5-25『枯れ果てた亡霊たち』
※
――幼少期の記憶はない。
おそらく、自ら棄ててしまったのだろう。自分の内側にはきっともう、そんなものは遺されていないのだと思う。
無論、精神干渉系の魔術を用いれば、あるいは枯らしてしまった《いつか》の記憶を甦らせることも不可能ではなかったかもしれない。それでも駄目だろう、とは思っていたが、試してみないかと問われても、断り続けていたのは理由は別だ。
単純に。
そんなことには、一切の興味がなかったから。
それはそうだろう――きっと誰だってそうだろう、と彼は思う。
自分が生まれる前のことなんて、知ったところで意味がない。自分が死んだあとのことのほうが、どちらかと言えばまだ大事なくらいどうでもいい。知ることに意味がないのなら、あえてやろうとは思わなかった。元よりそんな余分、抱えて生きられるほど強くない。
現在さえあれば。
それで充分。それで十全。
それ以外は不要だ。
だって、彼が生まれたのは――ほかでもなく。
魔法使いに拾われた、その日のことだったのだから。
「――やあ。いい天気ですね、どうも」
雨だったことを覚えている――その日のことは何もかも全て、ひとつだって忘れていない。
どこにでもある貧民窟の、薄汚れた路地裏。
寒い夜で、暗い夜で、太陽なんて見えるわけもない、じとっとした雨の下。
襤褸切れに包まっていたところで、そんな風に声をかけられた。
「……雨だし、夜だぞ」
嗄れた、掠れかけの声で、それでも彼は答えた。
どうして答えたのだろうと、今でも少し不思議に思う。普段の彼なら、絶対にそんな答えは返さなかっただろうから。そもそも自分が声をかけられたとは思わなかっただろうし、仮に気づいても無視すればいいほうで――あるいは襲いかかって、身ぐるみを剥ごうとしてもおかしくはなかった。そういうところで、そういうことだったから。
「はは。雨で、確かに夜ですね。月の輪すら雲の向こうです」
「…………」
「いい天気でしょう、だからこそ――ええ。こんな空も、悪くない」
「……何、を」
「どうです。そうは思いませんか、君は?」
何を言っているんだ、とすら思わなかった。何も思わなかった。
それくらい、言われていることが理解を超えていた。何ひとつわからなかった。
でも、だから答えなかったのか、と問われれば少し違う。
本当に不思議だったのは、何を言っているのかというより、なぜそんなことを今ここで、ほかでもない自分なんかに問うのか――そのことだ。
そして、そんな妙な状況を、なぜか警戒すらなく受け入れてしまっている自分自身だ。
染み入るように。
解きほぐすように。
融かすように。
その声は、すっと彼に這入り込んできた。
「……天気なんて、何か降ってくるか、何も降ってこないかだけだ。曇りとそれ以外だ」
だから、気づけばそんな風に答えていた。
本心だった。
本心なんてものを口に出して答えている自分が、何より理解できなかった。
「曇り、ですか。晴れではなく?」
「晴れだと陽射しが降ってくるだろう。雨と大して変わらない」
「なるほど……かもしれませんね、確かに。過ごしやすさで言うなら曇りがいちばん――それは面白い見方です」
なんなんだ、こいつは。
自分に話しかけてくる人間など久々か――いや、初めてかもしれない。覚えていない。
そんな思いを、まるで言葉にする前から汲むように男は言う。
「――誰かに見つけてほしかったんでしょう?」
「見つけて……」
「その才能は稀少だ。ここで埋もれて死ぬには惜しい。だが逃れ、隠れているその才を、見出す人間がいなかった。だから君はここで死ぬ」
それは、悪魔の誘いに似て。
甘美なその誘惑に、抗うすべを彼は持っていなかった。
なぜこうも。
心を読んだみたいに、欲しい言葉を作れるのか。
「――もしも命が要らないのなら。その資源を無為に費やすくらいなら、私に投資すればいい――私のために使えばいい。私に仕えればいい」
「あんた……いったい、なんだ? なんでいきなり、そんなこと――」
「私といっしょに来ればいい」
目立つところのない、ごく平凡な人間。
そうとしか見えない男は、けれど誰より強い存在感を放っている。
どこまでも傲慢に。傲岸不遜に。それが当然であるかのように。
笑ってみせる男の姿に、彼は酷く憧れた――。
「――なぜなら、私は魔法使いだから」
「魔法……使い」
「そう。君の小さな世界観、壊すくらいはわけないのさ――」
※
口許から、わずかに赤が流れ出ていた。
そんなことには、けれどまったく気づいていないかのように、青年――アルベル=ボルドゥックは立ち上がる。魔術はすでに復活していた。
確かにダメージは与えたが、さすがに立つ。いくら細身だろうと、一発殴り飛ばされたくらいで折れるほど、意志の弱い男ではないだろう。
「……二度はない」
アルベルは言う。
俺がやったことを単純に換言すれば、要は《びっくりさせた》という程度のものだ。
驚いてしまったから、ほんの一瞬だけ魔術が乱れた。今だってなお、俺はアルベルの術式を破れたわけではない。
依然、状況自体は不利なまま。破るどころか、このままでは俺が敗れてしまう。
「こそこそと小細工を弄するだけで、僕を殺せるとは思わないことだ」
「は!」と、それでも俺は笑う。「偉そうに語ってんじゃねえ。それだけの魔術を扱えていながら、俺に攻撃を喰らってる奴が――生憎と、策を弄して小細工を弄ぶのが俺って人間でな。かかって来いよ、三下。お前如きじゃ俺には勝てねえ。こんなところは通過点だ。お前程度との因縁なんざ、さっさと清算して終いだ」
「減らず口を――叩くな!」
