5-26『創られた鬼』
アスタ死ぬ死ぬ言われすぎぃ……。
主人公ェ……。
……いやこれは死ぬか?
※
――時間は少し遡る。
アスタと《木星》が戦っていた裏では、別の場所でアイリスと《土星》もまた戦闘に及んでいた。
両者ともに鬼。
吸血鬼の血を引くフェオとはまた違った意味で、両者は鬼の因子を継いでいる。
クロノスは先天的に。
鬼そのものであったその肉体を、教団にとっての実験材料とされた。
アイリスは後天的に。
元々は普通の人間でありながら、教団にとっての実験材料とされた。
どちらも魔人化実験――人間を魔人へと進化させるための、その被験体として教団に捉えられていた過去がある。
そして、どちらも同じく教団にとっては失敗作であり。
そこに違いがあるとすれば、クロノスのほうが後期の実験体であり。
――何より彼は、自ら進んで教団に肉体を提供しているという点だ。
脅されたわけではない。人質を取られたりなどしていない。
何か見返りがあったわけでもない。教団に対して恩も恨みもない。
魔人化に対する興味さえ一切なかった。
世界がどうなろうと知ったことではなかった。
それでも、クロノスはただ乞われたという、それだけの理由で自らの肉体を提供した。そのために進展した教団の研究が、裏でどれほどの犠牲を生んだかについても――やはり一切の興味を持っていなかった。
壊れていた、わけですらないのだろう。
クロノスは初めからそうだった。
鬼である彼には土台、人間の価値観など理解できない。
言うなれば、それだけの話だったということか。
※
クロノスとアイリスの戦闘。
それは、おそらくは大方の予想を裏切り、終始アイリスが押していた。
身体能力ではクロノスのほうが上。
技術面を見ても、体力でも、やはりクロノスが上回る。
そも、アイリスの肉体運用技術の根幹――教団との実験の合間、非人間的な実験によって魔術的に脳内へと癒着させられた戦闘技能そのものが、元を糺せばクロノスの提供したものである。確かに実験体としてはアイリスが先輩ではあったが、そもそも教団との関わりで言えばクロノスのほうが長い。
教団において、一番目との交流が最も古いのは、クロノスだったのだから。
それは《魔物の能力をヒトに移す》という、魔人化研究の派生実験。
クロノスがデータを提供し、《水星》と《金星》の主導で遂行された実験だ。アイリスは、そのために売り払われてきた。
囚われたわけではない。
連れ去られたわけでもない。
アイリスは――本人すら失った記憶の始点で――実の両親の手で実験材料として提供されたのである。
それが、アイリス=プレイアスにとっての。
否――名もなき《被験体無銘》にとっての。
始まりであり、終わりだった。
「――っ!」
と、アイリスが跳ねる。踊るように。
その身軽さは、今のクロノスでは不可能になった戦い方のひとつだろう。鬼としての身体能力を、機動性と敏捷性に特化させ、一撃で相手を仕留めようとする手法。もちろん鬼の身体構造をもってして初めて適うそれは、いかに人体実験を受けようとアイリスでも完全再現はできない。レファクールによって、理のなき怪物の理屈を、理のある人間の理論に落とし込まれている。
レファクールの格闘技術を受け継いだピトスが、アイリスの戦い方にかつて既視感を覚えたのはそれが理由だ。
一方、クロノスはほとんどその場から動かなかった。
決して愚鈍ではない。むしろ速い。
だがそれは、怪物としての身体性能をより《力》に重きをおいて問われた解だ。生まれ持っていたわけではない《強奪》の異能――周囲の空間から魔力を奪い取る超能力――を前提として構築し直された、クロノスにとって新しい戦い方。
そう。クロノスはアイリスの戦い方を知っている。
それはかつて、形は違えど、確かにクロノスが提供した技術なのだから。
