5-12『vsドラルウァ=マークリウス』
――無論。だからといって何か一発逆転の策があるとか、都合よく効果的な戦術を思いついたわけではない。
決めたのは覚悟であり、リスクを背負ってでも打倒を目指すという心構えだ。ただ生き残り続けることではなく、明確に《水星》の撃破を狙っていくという意志を固めたに過ぎない。
それで何か変化が訪れるだろうか。
もちろん――変わる。
少なくともこちらが全力を出すということは、向こうにもまた本気の心構えを強要することなのだから。
「う――らあっ!!」
紅髪が銀剣を走らせる。一体に集合した《水星》では、その攻撃を躱すことなどできなかった。腕を切断され、首を千切られ、胴体を両断され――変身を繰り返す。それが《水星》の命を削っていく。
いくら怪物の如き魔術師でも、無限に再生できるわけではない。
しかし残像さえ残すほどの速度は当然、フェオの肉体にさえ影響する。
それを、彼女は力尽くで自らの力としていた。
先祖返りを果たしたからといって別段、劇的に魔術の腕が向上したわけではない。剣術の腕だってもちろん上がるわけもない。フェオにできるのは、できることをできる通りにこなす――ただそれだけだ。それがいちばん難しいことであり、同時に最も大切なことであることを彼女は知っていた。
手に入れたのは吸血種としての能力。
それは、いわば先天的な魔人化の能力と言い換えることができる。
教団の幹部たちが魔人になって変わったことは、言ってしまえばたんに持ち得る魔力量が増えたというだけのことだ。同時に出力も上がってはいるが、大きな変化はそのエネルギー量が実質的に無限の域へと達したということ。魔力で構成されている、この世界そのものを貯蔵庫として、そこから力を引き出すだけ。
《金星》レファクール=ヴィナがアスタに敗北した理由はその辺りにある。
魔力は上がった。出力も上がった。できることの範囲は大幅に増えただろう――けれど、それ以外の能力が向上したわけではない。人間の身に余るほど膨大な魔力を、彼女は使いこなす前に敗北した。理論だけは持っていても、実力が足りず使えなかった魔術を使えるようになったからといって、いきなり使いこなせるわけではない。それには時間が、ほんの少しだけ足りなかった。
一方、フェオはそれとは少し違う。彼女の魔力は、あくまで自ら溜め込んだものを使えるだけだ。個人としての限界は超えても、決して無制限というわけではない。血液を通じてアスタから貰った魔力を、その身に貯蔵できるようになったというだけ。その意味で彼女は魔人に劣るだろう。
何より彼女は不器用だ。使える魔力の量が上がったからといって、強い魔術を使えるようになったりはしない。
だから――フェオは開き直った。
魔人には劣っても、一個の人間としては膨大なその魔力。そのほぼ全てを彼女は身体性能の強化に費やしている。
あまりにも単純な選択。だからこそ――不器用の彼女はそのまま強くなった。
新しいことなんて何もしない。これまでやっていたことを、一段階上の力で行っているというだけ。
――だから強い。
平地を駆け抜けるフェオの速度に、もはや追いつけるものなどいなかった。
元より《金星》と違い、《水星》の肉体は鍛えられていない。近接格闘の心得などないし、自らより速く上手く動く生き物を捉えることなど不可能だ。
水星が異常なまでの増殖を果たしていなければ、その時点で勝負はついていただろう。
駆ける。斬る。躱す。また駆けて、再び斬り、止まることなく再度駆け出す――。
そのシンプルな繰り返しが、目に見える勢いで《水星》を減らしていく。残機性の命を持つ《水星》の終わりを、彼女は着実に近づけ続けていた。
すでに二十度は殺し重ねただろうか。
水星は身体を、時には生物に、あるいは無機物に、とにかく雑多な何かに変身させて攻撃を繰り返す。その全てをフェオは、ただ速度というひとつの武器だけで躱し続けていた。
「――気をつけてください!」
後方に立つピトスが鋭く叫んだ。身体能力的にはフェオひとりでも圧倒できる以上、彼女は援護に専念できる。
だが――この程度のはずがないのだ。
まるで地獄の責め苦を、自ら請け負っているかのような《水星》。幾度の斬撃を、雷撃をその身に受けても、彼女は笑顔さえ崩すことがない。その逸脱した精神性は、常識ではもはや測れない。
そう。彼女はあまりにも余裕だ。
ほぼ為すすべなくフェオに押されているというのに、《水星》は笑顔さえ崩さない。それがあまりに不可解だ。
魔人ではない――などという推測が、やはり間違っているのではないかと思えてくるほどに。
