5-16『運命を変えるということ』
――元より、彼という人間は目的を持っていなかった。
あるいはそれは生きる意味であり、そうして生まれる価値であり、言い換えるならそれを形として成すための意志といってもいいだろう。
意志。
魔術師にとって、それは最も重要なものだ。魔術がどこまでいっても技術であり手段でしかない以上、ある視点においていちばん重要な才能が意志の有無であると言っていい。
なんのために魔術を修めるのか。
その目的なくして――魔術師は魔術師たり得ない。
はずだった。
そんな自分がどこで変わり、今の自分に成ったのかということに、彼はどこまでも自覚的だ。
きっかけははっきりとしている。
魔法使いに拾われたこと。それが彼を、誰でもない誰かから、ウェリウスという名のひとりの男へと変えた。
人は簡単には変わらない――よく使われるその表現を、彼はまるで信じていない。
というより、正確ではないと思っているのだ。
そんなことはない。人は簡単に変わる。そのきっかけが訪れることがほとんどないというだけで、それに足る出来事があれば人はあっさり変わる。それまでの自分と決別する。
誰より完成され、完結した、個としての終着点たる魔法使い。
それに会ったというだけで自分は変わったのだから。単純なもので、月並みなことだ。
――ただ、憧れた。
自分もそうなりたいと思い、どころか傲慢にも越えたいとさえ願ってしまった。
それが初めて自己から成立した願望だった。
それだけでよかったのだ。
※
「……面倒ですね」
と、彼女はそう口にした。口に出して言った。
《月輪》ノート=ケニュクスが抱いた、それが偽らざる本心からの感想だった。
それだけだった。
面倒だ。実に面倒だった。こんなことなら、あのまま《超越》と戦っているべきだったとさえ思ってしまう。そちらもそちらで大変ではあったが、大変であっても面倒ではなかったと彼女は思う。
とはいえ、ここで《水星》を喪うわけにはいかない。それを言うなら、《金星》がこの時点で脱落していること自体が想定外といえば想定外なのだが、とはいえ彼女のほうはきちんと役目をこなしての退場だ。計画そのものに支障はない。
《月輪》は教団の同志たちのことを、それなりに気に入っている。
その目的こそバラバラながら、長い時間を協力して過ごしてきたのだから。相応に愛着も湧くし、だから彼女だけが唯一、全員を愛称で呼んでいた。
だからといって死んでほしくないとまでは考えていないけれど。
肉体の死など、魔人となった自分たちにはもはや大した意味がない。それより重要なのは生きている内に役目を果たせるかどうかだ。
ゆえに彼女は《金星》の死には同情しない。なぜなら彼女は役目を果たしたから。
だが今、《水星》が死ぬことは悲しいことだった。なぜなら彼女の役目はまだ残っているから。
「……面倒、か。その程度っていうのは少し、こう……傷つくね。プライドみたいなものがさ」
目の前までやって来た青年が、肩を竦めてそんな風に嘯いて笑った。
酷くつまらない言葉だ。今の自分に面倒とまで思わせる存在が、その程度の感慨に揺られるのは面白くない。
「称賛のつもりだったんだけどね……買い被りかな。彼風に言うなら《悪い考え》だ」
「いやいや、勘違いだよ。別段、僕にプライドらしきものはないんだ。自分に対する自負なんて持ってない」
「……?」
その言葉が少し意外だったから、《月輪》は軽く小首を傾げた。
本来、敵と交わす言葉なんてないのだけれど。ただ今、この場に限れば、こうして会話を交わして時間を潰すのは悪い選択肢ではない――むしろ好都合なくらいだ。
青年――ウェリウス=ギルヴァージルの魔術は、そう長くは続かない。今この瞬間に限界が訪れてもおかしくないほどだ。
確かに恐ろしい。魔術師の技術的頂点とされる《魔導師》位にある《月輪》でさえ再現不可能な領域の魔術。だが高度で強力な魔術だからこそ、支払われる代償もまた大きくなる。
この場合、単純に魔力量の問題だ。
