EX-1『アスタとマイアの一年目 5』
長いですけど? 何!?(理不尽ギレ)
気取ってみたはいいものの。
実際のところ、戦いはかなりの綱渡りだった。
「――っ、ああくっそ、強えな、なんだよこのヘビ、バケモノかよ……っ!」
呻くようにそんな言葉を漏らすアスタだったが、実際にバケモノなのだから仕方がない。
とはいえ、辛うじて撃破することには成功していた。
身体の上にのしかかっていた蛇型の魔物が、魔力に還って空気に溶けていく。そのお陰でようやく動けるようになり、アスタは痛みを堪えながら立ち上がる。
はっきり言ってギリギリだった。
瞬く間に距離を詰めた蛇の、巨大な体躯に押し潰されたのだ。
身体を締め上げられ、骨が軋みを上げた。巨大なあぎとが目の前で開き、毒々しい口の中を見せられたときは、本当に死ぬかと思ったくらいだ。
咄嗟に煙草の火を蛇の口の中に押し当てて、なんとかアスタは、内部から《火》で焼き尽くすことに成功する。
おどろおどろしい悲鳴を上げて消えていく蛇の姿に、強烈な嫌悪感を覚えさせられた。
それでも生きている。生命を象ったモノを殺すことに、アスタは抵抗を覚えなかった。
そんな事実に、アスタは何も感じない。本当は何かを感じていたのかもしれないが、それを意識している余裕など自分にはないことをわかっている。
だから、構わなかった。
死ぬくらいなら相手を殺す。そんな価値観は当たり前で、それに慣れていくことを恐れる必要はない。でなければ自分が死ぬだけだ。
そういった意味合いにおいてアスタは、魔術師としての素質を持っていたのだろう。少なくとも精神的には。
ともあれ窮地は脱した。
多少痛むものの、結局は無傷で魔物を撃退したアスタは、そこで初めて周囲の様子を窺ってみる。
獅子の姿をした魔物から逃走し、三階まで上がってきたのは覚えていた。
だが辺りは、一階部分とほとんど変化がなかった。まるで時計の文字盤のように、周囲を階段が埋めている。
ここが本当に三階なのか、それとも実はほかの階なのか、見ただけでは判断できないだろう。
「……というか」
本当に、ここは一階なのかもしれない。アスタは思う。
周囲に感じる瘴気の濃さが、一階にいた頃とまるで変わっていない気がしたからだ。
もちろん、二層分を上った程度では大した変化がないとも考えられる。
そのどちらが正解なのか、アスタにはわからない。だがわからなかったからこそ、早い段階である可能性に思い至ったのだとも言えた。
――要するに無限ループだ。
あの階段は、どう上ろうと下りようと、永久に終わらないのではないだろうか。
あり得そうな話だ、とアスタは思う。
しかし、だとするのならどうやって攻略すればいいのか。そんな結界を破る魔術が、アスタに使えるはずもない。
仮に推測が当たっていたところで、手詰まりであることに変わりはなかった。
「……」
そのときだ。またしても、何かの気配をアスタは感じる。
壁際の、階段の辺りに視線をやっていた一瞬だ。
まるで先ほどの光景を焼き直すかのように、部屋の中央に、巨大な獅子の魔物が立っていた。
「――――っ!!」
またしても、その威圧感にアスタは腰が引けそうになる。
だが、今度は逃げなかった。
推測が正しければ、その魔物はアスタを殺すために現れたのではないはずだからだ。
だから、ただその場に立っていた。一応、何かあればいつでも逃げられるような心構えは持ちながら。
アスタの視線が、獅子の視線と真っすぐにぶつかる。
「……、動かないな」
しばらくしてからアスタは言った。予想していた通り、獅子が襲ってくることはなかった。
アスタの知識に照らすならば、この時点で目の前の獅子は魔物ではないということになる。正直、どう見たって魔物にしか見えないのだが、魔物ならば例外なく人間を襲ってくる――はずだ。
もしかしたら、例外があるのかもしれないけれど。
獅子はまったく動かない。ただ真っすぐにアスタを見つめ続けるだけだ。
微動だにしない、というわけではない。呼吸しているのはわかるし、ときおり鼻息らしき音が聞こえる。そもそも魔物が呼吸を必要としているのかは、正直なところわからなかったが。
しかし、どうしてこの獅子は、アスタの目の前に現れたのだろう。
獅子がこちらを襲ってこないのはなぜなのか。アスタはいくつか考えを浮かべたが、どれも根拠のない想像だ。推測に足る根拠もなければ、推論を組み立てるのに必要な知識も欠けている。
