5-21『vsクリィト=ペインフォート』
それはたぶん、遠いいつかの決意の記憶。
記憶の海の奥深くに、ひっそりと沈められて久しい小さな欠片。あまりにもささやかで、思い出すことさえ難しい過去だ。
そもそも少女は過去を思想しない。
未来に懸想しない。
起点も終点も知りはせず、ただ現在を疾走するだけのモノで在り続けた。そう在るべきだと信じていたし、それを後悔することもない。だって、後悔なんて行為自体が、過ぎ去ったモノを思うことだから。
だとしても。
いつかのどこかに、今の彼女を形作った何かがあることは間違いない。
そう。それは寒い冬の日のことだった。
思い出すことのない彼方の記憶。
けれど確かに、遥かの温かな陽だまりは、揺籃のような優しさで彼女を包んでいた。
※
「――ねえ」
と、少女は声をかけた。
それは少女にとっては酷く珍しく、必ずしも必要な行いではなかった。
自分ではない誰かというものに興味を示すことなんて、これまでほとんどなかったのだ。
それが自分より強い存在ならばともかく、まして明らかに自分より弱いとわかる相手に声をかけるなんて、彼女のそれまでを知っていればあり得ないとさえ言えることだった。
「あ、なんだよ。つーかまだ起きてたの?」
しかし、だというのに。
焚き火の向こうで寝ずの番をする少年は、そんな、酷く億劫そうな反応を示すだけだった。
それがなんとなく気に入らない。
むしろ途轍もなく気に入らない。
せっかく話しかけてやったというのに――そう、考えてみれば、ずっと暇そうにしている彼に対し、気紛れにも会話相手になってやろうという優しさから話しかけた気がする。うん、そういうことにしておこう。
だから彼女は魔術を作った。
少女にとって、それがただひとつだけ知っている、他者との交流の手段だったから。
いっそ惚れ惚れするほどの速度と精密さで、けれどほかの誰にも理解のできない不条理さから象られた魔弾が、焚き火の仄かな明かりを超えて、正面の少年に飛んで行った。
「どわぁああああぁっ!?」
ほとんどひっくり返る形で、少年はなんとか魔弾を躱す。
どすん、と少年の背中が地面にぶつかる音がした。いい気味だ、と少女は笑う。
「な、何すん――何しやがる!? 危ねえだろ!!」
「うっさいな。当たってないんだからいいでしょうが」
「そういう問題じゃなくないですかね!?」
ともあれ、空返事だった少年が、確かにちゃんとこっちを見た。
そのことに満足しつつ、再び少女は呼び声をかける。
「ねえ」
「なんだよ……いや本当になんだよ、マジで……」
「――――」
ぶつくさ言いながら起き上がる少年。
ただ、少女の言葉はここで止まってしまった。
だって、何を話すかなんて、そんなことは考えていなかったのだから。
そもそもが気紛れ、気の迷いの類い。
肌寒い夜の気候とか、漫然と眺めていた橙色の揺らめきとか、あるいは静謐に沈んだ森の闇の雰囲気とか。そういった要素がパズルのように組み合わさって、弾き出された答えが《話しかける》というものだっただけ。中身なんて考えてもいない。
――ねえ。
という、ただそれだけのぶっきらぼうな呼び声。それ自体が単に、少女にできた《真っ当な人間の真似ごと》がそれくらいだったというだけのこと。その発露でしかない。
押し黙った少女を見て、少年はどんな風に考えたのだろう。
妙な真似を、と訝しまれただろうか。だとすれば、どうしてだろう――少し、困る。ような気がする。
誰にどう思われたところで、そんなことはどうでもよかったはずなのに。
少女の評価は常に自ら下した絶対的なもので、相対的な評価になんて何ひとつ興味を持っていなかったというのに。
揺らめく炎の向こう側が、あまりちゃんと見えないことが今は幸運だった。
少年がいったいどんな表情をしているのか。知りたくない、と思ってしまったから。
「――なあ」
そんなときだ。今度は青年のほうから、そんな風に少女へ声がかかる。
少女は弾かれたように顔を上げた。それでも少年のほうは見なかったけれど、視覚以外の全神経を少年のほうへ傾注した。
それは、きっと傍で見ている分には、微笑ましい子ども同士のやり取りだったことだろう。
なんてことのない日常の一幕。
