5-20『各々の決意』
逃げられた。
それは逃がしたというよりも、逃亡を阻止するだけの力がなかったというべきかもしれない。むしろ自分のほうが、単に運よく生き残っただけとも言える。
まあ、どう転ぶかなんてわからなかったが。
実力に格差があっても、魔術師の戦いに絶対はない。
そのことを、シグウェル=エレクは誰よりよく知っていた。
「……、さてと」
シグは静かに呟いた。
相対していた《月輪》はとうに去っている。片腕と引き換えに、多少なりとも魔人を――おそらくはその中でも最強に近いノート=ケニュクスを――わずかな時間とはいえ足止めできたのなら、成果としてはこの上ないと言える。
彼がそれに満足しているのか、それとも不足とも思っているのかは、少なくとも表情から窺い知れない。意外にポーカーフェイスな男だ。
彼は今、片腕に腕を持っている。
七曜教団幹部《月輪》との戦いで失ったものを、自ら拾い上げたのだ。
シグとしても、腕がないよりはあったほうが便利だし楽だ。
逆を言えばその程度の認識でしかないとも言えたが、ともあれ、わざわざくれてやろうとまでは考えていないし、再びくっつくならそれに越したことはない。
千切れた腕を元に戻す。
この世界の、通常の医療技術では無論、望むべくもない奇跡。
だが魔術という別の奇跡に訴えることで、あるいは奇跡は再現可能となるだろう。その心当たりが、シグにはないわけではなかった。
それは、治癒魔術とはまた違ったものなのだが――。
「……まあ、俺のやることは決まっているか」
シグには別段、占拠されたオーステリアを取り戻そうというような積極的な動機はない。
教団の人員に対する恨みすら皆無だ。そういった感情が希薄な男だった。
彼の行動原理は、かつてまだ七星旅団が設立される前から、一度だって変わらない。
それによるとするのなら、今回、シグはこのまま戦場を離脱してもおかしくはなかったのだが――。
「…………」
ふと、シグは真下の地面を見遣る。
特に何があるわけでもない。そこにはただ、地面があるというだけだ。
だがシグは次の瞬間、足元に向かって魔弾を放った。
――――。
と、音が消し飛ぶほどの、それは砲撃にも似た光の奔流。
《魔弾の海》にして《超越》とも称される彼の魔弾は、こと物理的な破壊力において他の追随を許さぬ域にある。
だが。
何もそれだけで、彼は《最強》と呼ばれているわけではない。
穿たれた大地が大穴を開ける。
見る者が見れば、それがただ地面を掘っただけではないことには気がつくだろう。
彼が風穴を開けたのは、ただ土を掘り返すためだけではなかった。その下に続く迷宮の壁――教会そのものを穿ったのだ。
通常、どれほどの威力があろうと、物理的な攻撃で迷宮が揺らぐことはない。
しかしシグの魔弾は違う。彼の魔弾は魔術を強引に破壊する。
彼と戦うとき、最も厄介なのがその点だ。どんな結界も、防御魔術も、その他のあらゆる魔術でさえ、三次元的な空間に魔力が存在する以上、干渉は可能となる。魔術師はそれを対抗魔術で破ったり、魔力による介入で破戒したりするわけだが、シグは違った。
彼はただ、魔弾だけで他の魔術を呑む。
攻撃がそのまま防御に繋がっているからこその最強。元より空間的に繋がり得るものがあるのなら、それを結果的に接続することも不可能ではなかった。
「……ユゲルは、それを言っていたわけだ」
小さく呟くシグの脳裏。そこに浮かんでいるのはかつての仲間であるひとりの男だ。
そう。本来、オーステリアの地面をいくら掘り進めたところで、迷宮にぶつかるようなことはない。魔術的に隔離された結界空間は、この現実の空間と異なる異相に存在するから、というのがその理由だ。
けれど、こうして境界を貫いてしまえば――やはり位置として迷宮はオーステリアの地下に存在する。
それはおかしい、と。
気がつくことができたのは、ユゲルだったからとしか言いようがあるまい。
