5-02『奪還作戦開幕』
「――いや、もう驚くまいとは思ってたんですけどねー」
と。そう呟いたのはピトスだ。
彼女たちは今、教授ことユゲル=ティラコニアの謎魔術によって、一瞬にしてオーステリアまで帰還していた。
目の前にはオーステリアの外周を囲う門。それをさらに外側から覆うように、強力なドーム状の魔力が覆っていることはひと目でわかった。結界だ。それも物理的な干渉を弾くレベルの、もはや障壁にも近いほど強固なもの。
オーステリアの門まで、およそ五百メートルばかり離れた距離にピトスはいる。ユゲルとレン、ウェリウスとフェオも同様だ。ここが結界の境界地点――地脈の途切れる場所だった。
この結界を突破するのは容易ではあるまい。というか、いかに補助魔術に長けるピトスでも不可能の領域だった。突破する方法を考えるならば、魔術による術式の解体ではなく、力尽くによる破壊のほうがまだしも簡単だろう。
錠前をピッキングするのではなく、ぶっ壊してしまうほうがいいということ。
これを、ユゲルならば解体できるのだろうか。彼はそれを為すと宣言していたわけなのだが。
できるのかもしれない、とピトスは思う。ほかでもない七星旅団の三番目――伝説の旅団で、最も卓越した魔術の技量を持つという彼ならば。
今の移動魔術を見てしまった以上、できないと断言することはピトスにはできない。もはや自分の知識で判断できるレベルを超えていた。
地脈移動魔術。ユゲルはそう、こともなさげに言った。魔術師として理屈は理解できるものの、そんな技術をこうも簡単に使われては、立つ瀬がないというかなんというか。
天才だなんだと持て囃されていたことに、彼女はもうなんの価値も見出せなくなってしまっていた。天才の集まる学院の、そのさらに最上位層……そんな肩書きに意味などない。わかっていたことではあるのだが。
見渡してみれば、ほかのみんなも大した違いはないらしい。驚くを通り越して脱力するというか呆れるというか、とにかく一様に言葉もない様子だった。どこ吹く風とばかりに真顔なのは、それこそユゲル当人だけ。
「さて。……上手くいったな」
「いや失敗する可能性あったんですか」
軽く言うユゲルに、ピトスは半ば反射で突っ込んだ。
ユゲルはやはり真顔で頷き、
「理論はできていたさ。これは教団の連中が魔人化した理屈とそう変わらない」
「はあ……? ――え?」
「要は《肉体》という要素を《魔力》に変換すること――それが可能だということは連中の存在が証明しているようなものだ」
「まあ、《水星》という方も似たようなことをしていたらしいですしね」
「魔人もそう変わらん。要は肉体を魔力に還元し、かつ同様に個として成立させ続ける。それが魔人の要件だ。ただ地脈を通り抜けるだけならば、後者は必要ないな。俺たち自身が魔力になれば、地脈の中を通り抜けていける。道理だろう」
「そう言われればそうかもしれませんけど……」
「――まあ、肉体を魔力に変えることができても、元の肉体に戻れるかどうかはわからなかったからな。上手く運んで幸運だったと思っておけ」
「……………………」
――要するにそれ、下手したら魔力になって二度と人間に戻れなくなっていたという意味では?