それでもアイリスが食い下がれるのは――身体能力や格闘技術以外の場所に理由がある。
単純に、能力の相性関係だ。
「……さすが。プロトタイプだけはありますね……」
「あり、がとう……?」
特段の意思も感情も込めることなく、淡々とした事実確認のように述べるクロノス。
攻撃の手は緩めず、けれど無駄に律儀に答えるアイリスの姿は、もし周りで見る者があれば軽い笑いさえ誘っただろうか。ふたりとも、少しばかり感覚が一般とずれているのだろう。
とはいえ、その程度で和めるような修羅場ではなかった。
床から跳ね上がり、壁を蹴り飛ばし、天井すらさかしまに走って。身軽どころか、もはや重力の軛から逃れたかのような機動性を見せるアイリス。一度の攻撃は軽くとも、クロノスにはそれを《絶対に回避しなければならない》という縛りがある。――だから、逆説的にどうしても、攻撃を喰らってしまうのを避けられない。
クロノスの《強奪》は、周囲の空間から魔力を奪う。人間ひとりより空間そのもののほうが多くの魔力を溜める以上、絶対量という視点においてアイリスはクロノスに及ばない。
だが。
アイリスの《略奪》は空間からではなく、触れた対象から直接に魔力を奪うのだ。触れた相手に、触れている間だけ、という縛りがある以上、吸収量では圧倒的に劣る。だが、魔力などそもそも量だけあったところで仕方がないし、何よりクロノスはアイリスから直接に魔力を奪うすべがない。
空間からクロノスへ、クロノスからアイリスへ――。
魔力の動きは一方通行で、ゆえに持久戦ならアイリスは必ず勝利する。
相性関係において絶対的に有利なのだ。
もっともアイリスは、そんな計算をしていたわけではないが。
愛らしくも無垢な童女は単に、義兄の役に立ちたいという一心でこの戦場に臨んでいるのだから。
それが、彼の任せてくれたことだから。
自分に望んでくれたことだから。
アイリスは迷わず、疑わず、こうして生死を賭した場に自ら身を投じられる。
計算していた奴がいるとすれば、それはこうして童女に戦場行きを許した悪い大人たちだろう。もっとも、過保護な義兄と理論屋の魔導師は、そうでもなければアイリスの同行を許さなかっただろうが。
「……健気なことです。いや、敬虔と言っていいかもしれない――《木星》に、その点では少し似ていますか」
幾度目かの攻防を超えた先で、静かにクロノスはそう言った。
「……、……」
アイリスは立ち止まり、クロノスから少し離れた先で無言を作る。
油断、ではない。むしろそれは警戒だった。
アイリスはクロノスなど知らないが、それでも引っかかるところはあったのだろう。その鋭利な感覚が、あるいはクロノスから《いやなにおい》を嗅ぎ取ったのかもしれない。
いずれにせよ。
戦闘中に無駄口を叩くような人格には、少なくともクロノスは見えなかったのだから。
「――ゆえに。そう……それゆえに哀れですらある」
「なに、言ってる……の?」
アイリスに弱点があるとすれば。
肉体云々以前に、その精神性だと言えるだろう。
善良というわけではない。いや事実として善良ではあるが、かといって無駄な情けに覚悟が鈍るほど愚かではなかった――その点で言えば、むしろ凡百の冒険者より、よほど覚悟が座っていると言っていいし、あるいは単に、敵に情けをかけるなどという情緒がそもそも育ってはいないとも言える。
敵は、殺すもの。
アイリスは一切の歪みなく、ただの事実として客観的にそう理解している。
だが一方でその素直すぎる理解が、《話しかけられたら答える》という、真っ当と言えば真っ当な理解を同時に孕んでしまっているだけだ。それが敵であろうとも、だ。アイリスは容赦がないのではなく、単にそういうものだと端的に理解しているだけ。問われれば答えるのは当たり前だし、求められれば応じるのは当たり前だし、敵なら戦うのが当たり前。
それだけのことだった。