シグは抵抗なく、あっさりと迷宮にその身を投げ出した。
元より考えることなどしない。そういうことは、初めからユゲルやセルエ、アスタなどに任せていた。
迷宮に這入ったところで、瘴気が天井の破損を自動修復していく。
ただシグは、そんな当たり前の光景など見ていなかった。
迷宮に降り立ってなお、彼はまだ下を見ている。とはいえ床を見ているわけではなく、彼の視線は、まるでその先にある何かを透視しているかのように澄んでいた。
表情変化の少ないシグの微細なそれに、気づける人間は少ないだろうけれど。
「……そうか。なら俺も、やることは決まったな」
独り言、ではないような様子だった。彼は明らかに誰かへ話しかけている風情だ。
もちろん返る言葉ない。その場にはシグ以外に誰もいない。それでも。
彼は虚空の先に、誰かを幻視するように呟く。
セルエやアスタなどが見ていれば、あるいは気がついただろうか。
――彼が、ほんの少しだけ、どこか楽しそうだったという事実に。
※
街に立ち入ったユゲルたち一行。
まず目指したのは学院だ。
迷宮とはまた違った意味でこの街の中心であるその場所に、きっと多くの人間が残っているはずだ、という予測。それは実際に結界が張られていることから確信に変わっていた。
ただ、この段階でレン――珈琲屋こと指宿錬とは行く先を別にしていた。
彼はあくまで戦力には数えられないし、もともとの目的が自分の店の確認である。これ以上死地へ付き合わせるつもりは誰にもなかった。
別れの言葉さえなく。
彼は彼で、自らが赴くべき場所へ向かって行ったということだ。
フェオ、ピトス、ウェリウス、そしてユゲルの四人が学院へと向かったとき。
まず四人を出迎えてくれたのは、ひとりの少女だった。
「――お帰り、と。私としては言うべきなのかな。よく戻ってきてくれた」
仮にも学生である以上、先達たる彼女のことは知っている。
初めに答えたのはウェリウスだった。いつも通りの笑みを浮かべて、彼は頭を下げて言う。
「ただいま戻りました、と答えるべきでしょうか。お待たせして申し訳ありません、会長」
オーステリア学院学生会会長、ミュリエル=タウンゼント。
身体のところどころに傷の見える彼女は、それでもこの街に健在だった。
「……すまないね」
ミュリエルはわずかに目を伏せて言う。
彼女が謝るべきことなど、本来は何ひとつないはずなのに。
「学院を守るべき立場にある私が、今はこの体たらくだ。情けないよ。何より、君たちが帰ってきてくれたことに、安堵してしまっている自分が」
「誇るべきことはあれ、責められるようなことはないでしょう」
「いや、いいんだ」ウェリウスの言葉に首を振って、それから気を取り直すようにミュリエルは続ける。「――と、それより。よくこの街に入って来れたな」
「その話はともかく」ウェリウスは答える。「まずは情報交換と行きましょう。幸い、結界が修復されることもないと思います。――みんなを逃がすなら今だ」
「ひとつ。その前に確認しておくけれど――君たちは?」
「もちろん」
ウェリウスは一瞬だけ、背後の仲間たちを見た。
それから改めてミュリエルに向き直り、そして告げる。
当たり前の事実を。
「――僕たちは、戦うためにここへ来ましたよ」
※
メロはその時点で、この戦いに意味がないことを察していた。
ある一面の事実を抜きにして考えれば。
少なくとも、教団の言い分に一分たりとも理がないとは言い切れまい。
いずれにせよ世界は滅び。
それを救えるのが現状、確かに彼らだけだというのなら。
果たして、その妨害はメロがするべきことなのか。
彼女にはわからなくなっていた。
わからないことを、わからないままで済ませられるほど考えなしでもなかった。
「……ほかの連中は」
メロは言う。
それはほとんど時間の引き延ばしに近い問いだったが、訊かずにもいられないことだった。