簡単で消費が少なく、その割に強力であるということが本来、元素魔術の利点である。それは元素魔術が精霊魔術であり、実際に魔術を使っているのは元素魔術師本人ではなく、あくまでそれを介した精霊だから。
だが、異界の概念存在である精霊を現実世界に喚起するとなれば話は違う。ましてそれが八体同時などと埒外な域の技術となれば、依代となる術者の負担は凄まじい。
今、ウェリウスからはそれこそ湯水の如く魔力が噴き出している状態だ。
間違った選択肢ではない。そもそも無制限の魔力を持つ魔人を相手に、敵対しようと考えた時点で持久戦を選ぶなどあり得ない。望むべくは短期決戦――当たり前の理屈だ。
――もしもウェリウスが魔人になったら。
そんなIFを思ってしまうほど、それはひとつの完成形として美しい。
魔術の到達点の体現。素直な感嘆を覚えるほどの。
「……僕にあるのは貴族としての矜持と、魔法使いの弟子としての意地くらいですよ」
それでもウェリウスは言葉を作る。
目的はわかった。その上で《月輪》は会話に応じる選択肢を採った。
これは、それだけのやり取り。
「どう違うのか、僕にはよくわからないな」
「ギルヴァージル家は貴族だ。そして僕の師匠は魔法使い――フィリー=パラヴァンハイムです」
「……それが?」
「僕のプライドはともかく、そのふたつだけは裏切れない。それだけのことですよ」
「そうかい」
《月輪》はそう答えたが、何がわかったというわけでもなかった。
元より、会話の中身などなんでもよかったのだ。
ただ時間が進んでいる――理屈として意味を持つのは、その事実だけだった。
「では、いきます」
ウェリウスが言う。その脇に立ち、眼帯を外した黒髪の男は何も言わなかったし、ただ見ているだけだった。
攻撃にわざわざ宣言をする必要はない。会話だって不要だった。
それでも彼がそれをしたのは、それだけ集中力を高める必要があったということだ。要はそのための儀式であり、精神安定の行いである。
「まあ、相手はするよ。七曜教団副長《月輪》、ノート=ケニュクスだ」
「――ウェリウス=ギルヴァージル」
名前の交換。それが契機だった。
八色の球体を周囲に浮かべた最強の元素魔術師が、一瞬、どこか楽しそうな笑みを見せ。
次の瞬間――火炎が、水流が、雷撃が、土砂が――ありとあらゆる自然の脅威が、列をなして《月輪》に襲いかかった。
まるで、世界そのものを敵に回したかのように。
※
――その戦いは、たとえるなら綱渡りだった。
ウェリウスの勝利条件は限られる。
ひとつ目にこの魔術《異界包括統御》を発動し続けること。ふたつ目に珈琲屋ことレン=イブスキの眼が健在であり続けること。
その条件を、両方満たしている内に倒すことだ。
八属性同時制御中、ウェリウスを前におよそ大半の魔術は通じない。
効果があるのは印刻といったウェリウスの操る真精に匹敵、ないし上回る魔術的な質を持つ攻撃、あるいは陰陽二属性といった八大制御を持ってなお打ち消すことのできない魔術――そして例外として肉体を用いた純粋物理攻撃。この三つだけ。
当然、《月輪》はそれを狙ってくる。
発動させるわけにはいかない。
そもそも魔術師の攻撃手段は基本的に三択だ。
属性のない魔術攻撃――魔弾などだ――か属性を持つ元素魔術。そして物理攻撃。
このうち物理攻撃は、《月輪》を前に警戒する必要はない。だから元素魔術を防ぎ続け、また元素魔術で責め続け、時間のかかるほかの魔術を使わせない――使わせても防ぐことがウェリウスの勝利に必要な絶対条件だった。
火炎が迸り、《月輪》が魔術障壁によってそれを防御する。
攻撃、攻撃――とにかく攻撃。その攻め手を少しでも弛ませた瞬間に終わる。
だがウェリウスの攻撃は、その魔力防御障壁そのものを焼いていく。それでもわずかに稼ぎ出された時間から、《月輪》は次の手に打って出ていた。
「――」
と、唐突にレンが無言のまま背後を指差し、同時に一度だけ地面を蹴った。