クロノスが、その点につけ込むような人格ではなかったことが、この場合は幸いだったと言えよう。これで敵がアルベルやクリィトならば、あるいは隙を突かれていた可能性がある。
――とはいえ。
この場合、それでも敵が、ほかでもないクロノスだったことは。
やはり必ずしも幸運だとは言えなかっただろう。
「哀れだと。そう言ったのですよ、姉さん」
明らかに年上――というか本当に普通に年上のクロノスが、アイリスを《姉さん》と呼ぶことには、傍から見ればずいぶん違和感がある。本人に挑発のつもりすらないのだとしても。
それはあくまで、クロノスのほうが後継機だというだけの意味で。
彼が、アイリスと同じ被験者であるというだけで。
――そして同時に、アイリスとは違い、実験を行う側でもあったというだけ。
「不思議には思わなかったのですか?」
「……? なに、が……?」
クロノスの言葉に、アイリスは首を傾げて問い返す。
素直な問いに、だからクロノスも素直に答える。感情が希薄という点において、ふたりは実によく似ていた――アスタよりも、兄妹というなら近く見える。
「貴方が、なぜ《紫煙の記述師》――アスタ=プレイアスの元に送られたのかということが、ですよ」
「なんでって……それは」
考えたこともない。
考えるようなことですらなかった。
だって、そんなの自明だ。
「マイア……と、シグ、に……送ってもらっ、た……から」
「ええ。その通りですね――」クロノスは頷く。「――その通り。それだけです」
「…………」
「たったそれだけのことなんですよ。ですが、姉さん……貴方だってわかっているはずです」
「……なに、を」
「たったそれだけの奇跡が――けれど私たちには許されないということくらい」
その言葉が。
それだけの言葉が。
どうしてだろう。
――やけに、胸に苦しかった。
「いえ、別に責めるわけではないんです――そんなつもりはない」
本来の彼は、決して饒舌なわけではない。
かといって喋らないわけでもなく、要はアイリスと同じで、求められれば答える――求められなければ答えない――そういう性格をしているだけだ。
その彼が、こうして自分から喋っているという事実。
それを恐れるのならば。
アイリスは、この時点で耳を塞ぐべきだった。
「私にはそんな資格以前に、そもそも意思がありません。けれど、しいて言うなら……ええ。これは憐憫です。私と同じであるあなたに対する、ただの憐憫」
「れん、びん……?」
言葉の意味がわからない、とでもいう風にアイリスは小さく呟いた。
本当に彼女には理解できなかったのかもしれない。
憐みなんて感情を、アイリスは持っていないのかもしれない。
だから――だったのだろう。
アイリスは耳を塞ぐこともできずに、聞いてはならない言葉を聞いてしまった。
文字通りの殺し文句を。
「だってそうでしょう? 姉さん、貴方にだって本当はわかっているはずです」
「……、」
「――私たちは誰からも求められないということを」
胸が、
痛い。
とアイリスは思った。
聞いてはいけないとようやく理解した。
だが、もう遅い。
「私たちは求められない。求めることはできないし、求められることもできない。誰からも愛されない。誰にも好かれない。どこからも必要とされず、どこにも居場所なんてなく――ゆえに誰の願いも叶えられない。そんな私たちが、まして自分の願いを持つなど、おこがましいとは思いませんか?」
「……どう、いう……こと?」
「では訊きましょう。――貴方の願いはなんですか?」
たったそれだけの安い問い。
誰だって答えられるし、答えられなかったところでそれだけの疑問点。
けれど――それに即答できなかった自分に、何よりアイリス自身がショックを受けていた。
クロノスは、それでも追撃の言葉を緩めなかった。ただ淡々と重ねて問う。
まるでその問いの答えを、彼自身すら思い求めているかのように。