跳ね起きたアルベルが、こちらに向かって突っ込んでくる。
破れかぶれの特攻にも見えるが、この程度の挑発で我を失うような奴なら敵じゃない。
「――!」
と、アルベルの右の拳が振るわれた。
俺は軽く身を引いて躱す。枯れ木のような細身とはいえ、さすがに冒険者。最低限の訓練は積んでいるらしい――とはいえ、俺にさえ通じるレベルではなかった。
「それは悪手なんじゃねえの!」
回避と連動して、俺は身を捻り、回し蹴りを放つ。
アルベルの側頭部を叩くように振るったそれを、奴は躱そうとさえしなかった。
俺の攻撃は、当たり前のように奴の体をすり抜けてしまう。
「――君こそ」
「づっ――」
アルベルの肘が、俺の鳩尾を貫く。
吹き飛ばされながら、俺は改めて奴の術式の異常さを悟っていた。
「それは、悪手だろう」
「くそ、反則にも限度があるだろうが……!」
体勢を立て直しながら舌打つ俺。
床には立ってるくせに、俺の拳は通り抜けて、なのに向こうの腕は当たるとかどんだけだ。ふざけんなマジで。
再び開く彼我の距離。
そして、それだけの時間稼ぎで、奴には充分だったらしい。
「――!」
周囲の空間が、結界に汚染されていくのを肌で感じた。
肌が粟立つほどの魔力量。考えるまでもなく、アルベルの仕業によるものだ。
「ぬかったな、紫煙。これでもう逃げられない」
「……ま、確かに。いくら俺でも、戦いながらこれは破れんな」
術式の粗――魔術としての未完成さを、魔人の性質による膨大な魔力量によって補うという力技。この世界という概念そのものから魔力を汲み上げられる、魔人ならではのごり押しだ。
それだけに、単純すぎてタチが悪い。
「これで地形を利用されることもなくなった。これまでの魔術にも対応はできる。それでも、まだ逃げるすべがあるというのか?」
「……さて。教えてやる義理はねえな」
相変わらず強気に嘯いて見せる俺ではあったが、こんな繕った余裕はさすがに見抜かれていとだろう。やはり驚異的に戦いにくい相手だ。俺を舐めても恐れてもくれない辺りが特に。
「君では僕を騙せない」
アルベルは言う。
汗が、ひと筋頬を流れた。周囲の結界に特殊な効果はないようだが、単純に膨大すぎる魔力の圧が、俺の精神面に物理的なプレッシャーをかけている。
「いくつでも。いつまででも――君が諦めるそのときまで、ひとつずつ策を潰してやろう」
「言いたい放題言ってくれやがって、このストーカーめ……っ」
ずきり、と心臓に痛みが走る。
やはり呪いも完全に解けていない状態で、神のルーンを使うのは無理があったか。あれは、現役時代の俺ですら扱いに困る類いのものだった。
効果は限定的ながら協力無比で――その代わり酷く使い手を蝕む。
つまり向こうが無制限の魔力を持っているのに対し、こちらは持久力に欠ける。かといって瞬発力ですら負けているというのだから、もう本当にどうしろっていうんだ、まったく。
とはいえ。
「――で? どうすんだよ。なんのかんの言ってお前は、未だに俺を殺せてねえ」
「…………」
「それでお前、魔法使いの弟子かよ。ったく、俺程度すら倒せない程度なんて、師匠があんまり優秀じゃなかったみて――」
瞬間、俺は黙った。
というより黙らされたのだ。
言葉の――体の自由を奪われたから。
「あの人を……馬鹿にするなと、そう言ったはずだ」
淡々とした口調で、けれど明確に怒りを滲ませてアルベルは言う。
「……、……どん、だ――け、し、心酔、し……てんだよ、お前」
「その状態でよく喋れるものだ。感心するよ」
「……なんの、こた――ねえだろが。誰にでも使える拘束術式程度、破るのにそう苦労しねえっつの……!」
「だからこそ。――力の差を、理解するべきだ。そもそもその程度のものに、君がかかること自体が異常だろう。違うか――紫煙?」
言う通り、ではあるのだろう。わかりやすく力の差を示されたようなものだ。
弾元断界――という言葉がある。
というよりまあ、俺がわかりやすく訳した言い方なのだが、要するに、それが魔術師の戦い方として基本となる四つの手段というわけだ。
弾――つまり魔弾。最も基本的な攻撃手段。
元――つまり元素。最も簡易な火力要素。
断――つまり魔盾。最も基礎的な防御魔術。
界――つまり結界。最も単純な拘束儀式。
この四つが、魔術師の基礎的な戦い方とされている。難しい魔術をひいこら言いながら使うより、単純で素早く効果の高いこれらを織り交ぜて戦うほうが楽だし強い、とか。まあそんな意味だ。
結界や、それに準ずる拘束・束縛系の魔術で動きを止め、魔弾か元素魔術で攻撃する。相手の攻撃は魔力障壁で防ぐ。それだけやってれば魔術師は十全に強く、逆を言えば、その基礎的な能力差こそが魔術師の格の違いということになる。
仲間内で言うなら、シャル辺りが最もこの基本に忠実と言えるだろう。ピトスも近いタイプではある。そこに剣を加えたのがレヴィで、特化したのがシグやウェリウスという感じだ。
とはいえ基本は基本。
俺だって、手法としてルーンを用いている以外はやっていることが変わらない。
それで上回られるということは。
つまり、そういうことだ。
「――だからなんだっつーの」
俺は言う。負け惜しみのつもりはさらさらない。
「格の測り合いで負けを認めるほど、生憎と素直な人格してねえんだ――っつの!」
膨大な魔力量で攻めてくるアルベル。
その魔術を質の差で凌駕し、拘束を破壊した俺はルーンによる火の魔弾を放つ。
――だが。
その魔術は、すり抜けるどころか、今度はアルベルに当たるより先に魔力ごと散逸した。
「……さすがにびっくり」
ふぬけたことを宣う俺。
……いや、まずくないです?