その瞬間、ウェリウスは振り返りもせず背後に手を振るった。背後の空間に発現されていたなんらかの魔術を風で強引に散らす。同時に地面に潜り込んだ地の真精が、足元に出現していた魔術陣を破壊した。
それが綱渡りの全貌だ。
《月輪》の攻撃が現れる三次元的な位置を、レンがおおまかに指定する。それを打ち崩すに見合った防御をウェリウスが行う。防げない攻撃を成立させてはその瞬間にアウト――どころではない。防げる攻撃でも選択を誤ればアウトだったし、レンの指示が少しでも遅れてはならない。ウェリウスがそれを受け取れなくても死ぬ。レンをやられても当然終わり。
それは一手たりとも間違えることの許されない思考の戦いだった。
次善ではなく、常に最善を強いられる。あらゆる可能性を存在の時点で潰し、踏み躙り、自己の優位性を確保し続ける戦い。
もはや人間に可能な領域を超えている。
それが可能なのは実際、人間ではないものの感覚を借りているからだった。
間違えた瞬間に死が決定する詰将棋のようなものだ。
「――っ!」
脳が軋んだ。全身が痛む。体内で暴れ狂う魔力が、暴力的なまでにそれを欲する真精たちの意志が肉を骨を思考を焼いて流して焦がして凍らせ固めて刻んで侵して癒す。
火炎が水流が雷鳴が氷塊が金属が疾風が土塊が植物が。
それらが持つ概念が。
ただひとりの人間の中で暴れ狂う。その苦痛たるや言語にならない。
それでも、世界を構成するあまねく要素の全てを支配し、管理し指揮下に置かんとウェリウスは腕を振るい続けた。
「――」魔力の棘が頬を抉った。
つう、と流れる血。傷口を即座に凍結させ、おそらくは込められていただろう魔術効果ごと《停止》させる。
直後に現れた魔力の腕――目に見えない、ただ手の形を取ったものが、ウェリウスの目の前で虚空を掴んで握り締めた。それは呪手――触れることで対象を呪うものだったが、《月輪》が使えば直接触れずとも、架空の手であっても成立する。
心臓を鷲掴みにされるような悪寒。魔女術。いかな優等生でも、その内容をほとんど知らないウェリウスでは魔術的な抵抗は不可能だ――だから強引に押し潰す。ウェリウスは咄嗟に心臓そのものの表面を、一瞬だけ金属化した。
呪いが成立し、架空の手に心臓を握られても、硬いから潰れないという強引な理屈で結果を上書きしたのだ。
即死の呪いを食らっても死ななきゃ効いてないのと同じ。そう言わんばかりの強引さだった。
当然、その反動はある。
口の端からわずかに血が流れ出るのをウェリウスは自覚した。
――まるで誰かみたいだな。
思考だけで小さく笑う。それを拭いもせず、また火炎を雷撃を疾風を放つ。
まだだ。
まだ足りていない。
こんな一手を許した時点で、まだ突き詰められていない。
――そう。
魔竜との戦いで、学んだはずではなかったか。
優雅でなくてもいい。
確実な勝ち目がなくとも構わない。
命を賭けに乗せた博打も、たまには男らしいだろう。
ウェリウスは火水風雷の四属性を攻撃に、地氷金木の四属性を防御に回している。
――それでは足りない。
全て回せ。文字通りに全霊を懸けろ。全霊で駆けろ。
そうだ。
ウェリウス=ギルヴァージルが見たいと、いつか願ったその景色は。
きっと、その先にでしか目にできないものなのだから――。
「まったく――」
直後。ウェリウスは駆けた――否、爆ぜた。
火と風を加速に氷で道を作り走る。雷で高めた反応速度で思考を神経を強引に極限まで加速させる。あらゆる魔術を単純な攻撃ではなく、身体能力の強化に費やす。
その速度に、けれど《月輪》は驚きもせず反応を見せた。
もっとも彼女の場合、それは肉体の能力ではなくなんらかの魔術で為したのだろう。一挙手一投足、その全てを魔術的な儀式として成立させる魔導師。
彼女は、ウェリウスの先の時代を歩いた天才だ。
かつてはユゲル=ティラコニアと並び称された国家の至宝。魔術師としての最高位階に到達し、《月夜の魔女》と呼ばれた者。
時間で経験で能力で、自らの先に立っている相手だ。
その場所に至るためならば、そうだ。