問いには《火星》が答える。
「無論、儀式の準備に奔走してるさ。本来はもう少し早く終わる予定だったんだがな――いやはや、お前らが邪魔さえしなければってところか」
「…………」
「あァ、別に恨み言を言いてえわけじゃねえんだ。言ったろ、オレたちは別に虐殺がしたいわけじゃねえんだ。死ぬ奴らを、少しの間さえ生き永らえさせようとするお前たちを、ことらさ否定はしねえさ。好きにすりゃあいい――それは、お前らの自由ってモンだろ?」
ちら、とメロはレヴィに目を遣る。
《火星》の役割が彼女の説得だったとするのなら、確かに役目は終わっている。
レヴィは何も言わず、ただ静かに目を伏せているだけだ。
代わりと言うわけでもないだろうが、一方の《火星》は饒舌を崩さず笑みのままだった。
「まァ、個人的に思うところはあるんだろうしな。そりゃこっちも一緒でよ。別にどっちだっていいんだ。コトが済んだあとでも、お前らとは決着がつけられるだろ。それが今でもあとでも、オレにとっちゃ同じこった。そら、好きなほうを選べよ」
「……あたしは」
「つーか。その前にひとつ訊こうと思ったんだけどよ」
なんの気なく。
《火星》は、ただ浮かんだ疑問を口に出した。
「こっちからも聞こうと思ったんだが。――おい《天災》、ほかの連中はどうした?」
「え――?」
その問いに、メロが怪訝な表情を見せたこと。
そのことにむしろ《火星》は驚いた。
「待て。おい待て、なんでテメエが驚く? いっしょに来てた連中が消えてやがんのは、お前がやったことじゃねえのかよ?」
ぱっとメロは周囲を見た。
その言葉の通り、いつの間にだろう、ここまで道を共にしたふたり――ミルとシュエットが消えている。つい先ほどまで、確かにこの場所にいたはずなのに。
メロは何もしていない。
にもかかわらず、気づかなかった。
「……いや、知らないけど」
「あ? てっきり何か奥の手でも隠してやがったのかと……おい。おい待て、オイ」
その事実に、《火星》ですらわずかに混乱を見せていた。
彼はレヴィに目を向けて告げる。
「――お前、じゃ……ねえよな」
「違う。私も知らない」
「なら――クソッ、おいおいマジか……っ!」
呟くなり、《火星》はほとんど反射的に迷宮の床へ手をついた。
何事かと見るメロの視線の先で、彼はなんらかの魔術を起動し始める。魔力の巡りを見るにおそらく、感知系の魔術といったところだろう。
やがて《火星》は、それによって知った事実を、舌打つように言葉に変えた。
「――っ! マジかよ……あり得ねえ」
「どうかしたわけ?」
その様子があまりに不可解で、思わずレヴィは訊ねていた。
彼女自身、何かをしたわけではない。ただ、この状況で《火星》が焦る、そのことが単に不可解だった。
《火星》は顔を上げると、レヴィを細い眼で見つめる――というより睨んだ。
だが、疑うに値しないことはわかったのだろう。小さく首を振り、それから言った。
「――《日向》がいねえ」
「…………」
「捕らえたはずのあの女が逃げ出してやがる。おいおい、嘘だろ――どこにいるかもわかんねえなんてあり得るか、オイ?」
「私は何もしてないわよ」
「わーってるよ、んなことは。つーか、いくら《日向》でも無理だ。単独で逃げ出せるような拘束の仕方はしてねえっつの。絶対に自力じゃねえ――誰かの手が入ってる」
「誰かって……」
「わかんねーから驚いてるんだろうがよ」
メロは静かに、ふたりの会話を訊いていた。
《日向》――セルエが、捕らえられていた場所から逃げ出している。いや、いなくなっていると言ったほうが近いのだろう、この場合は。
無論、メロにもどうなっているのかなんてことはわからない。
――でもわかったことはある。
「うん。そうだね――やっぱ決めたわ。ってか、迷った時点であたしらしくなかったよね。あの迷宮で魔法使いに言われたことの意味、ちゃんとわかってなかったのかもしれない」
