5-24『神の文字』
――さてさて。
さて。
……これからいったいどうしたもんでしょうね?
と、俺は考える。
実は言うほど有利な状況ではない。というか、一回マジで殺されなければ勝ちの目すらない相手だったという時点で、そんなことはわかりきっているのだが。
御託を並べ、偉そうに煙草を吸い、余裕の笑みを浮かべる――こんな手法はどこまで行っても俺の常套手段でしかなく、では実際にそこまで超越しているのかと問われれば、当たり前だがそんなことはない。
まあ、そうでもなければ、これは文字通りに命を拾えなかっただろうが。
「……ふう」
と、息を吐く。
同時に零れる紫煙は、魔力を大量に含ませて、この異空間じみた魔法使いのねぐらへと拡散されていく。俺と、そして《木星》――アルベル=ボルドゥックを覆うように。
胸のペンダントに軽く手を触れ、それを俺は指で弾いた。
アルベルは、その様子を細い視線で見ている。意味を見透かし、真意を探るように。
当然、そんな行為にはなんの意味もない。しいて言うなら気合いを入れようという近いみたいなもので、実際的な効果は皆無だ。
それでも、アルベルは俺の行動の裏を読んでこようとするだろう。
ペンダントを弾いたのにはなんの意味があるのか。
俺が息を吐いたことには。
下ろしている手には。
動かないという動作にはどんな意味が隠されているのか――。
奴は疑う。
言ってみれば、それ自体が狙いのようなものだ。
それは魔術師として当然の注意ではある。長けた使い手ほど行動から無駄が省かれ、どんな行為にすら魔術的・儀式的な意味を持たせていくことになるのだから。
たとえば教授なんかのように極まれば、その一挙手一投足――息遣いから、発汗、果ては親族の脈動に至るまで全てが魔術的な儀式になってくる。それ自体がひとつの詠唱行為であるかのように。
無論、そこまで徹底できる魔術師はむしろ稀有だが――とはいえ。
魔術師は、無駄な行いをしない。
それが原則だ。
だが、俺はする。
そりゃそうだろう。弱い俺が、魔術という土台の上で競い合うことのほうが間違っている。
武器にするならそれ以外のところでなければならない。
だから、俺はセブンスターズの印刻使いとして名が知られている。
アスタ=プレイアスという個人は無名でも、紫煙の記述師という存在だけは有名だ。
煙草を持ったルーン魔術師。
相手は疑う。それが何をしてくるのか。どんな魔術師なのか。
それを利用するのが俺のやり方だ。
意味のない行動さえ、意味があるのだと思わせる意味を持つという矛盾。
騙し、
偽り、
欺き、
謀る。
物語の主人公には到底なれそうにない人間だ。
それでいい。
だから言う。
「――ほら。考えてるか、アルベル? 次に俺が何をしてくるのか。どうやってお前を倒すのか――」
「……」
「考えろ。その予想を超えるのが、俺の役割だ」
体のよすぎる逆転現象だ。自分で自分が笑えてくる。
強大な敵を前に、それを打倒する手段を自ら考えるのではなく。
相手自身に、考えさせようというのだから。
教授のことを笑えないまでの怠惰。ま、勝てないなら勝てる奴に戦ってもらうというのが俺の信念であるからして。
――お前なら。
お前に勝てると信じておこう。
「……だからどうした?」
と。
しかし。
アルベルは言う。
「そんなものは脅しにもならない。君では僕を下せない。これはただの事実だ」
「だったら、いつまでも呆けてないで、ほら。俺を殺してみせろ。今度こそ――確実に」
「言われずとも――もうやっている」
瞬間、がらり――と空間が震える。
まるで地震でも起きたかのような強い衝撃が、屋敷全体を揺らして――いや。
地震ではない。
時間の捻じれたこの場所で、そんなことが起こるはずはない。
俺は笑った。
「ずいぶんと直接的な手段を採ってくる……!」
「魔人になったことの利点は、何もこの術式を完成させたことだけじゃない」
アルベルは言う。
そりゃ、その通りだろう。
俺にとって――いや、全ての魔術師が突きつけられる、魔人に対する決定的な敗北要素。
それは、
「――単純に、扱える魔力量」
空間が、直後――圧縮される。
周囲の空気そのものが、巨大なプレス機になったように、全方位から俺に向かって収縮するのを理解した。
ああ、その通り。正解だよ、アルベル。
お前は、あんな裏技じみた反則に頼る必要はない。
圧倒的な力の差によって、正面から俺を殺せばいいだけなんだ。
考えてみれば単純なことではある。