アスタにできることは、こういうことではないだろうか、という想像だけだ。
もしかして。この獅子が、迷宮の謎を解く鍵なのではないだろうか。
ふとアスタはそんな風に考えた。
こちらを襲ってこないということは魔物ではない。とりあえずアスタはそう判断する。
魔物ではない、ならば何か。
「お前。いったい、何をしてるんだ……?」
ほとんど無意識のうちに訊ねていた。何かではなく、何をしているのかと。
答えなど期待していなかったし、もちろん獅子は何も答えない。ただこちらを見つめ続けている。
見ている。そう、獅子はただこちらをその双眸に収めているだけだ。
その意味が――けれどアスタにはわからない。
結局、そこ止まりだ。これだけのヒントで迷宮の謎を解き明かす能力を、客観的な事実としてアスタは所持していない。そこに都合のいい閃きなどなく、全てをひっくり返すような知識を持っているでもなく、わからないものはわからず知らないものは知らないというだけの厳然たる現実が存在するだけ。
力のなさを突きつけられるだけだった。
だから。
この状況を打破できる者があるとすれば、それはアスタではあり得ない。能力と知識のない人間には不可能である以上――それを覆せるだけの幸運もまた存在しない以上――能力と知識を持つ者の到来を待つ以外にはない。
音があった。どたどたと、転げるように階段を落ちてくる音だ。
その発生源はふたり揃って、まるで喜劇の演者のようにこの広間へとやってくる。
体中を壁や床にぶつけまわりながら、格好いいなどとはまるで言えない、格好悪いと評するにも間の抜けすぎた形で、本当に文字通り階段を転がり落ちてきた。
折り重なるように墜落したふたりに対し、アスタは正直、言葉がなかった。
「……めっちゃ痛い」
男のほうが小さく零し、女のほうが笑みで答える。
「でもナイス下敷き! さっすがシグ、紳士だねっ!」
「いや別に意図してなかったんだが」
「ならしてたことにしちゃえ! 上手くいったんだし、そのほうが私の好感度も稼げるぞ!」
「ふむ。ではそういうことにしておこう。――ところでいい加減にどいてくれ重い」
「せっかく上がった好感パラメータが下降曲線を描き出すぜシグさん!?」
ふざけたことを言い合うふたりの男女。
マイアと、そしてシグ。
迷宮に囚われていなくなってから、そう時間も経っていない。それでもふたりは、当たり前のようにアスタのところへと戻ってきてみせた。
それが、本当の意味で魔術の実力を持つ人間の姿なのだということだろう。
戦って強いとか、いろんな魔術を知っているとか。そんなことは本質的な問題ではない。
魔術とは世界の法則に自己の認識を優先させ、あらゆる決まりを捻じ曲げる行為を指して言う。ならば、それを本当の意味で為し得る者こそ、真の魔術師と呼ぶべきなのだろう。
どれほど強力な魔術師だろうと、油断しているときに魔物の一撃を受ければ死ぬ。歴戦の冒険者であろうとも、低級の迷宮で呆気なく命を落とすことがあり得た。それが人間だ。この世に絶対なんてない。
強いから死なない、なんて理屈は通っていないのだ。百回戦って九十九回勝利できるほどの実力差があろうとも、負ける一回目が初戦に来ればそれで終わりだ。
それでも。
こうして本当に、当たり前のように、窮地から生還してみせる運命の強度。
物語の主人公のように、あるいは神話に謳われる英雄のように。どんな苦難にも解答を見出し、当然の如くそれを手元に手繰り寄せる握力。
それを才能と呼ぶのだとすれば。
果たして、アスタには――。
などと考え込んでいた余韻もぶっ潰すみたいにして。
「さーって! 助けに来たよ、弟くん!」
立ち上がったマイア=プレイアスが、笑顔でそんなことを宣った。
アスタは苦笑し、軽く肩を竦めてこう答える。
「……だから弟じゃないっての。まだ」
「うん? 今なんか唐突なデレを感じた気配。心境の変化の所以が気になるお姉ちゃんだぞ」
「アホなこと言ってないと正気を保てない呪いにでもかかってんのか己は。もうその時点で正気じゃないぞ」
「何その斬新な表現。アスタったら詩人」
「うるさいな。状況見てないのかよ、今めっちゃ怖いのに睨まれてるんだけど」
「使い魔でしょ」あっさりとマイアは言う。「確かに信じられないくらい強力な一体だけど、襲ってくるわけじゃないんだから、そんなビビらなくてもいいじゃないの。ねえ?」
首を傾げて、その場に立つ獅子に向かって問いかける暴挙にマイアは出た。
