということだ。
術式は解析できず、たとえ解析できたところで再現性がなく、複製によって劣化していたとしても――それでもこの街の中でくらいならば使用価値がある。
初めから、もし戦いになるのなら、この四人でやると決めていたのだ。
――彼らも七曜教団には因縁があるのだから。
「じゃあ、行こうか」
そうしてミュリエルは、仲間の命をあっさりと賭けた。
誰もそれに文句など言わない。勝ち目などあるはずがないとわかっていて、それでもこの街を守ることを誇りとして。
そうだ。ここは冒険者の街である以前に学生の街なのだから。学生が守らずしてどうする。
そうして四人は、死出へと一歩を進めていった。
たったひとり欠けてしまった、かつての仲間を思って。
その贖罪も兼ねて、それはきっと――矜持のための戦いだ。
※
こんなに短い内に、二度も傷を負うなんて初めての経験かもしれない。
口の端から流れ出る血の感触に、その味に、誰かを思い出しながらメロは笑った。
鬼神の拳は、メロに直撃する寸前でその動きを止めている。
理由は至極単純なものだ。
それが突き刺さるより刹那先に、メロの拳が鬼神の核を穿ち抜いていた。
全天二十一式。
第五術式――堕落姫。
それは、セルエ=マテノをイメージした一点集中型の近接格闘型対魔力打撃魔術。
七星旅団において、セルエはアスタ、ユゲルと並んで汎用性に富む魔術使いだった。そこから性格的な問題として、彼女はほかの六人にはできないことができるように、と魔術を修めていった。その穴を埋めるように、縁の下の力持ちとして。
「――――」
メロの拳を受けてなお、鬼神には傷ひとつない。
けれどそれは威力の問題ではない。彼女が放った拳は――そこに載せられた魔術は、そもそも肉体を傷つけるものではない。心を打つための拳だった。
魔術師なんて我の強さが特徴のような連中だ。強い魔術師ほどその傾向は強く、ゆえに魔術師は敵を傷つけることを恐れない。アスタやキュオネでさえその例外ではなかった。
セルエだけなのだ。
できるなら誰も傷つけたくないと、本気で思うほど優しかった人間は。
魔術で後天的に人格を分離させてまで、彼女は身内のためにその拳を振るった。その力は、心強さは、太陽のように大らかな温かさは――今だって、メロの脳裏に焼きついて離れない。
これは、だからそれを借りた、心を打つための拳だ。
――心で打つ拳だった。
誰より優しく、ゆえに誰より苦悩しながらも、その拳で敵を打ってきたセルエ。
ゆえに堕落姫の効果は――肉体的物理的な障害を一切無視して、精神に、魂そのものに魔力的なダメージを与えることに特化している。
それは人を傷つけず、けれど肉体そのものが魔力である魔物に対しては、その防御力を完全無視した打撃として成立した。
「……強いね、さすが」
メロは、おそらく心からの尊敬を乗せて、そう言葉を作った。素直に敬意を表明した。
セルエの力を借りておいて、この状況で嘘はつけない。そんなことはできない。
実際、その打撃を受けてなお鬼神は健在だ。倒すことなどメロには不可能。
だが一瞬、確かに、メロは鬼神と心を通じ合わせていた。
この鬼は決して人を殺したいとは願っていない。
ただこちらが、本能で怯えてしまっていただけなのだ。
「でも――読み勝った」
ともすれば、生まれてから初めてかもしれない。
――勝利を誇ろうと思ったのは。
そう。メロはそもそも格闘技術などまったく保持していない。身体能力は相応に高いが、それを鍛えることはしてこなかった。魔術が、彼女にとっての武器なのだから。
だから殴ったのだ。
その拳で。
その肉体で。
それだけはしてこないと――鬼神は読んでいるはずだから。
だから、その読みの上を行く行動をメロは選んだ。
鬼神には知性が、精神がある。彼の行動は全て思考と論理に基づいている。
メロは生まれて初めて、相手の思考の上を行くために、相手の行動を想定した。その上で、それを上回るための策を練った。
そうやって、弱いくせに生き残ってきた魔術師を知っているから。
そんなメロの目の前で、鬼神の肉体が薄れていった。
彼は言葉を発したりはしない。おそらく、そんな機能は持っていない。たとえ声が聞こえたとしても、おそらく気のせいでしかないのだろう。
メロの一撃が作った隙が、鬼神の核を剥き出しにしていた。だからこれは、その隙を突いたウェリウスの魔術による送還だ。二番目の直弟子であり、精霊遣いとしての側面を持つ元素魔術師だからこそできる魔術。
だからこの帰還は、ウェリウスが魔術によって創獣魔術陣の入口へ強制的に叩き返しているに過ぎない。
けれどメロには、なぜだろう。
それに、逆らうことなく鬼神が従っているように見えていた。
そのままメロは糸が切れたかの如く前のめりに倒れ込む。
鬼はすでに消え去った。抗おうとしたのか、それとも受け入れていたのか。そんなことはメロにもウェリウスにもわからない。
いずれにせよ、相手の魔力を浮き彫りにするこの術式は、同時に自分の精神をも剥き出しにして戦う魔術だ。メロが意識を失ってしまっても無理はなかった。
だから、その肉体を受け止めて、ウェリウスは言う。
「――――見事。伝説の力、確かに見て取った」
役割分担の上で、メロに比較すればウェリウスは楽な仕事だった。
だから余力は割と残っている。元より決着は完勝か完敗かの二択なのだから。
ならば。
あとの役目は、彼が引き請けなければならないだろう。
ウェリウスは街の端、人のいなくなった部屋の片隅にメロを横たえた。
それに、おそらくは心配ないだろうが、念のため護衛としての精霊を張りつけて、すぐにその場を後にする。
※
――その、少しあとのことだ。
街に、三体目の神獣が姿を現した。