「――馬鹿になったなあ、僕もさあ!」
命くらい賭けられずして何を得られる。
一瞬で《月輪》に肉薄したウェリウスは、だが直接に《月輪》を狙わなかった。
地面に手を突く。地の真精が地面の全てを支配下に置く。
地割れが――走った。
ひとつの、それは天災だ。天からもたらされ地を揺るがす破局。まるで爆発したかのように地面が砕け、形を変えながら《月輪》を襲う。
彼女は冒険者ではなく魔術師だ。ならば近接による決着を狙うのは道理だろう。
だが、それさえ《月輪》には通じない。
爆発に煽られる形で宙に浮いた《月輪》は、その足で虚空を踏みしめ宙に立った。地を支配されたのなら、天に立てばいい――そう言わんばかりの、ウェリウスとはまた違った形での強引な概念支配。
いや、元より彼女はそういう魔術師だ。
夜を支配し――すなわち天をその手中に握る彼女は、地面を取られても制空権を持つ。
――そもそも魔女は飛ぶものだ。
そんなことはウェリウスにだってわかっていた。
刹那の攻防の中、すでに彼は火、風、地、雷、氷の五つを使ってしまっている。再使用までのラグはもはや、《月輪》を前に致命的だ。手札が着実に減っている。
瞬間、《月輪》の肩口から血が迸った。
細い水流が彼女を抉ったのだ。彼女の背中側から発生した水の針が、《月輪》に確かに手傷を負わせた。そこまで読んで地盤を揺るがせたのだから。
だがこのとき、驚いたのはむしろウェリウスのほうだった。
当然、ウェリウスは殺すつもりで攻撃を仕掛けている。狙ったのは心臓だった。魔女を殺すには杭で心臓を穿つ――それもまた当たり前の行為。それを《月輪》は躱していたが――ならなぜ肩に当たる。
互いの読みは拮抗していた。
ウェリウスが読んでいることを《月輪》は知っているし、《月輪》が読んでいることをウェリウスは知っている。魔術師の戦いは。その想定を上回り、想定外に至ることだ。
だからこそ当たるわけがない。
躱しきれなかったから、などという幸運をウェリウスは信じない。《月輪》ならきっと防いだだろう。
ならば答えは。決まっている、意図的に受けたのだ。
地を這うウェリウスと天を往くノート。
その視線が一瞬だけ交錯した。
上を見るウェリウス。見下ろす《月輪》の眼が語っていることを彼は悟った。きっと錯覚ではない。命のやり取りの果てに交感した共感。
――魔術師が、魔女が血を流すその意味。
わからないとは言わせないよ。ねえ、天才――。
杭には杭で。水の棘が抉り、肉から流れ出た血が螺旋を描いて杭になる。
その数は膨大だった。
ウェリウスが渾身の魔術で一本の杭を創り出した、そのカウンターに《月輪》は七本の血の杭でウェリウスを囲む。そして、それが順繰りに射出させた。
一斉に飛んでこなかったのは、それゆえに対処をばらけさせ必殺を狙ったがゆえだ。
ウェリウスは目を見開く。
一本目を躱し、二本目は片足を抉るに留め、続く三本目と四本目が、それぞれ右の二の腕と左の大腿部を抉った。
雷による神経加速も、肉体の足という機動力そのものを奪われては意味をなくす。三次元的に逃げ場を失ったウェリウスは、だがそれでも立って、そして動いた。
五本目と六本目。
それが左腕と右足を狙う。射出された紅の杭がウェリウスの肉体に直撃し、赤色の花を咲かせた。
――血が飛散する。
だが、それはウェリウスの血ではない。
《月輪》の、杭として射出された血液が花開くように飛び散ったのだ。
生命を司る木の元素魔術。まるで薔薇のように、突き立った杭が咲き乱れて崩壊した。血液が持つ命の概念を経由し、それを花弁に見立てることによる元素式概念儀式魔術。ウェリウスの才能の粋といってもいい防御。
だが防がれた《月輪》は淡白だった。
これでいい。この戦いは彼女の側から見ても詰将棋だ。
――これで水と木も使わせた。
残っているのは金。使い手が少なく扱いづらい稀少属性だけ。
真精を八体同時に扱う――そう言えば聞こえはいいが、逆を言えば制御に手間取っているのが見えていた。それは確実に速度を犠牲にしている。