「なぜ僕が余裕か、まだわからないかい? ――もう勝っているからだ」
さきほど俺が言ったことを、意趣返しのように奴が言う。
ちら、と俺は周囲を窺ってみる。今、アルベルに魔術を発動した様子はなかった。
ならば魔弾を散らされた原因として考え得るのは、魔術がすでに発動してしまったあとだということ。ではそれが何かと言えば――
「――結界か。まさか、特殊効果があるとは読めなかった」
簡単に俺は言ってのけたが、これはただの推測だったし、何よりおかしい。
つまり、俺には術式の効果が見抜けなかったと宣言するようなものなのだから。
理解で――上回られたということなのだから。
だがアルベルは言った。
「いや。結界に魔術的な特殊効果がないという君の推測は正しい。今のは結界ではなく、それによってもたらされた内部空間の特性だ」
「…………」
俺は黙る。
違和感があったからだ。魔術師はなんの理由もなく、自分の魔術の種明かしなどしない。
それをするということはつまり、することに意味があるということ。
ならば、魔術の効果を自ら話すということは、つまり――。
「――まだ気づかないかい? ここがもう、君の世界ではないということに」
それに足るだけの絶望を、俺のくれることができるときだということ。
周囲を窺った。別段、光景が変わったわけではない。――いや。
妙だ。
辺りの魔力量がやけに濃い。今や魔法使いのねぐらだったから、では説明がつかないほど空間魔力量が膨大だった。というよりむしろ、空間そのもの全てが魔力でできているかのような――。
「――違、まさか。これ……結界じゃ、ない……!」
「その通りだよ。この世界には、君だって来たことがあるはずだ。あの王都で――いや、遡れば、君たちが踏破したあの迷宮で、気づいたんだろう、この世界の本当の姿に」
この空間に名前はない。
それでも、あえて命名するならば――《世界の裏側》とでも呼べばいいだろうか。
あるいは珈琲屋や教授ならば、もっと相応しい表現を思いつくかもしれない。俺が気づいたのは、確かにアルベルの言う通り――この空間を知っていたから。
いや、そもそも空間という表現が正しいのかどうか。時空とか、異界とか――まあ、名前はこの際いいだろう。とにかく、現実の空間とは異相を違える、けれど創られた結界ですらない本来の姿。
運命の渦そのものの。
魔力だまり。
「魔術論的に言う死後の世界――世界の同位相にして反転域。異世界人の君のほうが、むしろ詳しいかもしれないけれどね。だってそうだろう? 単純に考えればいい。世界が複数あるのなら、そのいずれの世界でもない、世界が含まれている世界がどこかに存在しなければならない……《神様の玩具箱》、と、確か月輪なんかは呼んでいたが」
皮肉な表現だった。
ということは、世界は神の玩具であって、ここはそれを仕舞うための箱か……いや、籠とでも言いたいわけだろう。
どこでもない世界。
地球でもなく、異世界でもなく――それらを内包する概念としての空間。
位置が概念として規定される以上、それらもまた概念として存在せざるを得ない。たとえば観測し得ない宇宙の外側のような、光ですら到達できない闇の渦の奥底のような。
ただ、あるだけの、場所。
「正確にはその限定的な再現と言ったところだ。世界そのものから逃げる以上、概念的に存在しなければならない逃避行の終点。世界の終わり。あるいは始まり。世界の中にいながらにして、世界に存在しないことになっている僕のいる場所に――招待する人間は君が初めてだ。誇りに思ってくれていい」
「そういう、ことか……」
呟きはしたが、俺の理解が果たして正しいのかどうか。教授でも、本当のところを理解できるかは怪しいレベルだろう。
――逃げ、隠れる。
それに特化した魔術師であるアルベルは、世界という枠組みそのものからさえ隠れることを可能とした。だが、それは意味合い的なモノであって、実際に別の世界へ逃げることができるわけではない。アルベルは世界の内側にいる。
だから彼は、この世界であってこの世界ではない場所――という矛盾をはらんだ空間を偽装して創り出した。世界を都合よく捻じ曲げた。だから《この世界にいない》アルベルに《この世界にいる》俺の攻撃は当たらず、けれど同時に《この世界にいる》アルベルの攻撃は《この世界にいる》俺に当たる。床を踏むこともできるし、息をすることだってできる。世界を構成する要素そのものを、まるで神のように都合よく取捨選択している。
要は言葉遊びのようなものだ。だが理屈として成立する概念は魔術的に実在するというのが原則。
何が逃げ隠れだというのか。
こんなものは、むしろ凌辱にも等しい。
魔術を、人間を、物質を、非物質を、思念を、意思を、物理を、法則を――世界の内側にある、ありとあらゆるものをアルベルは恣意的に選択することができる。あれには干渉される、これにはされない――という世界に対する絶対的な優先権を所有しているに等しい。あらゆる繋がりを強制的に繋ぎも断ちもできる。一方的に。
いわば運命に対する、一方通行の選択権。
それが、魔人としてのアルベル=ボルドゥックの能力だった。
「……読んじゃいたが。いや、反則だろ実際……!」
俺は、それでも余裕ぶって言った。
道理で俺の魔術が失敗してしまうわけだ。
魔術とは《世界の法則を書き換える》行為なのだから。言い換えれば、世界が違えば通用しない技術だということ。
「唐突だが僕は教団でも最古参でね――だからとは言わないが、魔人としてはいちばん強い」