意味はなく、価値はなく、だからいつの日か記憶の海に沈殿し、どこか手の届かないところへ埋没してしまう、そんな取るに足らない断片。
そうならなかったのは、だから、そのとき少年がとんでもないことを言ったから。
「なあ。お前さ――友達いないだろ」
いやはや。まさかそんなことを言われるとは、正直まったく考えていなかった。
正確には何を言われるとも考えていなかったけれど、それでも、この言いようはあまりにも予想外というか、そう、あんまりだ。
少女は。
果たしてこのとき、少年になんと言葉を返したのだったか。
――それは、確か――。
※
「――《全天二十一式》」
メロが口にしたそれは、単なる魔術の名前であり、そして同時に詠唱だ。
あらゆる魔術を固有の方法で使いこなす《天災》にとって、だからあらゆる魔術は同じ使い方で発動する。拳銃や弾丸の種類は変えても、それを撃つという動作に違いがないように。
「第弐番術式、青の魔術――」
模倣と改造を同時に行うメロにとって、数少ない《名前つき》の魔術。
師である魔術師の、技ではなく在り方を反映させた、ひとつの切り札にして砲撃の極致。
「――《竜星艦隊》ッ!!」
放たれた魔弾は、ただ速度と破壊力だけに重点を置いた破滅のための攻撃。
文字通りの《破壊光線》。
竜の一撃にさえたとえられる魔弾使い、シグウェル=エレクの砲撃を元に編み出されたそれは、単純な攻撃性能だけならばメロの《覚えている》魔術の中で最上級のものだ。
ある意味、迷宮の中にいるというのは楽でいい。
どれほどの攻撃を考えなしに放ったところで、辺りを破壊してしまう心配がないのだから。
初手から全力。加減はない。殺す気でメロは攻撃を放った。
メロが全天式の名づけた魔術群は、《名前をつけたこと》それ自体に意味がある。
別段、威力や性能、効果が上がるようなことはない。
上がったのは速度だ。発動までの速度。
名前をつけて意識するという行いそれ自体が、その魔術の存在概念を強く彼女に刻みつける――ゆえに、名を呼ぶだけで発動できる。あるいは呼ばずとも意識さえすれば。
名前をつけるという行為自体が、ひとつの魔術儀式なのだから。
だが。
「は――いいねいいねいいぜいいぜいいぜ! いいじゃねえか天災、それでこそだァ!!」
全部で七条にも及ぶ青白い光の帯。
その全てが、まったく正反対の軌道で流れ出た奔流に相殺されていく。
《火星》の持つオリジナルの術式。彼から敗北を遠ざける概念魔術。
その効果は――《引き分けの強制》。
獰猛なその性格に反して、《火星》の魔術は恐ろしくその難易度が高い。
緻密で、精密で、ゆえに美しささえ纏っている。
七星旅団で言うならば、メロやシグよりもユゲルに近い。メロですら即興での模倣は不可能だろう。これを解析し、自分で使うには、年単位での研究が必要になってくる――それほどに見事な術式だった。
術式が解析できないということは、魔術的な破戒ができないということだ。
ただし。
メロはすでに、この魔術を一度は破っている。
「……全天二十一式、第一番魔術――」
膨大な光の波。それが消え去った迷宮で、再びメロは魔術を起動する。
「赤の魔術――《牙焔》」
瞬間、メロの背後から、火炎の身体を持つ獣が躍り出た。
魔弾でありながら、同時に使い魔でもあるという、矛盾を孕んだ攻性魔術。
ここまでは、前回の焼き直しだ。
前回の対《火星》戦で、メロは彼の引き分け術式の対象が《ひとり》に限定されていることを学んだ。つまり、こちらが複数になるだけでそれは突破できる。
――《勝ちたいのなら、勝てるだけの武器を創り出せばいい》。
七星の長の在り方を反映した、《創り手の魔術師より強い使い魔》という概念。兵器が持ち手を超えること――それを進歩と彼女は呼んだ。
「…………」
メロは無言。魔人になってなおこれを超えられない程度ならば、何度戦ったところで敵にならない。不愉快なその言論を訊くのはこれで最後だろう――二度も逃がすつもりはない。
とはいえ、相手は魔人だ。単純な性能だけを問えば、もはやメロですら相手にならない、それほど隔絶した存在となっている。
だから、というわけではないが。
それでも予想外ではあった。
「――いや。それはお前、いくらなんでもオレを舐めすぎってモンだろう?」