だが彼女の余裕の通り、獅子は一切反応しない。どこか呆れたように鼻息を漏らした、ような気はしたが、それは気のせいだろうか。
「……使い魔?」
「そだけど……あれ? もしかして知らない、使い魔?」
「知らないってことは……いや知らないわ、やっぱ」
言葉のイメージからなんとなく察することができるというだけで、この世界に実在する魔術としてのそれをアスタは学んでいない。そこまでの勉強する余裕はさすがになかった。
――使い魔。
実際、地球人が想像するイメージとそう大差はない。魔術によって生み出される人工生物、疑似生命。核となる物質に魔力が纏うことでカタチを為し、術者に使役される――。
それは定義上、魔物と同じモノだった。ヒトを襲うか、ヒトに操られるか、違いとしてはそれだけである。
というようなことをマイアは語った。
「人間を襲ってこない魔物は、使い魔だけだよ。正確には高等知性のある魔物――幻獣や神獣って呼ばれる魔物の中にもヒトを積極的には襲わないモノもいるって聞くけど、ま、普通に生きてれば会わないから」
「もう一回会ってんだけど……」
会ったというか遭ったというか。水の町にいた白の水竜が、そのように呼ばれていたことをアスタは思い出す。
まあ、それはマイアやアーサーがまったく普通ではないせいなので、気にしないことにした。
一度出遭ったということは、確率的に今後の人生で遭遇することはないということでもあるのだから。なら安心してもいいだろう。
「んー……あの竜はあの竜でまた微妙に違うんだけどね、ヒトの手が入ってたし。……空間魔術かあ、私も使ってみたいなあ。会うことはないと思うけど、もし二番目に会うことがあったらお礼を言わないとね。間接的に助けられたようなものだし――いや、もしかすると直接的に、だったのかな」
「はい……?」
「ま、魔術の学問上の厳密な定義で言うなら、アレ神様だから。もっと言えば高次生命であって、だから本当は魔物ですらないんだよね。元素魔術における精霊とかのほうが近い分類になるわけ。あ、高次生命ってのは肉体がないっていうかそのものが魔力的な架空要素で構成された生命って意味だから、単純に人間が使役できないってわけじゃないんだよ。高次生命の中でも比較的下位なのが元素霊で、竜とか鬼とかになると幻想を纏って単独で現実世界に干渉できるようになるわけ。そうなると人間じゃそうそう太刀打ちできないような力を持つんだけど、結局は劣化再現になるからね。その意味では精霊のほうがむしろ生命としては上位であって――」
「マイア。ちょっと、何言ってんのかわかんねーんだけど」
「っと、ごめんごめん。今は関係ない話だったね」
軽く頭を掻くマイアだった。これで意外と語りたがりというか、教えるということが好きらしい。
それはアーサーも同じだったので、魔術師というのは案外、後進の育成には積極的なのかもしれないと思う。
「さて、アスタ。ちょっとクイズといこっか!」
「は?」
「――その使い魔が、どうしてここにいるのか。何をしているのか。想像できる?」
いきなりの問いに首を傾げるほかない。ただ笑みを見せるマイアの表情に、押されて考えることになった。
アスタは視線をマイアからずらし、改めて使い魔――獅子のほうへと目をやる。
「……、……」
シグがその身体を撫でていた。
それこそ仔猫でもあやすかのように喉の下をくすぐり、使い魔のほうも気持ちよさそうに受け入れている。
「意外と愛いなお前。珍しく食事を分けてやってもいいという気分になったぞ」
「――――」
「そうかなるほど。お前は賢い奴だな」
「――――」
「その献身、その忠誠、お前は誇るべきだろう。主人に代わって俺が認める。俺で悪いが、受け取ってくれ」
なんか会話してるんですけど。ちょっとほのぼのしてるんですけど。
盛大にビビって、半ば涙目で逃げ出した身としては、微妙に釈然としない思いのアスタだった。
確かにまあ戦いにならないに越したことはないし、言われてみれば大人しく喉を鳴らしている獅子は、ちょっとだけ可愛らしいと思えないこともなかった。いや怖いんだけれども。
「なんか絶妙に、シグがヒントになること言ったね」
と、マイアが言う。出された問いを忘れていたアスタも、それで改めて考え始める。
果たして、この使い魔はなぜここにいるのか。
使い魔。使い魔である。使い魔というくらいなのだから当然、それを使っている側の魔術師がいるということになる。
――えっ、誰……?