「インフレやめろや……お前、漫画とかに出てきちゃいけないタイプの敵だからな。無駄に強いわ能力意味不明だわ……作者が困るだろ。やめて差し上げろ」
「僕のほうこそ、君が何を言っているのか理解不能だが」アルベルは言う。「敵なら強いほうが、倒したときのカタルシスは大きいモノじゃないかな」
「俺のこと言ってんなら皮肉にも程がある……」
は――と、小さく笑う。
いや本当にまったくもって。
こんな状況で、それでもまだ生きている自分には、いっそ苦笑すら漏れ出すほどだった。
生き汚いと方々から言われるわけだ。確かにそれは、正しい見方なのかもしれない。
――俺は、それでもまだ絶望などしないのだから。
「感心するぜマジで……よくもまあ、ここまでの魔術を練り上げたもんだ」
オーステリア迷宮にあった罠や、タラスでの行いは、これの伏線だったということらしい。
わかるか、そんなん。
ともあれ確かに、魔人として新技――というか新しいことを試みた《金星》よりも、向上した能力を全て以前からの技能の底上げ、拡張にだけ終始させたアルベルのほうが、俺からすればよほど厄介ではある。魔人であることに慣れていない、という弱点を突くことができないのだから。
だが、そんな俺の態度が、やはりアルベルは心底から気に喰わないらしい。
「……この状況で。それでも君はまだ笑うのか」
「当たり前だろ」俺は言う。「この程度の窮地なんざ珍しくもねえ。俺は今までだってずっとそれを笑い飛ばしてきたんだ――今さらもう、その生き方は変えられない。だいたい、これも言ったろ? 挑戦者はお前だ。勝ち誇るのは、俺を殺したあとにしろ」
「…………」
「お前だってわかってるはずだ。俺が今まだ、こうして生きてるのがその証だろ? こんだけ理不尽で強力な魔術を編み出してなお、それでもお前は俺を殺せてない。現に俺は生きている――お前は俺が怖いんだ」
「…………」
「何をするかわからないから。何をされるかわからないから。その余裕が消えないから。恐怖する必要もないほど有利なはずなのに――それでも俺に逆転されるんじゃないかという疑念が拭えないから。だからビビってる」
「……だとしたら、なんだ?」
「別に」
「ああ確かに、認めよう。僕は君が怖い――だがそれは、君の生き方に、在り方に嫌悪を拭えないからだ。憎悪を否定できないだけだ。だから僕も何度だって言おう。僕は君には騙されない。君がこれまで勝ってきたのは、生き延びてきたのは、単にその余裕に、その態度に、ありもしない裏を探って周りが自滅してきたからだ」
「……かもな。で――だとしたらなんだ?」
「勝つのは僕だ。この状況から、この魔術から、逃れられるというのなら見せてみろ、紫煙! 僕の世界は何も逃さない。君は逃げられない――この場所が君の終点だ!!」
アルベルの周囲に魔力が集っていく。
それは魔弾の術式だ。
単純な力押し。
誤魔化しのない純粋火力。
それが、俺にとって最も有効であることをアルベルは知っている。
――だから。
「恐怖を否定するのか、アルベル」
俺は言う。それはどこか、羨望にも近い感情だったのかもしれない。
俺は奴の事情など知らない。知ったことではない。
奴がどんな過去を持ち、どこで拾われ、何が理由で一番目の配下となって、何を動機に真っ当な人生の全てを擲ってまで教団の一員となったのか――そんなことは、どうでもいい。
その生き方は、その在り方は、確かにその一面だけを抜き出してみれば尊敬に値する。自分には決して真似のできない、どこか崇高な選択だと憧憬すら覚える。
――だってそうだろう。
俺は、自分を諦めることなんてできなかったのだから。
いつかセルエに言われたことを思い出す。
ああ確かに彼女の言う通りだ。俺は何かを諦めることなんてできない。
いつも血を吐いて。
みっともなく足掻いて。
無様に格好つけているだけの凡人だ。
俺は怖い。
これまでだってずっと、今だってもっと。
戦うことが怖い。失うことが怖い。敵が怖い。怪物が怖い。魔術が怖い。魔術師が怖い。
傷を負うのは嫌だ。痛いのは嫌いだ。楽に生きたい。楽しく在りたい。英雄なんて肩書きは御免だ。伝説になんてなりたいとすら思わなかった。
それでもいつだって、ただ自分の手の届く範囲の誰かに、笑っていてもらいたかった。
いつだって、笑っていたかった。
その一点だけを、どうしても諦めることができなかっただけの馬鹿野郎。
それだけでしかない。
「――俺とお前の、それが違いだ」
「話など知らん。ルーンを描く暇は与えない。ここで死ね、紫煙」
光が、俺の視界の全てを覆った。
その場にいるだけで、心ごと呑まれてしまいそうな魔力の奔流。
威力の上では、あのシグすら上回る強大な魔弾の輝き。
だが、結局のところ――最後までアルベルは、俺という魔術師を理解していなかった。
口ではどうこう言ったところで、きっと、アルベルは俺に期待していたのだろう。
その意味では、ああ、ある意味で七星旅団の仲間たちにすら彼は似ている。
いや、それ以上だという気すらする。
通常の魔術など一切使えず、ルーンというごく限られた術式を騙し騙し使うだけのちんけな魔術師。それが伝説と呼ばれるなんてことを、初めから一度だって疑いやしなかったのは――アルベル。たぶん、お前くらいだ。
お前だけが、俺をわかっていた。
だから、お前にだけは、決してわからない。
「――――《運命》」
※
光が消えていく。