笑うように、独り言を零すようにメロは言った。
その様子を見て《火星》も悟った。
「おいガードナー。お前、《日向》を探して来い」
「私が? ……そこまで信用されてるとは意外だけど。いいの? 私を自由にして」
「お前とオレらの目的は現状で一致してる。別に逃がしたきゃ逃がせ。何を小細工しても構わねえ。どうせ結果は変わんねえ。ただ、奴がどこにいるかもわからない状況は、お前にとってすら不都合だろ。儀式を失敗するわけにはいかねえ。――邪魔されましたじゃ済まねえぞ」
「……なるほど」
レヴィは頷き、踵を返してこの場を去ろうとする。
その背に、メロは一度だけ声をかけた。
「――逃げんの?」
「どう取られても構わない」
狼狽えもせずレヴィは答えた。
だがメロは首を振る。
「そうじゃない。あたしはそういうことを言ってるわけじゃない。――わかってんでしょ。アンタが何をするにしろ、それを止めようとする馬鹿が、必ずひとりいるって」
「…………」
「別にあたしが言うことじゃないんだろうけど。そこの決着、ちゃんとつけとかないとマズいんじゃないのかなって話。あたしのことはまあ、この際いいってことにしといてもさ」
レヴィは何も答えなかった。
一瞬だけ歩みを止め、けれど次の瞬間には再びメロから離れていく。
その背に、メロはもう声をかけなかった。
それはきっと、彼女が言わなくても、ほかの誰かが告げるはずの言葉だから。
残った《火星》は特段、メロとレヴィのやり取りになど興味を持たなかったらしい。
いや、その意味で言えばそもそも、彼は周囲のことになど興味がない。
彼が関心を持つのは常に、ただ自分のことだけだ。その意味で言えば彼は、おそらく教団の目的にさえ意味を見出してはいないのだろう。ただそれが自分の目的に合致するから、利用するに便利だったから教団に与しているに過ぎない。
なぜなら彼は、滅んだその世界からやって来た人間なのだから。
「――で、やってくれんだろ、オレと?」
だから《火星》は言う。元よりそれだけが目的だから。
そしてメロは答えた。その意志はもう固まっている。
「うん。いいよ、かかって来なよ。胸を貸してあげるからさ」
「ずいぶんと上から言いやがる」
「それが目的だったんでしょ? ならいいじゃん、別に」
「そうだな。ああ――オレの時代にまで伝わる伝説の魔術師と、ついに決着をつけられるってんだ。それほど嬉しいコトはねえ。オレはそのためにここまで来たんだからよォ……!」
刹那、《火星》の身体を膨大なまでの魔力が覆う。
メロのそれをも上回る、人間ひとりが持ち得る量を明らかに逸脱した色濃い魔の気配。
それを前にして、それでもメロは平静を保ち続けていた。
「――いいんだよな? お前も、それで。ここで、本気で、ちゃんと、オレに殺されてくれるってコトで構わねえんだよなァ……?」
「いいっつっってんでしょ。あたしにもちゃんと理由はあったから。迷わないし、そんなのあたしらしくない」
それでよかった。なぜなら《天災》は迷わない。
その暴虐には理由がない。ただ進路を邪魔する全てを薙ぎ倒せばいい。
それがメロにとって、最も自分らしい選択というものだ。
たとえ世界がどうなろうとも知ったことではない。メロは《火星》が邪魔で、ならそれだけで、打ち払う理由には充分すぎる。
「なら行くぜ、《天災》」
「来なよ、《火星》」
もっとも。
それでもこのとき、メロはある意味で、最も彼女らしくないことを口にした。
いつだって強さを至上として。
ただ戦いにのみ生の意義を見出していた《天災》らしからぬ言葉を。
「――強いだけで勝てると思うような奴に、あたしは負けたりしないから」
「なんだそりゃ。オレのほうがお前より強いって認めんのか?」
「別に。ただ、もしそれが本当ならさ――あたしが、アスタに負けるようなことなかったよ、きっと」
――天災が、星を墜とそうと動き始める。