果たしてメロの創り出した使い魔は、《火星》の前に敗れ去った。
それはいい。それくらいはしてくると初めから踏んでいた。
意外だったことがあるとすれば、それは炎の牙持つ獣が、まったく同じ姿をした使い魔に敗れたことだ。
「……《引き分けの強制》」
「元から、術式を創る段階で考慮には入れてたんだぜ?」
二体の獣が、互いに食い合って消滅していく。
その向こう側で笑う獣は、おそらくより苛烈な熱を持つ。
「ほとんど道楽だったんだけどな。旧式の魔術を解体していく中で、たまたま思いついた《負けない魔術》――結局、使ったところでまったく面白くねえから封印してたんだが、それ以上にこれ……単純に使う魔力が馬鹿にならなくてよ。特にお前みてえなのが相手だとな」
べらべらと術式の謎を語る《火星》。
何を考えてのことか。単に、ただ愉快だというだけかもしれない。
「そりゃそうだ。起動するだけでも魔力を食うのに、相殺分の自動発動魔術だって当然、オレの魔力を持ってくんだぜ? いや、お前みたいに贅沢な魔力の使い方、オレにはなかなかできねえからよ。編み出したはいいが、格上には通じないクソみてえな魔術だったわけだ。せいぜい足止め用っつーか……いや本当、机上の空論ってヤツだよなあ」
だが。現在、《火星》の魔力に底はない。
魔人となったことで、魔術にかかる魔力全てを踏み倒せるからだ。
「――さて。今度はオレがお前に問う番だぜ、天災」
右手を開いた《火星》が、その手を後ろに引き絞る。
メロは自然、わずかに姿勢を落とした。言葉で説明された以上の脅威を、すでに彼女も理解しているから。
「この空間で今、俺を害そうとする概念は全て自動で相殺される。だが当然、オレはオレでほかの魔術を使えるわけだ」
「……、」
「この状況でどう生き残るのか。さて――見せてくれよ伝説ッ!!」
叫びと同時、前に突き出された《火星》手から、渦を巻く火炎が放たれた。
それは紅蓮の槍だ。螺旋を描き、対象の心臓を狙う火炎の魔弾。
「――っ!」
メロは咄嗟に、左手で魔弾を左に放った。
その反動を殺すことなく、自分の体ごと右側へと吹き飛んでいく。強引な移動、というより回避だ。
だが紅蓮の槍は軌道を変えて、メロの確実に狙っている。
「追尾……!」
わずかにとった距離。
その間に、だがメロは魔弾の解析を終えていた。
「――舐めてんのは、」
メロが創り出したのは水の魔弾。渦を巻くそれは、火星の魔弾と衝突して弾ける。
「どっちだっての……!」
まったく同じ魔術――けれど属性の違う魔術。
水は火に打ち勝ち、そのまま今度は《火星》を目がけて飛んでいくが、それはどこからともなく生じた水の槍が、正面からぶつかることで相殺した。《火星》にまでは至らない。
「……ああもう、めんどくさいな……っ!」
吐き捨てながら、メロはちら、と横合いを見る。
正確には、さきほど移動のために撃ち出した魔弾の向かった先を、だ。
壁に激突した魔弾は当然、迷宮の瘴気に阻まれ術式を終了している。相殺されてはいない。
だが、どうやらその程度では、この場所に巡らされた結界を壊すことはできないらしい。
メロは冷静だ。自身が今、詰将棋のように着実に王手へ迫られていることはわかっている。
このレベルまで来ると、《引き分けの強制》も馬鹿にはできない。というより、言ってみれば、こちらからの攻撃は通じないのに向こうから攻撃し放題みたいなものなのだから。甚だ不利な状況だった。
前回は、その術式の穴を突くことで勝利した。
だが今回は、魔力量の問題が克服されたことで、同じ手段は使えなくなっている。
よってメロは続いて、術式そのものを破壊することを考えたわけだが。
「おらッ、どんどん行くぜ天災ィッ!!」
続けざまに炎の槍が放たれてくる。考えている余裕はなかった。
――《引き分けの強制》。
言葉にすれば単純なものだが、それがどれほど高度な魔術によって処理されているかは想像に難くない。自らを害する攻撃だけを判断なく、まったく同じものをぶつけることで概念的に相殺する――魔術の理論的に言えば、はっきり言って不可能の域にあった。
それが自らを害する攻撃である、という判断の基準をどこに置く。相殺するための魔術は何が工面する。――メロは当たりをつけていたが、しかし破る手段がない。