七本目。
最後の杭が心臓めがけて射出される。これを金属性で防いだところで、もうあとが続かない。
――詰みだ。
そう考えた自分が、けれど直後。
大きく喀血したことが、《月輪》にとって最初の想定外だった。
「な……!?」
ごぶり、と泡になった血が喉から漏れていく。肉体を走った痛みによって、制御を失った七本目の血の杭が、射出されるより前にただの血液に戻って地面に落ちた。
べちゃり、と音を立てたのは、さて地面に落ちた杭の水音か、それとも口の端から漏れたほうか。
肉体がふらつき、宙に向かって前のめりに倒れていく。
その瞬間にはすでに《月輪》も、自分が何をされたのか理解しており、同時に対抗策さえ打ち出していた。
――呪詛返し。
さきほど受けた呪い――心臓を握り潰す魔手。
あのひとつだけ、ウェリウスは発動を邪魔するのではなく、発動されたものを強引に無効化したに過ぎない。
そして、あの印刻使いが今も苦しめられているように、呪術は一度発動すれば、半永久的に残るのが特徴だ。
つまり。術式は今も、ウェリウスの中に残っている。
その術式を、血液という媒介を通じて返すことくらいの魔術、ウェリウスならば酷く容易だ。
――彼は元素魔術師の天才である。
という以前に、そもそも魔術の天才であるのだから。
一手でも間違ったら死ぬ戦い。
そんなものに、ウェリウスともあろう魔術師が勝算なく乗るわけがない。命を賭けの場に乗せたのは、対価を期待してのこと。――罠くらいは張っている。
魔競祭の場において、遅行式の魔術をアスタに罠として仕掛けていたのと同じように。いや、そもそも元素魔術ばかりを使っていたこと自体が、それ以外の手がないように見せかけるウェリウスの罠だった。
行為全てを儀式とするのが《月輪》ならば、選択全てを罠に変えるのがウェリウスだ。
だが当然、《月輪》は自分の魔術に殺される程度の使い手ではない。
一瞬で魔術を破ってみせる。
しかしその隙は、確実にウェリウスに次の行動の手を与えた。彼は腕の中に、残った金属性の元素魔術で無骨な剣を作ってみせる。細い長剣。錬金魔術の一種であるそれは、もちろん本職が扱うほどの優れた魔術効果などないが、それでも――心臓を貫くには充分足る。
けれど。
一瞬の隙を、剣を創ることに使ってしまったウェリウスに、その剣を使う時間まで残されると考えるのは甘すぎる。
ノート=ケニュクスもまた、天才と呼ばれた魔術師だ。
その行為全てが魔術儀式である以上、その発動はウェリウスが剣を振るう速度さえあるいは上回るものだ。
もう一度、ウェリウスに攻撃するために《月輪》は魔術を用意し。
――その魔力を、まるで見えていたかのようにウェリウスによって斬り払われた。
「――!」
「生憎」
ノートではなく虚空を斬り、その動きで魔術を潰したウェリウスが笑う。
「――いい眼がついているものでして」
刹那。宙にいる《月輪》の肉体が炎上した。
その光景は、奇しくも火刑に酷似する。
宙に立つ魔女が燃える姿は、磔にされ火炙りに処されるかの如く。
「火……が、使え、たん、だね……?」
「それがいちばん得意でして」
ウェリウスは言うが、そもそも彼は八属性を操りながら、なおかつ呪詛返しまで為している。
処理速度の遅さが演技だったのか――いや、それならノートは気づいただろう。魔術に関して彼女の目を欺くことは難しい。
ならば単純に。
ここまでの時間の中で、命を賭して、ウェリウスが単純に、また実力を上げたというだけのことなのだろう。
それが差だった。
完成してしまったノートと、まだ成長段階にあるウェリウスとの。
差だ。
「……火刑に遭うとはね。いや、これは確かに魔女らしい――」
ノート=ケニュクスは笑う。
この状態で、それでもなお自らを上回った魔術師を見て。
捨てたはずの《魔を導く者》という称号らしい。
それはおそらく、ただ純粋に後進の成長を喜ぶ先達の笑みだった。
「――見事。君の勝ちだ」