雰囲気から言って、マイアやシグというわけではないのだろう。もちろんアスタであるはずがない。しかし、だとするとほかの選択肢がない。この場にほかの人間がいるとは思えなかった。
「…………」
思索の海に沈んでいく。アスタは頭を働かせる。
――誰の使い魔なのかではなく、なんのための使い魔なのか、という点から考えてはどうだろう。魔術で使い魔を創り出した以上、誰なのかはわからないが、その魔術師には目的があったはずなのだから。
果たして、この獅子は迷宮で何をしていたか。
――なんもしてないなあ、こいつ……。
アスタは目を細めた。この獅子、こちらをただ見ていただけではないか。それ以外には一切何もしていない。
ただ唐突にぬるりと現れて、アスタのことを見ていただけ。見張りだと考えるには目立ちすぎる。あまりの恐ろしさに、思わず逃げ出してしまったくらいなのだから――、
そこで直感が走った。原則を思い出す。魔術師は無駄なことをしない。それに自分が嵌まったのだとしたら、アスタは使い魔を作った魔術師の思い通りに動いたということになる。
アスタはどうしたか。怯えて、逃げ出した。
あるいは。
それが目的だとしたら。
「この迷宮に入ってくる人間を、追い返そうとしていたのか……?」
「――いい線だね。正解に近づいてる」
マイアは笑う。ということはもちろん、彼女は答えに気づいているということなのだろう。
あるいは知っていたのか。だとするならやはり、入口でアスタと離れたのは故意だったということになる。
「マイア、お前、わざと俺の前からいなくなったのか?」
「え、やだな違うよ」マイアは首を振る。「酷いな、そんなこと私がするわけないじゃん。考えもしてないよそんあ酷いこと。アスタをひとりになんてしておけないって! だから急いで戻ってきたんだよ? よよよ?」
「凄まじく胡散臭いんですけど……」
「アレは本当に、私たちにとっても予想外だったんだって。だって、一度目に来たときには、あんな目に遭わなかったんだから。罠なんてなかったんだよ」
「……じゃあ」アスタは言う。「マイアが一度立ち去ったあとに誰かが来て、罠と使い魔を置いていった……?」
「そうじゃないよ。そうなら残ってたシグが絶対に気づく。シグに気づかれずにそんなことをするのは骨だよ。というか無理だと思う」
「……駄目だ。わからん」
アスタは諸手を挙げた。降参を示すように。
それ以上の考えは出てこなかった。
マイアは頷き、笑顔を見せたままこんな風に言う。
「――そっか、よかった。わかったらどうしようかと思った」
「何……?」
「なんでもない」わけがないのにマイアは誤魔化した。「それじゃあ、答えまで連れてってもらおっか」
――お願いできるかな?