魔術を、魔力ごと完全に打ち消され――否、発動しなかったことにされ。
アルベルの魔弾は俺を撃たなかった。
空白の印刻。
確か一度、ウェリウスに対してこっそり模擬戦のときに使った覚えがある。
印刻でありながら文字ではない、そんな特性を持つ空白が、アルベルの魔術をなかったことにした。
「……っ!」
アルベルの表情が驚愕に染まる。
だが奴は隙を見せず、同時に再び魔術を再発動する。
俺が魔術を本当に使えない――とまでは思っていなかったのだろう。奴の術式の、それが弱点だ。完全に異空間なのではなく、《この世界である》ことと《この世界ではない》ことの概念を両方を同時に孕んでいる。でなければ、そもそも最初の魔術は発動すらしなかった。
奴は、魔弾を一斉に乱射した。
一発ではない。
さきほどと同等の――いや、あるいはそれ以上ですらある規模の魔弾が、空間そのものを埋めるように広がっていく。シグに迫る乱射。壁や廊下などとうに全てが破壊され、俺は結界空間そのものの上に立っている形だ。
その全てを、俺は《運命》で打ち消していく。
アルベルは当然、俺にそれができることを知っていた。
ゆえに、同時にそれが使えないということもよく知っていたはずだ。
なぜならこのルーンは、酷く効果範囲が狭い。ウェリウスに対してわざわざ近づいたのは、そうでもしなければ使えないルーンだったからだ。タイミングを測れるほど戦闘のセンスはないし、だから至近距離で強引に使ったりでもしなければそう簡単に無効化できない。
それでも俺は一歩ずつ前へと進む。
そのたびに、複雑に軌道を変え、アルベルの魔弾が襲ってくる。右から、あるいは背後から――うねり、曲がり、ときには直角に、あるいは空間さえ歪ませ、熱量の塊が俺を襲う。一撃かすれば即座に死ぬだろう、人ひとりを殺すには過剰すぎるほどの魔力光線。
その全てを、俺は一歩ずつ前に進みながら打ち消していった。
「――っ、ふざけ――そんな、君は時間でも巻き戻しているのか!?」
「馬鹿を言うなよ、アルベル――それはジジイの特権だ。俺にはできない」
「だが、こんなものただの消去では――」
「敵に答えを訊くな間抜け」
極大のレーザーじみた魔弾は当然、ただ一部を打ち消しただけでは余波だけで焼け死ぬ。
だが、運命のルーンはそんな生易しいものではない。
魔術そのものを打ち消す程度の効果ではない。これは魔術を放った、という事実ごとゼロへと巻き戻す概念干渉だ。結果的に時間が巻き戻ったように見えるだけで、そんな理屈ではまったくない。
「――それは、あの人の――貴様――」
「だから。どうしてそうお前は大袈裟なんだ」
魔弾の雨、というより滝の中を、一粒の余波すら受けずに進む綱渡り。
いわばコンマ一秒単位の猶予で連続のジャストガードを決めながら、少しずつ前に進んでいるようなものか。
無論、本来ならこんなことはできない。そもそもそんな身体能力が俺にはない。ともするとレヴィなら、あの閉式剣で同じようなことができるかもしれないが、彼女ほど俺は身体運用に長けていない。
「……いや、狙いが上手いな、アルベル。メロとは大違いだ」
「狙い……貴様、まさか――」
わざと気づかせるように俺は言う。
狙い通り、気づいたアルベルの攻撃が一瞬、止んだ。
そう。どこから来るかもわからない魔弾を全て防ぐ――なんてことは俺にはできない。
けれど、いくら俺でも、どこから来るかわかっている魔弾くらいなら防ぐことは可能だという話。
「貴様――僕に、補助魔術をかけたのか……!?」
「なんだ、知らないのか。ルーンの真骨頂はあくまで他者強化だぜ? せっかく強化してやったんだ、ありがたく受け取ったらどうだ?」
「敵を、わざわざ強化する――など、貴様……!」
「メロやらシグやら、威力はあるくせに狙いが甘い奴が多くてな。知ってるだろ? これでも俺は、魔弾の軌道修正は得意なんだぜ――!」
よもや敵を強化する、とはアルベルも思うまい。何をするかわからない――どんな手を使って魔術を破ってくるかわからないと警戒するアルベルだからこそ、そんな俺が自分を強化してくるなんてことは想像の埒外というわけだ。
魔力に溢れすぎた空間だからこそ、気づかれずに済んだという話でもあるが。
魔弾への命中補正。
全ての攻撃が間違いなく、寸分の狂いなく俺の心臓に直撃するように、ほんの少しだけ軌道修正をかける――奴の狙いに逆らわず、プラスに補正するからこそ抵抗されない。
奴が選択する中に、補助までは含まれていないということ。
それは強化であって阻害ではないのだから――だが、来る場所がわかっていれば防げる。自己への干渉を例外なく防ぐのではなく、選べてしまうからこそ突くことができた弱点。
もちろん、それでも綱渡りであることは変わりない。
一手でもミスすれば即座に死。というか、気づかれた段階で奴が魔術を弾くだろう。
気づかれた段階で。
「――っ」
アルベルが、俺の補助を打ち切った。
当然、もうこれで俺は《運命》を使えない。使えはしても、どこから届くかもわからない超威力の砲撃を、的確に防げるほどの能力はない。
――だが。
その一瞬の隙で、俺にとっては充分だった。
ほら。まだお前は俺に騙される。
嘘をつかなくても人は騙せる。
真実ですら人は踊る。
途中で気づかれて利用されるより、自分で教えてタイミングを測ったほうがいいという話であって。
――その刹那の間に、
「《駿馬》」
脚力強化――ひと息に、奴の懐にまで潜り込む。
この距離なら、お前も強力な攻撃なんぞ使えないだろう?