そうピトスは理解したが、突っ込むのはやめておいた。これ以上そんな異次元の理屈など聞きたくなかったし、もし頷かれたらそれこそ立ち直れない。幸いなんの影響もなかったのだから、忘れてしまうのが吉だろう。
口を閉ざしたピトスに変わり、口を開いたのは珈琲屋――レンだ。
ウェリウスとフェオは、それぞれオーステリアの街のほうを眺めている。
「……で、どうなんだ。破れそうなのか、あの結界は」
「見事なものだな」微妙にずれた返答のユゲル。「間違いなくノートの技術だろう、相変わらずいいことをする」
「知り合いでもいるのか?」
「ああ。元同僚……というか同じ《魔導師》の女がいてな。卓越した魔術師だった――もっとも趣味は合わなかったが」
「そうか。それで?」
「物理的な破壊は不可能だな。おそらく迷宮の魔力を元にしている――壊したところで即座に復活するだろう」
復活機能は、結界が持つ機能として割にありふれたものだ。
結界と障壁はあくまで違う。境界に壁を造り攻撃を防ぐ障壁と、あくまで境界の内部に影響力を持つことを主眼とする結界とでは、そもそもの用途が違うのだから。結界には障壁ほどの物理的防御力がない。
ただ、それは言い換えてしまえば、術式を破戒せずとも物理的に破壊されてしまいかねないということ。
そのとき魔術師はこう考える。結界に障壁並みの強度を持たせることが難しいならば、逆に壊されても直るように初めから作ればいいと。そもそもそういった副次効果を持たせやすいのが結界の利点なのだから。
だから、それなりに慣れた術者ならば、攻撃によって破壊された結界が即座に再生する程度の仕掛けは当たり前に施しておく。もちろん相応の魔力は必要となるが、逆に魔力さえ工面できる限り、半永久的に再生する結界を張り出すことも不可能ではないわけだ。
考え得る対処法は三つ。
ひとつは、結界の破壊をそもそも諦め、術者を倒すことで突破すること。こうして出入りすら禁止するほどの結界などそうはないのだから。術者さえ見つけてしまえば取れない手ではない。今回は不可能だが。
そしてもうひとつは、結界を維持できるだけの魔力がなくなるまで繰り返し繰り返し破壊すること。個人の魔力は元より、ひとつの空間に存在する魔力の量は限られる。よって必ず再生限界がある。あまりスマートな方法とは言えないが、結界が復活しなくなるまで壊し続けるという手法も不可能ではない。これも今回は、迷宮と――この世界という膨大な魔力の渦そのものを結界のエネルギー源にしている以上、持久力に勝利はない。
よって最後の手段。
結界魔術を成立させている術式そのものを書き換え、魔術によって結界を破ることだけだ。
それができるのは――ユゲルを措いてこの中にいないだろう。
「……不可能ではないな」
果たして、ユゲルは言った。
およそ無限の魔力を持つと言っていい強固な結界を目の前に、それを破ることは可能だと彼は断言する。
「いくらノートが……いや、《月輪》が魔人になったからと言って、それで魔術のそのものが上達するわけではないだろう。控えめに言っても俺とノートなら腕は互角と言ったところだ。なら、時間をかければ術式そのものを無効化することも不可能じゃない」
その力強い言葉に、ピトスはわずかな安堵を得た。それを自覚してから、なんだかんだ言ってやはり不安はあったのだろうと自ら気づく。
彼女は、魔人と化した《金星》と、正面から戦っている。
あの時は確かに、アスタの助力を借りて勝つことができた。というよりほとんど彼の手柄のようなものだ。ピトスひとりでは魔人には勝てない。どう足掻いても、そんな可能性など存在しないというほどに。
恐怖はない。いや、ないと言えば嘘になるだろうが、それを呑み込んで前に進むことならできる。その分だけの力は貰っている。その期待を、裏切るくらいなら死ぬべきだ。それくらいに考えている。
だが一方、現実的に考えて、自分の力がどれほどの役に立つのかは不安だった。
自覚はしている。今の自分はもう、明らかに戦力として劣っていると。
ユゲルは言うまでもない。七星旅団の異常さは身に沁みてわかっている。アスタがいなければ《金星》に勝利することなど絶対にできなかった。あくまでも幸運――それこそ奇跡と言っていいほどの勝利だとはわかっているけれど、それでもアスタでなければ、その奇跡に手を伸ばすことさえ適わなかったはずだ。
ウェリウスも、冷静に考えてみればおかしい。いや、こいつは初めからおかしかった。余裕がなさすぎてスルーしていたけれど、あの二番目の魔法使いの弟子とはいくらなんでも秘密が過ぎる。そう考えて振り返ってみれば、もはや瞭然。――おそらく、ウェリウス=ギルヴァージルは元素魔術師として史上最強だ。