逃げることは、隠れることは――すなわち《位置》の問題だ。
三次元空間の把握など、奴にとっては呼吸以上に容易い自律行動。
ましてここほどに滅茶苦茶な、世界の底に近い空間ならば、それごと圧縮するくらいのことは簡単にやってのけるだろう。
破壊は不能。
破戒などなお無謀。
純粋にして強大な力を前に、俺はあまりに無能だった。
そんなこと――何度だって指摘されてきたことだ。
だからダメだ。
お前は、まだ俺の想像を超えていない――。
「――《氷》」
刹那。ブラックホールのように辺りを呑み込んでいこうとした空間が、まるで凍りついたように停止する。全てのエネルギーに対する否定の如く。
空間固定に対する空間圧縮。
なんのために、紫煙を撒いたという話だ。
「なるほど」
と、アルベルは呟いた。
それがひとつの確認行動であったと示すように。
「魔力が増えたのは、君も同じというわけか」
「厳密には違うな――単に俺の場合、一度に使える量が増えたと言うべきだ」
「あの呪いを解くとはね。さすがはキュオネ=アルシオン、とでも称賛しておこうか」
「友達を褒められるのは気分がいいが――なんだ、おい。ここは俺を褒めるところだろう?」
「そうだね」意外にもアルベルは認めて頷く。「《氷》のルーン――確かにそこには停止の概念があるというが、その程度で空間ごと止める魔術師は君くらいだろう。印刻使いの号は伊達じゃない、というわけだ」
「今さらだろ?」
「そうだね――今さらだ」
びぎり、と、空間にひびが入る。
まるで目に見えない空気そのものに亀裂が走ったかのような、異様な光景。
もし俺の魔術が十全に働いていれば、そんなことは起こり得ない。
ということは、つまり。
「……わかってきたよ」
と、アルベルは言った。
俺は肩を竦めて、何がだよ、と問う。
奴は答えた。
「君の蘇生――そのからくりが、というわけさ。そういえば君は、実のところ今は学生だったね。なら、お勉強は得意というわけだ」
「誰かさんたちのせいで、いろいろ厄介な事情を抱えてたんでね。座学でしっかり点取っとかないと退学になっちまう」
――ああ、これはバレたな、と俺は悟った。
まあ、それはこの時点ではすでに意味を持たないのだが。
どうせ二度とは使えない手段だから。
「ただ、わからないな」
アルベルは言った。
さきほどとは正反対の台詞だった。
「……それなら何も、別に、死ぬことはなかったんじゃないのかな」
「殺しておいて、殺した奴が何言ってんだよ」
「それを言われると返す言葉もないが」
苦笑するアルベルには、ほんのさきほどまで抱いていた怒気や敵意が一切欠けている。
その意味で言えば、ああ確かに、この男は実に俺に似ている。
「ただ、君はあのとき――どうも意図的に死んだように見えたからね。それが不可解というわけだ」
「…………」
「君の手口は知っている。そんなものに僕は釣られたりしない。君では僕を騙せない。偽れない。誤魔化せない。陥れられない――派手なパフォーマンスで余裕を演じてみせるのは、なにせ君の常套手段だからね」
これだから。
俺と同じタイプの魔術師とやるのは厄介なんだ。
「肉体の死と魔術的な意味での死は違う。心臓が弾け、肉体を殺された君は、医学的に言えば死んでいたのかもしれない。だが魔術的には違う。魔術で言う死とは、肉体と魂魄の乖離――それを繋ぎ止める精神の消滅だ」
「…………」
「肉体の死と精神の死。それによる魂魄の消滅までのわずかな時間――そのタイムラグの内に肉体を直してしまえば、戻ってくることはできるというわけだ」
正解だった。
肉体が死んでも、魔術で言うところの《魂》まで消えるわけではないことは、すでにキュオの存在が証明している。
それを繋ぐ精神が失せ、肉体もなくなってしまった以上、キュオが生き返ることはない。今は世界の裏側で、情報だけの存在として残っているキュオも、やがては消えてしまうだろう。
だが。
肉体が損壊したその瞬間――ほんのわずかな時間の内に、肉体そのものを元通りに戻してしまえば。
――理論上、戻ってくることは可能だということ。
キュオネという存在が、天才錬金魔術師エイラ=フルスティの手による魔具に封じ込められ、それを俺が持っていて、かつルーンの補助を使い、そして事前にタイミングを合わせておく。
そこまでやって、初めて可能となるひとつの裏技。
ただ、それができることは、すでに証明されていた。ほかでもない教団の連中によって。
