EX-2『アスタとシグウェルの二年目 1』
気絶から目を覚ます。
その瞬間、もう見慣れてしまった顔が飛び込んできて、アスタは少しだけ驚いた。
そんな様子を楽しそうに覗き込んでいた少女が、少しだけはにかんだような笑みを見せる。
「――おはよ、アスタ。身体は平気?」
「何してんの……キュオ?」
「膝枕だよ? 見てのとーりだ」
「…………」
そういうことが訊きたかったわけではなく、どちらかといえば《なぜ膝枕をしているのか》という問いだったのだが、この状態の彼女――キュオネ=アルシオンには、何を言ったところで通じないことをアスタは学習している。
なら甘受するだけだ。別に、嫌なことをされているというわけでもない。むしろ役得くらいの勢いだったし、その程度の開き直りができる精神の強度は、二年目に突入した異世界生活の中で獲得に至っていた。
だから、アスタは何も言わず、何もせず、そのまましばらくキュオの膝の感触を味わう。
そんな様子を見て少女はまた笑った。くつくつと噛み殺すような笑みは、やはりどこか楽しげで。
「いやあ、アスタも図太くなったよねー? 昔はもっと、わたわたしてくれたのに」
「そりゃもう慣れたからな」
こんだけ振り回されていれば、とはアスタも言わなかった。
彼を振り回すのは、主に年上の連中ばかりだったから。キュオは振り回される側だったのだが、彼女の場合はそれでも楽しそうだったし、何より立ち回りが上手いためか被害を受けることが少ない。
その辺り、やはりマイアやシグとの付き合いが長い彼女のほうに、一日の長があるのだろう。
「なーんか悲しいなー」言葉とは裏腹、笑みを絶やさぬままキュオは言う。「もっと照れてくれてもいいと思う」
「お前相手に、今さら照れも何もないだろ」
「んー……喜ぶべきなのかなー。なんかビミョーだよ」
「……たまに小悪魔みたいなこと言うよな、キュオ」
「小悪魔?」
異世界に落とされてから一年が経った頃――といっても実のところ正確な日付など覚えていないのだが――アスタはついに、アーサーの師事を離れていた。
あらかじめ述べておくと、もちろんこの時点で彼が魔術師として完成したという意味ではない。適性が印刻ひとつに絞られていることは、結果的に習熟の速度を高めたものの、一年程度の修行で完成に至れるほど魔術の世界は狭くない。あるいは一生を懸けたとしても、ひとつの分野さえ極められないのが魔術というものだ。
それでもアスタがアーサーの元を離れたのは、もといアーサーがアスタの元を離れたのは、「これ以上、もう教えられることがない」から、という彼の言葉が理由だった。
先にも述べたが、免許皆伝という意味ではない。
※
「――単純に、俺がお前に教えられるほど印刻魔術を知らねえってこった」
アーサーは言った。この時点で、アスタの印刻使いとしての技量はすでに師を超えている。
「というか、お前に印刻を教えられる人間なんてこの世にいねえよ。基礎の知識は、そりゃ確かにくれてやることもできるがな。お前の魔術の適性は、ほとんど異能と言ってもいいくらい固有の方面に特化してる。お前はほかの魔術師が使う魔術を確かに使えない。だが、お前が使う印刻を真似られる奴もほかにはいねえんだ。あとはもう、自力で修練していくしかねえな」
そういった意味合いにおいて、アスタは《印刻魔術師》ではなく、正確には《印刻使い》なのだ。
ルーン文字を媒介に魔術を成立させているだけで、その理論はほとんど独自の価値観に基づいている。厳密には、だから印刻魔術さえアスタは使えてないないのだ。
すでにほとんど廃れたに等しい印刻魔術だからこそ、その事実を知る者が少ないというだけで。
「――強くなれ」
アーサーは、そう言い残してアスタの元を去って行った。
その意味が単に戦闘力を磨け、というだけではないことくらいなら、アスタにも理解できている。
だからといって、目指す先が厳密にわかったというわけではなかったけれど。
「お前がこの先、どんな運命を辿るのかは俺にもわからん。それは俺が決めることじゃなく、お前自身で決めることだからな。別に精神論じゃねえぞ。運命を選べることの意味を、単にお前が知らねえってだけだ。俺から教えるつもりもねえ。――ただ、これだけは言える」