「貴方の願いはなんですか?」
「……わ、わた……」
「貴方の願いはなんですか?」
「わた、しは……」
「貴方の願いはなんですか?」
「わたしは……アスタ、の」
「貴方の願いはなんですか?」
「アスタの――ために」
「――それは本当に、貴方自身が願ったことですか? 姉さん」
息が、詰まった。
胸が苦しい。
呼吸の方法を忘れてしまった気分になる。
――わかっていたはずの事実を。
突きつけられることを、ずっと恐れていたのは。
ほかでもない、幼い少女自身だと。
強制的に、理解させられてしまうから――。
「違うでしょう。――それは貴方自身の願いではない」
「そん、な……こと」
「違うでしょう。――それは他人から借り受けただけの願いではない」
「ち、……ち、が」
「違うでしょう。――貴方は単に、アスタ=プレイアスに嫌われたくなかっただけ」
「違……アス、タ、は……!」
「違うでしょう。――貴方は、嫌われるのが怖かっただけ。捨てられるのが嫌だっただけ。本当は求められていないことに気づきたくなかっただけ。居場所がないという事実を、二度も突きつけられることに耐えられなかっただけ」
「――や、やめ……」
「違うでしょう。――貴方は、ただ自分の存在価値を疑われたくないから、好かれようと求められようと望まれようと、醜く媚を売っていただけだ」
「やめて……やめ……っ!」
「違うでしょう。――実の両親に棄てられて、世界から見捨てられて、教団からすら廃棄されてしまった貴方は、もう二度と捨てられることに耐えられなかっただけでしょう」
「嫌……い、や……や、め――」
だから私が教えてあげます。
貴方と同じ、私だからこそ言えるんです。
ねえ、姉さん――貴方なんか。
「――貴方なんか、いらないんですよ、この世界に」
「やめてって、言ってる、のに――っ!!」
それ以上、一秒だって耐えることができなかった。
だからアイリスは弾けた。策もなく、なんの考えもなく、ただ嫌々をする子どものように、まっすぐ感情を爆発させて、走って向かって弾けただけ。
それでも速度は充分以上――いや、無駄に遠回りな軌道を捨てた分、これまでで最速の動きだったかもしれない。ただまっすぐ走って、クロノスに殴りかかる――幼い少女にできたのはそれだけだったから。
だから、そんな攻撃はクロノスに通じるはずがない。
彼は躱しすらしなかった。ぐん、と大量の魔力が自らの裡に流れ込んでくる感覚――それがアイリスに、攻撃の直撃を伝えている。
それだけだ。
単純な話。どうしようもできない、それは体格差であり筋力差。
小柄なアイリスの攻撃など、たとえ急所に直撃しても、鬼は小動すらしない。
鳩尾に強烈な一撃を撃ち込まれたクロノスは、けれど微動だにすることすらなかった。
それはアイリスの敗北を意味する。彼女が勝利するには、ヒットアンドアウェイでクロノスの魔力を削いでいく手法がベストだった――というより、それ以外にない。単純な打撃では、アイリスがいくら打ち込もうとほとんどダメージを与えられないのだから。
「受け入れられない気持ち――わかります、とは言いません。いや実際、私にはまったくわかりません。そんなにショックを受けるようなことを言いましたか、私は」
「……!」
「ただの事実でしょう?」
「そん、な……こと」
「――いえ。それならそれで、ただ間抜けというだけで済みます。私はそれなら、きっと哀れとは思わなかった。憐憫までは抱かなかったでしょう」
「な、に……が」
「――ねえ、姉さん。アスタ=プレイアスが好きですか?」
クロノスは、鳩尾を穿ったアイリスの腕を、その手首を握って言う。
アイリスは逃れられない。だが、何も腕を掴まれたから驚いたわけではない――いや、確かにそれにも驚いたが、まさかこんなことを訊かれるとはそもそも思っていなかったのだ。
けれど、それなら即答できる。