思い出したのは《水星》――ドラルウァ=マークリウスのこと。
奴は殺されても死なない。変身と変心による三要素の魔力変換と保存によって、死を捻じ曲げることに成功しているのだ――俺はその真似ごとをやったに過ぎない。
無論、あの群体女ほどの確実性は存在していないが。
そもそも魔人になる、ということ自体がある意味で一度死んで生き返るようなものだ。
奴らの肉体は今、魔力という要素に変換されている。それによって世界という概念に接続を可能としているわけだ。
それを、ほんの一瞬だけ真似取ったというだけ。その手のことはメロや教授が長けているのだが、俺もまあ、一回くらいならやってやれないことはない。
「なるほど、そんなことを考える頭も、実際にやってのける精神も、狂っているとしか言いようがないね――実に不快だ」
「どんな技術だって模倣から始まるもんだろ。真似されんのが嫌ならこれ見よがしにやってくるんじゃねえって話」
「そういうことを言っているわけじゃないが……まあいい」
びしり、びしり――と。
次第に空間の亀裂が大きさを増していく。
「時間稼ぎは済んだかい?」
アルベルが言った。
俺の空間固定は、アルベルの空間圧縮に押されている。
まあ俺もアルベルも厳密に言えば空間そのものに干渉しているわけではない――それは二番目の独擅場だ――が、空気でも大気でも空間でも、結果だけ見れば似たようなものである。
「……いくら呪いの半解呪で出力が増したといっても、あるいは本当に全盛期の力を取り戻したとしても。それでも、魔人には遠く及ばない。その結果がこれだ」
「えー、この程度でー?」俺は煽った。「魔人にまでなって、俺程度にここまで拮抗されちゃうようじゃむしろダサくないですー? もっと出力差ってのを見せてくれてもいいんじゃないですかねー?」
「ああ」アルベルは、笑った。「じゃあそうしよう」
直後。
空間が――砕けた。
「あ、」やべ。
思ってたより強かった。
ていうか、こいつ魔人だった。
余裕かましすぎた。
――起きたのは爆風。
圧縮の力。それに対する抵抗――その反動すら力に変えて、大気が文字通りに、俺を中心として大爆発したのだ。
「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ――!?」
爆発は当然、辺りの床や壁すら砕いていく。
というか俺がそうした。
紫煙。
煙。
流れ。
それは空間に満ちていく風。流動。
爆発の威力を、魔力で思い切り捻じ曲げたまま、俺はさらに床から一階下に飛び込む。
「……、軽口を叩く余裕があって結構だ」
「うるせえボケ!」
「しかし、大口を叩いて逃げるとは無様だね」
「うるせえボケ!」
二度同じことを言う俺は、滑稽というか小物じみていた。
圧縮による爆発が一点に集中していたお陰だろう、余波はあったものの、階下で逃げ延びた俺は、そのまま走って逃げようとする。逃げるよ。そりゃ逃げる。
――その進路の先に《木星》が現れた。
「同じことの――」
「――繰り返しってか!」
答えると同時――否、それより先に用意していたルーンを起動する。
豊穣。
そして一日。
実りと循環を足し合わせたルーンが、崩れた建物それ自体を元通りに修復していく。
まるで時間を巻き戻すように。
いや、それどころか建物はさらに形を変えていく。
なぜなら。
ここは時間によって形を変える、魔法使いの根城である。
「相変わらず出鱈目な解釈を……!」
「ここがどこで、俺が誰の弟子かって話だよ!」
無論、実際に時間が巻き戻っているわけではない。これは単に屋敷の構造それ自体を利用して、その内情を作り変えているだけだ。
でたらめに形を変えていく建物が、俺とアルベルの距離を切り離していく。
「地形の把握は戦いの第一歩だぜ、《木星》。相手のホームグラウンドで戦う不利を知れ! そんでもって――巡れ!!」
「ぐぅ……!?」
俺のルーン解釈は酷く恣意的だ――それは利点であり、一方で不便なところもある。
要はその文字が、どういう魔術になるのかを厳密にイメージできていなければ、俺はルーンを使えない。
これが《火》とか《水》ならマシなほうだ
だが正直、たとえば《軍神》とか、今使った《一日》なんかは、初めどう使ったらいいものか迷いに迷った。結果として酷く限定的な効果しか生み出せなくなってしまったのだが――
「これは……、ぐ」
「――《魔力酔い》ってヤツだぜ」
《一日》。