俺の攻撃はお前に通じなくても。
お前自身の攻撃は、確かにお前に通じるのだから。
「その程度の、足掻きで――」
だがアルベルは、その程度で臆すほど弱くはない。
奴の掌に集中する魔力。その規模は、これまでで最大のものになっている。
いかに魔力量が増えようと、一度に使う量には必ず限界がある。それを超えようというのならば――魔人とて、その反動は例外なく受ける。
俺もまた、限界などとうに超越した魔術の連発によって、全身が魂ごと軋んでいた。ただでさえ、言ってみれば死後の世界にすら近いような異空間だ――肉体以上に精神が持たない。
――知ったことか。
元より、魔術とは互いの我の測り合いだろう――!
「――舐めるな、アスタ=プレイアスゥゥゥゥッ!!」
「終わりだ、アルベル=ボルドゥック――ッ!!」
結界空間が。
強大な爆発に耐え切れず、ついにひび割れ、弾け飛んだ。
※
「……世界を救うんです。いいですか、世界ですよ――大きいと思いませんか?」
魔法使いの言葉は、言う通り確かに規模が大きい。
大きすぎて、まったく理解できないレベルだ。
そもそも少年にとって、世界とは自らの認識する狭い視界のことでしかない。そんなものを救うと言われても、ぴんとは来ないのが本心だ。
それでも、魔法使いの言葉はすっと意識の隙に潜り込む。
まるでそうなることが運命だったかのように。
ようやく、その事実を理解したかのように。
「ですが、それは僕ひとりではできません――弱い人間ひとりに適うことではない。だから助けが必要です。あなたに、助けてほしいのです」
「なんで――俺に」
「貴方がそれに足る能力を、才能を、未来を、可能性を――価値を持っているからです」
「…………」
「だからその前に、その対価に、俺がお前を救おう。俺がお前の世界を救う」
「俺の……世界を」
「自己の世界を救えぬ者に、より大きな範囲を見ることはできない。だから選べ、アルベル――選び、この手を、取るがいい」
――いつだって。いつまでだって。
その日のことは忘れない。忘れられようはずがない。
何もなかったアルベルの世界が。
色を、音を、温かさを、味を、匂いを――全てを取り戻した瞬間なのだから。
それを与えてくれた誰かに、恩返しをするのは当たり前のこと。
求めてくれたのだから。与えてくれたのだから。その分を返すために自分は生きよう。
そう誓った。
そう選んだ。
だからそれ以外の全てを拒んだ。
そのせいだろう。
それが自分の願いではないこということに。
――彼は結局、最後まで気づくことができなかったのだ。
※
その刹那に――。
いったい、どれほどの魔術的攻防があったかなど、傍で見ている人間にはわかるまい。
ほとんど自爆に等しいアルベルの特攻。それを爆発の威力を逸らすのではなく、あえて一点に抑え込むことで抑えたアスタ。自爆しながら致命傷を避ける――ふたりの戦い方は、実によく似通っていた。
切り返しの攻撃は、だがアルベルには通じないはずで――けれど。
自己の攻撃で右腕を失ったアルベル。わずかに揺らめいてしまったのは、冒険者としての彼が傷に慣れていなかったせいだろう。
それが差だった。
同じだけの覚悟を持って。
似たような視点に在って。
けれど明確に違う道を歩んできたふたり。
まったく違う能力を極めた魔術師。
弱さに打たれて強さを求め、痛みを避けて逃げて隠れてきたアルベルと。
弱さを受け入れてなお進み、痛みを受けて耐えて飲み込んできたアスタとの。
単純な、我慢比べの、わずかな差。
ほんの一瞬、ほんのわずかなラグを魔術の起動に生んだアルベルと。
左腕を喪いながら、一切揺るがずに魔術を起動したアスタとの。
逃亡使いと。
印刻使いの。
速度比べは――後者に軍配が上がっていた。
二の腕から先の消失した状態で、アスタはその場に膝をつく。
限界など、とうの昔に過ぎ去った地点だ。
魔術の反動と外的負傷の両面に苛まれ、片腕を欠損した状態を、果たして勝利と呼べるのだろうか。
「づ、っ――ぁ……く、そ……痛、あ――腕、ああ、ピトスを思い出す畜生……!」
本人から反論が来そうな台詞を吐くアスタだったが、突っ込む者はいない。
ただ、解とは違う答えを、それでもわずかに問うものはあった。
彼の目の前に立つ、アルベル=ボルドゥックだ。
《木星》の号を冠する魔術師が、アスタとは反対の右腕を欠損した男が、立ったままで小さく問う。
「――ひとつ、教えろ。アスタ=プレイアス」
※
「んだよ……教えるわけねえだろ」
俺はそう答えた。
なんだって、お前なんかにネタバラシをしてやらなきゃならないのか。
だいたい――それ以前。
黙り込んだ俺にアルベルは重ねて言う。
「なぜ。いつの間に、どうやって――僕の術式を破った?」