アーサーはそう、真剣な表情で言った。
傍若無人で、修行を名目に何度となく死ぬような目に遭わせてきた男だ。かつてまだ印刻さえまともに扱えなかった頃、マイアやシグと連れ添って行った迷宮の冒険なんて、序の口とすら言えない地獄を、すでにアスタは知っている。
本当に、アスタは何度も死にかけた。かといって窮地に都合のいい覚醒なんてしない。学んだ知識を、振るえる技術を、冷静に判断して応用してきたからこそ、今もアスタは生きているのだ。
その経験が、アスタの魔術師としての実力を、飛躍的に高めてきたことは事実だったけれど。
「――強くならなければ、お前は死ぬ」
アーサーは言う。どんな目に遭わされようと彼は師だ。
アスタを鍛えるとき、彼は一度だって的外れなことをしなかった。
「この先、お前の人生に平穏なんて訪れない。お前は死ぬまで戦い続けるし、戦いの中で死ぬしかない。それがいつになるのかはお前次第――早いか遅いかお前が決めろ。そのことを自覚して励んでいろ」
「なんでそう悲惨なことしか言わないのか……」
「どうしてそれが悲惨なんだ。お前が決めたことだろう」
「…………」
「まあ、いくつか助言くらいはくれてやる。従うか従わないか、それもお前が自分で決めろ」
――ひとつ。なるべくマイアたちとともに過ごせ。
――ふたつ。お前が異世界から来たという事実はなるべく隠せ。
――そしてみっつ。
今後、何があっても《魔法使い》とは絶対に関わるな。
その助言の意味を、アスタは正確に判断することができなかった。
ひとつ目とふたつ目はわかる。元より頼りのないアスタはマイアたちと暮らすことになるだろう――それくらい気安い関係を築けてもいる――し、異世界出身だなどという話をわざわざしようとも思わない。
問題は三つ目だ。
これだけは、アーサーは《絶対》と言った。《なるべく》ではなく。
察するに、彼が最も言い残したかった言葉がそれなのだろう。とはいっても、普通に過ごしていれば、世界に三人しか存在しない《魔法使い》に会うとは思えないが。割とそこら中を旅しており、各地で目撃されては話題になるアーサーと違い、《二番目》は自らが創り出した最高質の結界に引き籠もっているという噂だったし、《一番目》に至っては完全に消息不明だ。
ともあれまあ、その程度なら無理して逆らう必要も感じない。仮にも師が言うのだから、従っておこうとアスタは判断した。
そんな会話を最後に、アーサーは再び旅に出た。彼にはやることがあるという。
もっとも、なんだか今生の別れみたいな感じだった割には、その後も意外と頻繁に顔を合わせる機会はあったのだが。
※
「――ところで、そろそろ起きてもらっていい? 意外と疲れるんだよね、膝枕って」
そんなことをキュオに言われてしまったので、アスタは立ち上がった。
軽く肉体の調子を確認する。自分で動かしてみる以上に、今のアスタなら魔力で身体の調子をある程度は把握できる。幸い、特に問題はない様子だった。
続いて立ち上がったキュオネに向き直り、
「サンキュ。治してくれたんだろ? 助かったよ、ありがとう」
「普通に重傷だったしね」キュオは肩を竦めた。「わかってる? 右足、完璧に折れてたからね?」
「それを簡単に治すんだから、治癒魔術ってすげえよな……ていうかキュオがすごいのか」
「右足折っといて平然としてるアスタのほうがすごいっていうかキモいけど」
「今のは褒めたの? 貶したの? ……いやごめん」
訊ねるアスタだったが、このときばかりはキュオもジト目で、すぐに謝ることになる。
「まったく、どうしてそうなるかな。……本当、すぐに無茶するんだから。わたしは心配だよ」
「そろそろ一回くらい勝ちたいんだよ――ってかそう、ところでシグは?」
そもそもの話、なぜアスタが気絶していたのかと言えば。
これはシグと戦っていたからだ。模擬戦、とは言うもののほとんど実戦形式で。
師匠が旅に出て以降、アスタはもっぱらシグから戦いを教わっていた。