と、マイアは言う。アスタに対してではない。
彼女は、シグが撫でている使い魔に対してそう言ったのだ。
シグが離れ、使い魔の視線がマイアを向く。
代わりに近づいていった彼女は、使い魔に向かって丁寧に一度頭を下げ、それから獅子の目を見て言った。
「よくがんばったね。でも、もう大丈夫だから。あとのことは私たちがなんとかする。だから私たちを、君のご主人様のところまで連れて行ってくれないかな?」
「――――」
獅子は、やはり答えなかった。そもそも人語を発するような器官などないのだろう。
だが、それでも人語を理解するだけの知能は持っているらしい。
獅子は軽く頭を下げ、まるで伏せをするようにその場へと座り込んだ。
「……ありがとう。いい子だね、お前は」
その背を、マイアが軽く撫でる。まるで母のように、慈しむような微笑みで。
それからアスタに向き直ると、彼女は笑みの質を変え、悪戯っぽい童女のような表情でこう言った。
「――乗せてくれるってさ。せっかくだし、背中にはアスタが乗りなよ。私とシグは、足にでもしがみつかせてもらうから。さすがに三人では背中に乗れないでしょ。翼の邪魔にもなるだろうし」
「もう、わけがわかんねえんだけど」
「いいからいいから」とマイアは手招きをする。「こんなに凄い使い魔に運んでもらえる機会、もう二度とあるかどうか。貴重な経験じゃない、かな?」
「……わかった。そういうことにしておくよ」
頷き、アスタはマイアに促されるまま、獅子へと近づいていく。
獅子はやはり大人しい。軽くしゃがみ込むようにして、その背に乗りやすい体勢を作ってくれている。
恐る恐る、アスタはその背に触れた。意外に柔らかな毛並みを軽く撫で、声をかける。
「……よくわかんねえんだけど。乗せてくれるんだな?」
「――――」
答えはない。けれど、今回はアスタにもわかった。
乗ってもいいと、言ってくれているのだろう。意を決し、アスタは獅子の背に軽く飛び乗った。
瞬間、獅子がその両翼をばさりと広げる。
驚きに目を見開くアスタ。強い風を巻き起こしながら羽ばたくその姿に、思わず感動を覚えていた。
「う、お……っ」
ゆっくりと、獅子が床から浮かび上がっていく。力強く羽ばたく翼によって。
――力学的に、どうなのだろう。
この体躯で、背に人間をひとり乗せ、この形の翼で飛べるものなのか。そんなことをアスタは一瞬だけ考えて、
「……、は」
そして、すぐに笑い捨てた。そんなこと、どうでもいいと思ったからだ。
「――よっしょ!」
マイアとシグが、高く浮いた獅子の肢に両手でぶら下がる。
無茶するなあ、とアスタは微苦笑。けれど、そんな状況をどこか楽しんでいる自分もいて。
「それじゃ、頼むよ」
マイアがそう告げた瞬間、獅子が勢いよく再び羽ばたき、その身体を一気に上へ持ち上げた――。
「――ってオイオイオイオイオイ!? このままじゃ天井ちょっ、ぶつかるぶつかる!?」
「大丈夫なんとかなる!」
「なるわけ――あああああああああああああぁぁぁぁぁっ!?」
上昇。迫りくる天井に、アスタは身体を硬直させた。目を閉じずにいられたのは、固まってしまったせいだろう。
一気に垂直に昇っていく使い魔。アスタと、そしてマイアとシグを運ぶ獅子は、そのまま一切の遠慮がない速度で部屋の天井に直撃し――天井をあっさりすり抜けて、次の部屋へと辿り着く。
「うぉぉおぉぉっ!?」
あるいは獅子に追われたとき以上の恐怖と、それさえ塗り隠す強大な感情にアスタは包まれた。
獅子はぐんぐんと加速していき、視界を塔の部屋が縦に縦に流れていく。天井など存在しないかのように。
――貴重な経験じゃない、かな?