「……それは」
「わかっているさ」アルベルは、言う。「これは敗北宣言だ」
そう呟くアルベルは。
右腕を失い――そして胸の右側に大きな穴を開けている。
焼け焦げたような負傷は、まるで雷の槍に貫かれたかのように黒ずんでいる。血さえ流れていないのは、患部がまるごと焼き塞がれたから。――《巨人》の力だ。
いずれにせよ、致命傷であることは間違いない。
むしろ、今こうして生きていることが、魔人の生命力を物語っているのだろう。
「僕には……最後まで、なぜ敗れたのかがわからない……」
「……そんなん、決まってるだろ。お前が自分の術式にどれだけ自信を持ってたのかは知らねえけど……それでもそれは魔術なんだ。魔術が、魔術で――破れないわけねえだろうが」
「だが……ぐ、がふっ……君は、そんなもの、使う……暇など」
「――《自分でできないことは、できる誰かにやってもらう》」
「――――」
「それが俺の座右の銘でな……自分で文字を駆けないなら、そら、お前に書かせる以外にねえだろ。なんのために、わざわざぐるぐるあっちこっち逃げ回ったと思ってるんだ?」
「……? ……まさ、か――」
「お前が歩いた軌跡だって、俯瞰すれば文字だろう」
「逃げる君を、追わせ、ながら……その歩いた道筋を文字だと解釈した、というのか……実際には、存在し、ないのに……!」
「そうすりゃ簡単、術式の発生源はお前自身だ。魔術で魔術を破れる以上、攻撃も通じるようになる――言っただろうが、あのとき。もう勝ってる、って」
胸のペンダントを押さえたまま、俺は言う。
アルベルは何も答えない。その余力が残っていないのかもしれない。
かと思えば、それでも奴は口を開き――言った。
「……くそ。結局、負けるのか――僕は」
そう呟きながらも、だがアルベルはどこか笑みらしき気配を浮かべている。
「だが負け惜しみを言うなら、僕は負けても、僕らは負けていない……」
「……もう喋るな。苦しいだけだろう」
「馬鹿を言え……君に同情されるなど虫唾が走る」
アルベルは揺らがない。
致命傷を負い、もはや回復の手立てなどなく。
それでも、倒れることすらしない。
「だが……ぐ。ふ――それでも、呪いは、残して……おこう」
「……時間がないぞ。言うんだったら、早くしろ」
「先に逝く。覚えておくがいい! 君が来る日を――僕はいつまでも待っている!!」
最後の力を振り絞るように、血を吐きながらもたらされる呪詛と怨嗟。
俺は、その言葉を、ただ聞いていた。
きっと、それが俺の義務だろうと思うから。
「ああ――申し訳ありま、せん、でした……貴方の、力、に……最後、まで――」
そして。七曜教団幹部《木星》、アルベル=ボルドゥックは。
最期まで、自身を救った夢の先を見据えたまま。
――まるで勝ち逃げするように、逝った。
※
元の空間に戻ってきて。
俺は、バランスを崩しながら近くの壁に寄り掛かった。
「くそ……あの野郎。これは……いや、わかってるよ、キュオ。そこまで馬鹿じゃない」
腕一本。
魔神を殺すために犠牲にした対価には、安いと考えるべきだろうか。
ペンダントから逆流するキュオの魔力が、俺の傷をわずかずつ癒していく――とはいえ、いくらなんでも千切れた腕を再生するほどの機能はない。
切断ならまだしも、爆発で千切られ、二の腕から先は消し飛んでしまったのだ。さすがに、これはもう再生を期待できない。……義手の手配を、エイラに頼んでおかなければ。
壁にもたれたまま、静かに息を整える。
けれど休息は、生憎と本当にわずかしか得られないらしい。
廊下の向こうから歩いてくる、ひとつの影を俺は見た。
「……腕。取られたんだ」
黒の長髪を流す少女。
見慣れたはずの、見慣れない容姿。
シャルロット=クリスファウストの姿が、そこにあった。
「いや。腕程度で、よくアレに勝ったと言うべきかな。死ぬと思ってた」
「……酷いこと言うなあ、シャル」
俺は軽々しい感じでそう言ったが、シャルは表情をまったく動かさなかった。
……駄目だな。
もう本当に、別人かってくらいに感情がなくなってしまっている。
「――ま、別にいいさ。右腕がありゃ煙草は吸える」
「そう」
小さく答えるシャルは、特に魔術を使うような様子を見せなかった。
それでも俺は軽口を叩き続ける。シャルがどんなに態度を変えていようと、俺まで態度を変えるわけにはいかない。
役目があるとするのなら、それは変わらず、いつも通りであることだけだろう。
「――で? 弱ったところでとどめを刺しに来たって感じっすか」
「別に、最初からわたしひとりでもよかったけど。ソレが譲らなかったから」
倒れ伏すアルベルの死体を見て、淡々とシャルは語る。
薄情、では、ないか。別にふたりは仲間でもなんでもないのだから。