「おそらく何か狙っています! ダメージは通っているはずなので、攻めを崩さないでください!」
「んなこと、わかってる――けどっ!」
腕を伸長させてきた《水星》の攻撃を、回避しながらフェオも叫び返す。
精神的に押されているのは、むしろ彼女のほうだった。
泥を刻み続けているかのような手応えのなさ。けれど肉を抉り、骨を断つ感触は確かに腕に返ってくる。
単純に、その繰り返しが気持ち悪かった。
煉獄を支配する鬼のような気分だ。罪人を責め続けること――それ自体がひとつの罰だとさえ思う。
「あは。オラ、へばってんのか! 嗚呼、悲しいね。ひゃあ! そんなんで。嗚呼。あは、あはははははははっ!!」
喋るたびに人格が変わっているかのような――目の前の異形のヒトガタが気持ち悪い。
もうその声を聞いていたくない。今すぐ目の前の怪人を世界から消し去ってしまいたいと思う。
だからフェオは、《水星》から少し距離を取って、その身を深く屈めて叫ぶ。
「――ピトス!」
「ああもう! 油断だけはしないでくださいよ!!」
声だけで思惑を察したピトスが、フェオに向かって叫び返す。
それでいい。背中を、後を任せられる仲間がいるのなら、命を対価に賭けに出られる。
――火花が音を立てて啼く。
たとえるなら雷が直撃した避雷針のように、フェオの持つ銀剣がバチバチと帯電の音を轟かせた。
「次は次は次は次は次は何を何を何を見せ見せてくれるのかなあはあははあはははは――!」
繰り返すように叫ぶ《水星》。彼女の内部で、複数の人格が同時に成立したまま混ざり合っているせいだろう。
一度は折られた。その声に意志を。その能力に剣を。
けれど今は、自分が独りでないことをフェオは知っている。だから。
「――《其は力。原初に轟きし神の鉄槌》――」
詠唱。それに呼応するかのように、剣を光らせる雷が、柄を通じてフェオの肉体へと移っていく。
何かが変わったわけじゃない。今も昔も、フェオは魔術が大の苦手だ。難しい術式や、大規模な儀式なんてほとんど成功したことがない。だから彼女は、そんなものには頼らない。
馬鹿になろうと決めた。
でも、たぶんその前から、自分は決して賢くない。
そんな自分にできることなんて、ただ力任せに相手をぶっ叩くくらいのこと。後のことなんて考えない。今はそれでも、誰かがどうにかしてくれる。地を這う鼠は鼠らしく、速さだけを頼りにこそこそ這いずっていればいい。
――それが誰よりも速ければ。
そのことに、きっと自分は満足できると知っているから――。
恐れるのをやめろ。怯えて縮こまるだけが能じゃない。安心できる穴倉を捨ててでも、その一歩を、踏み出すことが大事なのだ。
「《雷架》――」
刹那ののち。フェオは《水星》の後ろにいた。
およそ人間の反射を超える、その速度は雷のそれ。原初より破壊の権化として畏れられた、それは神の怒りの声。
ただ速く、そして鋭く。フェオがやったことと言えば、まっすぐ走って斬りつけて、相手の首を落としただけ。
それが呼び声。罪科に呼応するは禊ぎ。神に乞う赦しの意味が、あるいは全ての漂白ならば。
「――《斬針》」
振り向き様に振り落とされた、剣の軌跡が怒りを呼んだ。
上から下へ。まっすぐに振り落とされた剣。その軌道に従うかの如く、膨大なエネルギー量を持った落雷が、首を切断された《水星》の真上から降り注ぐ。その肉体の全てを呑み込み、消し炭としてしまうかのように。
あとには何も残らなかった。
一刀で殺し、二刀にて消し去る。単一存在を完全に消滅せしめるその魔術は、けれど決して難しいものではない。
やったことと言えば、走って斬って、振り落とす。身体強化と、簡単な放出魔術の組み合わせ。そこに込められた膨大な魔力量がなければ、あるいは簡単に躱されて終わりだっただろう。
いかな水星と言えど、全身を余すところなく消されてはそうそう再生もできないはず。
実際、今の攻撃でかなりの魔力を消費していた。血のように赤く染まっていた髪の色が生来のものに戻る。それほどの消耗があった。
――だが。
「倒し……た?」
跡形もなく肉体をなくした《水星》。
決着がつきときは一瞬――そう語るように静寂が戻っている。
無論。
そんな簡単に滅ぼせる存在だったならば、ここまでの苦労はいらなかっただろう。
「――足っ!!」
「っ――!」
突如、鋭いピトスの声が響く。それを聞くより先にフェオも動いていた。
いつの間にだろう。地面から植物が生えている。
意志を持ったかのような蔦性の植物。それがフェオの足首を掴もうとする動きでうねりながら襲いきていた。
――木属性の元素魔術? いや違う……!