マイアは言った。その通りだと、素直にアスタも思っている。
この感動を前にして、下らない些末に意識を割く価値など感じない。
――確かにこんな経験は、少なくとも、地球にいた頃じゃ絶対にできなかった。
翼の生えた、大きなライオンの背に跨って飛ぶなんて。なるほど、これほどファンタジーな経験もそうあるまい。
それを、素直に楽しく思える自分に、アスタは苦笑を覚えざるを得ない。安いものだ、と思わなくもなかった。
構わないだろう、別に、それでも。
異世界に落とされたという事実は、もう何をどう足掻いても変えられない過去だ。けれど、その現実と、自分がどう向き合っていくのかは自分で決められる。誰に遠慮することもない。何に臆する必要もない。
――楽しんでいいんだ。
抱いていたもやもやが、安く容易く流されていく。本当に単純で、けれど、それでも抱いていた罪悪感のほうが、きっと間違っているのだと思えた。
やがて獅子が、最後の部屋を通り抜けて上昇したのだろう。
視界が一気に広がって、迷宮の外部の空間が眼前に姿を現した。
「は、はは――す、げえ……っ!!」
見下ろすは高き迷宮塔。その周囲を覆うは広き森林と、さらにその先にそびえ立つ山脈。
ごう、と顔を打つ風が髪を逆立てた。その勢いに負けないよう、アスタは大きく両目を見開く。
地平線まで見渡せる、ほかでは体験のできない光景。
遠くに見える集落には、いったいどんな人々が住んでいるのだろう。
あの山々の向こう側には、どんな光景が広がっているんだろう。
肉体を超え、精神を、魂までをも包み込んだ感情を、ヒトは好奇心と呼んでいる。
それは冒険の光景だった。
見果てぬ世界。その先を見たいとアスタは思った。思ってしまった以上はもう、自分の足で歩くしかない。
それは、ほかでもないアスタ自身の抱いた感情なのだから。
「絶景――だね。来てよかった」
「苦労した甲斐はあったな」
獅子の両足に、それぞれぶらさがるマイアとシグ。
怖くないのかとアスタは思い、怖くないのだろうと小さく笑った。
やがて獅子はゆっくりと下降していく。
塔の屋上。続く階段などなく、ただ開けた足場と囲いがあるだけの場所に、ふたりはさっと飛び降りていく。
そして、無事に着地。
たった今すり抜けてきたばかりの床に、信用してあっさりと降り立つ度胸は真似できない。いや、彼らには確信があったのだろうけれど。
塔の屋上に降り立ったふたりを、獅子の背から眺めてアスタは思う。
――いずれ。
いつか、自分も、あのふたりと同じ視点に立てるのだろうか。
そんな日が訪れるのだろうか、と。
しばらくして、獅子が屋上に着地する。
その毛並みを軽く撫で、「えっと、ありがとな」と礼を告げて、アスタも屋上に降り立った。
周囲の風音は物凄い。だが、その影響は塔の屋上にまで及んでいないようだ。
この場所もまた、結界の内部であるということなのだろう。外側から昇ってくることはできないと。そんなことが物理的に可能な人間もそういないだろうが。
何もない屋上だった。
この場所まで来る方法は、おそらく獅子に連れて来てもらう以外にない。
「……机」
ふと呟いたのはシグだ。足場のギリギリにまで駆け寄って、外を眺めていたマイアがその声に振り向く。
大人しく待つ獅子と別れて、アスタもそちらのほうに寄っていく。
先に訪れたマイアが、シグの見つけた机の前に立った。
粗末な机だ。ちょうどアーサーの隠れ家でアスタが使っているものと同じか、あるいはそれ以上に粗雑な造りをしている。とはいえ結界の内部なら、雨風に晒されていたということもないのだろう。使うことはできそうだった。
「見せてもらうね?」
マイアが、獅子に振り返ってそう言った。
答えない獅子の態度を、肯定と受け取ったマイアが引き出しを開く。
その中から、彼女は一冊の本を取り出した。
マイアは本を軽く開き、無言でそれに目を通していく。
「……迷宮の成り立ち」そのとき、シグが言った。「その説をお前は聞いたことがあるか、アスタ?」
「えっと……何百年も昔の魔術師が作った研究所とか、宝物庫とか。そういうのが自然の魔力と結びついて結界化して、年月の経過共に魔術が劣化して瘴気が生まれる……だったっけ?」
「そう、その説が最も有力だ」だが、と彼は続ける。「必ずしも全ての迷宮が同じ成り立つをしているわけじゃないのは事実。中には明らかに人間の手が入っていない迷宮もある。五大迷宮も自然物だと言われているな。事実かどうかは知らないが」