好きに決まっている。
アスタとの生活ほど楽しかったことなんて、人生のどこを探したって存在しない。
「そうですか」
と、クロノスは言った。
アイリスが答えるよりも先に、納得したように彼は頷く。
そして続けた。
「では――姉さん。貴方はどうして、どうしてアスタ=プレイアスのことが好きなんですか」
「どう、して……って」
「優しくしてくれたからですか。名前をくれたからですか。楽しかったからですか。顔が好きとはまさか言わないでしょう。男としてどうこうなんて年齢でもないですし――というか理解すらできないでしょう、そんな感情」
「……な、に……言って……」
「――理由なんてないでしょう」
「――――…………!」
「会ったときから、なんの理由もなく、ただ好きだっただけでしょう――」
クロノスは。
本当に。
悲しそうに――呟いた。
「――それが与えられた執着だと、姉さんは気づいていない」
だから憐れだと言うんです。
と、クロノスは言った。
――少女の意識は、そこで途切れた。
※
「――では殺します」
と、味もそっけもなく《土星》――クロノスは言う。
……いやまあ、こんなところで味のある台詞を言われても困るが、しかしアルベルとは正反対の淡々とした容赦のなさは、俺にとって恐ろしい。遊びと余裕がない――というか、通じないのは、これでなかなかにキツい事態だ。
ず――と大気が淀む。
強大な魔力が、目に見えてクロノスの元へ集っていく。
――これはまずい。
何がって、空間の魔力を強制的に持っていかれるところが実にまずい。すでに魔力の大半を奪われつつある俺にとって、それは重要な魔術リソースのひとつなのだから。その選択肢を、初めから奪われているというのは実に最悪だ。
魔力量そのものは多いほうだが、いくらなんでも限界はある。
残存魔力で、さて、いったいどこまでやれるだろう――。
「……ところで、えーと……クロノス、さん?」
それでも俺は口を開いた。
戦闘中に無駄口を叩くのは阿呆とよく言うが、無駄口すら無駄にしないのが俺のやり方なのだから、これはもう仕方ないとしか言えない。
果たして――これは意外にも、クロノスは答えた。
「さん、をつける必要はありませんよ。元は同級生ですが、まあ、そんな仲ではないでしょうから」
「じゃあクロノスくん?」
「…………」
無言だったが、やめてほしいという意志がなんとなく感じられた。
……意外と面白い奴かもしれない。こんな状況じゃなければ、もう少し笑えたのだが。
ともあれ、俺は問う。
「お前……魔人なんだろ」
「……、……」
「だったら、周囲から魔力を集める必要、ないんじゃないの? 元から持ってんだろ」
俺はそう言って肩を竦める。
これでやめてくれたらラッキーくらいのものだが、いくらなんでも期待しすぎだろう。とはいえ、その点は確かに疑問ではあった。
彼の異能《強奪》が魔人としての能力なら、そんなものは欠片の役にも立たない。今はたまたま俺の魔力がないせいで致命的になっているが、そうでもなければ周囲の魔力を集める理由がないだろう。そもそも魔人は、無限に等しい魔力を使うことができるのだから。
解答は期待していなかった。
どちらかと言えば、反応を窺いたかっただけだ。
だが、意外にもクロノスは答えを返す。
「――私は失敗作なものですから」
「失敗、作……」
「魔人になれなかった魔人、とでも言ったところですよ」
「…………」
「――危ないですよ」
直後、横合いから飛んできた魔弾が前髪を掠める。たとえるなら雷の矢だった。
雷撃――元素魔術。ということは、今のはシャルだろう。フェオの攻撃を見て学んだらしい――相変わらず憎々しいほどの学習能力と器用さだ。
もちろんクロノスは、今の一瞬に距離を詰めてきている――身体能力ではどう足掻いても太刀打ちできない。反射的に躱そうとした俺だったが、
「づ――!?」