「なんだよ……強気じゃん、シャル。いや、前からそんなだっけ?」
「どうでもいいよ」シャルは首を振った。「誰が強いとか、誰が勝つとか。そんなことに興味ないから。わたしはただ、わたしが造られた理由に沿って動くだけ」
「……やる気か」
「そうだね――そうなるかな」
「……言っとくが、そう簡単にやられねえぞ、俺は」
「一対一ならそうかもね。別にわたしも、そっちが弱いとは思ってないから」
「何……?」
「だったら効率を上げるだけでしょ。ほら――援軍も来たことだし」
はっとして、俺は咄嗟に背後を振り返った。
その視線の先に俺は、シャルよりさらに小柄な人影を見つける。
アイリスだった。
さきほど別れ、シャルを追っていったはずの童女。
だが、なぜかシャルとは逆側から来て、しかも俯いたままこちらを見ない。普段とは様子がまったく違っている。
……ああ。これは、そうか。
そういうことか。
「……どうした、アイリス。なんか元気ないな?」
俺の言葉に、アイリスは何も答えない。
そんなことはこれまで一度だってなかったのに。
この時点で状況はわかっていた。
いや、あるいはもっと、ずっと前からこうなることは予測していたのだ。
きっと、アイリスが初めて俺のところに来た、あの日から。
なくした片腕を軽く抑える。わずかな血が指についた。
出血がわずかで済んだことは、この際だ、不幸中の幸いと言っていいだろう。焼かれて酷く醜いが、キュオの魔力が痛みを和らげてくれているため、行動には支障がない。死傷ではない。
「なあ。アイ――」
それでも言葉を繋げようとした俺の、その目の前で。
アイリスが、弾かれたように視界から逃れた。
――次の瞬間。
まるで野生の獣のような俊敏さで接近してきたアイリスが、俺に向かって腕を振るった。
残った右手でなんとかギリギリ、その攻撃をいなしつつも吹き飛ばされる。――だがアイリスは、魔術師にとっては触れるだけで厄介だ。
「う、ぐ――ぁ」
強烈な気だるさが全身を襲う。
アイリスの異能――《略奪》によって魔力を強引に奪われてしまったせいだ。
心臓が燃えるような熱を発して跳ね上がる。
相変わらず、これは……キツい。
「――よそ見してるとすぐ死ぬよ」
そして、攻撃はそれだけではなかった。
というか、アイリスが追撃してこなかった時点で察するべきだった。
人差し指を銃口に見立て、こちらを狙うシャルがいる。
俺は咄嗟に右手を地面につけた。
「――《魔弾の射手》」
「《防御》――ッ!!」
咄嗟に構築した防壁が、シャルの魔術の前を塞ぐ。
だが、それだけだ。
元より俺の能力は、こうも真正面から攻撃を防ぐには致命的に足りていない。
火炎の弾丸が、魔力の盾を貫通して背後に飛んでいく。当たらなかったのは偶然に近い。
「……血文字。よくもまあこうまで頭が回るね――感心するよ」
「おいおいシャルさん、容赦ないね……っていうか、いくらなんでもアイリスを援軍にしてふたりがかりとか、ちょっと大人げないんじゃないの……?」
「じゃあ、その子が操られてることには別に驚かないんだ。わたしがやったかもしれないのに――怒らないの?」
「……そういやお前は、使い魔の作成が得意だったな」
「笑わせるよね。わたし自身が、作られたようなモノなのにさ」
「……、」
「――それからひとつ言っておくけど」
シャルが再び、俺に向かって指を差し。
言った。
「――ふたりがかりなんて、わたしは言ってない」
直後。
俺は持てる限りの力を振り絞って、魔術で壁をぶち抜いた。
嫌な予感。その直感に従って逃亡を図ったのだ。
そして。
飛び込んだ隣の広間の中で。
「ああ。――そうやって、貴方はここに来るだろうと思っていました」
「……お前に立ち塞がられるのは、これで二回目だったかな……?」
七曜教団幹部《土星》――クロノス=テーロ。
その、静かな立ち姿を目の前にした。
「とはいえ、それは貴方が《木星》を倒した場合の話で。まさかそうなるとは、実のところ思っていなかったのですが」
「……その疲労困憊の俺を、こうやって狙うってのはちょっと卑怯じゃない?」
「貴方は追い込んだほうが恐ろしいですからね。確実性を取らせていただいたというわけですよ」
「クールだな、アンタ……なんで教団なんぞに入った」
「入ったわけではなく、初めからいただけです。――ただ、命じられたことをやるだけです。仕事を――与えられたとおりにこなすだけ」
前に鬼の魔人。
背後に人造人間。
そして味方だったはずの人造鬼。
三方を囲まれて、俺は完全に逃げ場を失っている。
アイリスやシャルに至っては、倒してはならないという縛りまでついていて。
三対一ときたものだ。
――やべえ。