変身だ。この植物自体が《水星》なのだ。変身可能な範囲があまりにも広すぎる。
フェオは咄嗟に跳躍し、その拘束を躱す。さすがの反射速度だと言っていいだろう。
けれど。
いかに速かろうと、動きを読まれていては意味がない。
「――な……っ!」
フェオの身体が空中で静止する。まるで目に見えない何かに全身を拘束されたかのように。
空気が、周りに漂う無色透明のそれそのものがフェオの敵に回ったかの如く。
「フェオさん!!」
咄嗟に叫んだピトスだが、苦悶を浮かべるフェオにその声は届いたか。
「か――は、っ……あ!?」
ぎちぎちと、不可視の空気がフェオの首を絞める。風に乗って声が届く。
――つーかまーえたーあ。
喉を、全身を締め上げられて、フェオは思わず剣を取り落としてしまった。持ち続ける余裕がない。万力のような拘束の力に抵抗するので精いっぱいだ。
重力に従って落ちた銀剣。それが地面とぶつかる音が、けれどなぜだか酷く小さい。
まるで空気が震えることを拒否しているかのように。音を伝えないよう抵抗しているみたいに。
――まさか、とは思う。
だが間違いない。
稀代の変身魔術師ドラルウァ=マークリウスは、空気にさえ変身できるということだ。
彼女の能力が、変身などという言葉で片づけていいような範疇にないことはわかっていた。だが、こうまで埒外の能力だとはさすがに想像できなかった。
しかも。そんなこと、いったいいつの間に。いつから《水星》は大気に紛れていたというのか。
――嫌ですねえええ、それだけじゃあ、ありませんよおぉぉぉぉぉ……?
そんな声。それを認識するが早いか、取り落としたはずの剣が回転しながら宙に浮いた。
空気によって操られている――のではない。そんな動きではない。意思を持つかのように宙へ舞い戻り、その切っ先をフェオへと向ける銀剣。
それを見てフェオは思い出す。
そうだ。《水星》の能力は変身だけではなかった。
変身魔術師でありながら、同時に変心魔術師でもある――それが《水星》の能力だったはずだ。
魔力で肉体を守っているフェオが、《水星》に乗っ取られることはなかった。だが取り落として魔力から離れた剣は違う。
彼女は、無機物にさえ心を宿らせる。
心を宿して、魔力で動くことを可能とする。
「死ね」
声がした。それと同時――剣がフェオの心臓めがけて発射される。
肉の抉られる音が響き、血が空気を染めていった。
※
鮮血が迸る。目の前で大気に朱が引かれた。
フェオの目の前で、彼女を庇うように飛び出してきたピトスの左肩に――銀剣が深く突き刺さっていた。
「――!」
ピトスは叫び声さえ上げない。覚悟して受けた攻撃に、彼女はショックなど受けない。
いかな彼女でも、その肉体の能力値では今のフェオに劣ってしまう。だが彼女の精神性は、今や鋼の硬度を持つ。
――ピトス=ウォーターハウスは痛みに強い。
この程度、傷の内にも入れないほどだ。死ななければいい。
だから、彼女は。その左肩に突き刺さった剣を完全に無視したままで。
フェオの背後の空間を、思いっ切り殴り抜いた。
「い、ぎぁ――!?」
背後の空気が吹き飛ばされる。それに引きずられてフェオの身体が痛みに軋んだ。
「くぁ……っ」
だが拘束は解かれた。ふっと下に落ちるフェオを、待ち構えていたピトスが抱き留める。
それと同時に、フェオの身体へと温かな魔力が流れ込んできた。ピトスによる治癒魔術だ。
「空気だろうがなんだろうが」ピトスは笑った。「それがあなたの肉体なら、拳で殴れないわけないですよねー……あー痛い」
「乱暴だなあ……もっと優しく助けてほしかった」
苦笑して言うフェオに、ピトスもまた笑みで答える。
「そんなこと言う余裕がある辺り、どうやら大丈夫みたいですね」
「……ていうか、アンタが大丈夫じゃないんじゃ……」