そしてピトスは、今やフェオにさえ戦力的に水を開けられてしまっている。もともと身体能力では劣っていた。その上で今、彼女は吸血種としての能力を覚醒されている。半魔人と言ってもいいだろう。
一方で。
ピトスの能力は、この時点でもはやほとんど完成されてしまっている。
いきなり劇的に強くなるとか、秘められていた才能が開花するとか、そんなことはこの先にあり得ない。だって、それはもう通りすぎてしまった道だから。
もちろん、その程度で腐ったりはしない。そんな自分では、アスタに顔向けできないと思う。
何より魔人に対しては、あのユゲル=ティラコニアでさえ「勝てない」と断言してしまっている。それでも足掻くと決めたのは自分の意志なのだから。今さらそんなことを理由に折れたりはしない。できない。
ただ不安はそれでもあったというだけのことで。
ユゲルが魔術を解体できるという事実は、それなりに安心できる要素だった。
ピトスにとっては。
レンは――そこまで甘いことを考えていなかったが。
「――で?」
彼は重ねて問う。眼帯に隠されていない側の目が、細い視線をユゲルに向けていた。
「重要なのはそこじゃない、できなかったら初めから終わりだろう。問題は、それにどれくらいの時間がかかるかのほうじゃないのか?」
「いい着眼点だ」ユゲルは笑いもせず頷いた。「結論から言おう。――おそらく丸一日はかかる」
「丸、一日……ですか」
ピトスも、そこで事態がそう簡単ではないことに気づいた。
中の様子は外からではわからない。そもそもこの結界自体が、連絡を途絶えさせるために作られたものだろう。
その状態で一昼夜、ユゲルは結界の解体に集中しなければならないわけだ。
ごく単純な、誰でも思いつく問題がひとつある。
――そんな行為を、七曜教団の連中が見過ごすはずがないということ。
「まあ、短縮できないわけじゃないはずだ。そのためにお前を連れてきたんだよ、レン」
ユゲルは言う。その視線で、レンをまっすぐに見返しながら。
「それとも珈琲屋と呼ばれるほうがいいか?」
「やめろ」
「……そうか。まあいい、お前には解体に協力してもらうぞ。お前なら見えるんだろう?」
「この期に及んで隠さねえよ」レンは頷いた。「そうだ。俺の眼には魔力が映る。目に見えない魔力を、俺は視覚で確認できるってことだ。だから普段は眼帯で封じてる――見えてもいいことないからな」
見抜いていたらしいユゲルにではなく、おそらくピトスたちに説明したのだろう。レンは言った。
眼帯の仕組みを見抜き、その効果からレンの持つ魔眼の能力まで見抜くユゲルは切れすぎているのひと言だが、レンの魔眼もそれに劣らず驚異的だ。
魔力を眼球で視認できる――それができるなら、どんな魔術の術式だって見抜くことは容易だろう。魔術師としては圧倒的なアドバンテージだと言えた。これで魔術師ではないほうが不思議なほどに。
ユゲルは小さく問う。
「――ひとつ確認しておくが。その魔眼、いったいいつから持っていた?」
「わかってんだろ」レンは吐き捨てるような風情だった。「生まれつきだよ、これは。魔術によらない異能を、後天的に手に入れるほうがあり得ない。だろう?」
「なるほど。だからか」
「そうだよ。だからだ」
ユゲルの問いに、レンが頷く。その意味がピトスにはわからなかった。
ただひとつはっきりと理解できたのは、次の言葉を、レンが心から憎々しげに言ったのだろうということだけ。
「――だから俺は、アイツとは関わりたくなかったんだ」
「まあ、いずれにせよ今さらだ」
何かを恨むようなレンの様子に、けれどユゲルは揺らがない。
ただ事実を述べるように、彼は淡々と続ける。
「お前の協力があれば、多少は仕事を早められるだろう」
「できんのか。俺には見えてもお前には見えない。――その違いは大きいぞ」
「慣れればできるだろう。お前は口で指示してくれればいい。頼めるか?」
「やるさ。いずれにせよ選択肢はない。……頭では、それくらいわかってんだよ。たぶん俺は、それが役目だからこの世界に来たんだ」
「……悪いな」
そうユゲルが謝ったことが、どれほど珍しいことなのか。それを知る者はこの場にいなかった。
ただ、レンはその謝罪にむしろ不快な表情を浮かべ、首を振ってこう答える。
「やめろ、謝られても困る。俺にお前らを恨ませるよう仕向けるな」
「……賢いな、お前は。だからこそなのかもしれないが」
おそらくふたりは、聞いているピトスたちがあえて理解できないように意図して会話しているのだろう。