以前にアーサーが述べた通り、アスタに《魔術》を教えられる人間はいない。シグに至ってはそもそも魔術がかなり下手なため、はっきり言って単純な技量ならアスタはすでに彼を抜き去っている。
シグ自身、適性がないのをいいことに、まともに魔術の勉強などしていないということもあった。
「シグなら街まで出てくるってさ。買い物とかじゃないかなー」
「……わかっちゃいたけど、疲れてすらないのか」
「強いからね、シグは」キュオは薄く微笑む。「わたしから言わせれば、アスタだって充分にすごいんだけどね? あのシグと、曲がりなりにもたった一年で戦いになるんだから」
「あんだけ手加減されて勝てないんじゃ、なんの意味ないよ」
「欲張りすぎだよ、贅沢だなあ」
「いや……まあわかるけど。まさかシグが、最強の冒険者に名前を挙げられるレベルだなんて知らなかったし……」
シグと戦いになれば、百回やって百回アスタが負ける。実際、三桁とは言わないまでも、近い数の敗北をアスタは重ねてきていた。多い日は一日に三回ほどボコボコにされたことがある。負け方だけは上手くなった。
結局、そういうものなのだ。魔術の技量は、必ずしも戦闘力に直結しない。
シグはその中でも、特におかしい部類だ。彼が魔術を学ばないのは、学ばなくてもどうにかなってしまうからにほかならない。
あの魔法使いをして、「まともに戦えば俺が負ける」とまで言わしめる最強の戦闘者。
シグウェル=エレク。
そんな相手に、所詮は一年程度の訓練で勝とうとするほうが間違っている。
だが、
「それでも納得できない?」
首を傾げてみせたキュオに、アスタは答えなかった。
魔術の世界は――いや現実というモノは、総じて結果が全てだ。それが当たり前の論理なのか、それとも幼い感傷なのかは措くとしても、《がんばったね》で済まされないことがあるのは事実。
そんな前提を考慮しないにしても、負けっ放しは普通に癪だった。
……などというアスタの思いは、どうやらキュオには筒抜けだったらしい。
「アスタも男の子だねー」彼女は笑う。「わたしは、最強になりたいなんて思ったことないし」
「俺だって……別に最強を目指してるわけじゃないんだけど」
「シグに勝ちたいなら同じようなもんでしょ。そういう負けず嫌い、可愛くていいと思うな、わたし」
「……馬鹿にしてる?」
「してると思う?」
「……してないと思う」
「ん。信頼してくれて嬉しいよ、アスタ」
「…………」
にへら、と割に弛んだ笑みをキュオは見せた。
――こういう恥ずかしいことを、なんでもないことで平然と言ってのけるよなあ。
アスタは咄嗟に顔を背けた。嫌なわけじゃない。ただ、ちょっとだけくすぐったい。
思えば、ここまで近しくなった異性なんて、それこそ家族を除けばほかにいなかったように思う。いや、マイアやシグ、キュオネ辺りは、もはや家族と言ってしまっていいような距離感になっている。
ちょっとだけ据わりが悪いのに、それよりずっと心地がいい。
そんな奇妙な感覚が、なんだかやけにくすぐったいのだ。
「まあでも特化型はいいよね、その辺。上達が早いからさ」
キュオが言う。
そういえば、とアスタは首を傾げて訊ねた。
「俺、キュオが戦ってるとこ見たことないんだけど」
「わたし、そんな戦うのとか好きじゃないし。強くなりたいとも、あんまり思わないからなー」
「でも身体は鍛えてるよな?」
と、アスタ。アーサーが旅に出たあとも、彼に課されたトレーニングのメニューはこなしている。
弟子入りしてしばらくは地元に帰っていたというキュオも、合流してからはアスタに付き合ってくれていた。
「そりゃ、わたしも魔術師ですから。結局は身体が資本だよねー」
「……マイアから聞いたんだよ」アスタは恐る恐る言う。「『キュオは私より強い。あと怒らせたらシグより怖い』とかなんとか」
「えー?」キュオは笑う。「そんなことないよー? 酷いなあ、もう。わたしそんな乱暴じゃないもん」
「…………、そっか」
このところ鍛えられつつある危機感知センサーが警報を鳴らしていた。