シャルの雷撃に気を取られた。狙いより速度を優先してきたのだろう。前衛がいることをうまく使っている。厭らしかった。
反応が間に合わず、クロノスの拳が左肩を抉る。
ごきり、という嫌な音が脳内に響いた。骨が折れた――いや、肩が外れたか、これは。
などと考察できたのは、吹き飛ばされて起き上がったあとである。床を跳ねながら受け身を取って、なんとか立ち上がる俺。
追撃のために距離を詰めてきていたクロノスは、俺の間合いに入る寸前で慌てて背後に飛び退いた。驚きに、基本無表情のクロノスの目が少しだけ見開かれる。
「罠……飛ばされながら床に印刻を設置したんですね」
「気づくんかい、今の……たいていの奴なら踏むんだけどな」
「生憎と、空間の魔力の流れには敏感でして」
異能の副産物――というわけか。なんだこいつ、相性クッソ悪いな、おい……。
俺は痛む肩を気合いで嵌め直した。痛覚は魔力が和らげてくれている。
「ふぅ……折れたほうの腕で助かったぜ」
「負け惜しみ、ではなく本心ですか。面白い方ですね」
淡々と言うクロノスには、もうたぶん俺の挑発や煽りは通じない気がする。
「咄嗟に庇った反応はさすが冒険者――ですか」
「お褒めの言葉どーも」
「ですがまあ、脅威と言うほどではないですね――身体運用なら姉さんにすら劣る」
「……。ちょっと待て」
――アイリスは。
どこに、消え――、
「――、が……!」
直後――延髄に走った衝撃に、俺はクロノスの側へと吹き飛ばされる。
ごりごりと体内から魔力が奪われていく感覚。アイリスに蹴り飛ばされたことを、痛みが俺に教えてきた。だが、いくらアイリスでも、俺に気づかれず背後に回るなんて――言ってる場合じゃない。
「ふん、ぎぃ……っ!」
吹き飛ばされた俺は、空中に氷の壁を製作。それで自らを強引に止める。
思いっ切り胴ごとぶつかったが、そのままクロノスの元まで飛ばされていたら詰みが見えるレベルだ。要は魔力障壁を、自分を止めるために出したということ。
当然、俺は壁にぶつかってダメージを受けるが、死ぬよりマシだ。
「器用ですね……魔術が苦手な私としては羨ましいものです」
淡々と言うクロノス。
だが、――魔術が苦手、だと? ふざけたこと言いやがる。
着地と同時に横合いへ走り抜けて行く俺。クロノスは立ち止まったままだが、後ろからアイリスが追ってくる。
「お前――アイリスの気配を魔術で隠蔽してやがったな!」
「これでも私、元はオーステリアの学生でして」淡々と言うクロノスに、むしろ俺のほうが煽られている気分になる。「今のは《木星》が得意としていた魔術ですが、能のない私でも真似ごとくらいなら」
まあ、そうか。使えないわけではないのだろう、確かに。
「やってくれやがるマジで……!」
壁を壊すのではなく、普通に扉を蹴り抜いて隣の部屋へと逃げ出した。
その先は、けれど行き止まりの部屋だ。
背後から追ってきたアイリスが、俺の行く手を阻むように立つ。もちろんさきほどのように壁を破って逃げる手はあるが――シャルがいる。
俺は冷静に、クロノスの異能で荒れ狂う空間魔力の中で、なんとか周囲の状況を掴む。シャルは今、壁の向こう側から俺を狙っている。狙いを澄まそうというよりは、余計なことをさせまいと牽制している感じだ。……くそ、手口を読まれてる。
目の前で、アイリスは立ち止まっていた。
だらんと手を下げ、目は伏せて――普段の彼女とは明らかに違う。
洗脳……いや、変心か。ということはつまり。
「……《水星》の奴の仕込みか」
「そうですよ」と、答えたのはあとを追ってきたクロノス。「私にも、シャルロット=クリスファウストにも、そんなことはできません。彼女はもともと、そういう風に調整されていたんです――当たり前でしょう? 兵器として利用される予定だったんですよ?」
「失敗作、とかなんとか……《水星》の奴は言ってた気がするが」