「……それが?」
「要するにわからないんだよ。かつての魔術師の遺物だと言われている迷宮だって、明確な証拠があるものはほとんどない。そうだと知れている場所のほうが少ないんだ」
「でも……ここは」
「――間違いなく人間の手によるものだ。それも宝物庫や研究所を建てようとしたわけじゃない。この迷宮を創った人間は、明らかに初めから迷宮を創ろうとしていたんだろう」
ヒントならいくつかあった。たとえばこの迷宮が、遠くからは目に見えないよう、認識阻害の結界に覆われていたことだ。
場所を隠そう、とする意図がそこにはある。そういった効果の結界が自然に発生しないとは限らない辺りが面倒ではあるが、何者かの意思を感じ取るひとつの理由にはなる。
そして内部の構造。複雑な階段がいくつもあって、そのどれもが見当違いの方向にしか進んでいない。
他者を明らかに迷わせようとする構造は――その実、迷宮の自然な姿ではない。ここにも、ヒトの意思が介在している気配がある。
迷宮はヒトを惑わすのではなく、あくまで殺す場所だから。様々な要素が絡み合って結果的に複雑な構造になっているから、迷宮と呼ばれているだけなのだ。
そして極めつけ。それはもちろん、あの獅子の使い魔の存在だった。
使い魔がいるということは、それを創り出した魔術師がいるということになる。
ここで仮定。
もし使い魔を創り出した魔術師が死んだとき、遺された使い魔はどうなるだろうか。
ひとつ。術者と使い魔の結びつきが強く、魔力を術者本人から吸い上げる形の使い魔だった場合。
これは術者の死亡から間もなく、使い魔も消滅する。
ふたつ。術者とは別個で魔力を貯蔵できる使い魔だった場合。
この場合は、使い魔自身が内蔵する魔力が残っている限り消滅することはない。与えられた命令によっては機能を狂わせたり、あるいは停止させたりする可能性はあるが、残存魔力が残る限り使い魔は生き残る。
ただし、あくまで残存魔力が残っている期間限定の話だ。
術者とは別個に魔力を貯蔵できる容量を使い魔が持っていたとしても、そこに魔力を注ぎ込むことは魔術師にしかできない。魔力の自己回復、ないし補充が可能な使い魔の創造は、喪失魔術に含まれていた。
――だが。さらに仮定。
もし、死後に単独で魔力を補充できる使い魔がいたとすれば。
そいつは死後も動き続ける。主を失ってなお、生き続けることができる。
術式が破綻しない限り、あるいは物理的に破壊されない限りは不死の存在として。
迷宮の中で生き続ける使い魔がいる可能性はある。
「迷宮成立期の魔術師ならば、自己で魔力を回復する使い魔を創れたのかもしれない。あるいは迷宮の中に存在していた影響で使い魔の術式が改変され――自己進化を遂げたのかも、しれない」
「……それで、この迷宮が人工物だと?」
「俺たちが一度目に入ったとき、あの辺りに罠がないことは確認してある」
「だとすると、さも初めて来ました風を装ってたのがなんかアレなんだけども……」
「それはともかくだ」シグは流した。「罠はなかった。起動しなかったのではなく、なかったんだ。だとすると、少なくともあれは迷宮に仕掛けられた罠じゃない。俺たちを捕らえたのは、あの使い魔だったということだろう」
「でも、あいつは俺を襲わなかったぞ?」
「目的が違ったからだろう」その答えもシグは口にする。「一度目、俺たちはただ入口の確認に来ただけでその段階ではまだこの迷宮を《攻略しよう》という意思がなかった。お前もまたただついて来ただけで《攻略しよう》とは考えていなかったわけだ」
「……まさか」アスタは驚きを言葉にした。「俺たちが何を目的にしているのか判断して、対応を変えてたってことなのか……!?」
「だろうと俺は踏んでいる。ほとんど読心の域だな――そんな能力を使い魔に持たせるなど、たとえ迷宮の中だとはいえ常軌を逸している。この迷宮を創り上げた魔術師の才能は異常だな。おそらく迷宮内限定だろうが、読心に加えて転移まであの使い魔は成し遂げている」
「…………」
「もし俺たちが迷宮の宝を盗掘しようと考えていたら喰われていたかもしれないな。そうして奴は数百年か……あるいは千年に至るだろうか。それだけの期間、主が死んでなお、孤独に迷宮を守り続けていたわけだ。盗掘者を撃退して、攻略者を迷わせ……間違って立ち入った者は追い返していた。お前がさらに奥へ進んでしまったのは俺たちといっしょだったからだろう。もしお前ひとりなら入口に追い返されていただけじゃないか? 根拠はないが」