ピトスは特に不満を持たない。聞かせる必要はないと彼らが判断したのなら、それはその通りなのだと信頼する。
いずれにせよ、ピトスたちの役割は決まった。
ユゲルとレンがふたりで結界を破戒するまでの時間――ふたりを護衛することだ。
「――!」
と、そのときフェオが機敏な反応で顔を上げ、腰に提げている剣を抜いた。
その視線はまっすぐ、オーステリアの外壁側へ向いている。だが視界に一切の変化はない。元より彼女は、これで意外に魔力探知に優れている。だから気づくのが早かった。
それを悟れるのは魔術師だけだ。ピトスも遅れて、フェオが顔を上げた理由に気づく。
口を開いたのはウェリウスだ。おそらくはフェオとほとんど変わらない速度で気づいたはずの彼は、けれど大きな反応をせず、ただ静かにこう告げた。
「――お出ましだね。では、作戦通りいこうか」
「できますか?」
と。そんな声が複数、空気を震わせた。
視界が揺れる。まるで空間そのものが痙攣しているかのような微振動が、目の中にだけ見えていた。
やがて魔力が集い出す。ひとつ、ふたつ、みっつ――次々に数を増やしていく。
人影だ。
まったく同じ人間が、目の前の空間に続々と現れていた。その光景は、それだけで生理的な不快感を掻き立てるほどに悍ましい。同じ姿の、同じ顔の人間が何人もいるということは、それだけで気持ちが悪かった。
数にして、およそ百人ほど。
その能力を知っている。
そうだ。仮にもユゲル=ティラコニアを止めに来るのが、雑魚であるはずなどなかった。
初めから幹部級の人間が訪れるに決まっている。それは予測できていた答えだ。
ならば恐れる必要はない。
元より、こちらは全員がそのつもりだ。
「――ノートは来ない、か。まあシグ辺りがどうにかしてるんだろう、おそらく」
ユゲルが言った。結界の内側を一瞬だけ眺め、彼は軽く前に手を伸ばす。
その掌が結界に触れた。途端、バチィ! と魔力が弾け、ユゲルの掌を焼いていく。
それに反応することは誰もしない。ピトス、ウェリウス、そしてフェオは、すでに目の前の女に意識の全てを集中させているのだから。
「やるぞ。解体の間は完全に無防備になる。流れ弾ひとつで俺は死ぬが、まあどうにかしろ。死ぬなら俺より先に死ねよ」
「言ってくれますね、まったく」
ピトスは苦笑。別に呆れたわけではなかった。
むしろ嬉しいくらいなのだ。あのユゲル=ティラコニアが、ピトスたちに三人に命を預けると言ってくれたのだから。
「……まあ、そういうわけだ」
影のうちのひとつが、軽く肩を竦めながら言った。
美しい顔が、けれどやつれている。その病的な表情に反して、言葉は酷く透徹して理性的に響く。
「今回の仕事は門番でね。君たちを殺しにやって来たよ」
「……《水星》……っ!」
もっとも因縁があるのはフェオか。滾るような怒りを、冷静さの裏側に秘めて彼女は呟く。
その言葉に、《水星》は嬉しそうに笑った。全ての影が一様に、同じ表情で。
「――そう。それが私。それが私たちの名前だ。七曜教団幹部、《水星》ドラルウァ=マークリウス。そう呼んでくれて嬉しいよ」
「ひとりなのかい?」
と、そう呟いたのはウェリウスだ。
個にして群たる、変身使いにして変心使いを前に、あえてひとりかと訊ねる余裕。こちらの全員が軽く笑った。
それで、肩の力は抜けた。
調子は最高だ。意思は絶頂だ。ならば敗北はあり得ない。
「この光景を前にその言葉とは……いや、さすがの余裕じゃないか。場数を踏んでいるね、全員。なるほど、才能とはこういう輝きを言うんだろう。羨ましいものだよ、本当」
軽く肩を竦め、《水星》のひとりがそう言った。ウェリウスは肩を竦めて答える。
「評価してくれてるなら、もっと多くの人間を連れてくればよかったのに。舐められてるのかと思ったよ」
「まさか。今回の趨勢を決めるひとつの要因だ、こちらも全力でお相手するとも」
「ひとりで、三人を相手にすると?」
「幸い私は群体にして軍隊――ああ、こういう仕事のほうが元よりあっているのさ」
一歩。
彼女たちが前に出る。完全に同期した動きで。
個にして群たる《水星》。
それは確かに、単身で一軍に匹敵する脅威ではあった。なるほど彼女さえいれば、見張りに事欠くことはない。
「――かかってくるといい、若き魔術師たち。一番目の運命を越えられるというならば」
学院都市オーステリア奪還作戦。
その初戦。
「その可能性を、この私に私に私に見せてみるがいい――!」
ピトス・ウェリウス・フェオvs《水星》、開幕。
初っ端からボス。
 