「まあ、それはそうですが。――だとしたら、貴方、オーステリアで合成獣を見たんでしょう? ただの失敗作なら処分されていますよ」
「…………」
「貴方の姉が――マイア=プレイアスが、本当に私たちの研究施設からその子をただ連れ出して来ただけとでも? それを予期して――あらかじめ仕込みがあったとは思わないんですか」
「時限式の洗脳魔術ってとこだろ。武器として、兵器として利用できるようにしたわけだ」
「姉さんの利点は、見た目が子どもだということですからね」
なるほど。――最悪だよ、やっぱ、テメエらは。
俺は、視線をアイリスに向けた。アイリスは静かに俯いている。
けれどそれだけじゃない。
よく見れば、彼女の瞳の下には――うっすらと涙の痕跡が見えていた。
「……ずいぶんとヒトを間抜け呼ばわりしてくれるが」
俺は、言った。
クロノスはやけに律義に、
「いえ。言った覚えはありませんが」
「言ってるようなもんだろが」
「……、そうですか」
「いやまあ、いいけどな。いいんだ。――別に、俺はアイリスになら殺されてもいい」
「…………」
「だって、俺は――こうなることくらい知ってたんだから」
俺の言葉に、クロノスは特に驚いた様子を見せなかった。
ただ、彼は悲しげに目を伏せる。聞きたくない言葉を聞いたかのように。
鬼は言う。
「……そうですか。言い換えれば、それはつまり――貴方にとって、姉さんはその程度でしかないということでしょう」
その言葉が引鉄となったかのように、アイリスが動き出す。
「……、……!」
言葉のない慟哭が聞こえた、ような気がした。
それを受け入れる。俺はアイリスに、確かに殴られるべきなのだ。
だから俺は、一歩たりともその場を動かず、むしろ両手を広げてアイリスを待った。
そして――言う。
「ところで、俺がなんの考えもなく、この部屋まで逃げてきたと?」
いや。
もちろん別に、これで愛とか勇気なんかでアイリスが正気を取り戻す、なんて期待はしていない。
事実、アイリスは止まることなく、俺を殺そうとその拳を振り被って迫っていた。
そして。
アイリスが俺に触れる、
――その直前。
横合いから、壁を突き破って飛んできた魔弾に、アイリスが撃ち落とされるのを俺は見た。
アイリスはそれを察知した。
咄嗟に身を捻り、掌で攻撃を受け止める。魔弾の類の放出魔術では、魔力を奪うアイリスに傷をつけられない――撃ったシャルもそれをわかっていて、それでも攻撃をした。
ということは。
「……クロノス! ――アイリスにやらせるな! そいつ、何か企んでる!!」
破れた壁の向こうから、姿を覗かせたシャルがクロノスに叫んだ。
――まったく。
これだから、俺の手口を知ってる奴を敵に回すのは厄介なんだよなあ――!
言ってることが詐欺師かよ、俺。
だがまあ、詐欺師なら詐欺師らしく――ペテンにかけるだけのこと。
「は――」
と、わずかに笑って見せる。
「何を――」
「わざと魔力を奪わせるつもりかもしれない!」
「……!」
目を見開くクロノス。その視線の先で、俺はあえて一歩後ろに引いて、壁に手を触れた。
シャルが、その壁に向けて魔弾を放つ――が、何も起こらない。そりゃそうだ。
だってそこには何もない。
俺を疑いすぎだぜ、シャル。
「――――!」
クロノスが、こちらに向かって駆け出す。魔術を使ってしまったシャルはもう、次の一手が間に合わない。
だが――その全てより先に俺はもう、アイリスに向かって駆け出していた。
なけなしの魔力で足に刻んだ《駿馬》のルーン。それによって、クロノスよりほんの少しだけ、俺は先行できている。
だから。
ほんのわずかな差で、クロノスより先にアイリスの元へ辿り着いた俺は。
「――ほら」
残っている右腕を、アイリスに向かって差し伸べて。
「起きろ、――このバカちん」
その額にデコピンを喰らわせた。