それは日々のサイクルを示すルーン文字。時の流れ、太陽の巡り。ひとつの終わりと新たな始まりを示す展開と循環のルーン。
等価交換の原則さえ崩す――否、騙すそれによって今、周囲の魔力が、消費したエネルギーがアルベルに逆戻りしているのだ。
それだけなら、大して意味はない――というか使った魔力を相手に回復させるとかいう暴挙じみた行為でしかないのだが。
相手がアルベルなら――魔人ならば話は変わる。
奴の魔力は、厳密に言えば奴という個人の所有物ではない。大本が。
この世界そのもの――人間という一個人とは比較にもならない膨大な魔力の渦から、引き出し、借り受けているだけのものだ。そんなものが逆流すればどうなるか――答えは単純。
魔力が体に毒だなんて、そんなことは魔術師じゃなくても知っている基礎なのだから。
俺は一気に、開けた距離を再び詰めていく。
胸を抑えて意識を整えるアルベル。その無防備な身体を、直接殴りに行ったのだ。
――だが。
アルベルは、その程度では止まらなかった。
「……結局はこの程度か」
小さな呟きが俺の耳にまで届く。
それは落胆だった。明らかに悲しみの感情が含まれていた。
「騙すことしか、裏切ることしかできない――それが君の限界だよ」
見れば、アルベルの手元がわずかに光っている。
それは魔力の集中を意味するサイン。奴はこれでも冷静だった。
余裕を気取り、冷静を演じ、疑念を種に焦燥を開かせ、敵を陥れるのが俺の戦いだ。
それを、きっとアルベルは――ある意味で誰より知っていた。
だから通じない。
このとき、この瞬間にこそ、俺が決着をつけに来ると知っているから。
罠に嵌めたつもりが、いつの間にか逆に嵌められているような。
そう。たとえほかの誰が俺を見下そうと。
――アルベル=ボルドゥックだけは、決して俺を下に見ない。
「っ――!」
俺は持っていた煙草を正面に向かって放り投げる。
橙の光が、軌跡すら描かず灰を散らしながら落ちていく。
咄嗟に撃ち出した魔術は、けれどアルベルをすり抜けて通っていった。
木星、という星。
それは強大な重力で盾となり、ガスに満ちたその身に地球への隕石を集めているという。
いわば――それが奴の在り方だった。
「――死ね」
そして。アルベルが、魔術を起動しようとする。
――その瞬間。
だから俺は、同時に口を開いて言った。
「――――――――■■」
光が、弾け――そして消えた。
何が起こったわけではない。
それは失敗だ。アルベルが魔術を失敗したという事実。
もちろん偶然ではない。
この状況で制御を誤るほど、アルベルは間抜けな術者ではない。
その間に、俺はアルベルの目の前へと迫っていた。
左手でその胸倉を掴む。
掴んだ。
触れられないはずの男を、逃がすことなく手で触れている。
「なん、だ――今、のは……!」
「言っただろ。――始まりを見せてやるってな」
地球の神話を思い出す。
といっても、地球にいた頃は知らなかったのだけれど。
俺はそこまでオカルトに傾倒していなかった。
それを教えてくれたのは、珈琲屋だ。なんでか地球の伝承に詳しいあの男の言葉。
今、俺はそれを言葉に変える。
「――オーディン。ルーンでは四番目の文字である《主神》、それが意味する神だ。伝承によれば、彼はルーンの秘奥に触れるため、九日の間を木に吊られ、槍に貫かれたまま過ごしたという。自らの命を、神に捧げたというわけだ」
「なん、の――話を……」
「そのとき彼が取得したルーンは、共通二十四字とは異なる別種のルーン。さてアルベル、俺がなぜ死んだのかとお前は聞いたな?」
首を締め上げられたアルベルの体は、枯れ木のように細く頼りない。
俺だって戦士ほど鍛えているわけではないが、それでもこの男よりは冒険者に近いだろう。
「――もう、わかったんじゃないか?」
「ならば、あのルーンは――まさか」
十八あるという神の文字。
俺にとっての切り札のひとつであり、今までは魔力量の関係から封印されていたもの。
それを今、俺は取りに行っていたという話。
文字としての形すらわからない。
印刻とは到底呼べない。
それでも――まあ、使えるなら別にそれでいいだろう。
敵への呪詛を意味するルーン。
敵の持つ武器をなまくらに変えるというそれ。
役に立たないもの。
魔術の発動さえ阻害するもの。
「お前は魔術師で、魔術を使っているから触れられないわけだ。なら――魔術が使えなければ触れるのが道理だよな?」
――喰らえ。
と、俺は握り締めた右の拳を、アルベルの顔面へと叩き込んだ。