なにせ、ピトスは今も肩から血を流したまま、突き刺さった剣を抜くこともなくフェオの治療をしている。貫通した切っ先が背中側から正面に顔を出しており、誰がどう見たって重傷だ。
だがピトスは、「ああ」と小さく、なんでもないことのように呟く。
「大した怪我じゃありませんよ、この程度。なに、死ななきゃいいんです、死ななきゃ」
「…………」
ピトスも大概頭おかしいよなあ、とフェオは思ったが、助けてもらった手前、言うのはやめた。
簡易的な治療を数秒で終え、ピトスはそこでようやく肩の剣を抜く。そしてその手で、赤に濡れた剣を、フェオへ普通に手渡しした。
「どうぞ」
「どうも……」
――この女、実は《水星》より怖い気がしてきた。
と思ったがフェオはやっぱり言わない。剣を抜いても血が噴き出さない辺りを見るに、ピトスはおそらく刺さった瞬間から治療を開始していたのだ。
「さて。バトンタッチです、フェオさん。お疲れ様でした」
「……わかったの?」
「ええ」ピトスは笑みでもって答える。「《水星》の攻略法はわかりました。フェオさんは休んでいてください」
それがふたりの間で、無言のうちに交わされた約束。
フェオが攻撃している間、ピトスが参加せず観察に徹する。そうして攻略の糸口を見つける。
それだけの時間をフェオが稼ぎきると。
その間にピトスが変身魔術への対処法を見つけ出すと。
互いが互いを信頼した、その結果がこれだった。
「……結局、私は捨て駒みたいな役目だったしさ……なんか納得いかない」
「ちょ、嫌ですね、適材適所ですよ。わたしより強いんですから、フェオさんのほうが時間稼げたってだけです」
「――本心は?」
「仲間とはいえライバルなんで、いいところはこっちで貰っておこうかと」
「嫌な女だなあ!!」
きーっ、とピトスを睨みつけるフェオだったが、気分は意外と悪くない。その表情には笑みさえ浮かんでいた。
背中を預けられる仲間がいる。そのことの心強さなら、もうとっくに教えてもらっていたから。
だからピトスも、その冗談には笑顔で答える。彼女は肩口の血を指で拭うと、その赤でフェオの唇を塗った。
「何するぅ!?」
狼狽えるフェオにピトスは笑顔で。
「いえ。――格好よかったですよ。男なら惚れてたかもです」
「……うう、くそ。血から悪女がうつる……」
「病原菌みたいに言うのやめてもらっていいですか、吸血鬼のクセに!」
「吸血鬼だって飲みたい血くらい選ぶんだけど」
「あーあーそうですかーそうですねー。そりゃわたしよりアスタくんのほうがいいですよねー、えーえー」
けっ、と吐き捨てるみたいにピトスは言う。
フェオはそこで力を抜いて、体重の全てをピトスに預けた。使い切った魔力は、ピトスの血を通じてほんの少しだけ補給された。その意図がわからないほど馬鹿じゃない。
――酷い気分だ。王都に残った姉のことを、腹立たしいけど、少しだけ思い出してしまった。
けれど、まあ、それもなかなか悪くない。
「――あと、任せた」
「任されました」
くたりと力を抜いたフェオを、地面に優しく座らせて、それからピトスは前を向く。
その眼前には、口の端から血を流した《水星》の姿。
「どうですか? 痛みを思い出した気分は」
「――ああ。そうだね……確かに久し振りの感覚だ。まったく最悪だよ」
「あらまあ情けない。その程度、傷の内にも入りませんよ?」
凄然と。獲物を前にした獣の笑みで、片腕を赤に濡らしたピトスが笑う。
あるいは吸血鬼より血の似合う、獰猛で凄絶とした微笑で。
「高いとこから見下ろしてた人間が、鼠に地面へ落とされた気分はどうですか」
「……まるで、どこかの誰かを思い出す態度だね」
「あれ、気づいてなかったんですか? ――わたしたちは、初めから三対一のつもりでしたけど」
ピトスさんが楽しそうで何よりです。