それが、この空間に構築された結界によるものだということはわかっていたが、結界そのものを壊せない以上は意味がない。魔弾はその確認だった。
ならば。
残る方法は。
「――っ!」
刹那、幾筋もの軌道で襲い来る火炎槍が、空中で円盤に飲み込まれた。
魔競祭の試合で使った魔術。――《北落師門》。円盤型の魔力の《出入り口》を空間に設置し、その内部を連結する短距離疑似空間魔術。その扉に飲み込まれた槍は――そして出口として設定された円盤へと、距離を無視して内部を移動する。
そしてそれが、《火星》の周囲を飽和する形で射出された。
「そうだよなァ――」
だが《火星》は笑う。
こちらの攻撃が相殺されるなら、向こうの攻撃はどうか――なるほど。誰もが考える程度のことだろう。当然、《火星》がその程度のことに対策を取っていないわけもなく。
魔弾は、火星に当たる寸前で、それまでの勢いを全て失って急停止した。
そして今度は向きを変え、再びメロに向かって射出される。
「――そうだよね」
だからメロも笑った。
別段、《引き分けの強制》など関係ない。魔弾そのものを十全に制御下に置いていれば、自分に当たらない程度のセーフティは当たり前にかけられる。《火星》の技量なら、その程度は寝起きでも可能だろう。
ゆえに、メロにとってさえ、それは単なる時間稼ぎでしかなく。
――メロは駆けた。
撃ち出されてくる魔弾に、その先にいる《火星》に向かって自ら走る。
当然、槍はホーミングするように襲い来た。それをメロは、再び《北落師門》の扉――《魚の口》で呑み込んだ。それは別の出口から出て、再び別の入口へ――まるで無限の道のりを進むかのように循環し、永久にメロの元まで辿り着かない。
「なるほど――」
と、《火星》は笑った。確かに、これならばメロに放出魔術は通じない。
無限の道のりで迷子にされる以上は、それ以外の方法を選ばなければならなくなる。
これでお互い、遠距離攻撃を封じられたということだ。
メロはそのまま突進。最も苦手とする近接格闘を強制されたことになる。
それを逆手に取り、むしろ自ら仕掛けることで好機に変えた。なるほど戦いの天災らしい、メロらしい判断の速さだったといえるだろう。
だが。
そもそもそれ自体が、《火星》に強要されたものだ。
「――馬鹿が」
その拳は、あっさりと《火星》に掴み取られた。
メロは構わず、そのまま右足を振り上げて《火星》の脇を狙う。それは狙いを違わず、彼の腹部を痛烈に撃ち抜いた――が。
効果がない。
《火星》は獰猛に笑った。
「軽い。軽すぎる――そんなもんでオレに勝てるわけねえだろ、間抜け」
勘違いしてはならない。
いかに魔術に秀でていようとも、そもそも《火星》は獣の如く獰猛な、戦いに魅せられた怪物だ。その肉体は、ゆえに常人の比にはならないほど強固に鍛え上げられている。
そしてメロは、いかに魔力で身体能力を強化していようと、所詮は少女でしかなく、まして格闘の訓練など積んでいない。
腹筋で蹴りを止められる。
「……、……」
メロは何も言わない。
ただ、その足先がわずかに光った。魔力を放っている。
零距離射撃。
相殺するだけの距離のない攻撃ならば通じるのか。
果たして。《火星》もまた、何も言わなかった。
ただ光が弾け、メロの足先から放たれた爆発が――なんの効果も生まなかっただけ。
魔術は相殺された。零距離ですら。
そのエネルギーに応じて発生するはずの余波すら死滅して。
「実際、器用な真似しやがるとは思うが――」
直後だった。
ごぎり、と嫌な音が響く。骨の砕ける音だった。
メロの握られた右手が、それを掴む《火星》の左手によって――骨ごと握り潰された音だ。
強大な圧力で裂けた骨が肉を突き破り、メロの右手が血を撒き散らす。
ぐちゃぐちゃの腕。
その痛みに、けれどメロはわずかに表情を歪めただけで何も言わず。
「――結局のとこ。魔術さえ封じちまえば、天災もかわいいただのガキだ」
次の瞬間。
大の大人の、それも魔力によって強化された蹴りの一撃が。
小さな少女の腹を抉り抜いた。
「――っ、ぁ――が……、は」
内臓を破壊されながら、少女は静かに思い返す。
撒き散らされる赤。
それを見るのは、いったいいつ以来のことだっただろう――。