ウェリウスの剣が、炎の中で笑う魔女の心臓を貫いた。
※
――そして。
それでもなお魔女は死ななかった。
※
焼け焦げ、心臓を失った《月輪》の死体が地に落ちた。
剣を放棄し、荒い息を整えながらウェリウスもまたその場にくずおれる。真精の保持ができなくなって、彼らは元の場所へ還っていく。剣は砂に戻った。
重傷だ。抉られた体の節々が痛む。
それでもなお魔導師を――魔人を上回った。夜の魔女を相手に昼間、レンという反則みたいな魔眼を借りて、細い可能性を綱渡ってようやくの勝利だ。優雅さには程遠い。
それでも勝った。
これがもし夜なら――いや、夜天結界の中ならば負けていたことだろう。
だが、それでもこの場で勝利を修めたのだ。なら、それが全てだったと言っていい。
――本来なら、はずだった。
相手が、魔女ではなく魔術師ならば。
「……よくやったよ、本当」
その声にウェリウスは、動くことができなかった。
文字通りにだ。そんな体力も魔力も、もはや残っていない。
出せたのは、だから――恨み言みたいな声だけだった。
「なんで、生きてるんですかね……? 確実に殺したと思ったんですけど」
「――言ったろう」
《月輪》は。
焼け焦げた服を纏い、肌を露出した状態で――それでも無傷で立っていた。
「君の勝ちだ。この戦いで僕は負けた。それは揺るがない」
「……」
「ただ僕は生まれつき運命を病んでいてね。――夜のほうが強く、けれど昼間は死なない。そういう存在なんだ」
「それは……反則でしょうよ」
「そうだね。――僕も、これは酷いと自分でも思う」
まったくだとウェリウスは思った。
勝ったのにこれはない。能力で上回ったのに、そんな生まれつきの異常を持ち出してこられても困る。なんだそれは、と思った。
けれど。それでも結果がこれなのだから、誰に文句を言う筋合いもない。
「なにせ死んだことなんてなかったから。自分がそういうものだとわかっていても、こればかりはどうしようもないし、実際どうなるかもよくわかってなかった。僕は僕の能力を費やして負けたわけだけど、生憎と、負けても死んではあげられない。そして負けても、目的だけは遂行させてもらうしかない――本当、理不尽だよね、運命って」
負けるとわかっている戦いに勝って。
だが、それでもその先がなかったというのなら。
果たして――自分のやったことに意味はあったのだろうか。
ウェリウスは思った。
思った上で、だがかといって折れるわけにもいかない。
だから立ち上がった。
諦めることなんてできなかったし、絶望してやるわけにもいかない。
意地のようなものだった。自分のやったことが、無駄だったとは考えたくないだけの癇癪だと指摘されても、返す言葉などなかっただろう。
それでも、足は自然と地面を踏みしめた。
「……折れないのかい?」
問われ、ウェリウスは笑みで答えた。
「ええ」
「絶望もしないと?」
「それにはまだ早いでしょう」
「勝ち目があるかな」
「さあ――いきなり空から隕石が降ってきて、あなたに直撃するかもしれませんし」
そんなことがあり得ないことくらいもちろんわかっているが。
それでもウェリウスは立ち上がり、時間稼ぎでも絶望を遠ざける意志を変えない。
自分の意志だ。
それを曲げるくらいなら、生きている意味がない。そう教えてくれた人がいたのだから、それを裏切ることなんてできない。
だからウェリウスは、一秒でも長く生きるために抗うと決めて。
その意志は、けれど一秒も経つことなく意味を失った。
いや、意味なら初めからあったのだ。
ウェリウスが稼いだ時間には、彼が勝ったという事実には。
確かに、運命を変えるだけの意味があった。
※
「――今回だけ、この一回だけ意志を曲げてやる。感謝しろよバカ息子――」
※
どこからか聞こえた、懐かしい声。
その直後、空からなぜか、本当に隕石が降ってきて。
唖然とするウェリウスの目の前で、《月輪》が弾かれて吹き飛んだ。
何度でも言いますが、この男は主人公ではないです。