あるいはほかの基準があったのかもしれないけれど。ともあれ獅子は、彼の持つ基準に従って、立ち入る者に別々の対応をし続けてきた。主がなくなってなお――そこに訪れる者を待ち続けていた。
――それで、あんなこと言ってたわけか……。
ようやくアスタは理解する。理解できても、それに気づくマイアとシグの思考回路には納得いかなかったが。
魔術の知識があれば、それを読み解くことができるのだろうか。できるように、なるのだろうかと。
「……読み終わった」
マイアがそんなことを言ったのが、ちょうどそのときだった。
持っていた本――おそらくは日記と思われるそれ――をシグに手渡し、彼女は獅子に近づいていく。
一瞬だけ迷ってから、アスタはマイアのほうを追った。
彼女は、獅子の前に跪き、その顔を撫でる。
気持ちよさそうに受け入れる獅子に、マイアは優しい声音で告げた。
「……ありがとう。ここまで、私たちを連れて来てくれて」
その様子が、どこか冒してはならない神聖な儀式のように思えて。
アスタは後ろに控え、何も言わずに黙って見ていた。
「だから、もう、お休み。瘴気に汚されてもずっと、この場所を守ってきたんだね。がんばった――本当に、よくがんばったよ」
「――――」
「あなたの主の思いはちゃんと、私たちが受け取ったから。この大事な場所を、誰にも踏み荒らさせたりしない」
「――――」
「だから、お疲れ様。よくお眠り」
遺されていた日記から、いったいマイアがどんな情報を手に入れたのか。
それを知らないアスタには、事情をなんとなく察することしかできないけれど。
でも、それでいい。そうするべきだと思った。
それは、アスタが足を踏み入れていい場所ではないのだと。
獅子が――そして、眠りに就く。
その身体が魔力に還り、粒子となって溶け出して、風の中へと運ばれていく。
それを見送ったマイアは、アスタに振り返ると首を傾げた。
「読まなくていいの、あの日記?」
「……ああ」アスタは頷く。「あれは、俺が読むべきものじゃ……ない、気がしたから。なんとなくだけど」
「そっか。……まあ、それならいいけど」
「――いつか自分で見つけるよ」
と、そんなことをさっぱりとした表情で言うアスタに、マイアが思わず目を見開く。
彼女にしては珍しい、それは本当に、予想を完全に外されたみたいなきょとんとした表情で。
「俺はこれから、冒険者になるんだから。いろんなところに行って、きっといろんなものを見つけると思う。だからそれまではとりあえず、魔術の勉強をがんばるさ」
「……なんかアスタがカッコいいこと言い出した……」
「いや、その言い方やめてくんない? ちょっと恥ずかしいんだけど」
じとっと視線を細めるアスタに、マイアは首を振って言う。
「いいと思うけどな。魔術師ってのは基本的に、格好つけるのが仕事みたいなもんだからさ」
「なんだよ、それ……」
「仮にも神秘と幻想を司る者だよ? なら、それは自分で纏わなくちゃ。イメージの鎧は武器にもなる」
「…………」
「それは自分の言葉に責任を持つってことだからね。そういうヒトには相応に、魔力が宿るものなんだよ。やると決めたらやると言って、勝つと決めたら勝つと言う。そうした宣言を乗り越えることが、現実を変えるってことなんだから。――魔術師なんて、格好つけてなんぼだよ」
「……かもな」
と、そうアスタは呟いた。
魔術師になる。すでに決めたことなのだから。想いはきちんと口に出して、形に変えなければならない。
「――がんばるよ。俺は……この世界で、生きていくから」
「うん」
「だから、迷惑かけると思うけど、これからもよろしく頼むよ――姉貴」
なくしてしまったものを背負って。いなくなってしまったひとを思って。
アスタ=プレイアスは、魔術師として生きていく。
塔の屋上を風が撫ぜ、アスタの言葉を遠くへと運んでいった。
というわけで過去話第一幕『マイア編』でした。
続きまして第二幕『アスタとシグウェルの二年目』をお楽しみください。
あとツイッターで二月上旬に五章入るとか言いましたね。
言いました。ええ、言いましたとも。
……あの本当にすみませんけど無理っていうかマジごめんなさい。