これ以上、この話題に突っ込んではならない、と。
「ま、さすがにシグより強いってこともないだろうしな」
俺よりはきっと強いんだろうけど、と思いながら呟くアスタ。キュオは頷き、
「いや……さすがにわたしも、強度っていう観点でシグと比べられるのはちょっとね」
――そう。アイツおかしいんだよマジでいろいろと本当にあり得ないなんなのあれ……。
心中でぶつぶつと呟くアスタ。彼の数少ない知り合いの魔術師は――隣に立つキュオも含め――基本的にどこかおかしいということには最近気づいたのだが、中でもシグは特におかしい。
人格は普通だ。多少、カロリー的な意味での燃費は悪いが、常に腹を空かせている以外に取り立てて目立った特徴はない。ちょっとだけ取っつきづらい印象はあるものの、意外に付き合いのいい性格をしているし、総じて頼りになる兄貴分といった感じだ。難点があるとすれば、マイアの言うことに基本的に異を唱えないことくらいだろう。
問題は、ほぼ全てが魔術師としての側面に内包されている。
要するに強い。どれくらい強いのかといえば、本当に世界最強なのかもしれないくらい強い。
世界でいちばん強いということだ。
地球では、そんな称号が個人に付与されることはほとんどなかった。対人型のゲームや格闘技などで分野における最強はいただろうが、それが生物としての戦闘力評価に結びつくことはまずない。
それでも男ならば、一度は憧れる肩書きではあろう。
最強。
最も強い。
もちろん公式に最強だと認められているとか、そういう話ではない。シグに匹敵する冒険者だって数人はいるだろうし、もしも本気で戦えば負けてしまうかもわからない。その確認は取れないし、仮にシグと並び評される全ての魔術師に勝ったところで、在野に埋もれた真の最強がいないことは証明できない。いわば黒白鳥のようなものだ。
それでも、数いる魔術師の中で、最強である可能性を目されていることは事実だった。
アーサーの言う「強くなれ」という言葉の真意は定かではないにせよ、その位置に最も近い人間は、アスタの身近だとシグになる。稽古をつけてやろう、という彼の提案は、その意味で渡りに船だった。
そう。シグは強い。戦いに強度を持っている。
だから魔術の技を学ぶことはできずとも、戦うための技ならば盗むことができた。たとえば立ち回りであったり、どこでどんな行動に出るかの選択であるとか、策の立て方とか。普段のどこか泰然とした振る舞いとは違い、戦闘者としてのシグはこれで案外、ロジカルな戦い方をする。彼に特有の異常な火力に、頼りきりというわけではない。
もちろん今のアスタでは、シグが限界まで手加減した魔弾の一発さえ致命的なのだが。
「――あ、そうだアスタ!」
シグに重ねた敗北の記憶に、ひとりで苛まれていたところでキュオが言った。
「あ――ん、何?」
問い返したアスタに、キュオは笑顔で言った。
「このあとアスタ、暇だよね?」
「あー、まあ別にやることはないけど」
最近、ようやく冒険者としての仕事をこなし始めた――それでマイアたちがおかしいと知った――アスタだが、基本的には自主訓練が日々の大半を占めている。
というわけで、割といつでも訊かれるまでもなく暇だった。
答えに満足したように、キュオはわずかにはにかんだ。身体の後ろで手を組むと、爪先で地面をとつとつと蹴るようにする。何かを躊躇っているようだった。
ちょっと意外に思いながら、アスタはキュオの言葉を待った。
彼女がこんな態度を見せるのは珍しい。明るく朗らかで、物怖じしないタイプだと思っていたから。
やがて、意を決したようにアスタへ向き直ると、キュオはこんなことを言い出した。
「――デート、しよ?」
「は?」
素でそう言った。素で疑問だったからだ。
しかし、いくら唐突でも、その反応はいろいろとない。
温厚なキュオの表情に、みしり、とヒビが入ったことには、アスタもさすがに気がついた。
気がついたが、どうすればいいのかわかったかといえばそれは違い。
――え、マジでどういうこと?
Q.シグ出てないですけど?
A.出すなんて言ってま――ごめんなさいっ!




