EX-1『アスタとマイアの一年目 2』
そんな指示を遂行するため、こうしてアスタは《火》を書き連ねているわけだった。
紙に印し刻むことで、着火の魔術を成立させようとしている。初歩も初歩、これができなければもう何をやっても魔術師になんてなれねえから諦めて仕事探せ、というレベルだとアーサーは言う。
これまでの間。
その訓練は、一度たりとも実を結んでいなかった。
「なんでだ……あの町にいた頃には、魔術に成功してたのに」
唸るアスタ。この世界に来て初めて足を踏み入れた、水の町での戦いを思い出していた。
――正直なことを言えば。あまり、積極的に想起したい思い出ではない。
ある意味で明日多の――魔術の世界など知らなかった、地球出身の一般人の人生を、価値観の全てを変えた出来事。一ノ瀬明日多を、アスタというひとりの魔術師に変えた事件。
よかれ悪しかれ、あの一件が彼に大きく影響していることは間違いない。実のところ本人には大した自覚がないものの、それは、平和な世界で生きていたただの子どもが受け止めるには強すぎた。
「……あー。駄目だ、ちょっと休憩しよ……」
諦めて伸びをするアスタ。そのとき、部屋の外でがたりという音がした。
誰かが入ってきたのだろう。といっても、この結界の通行権を持つ人間など限られていた。
――うげ。あーあー、帰ってきちゃったよ……。
そんな風に表情を歪めるアスタだった。魔法使いという世界最高の非常識を知る彼から見ても、彼女はある意味でそれさえ上回る面倒の元凶だ。
やがて、部屋の戸がばたん! と勢いよく開かれる。
「お! いたいた、やっほー、弟くん!」
「……やっぱマイアか」椅子から立ち上がり、アスタは笑った。「久し振り。どこで何してたか知らないけど」
マイア=プレイアス。
かつて、あの水の町でアスタと出会い、間接的に救った若い女性魔術師。
「ん? えっとねえ、今回はちょっと――」
「いい。聞いてないから。ていうか聞きたくない」
アスタは首を振る。彼女が当たり前のように話す冒険譚は、いかにアスタが異世界というものに慣れたといっても、そう簡単に受け入れられるようなものではなかった。
とんでもないことを、さも当たり前のように、それでいて心から楽しげに語るのだ。彼女は。
「それから弟くんってなんだよ……」
「んー、言ったじゃん? 君のこと私の弟にするって」
「本気だったのか……」
「そのほうが何かと楽だよ?」マイアは言う。「適当に言っときゃそういうことになるしねー、名乗るだけ有利なもんだよ」
戸籍、などという公的なシステムは、当たり前に存在していない世界だ。
その分、義理の家族を増やすということが割に簡単にできるらしい。マイアは特に目立つところのない一般家庭の出身――そこに突如として湧いて出た突然変異的な奇才――ゆえ、しがらみも特になかった。
「……まあ、考えとくけど」
軽く告げるアスタ。どちらかといえば、遠回しな否定に近かった。
別に、受ければいいとは思うのだ。マイアの言うことは事実だし、彼女自身に対して思うところがあるわけでもない。確かにいろいろとぶっ飛んだ性格であるとは思うが、どちらかといえば、それも含めて好感を持てる相手だ。カリスマが強いということもあるが、そうでなくとも嫌いな人格ではない。
――引っかかっているのは別のこと。
家族を増やす、という行為そのものに対してだった。
それは言い換えれば、かつての家族をなかったことにしてしまう行いだと思えるのだ。そうではないと言い張ってみても、負い目は消えない。家族から見れば、アスタはある日唐突に、勝手に失踪してしまったようなものなのだから。きっと探し回っていることだろう。
特別に仲が良かったわけではない。仲が悪いということもなかった。
ごく普通の、どこにでもあるような一般家庭。それが、どれほど貴重なものであったのか、今のアスタは知っている。
――異世界に来たのはアスタの意志ではない。
彼にはどうすることもできなかった。戻ることだってきっとできない。
それでも――負い目は。勝手にいなくなってしまって、きっと迷惑をかけているという思いは。
消えないのだ。
「んで、アスタは何してたん? って、まあ魔術の修行だよね」
「……そうだね。ま、ぜんぜん捗々しくないんだけど」
話題が変わったことに、自覚のない安堵を抱きながらアスタは頷いた。
部屋の惨状を、アスタを通じて見たマイアは「ふうん」と軽く頷き、それから言う。
「んじゃさ、ちょっと出かけない?」
「出かけるって……どこに?」アスタは目を細めた。「わかってると思うけど金なんてないし……別に禁止されてるわけじゃないけど、あんま出歩かないほうがいいかな、って思ってんだけど」
「だからって」マイアは笑う。「こんな暗くてじとーっとしたとこ、長くいすぎたら息が詰まるでしょ? 気分転換は大事だよー、特に魔術には。じめじめした気分じゃ、成功する魔術だって成功しないから」
「そんなもんかな……」
「そんなもんそんなもん。だからおねーちゃんといっしょに、ちょっと散歩に行こう!」
手を差し伸べてくるマイア。その輝かんばかりの笑みは確かに、この部屋には少し眩しすぎる。
それでも、アスタはその手を受け取って、笑って彼女にこう答えた。
「……いいけど。でも、だから《おねーちゃん》ってなんだよ?」
「いいじゃん! 私ずっと弟が欲しかったんだよ! あと妹とお兄ちゃんとお姉ちゃんが!」
「全部じゃねえか」
「いいでしょー、ひとりっ子なんだよー。きょーだい欲しいんだよー」
むーっ、と頬を膨らませるマイア。
確か地球で言えば、年齢はもう大学生とかそれ以上だったはず。その割には若く見える彼女の姿だが、なぜだか何ひとつ違和感がない。むしろ似合っているとさえ言えた。
自分の欲求に、彼女はどこまでも正直だ。
それは、きっと魔術師にとっては大事な姿勢なのだろう。わずかな知識でアスタは思う。
だけどそんなことは言わないで、軽く肩を竦め、斜に構えてこう答える。
「――仕方ないな。その散歩、付き合ってやるよ」
「やだ素直じゃない可愛い」
「やっぱやめる」
「ごめんごめん冗談!」
慌てたように、マイアはアスタの手を引いて部屋から連れ出そうとする。
そんなじゃれ合いに苦笑が零れた。けれど、悪い気分ではない。
だから、アスタは暗い部屋を飛び出して、広く明るい異世界へと、マイアの手を取り飛び出していく。
なんて言うほど大袈裟でもなかっただろうが。マイアは、単に散歩へ行くと言っただけだ。
とはいえ確かに、もう長いこと籠もりすぎて息が詰まっていたのは事実だ。たまには少しくらい、羽目を外しても責められまい。
そう考えて、いっしょに行くことにしたのだ。
――それがどれほど甘い考えであったのか、アスタが気づくにはもう少し時間がいる。
そう。アスタは、マイアの言葉を完全に勘違いしていた。
彼女の言う《ちょっと散歩に行く》は、常人の思うそれと次元を完全に異にしていたのだから。常人のアスタはまだ、そのことに思い至れるほどマイアという女性に慣れていない。
だから、まだ気づかなかった。
あと数秒必要だった。
その数秒が――全ての明暗を分けていた。
「で、どこ行くんだ?」
そう訊ねるアスタ。深い意味のあった問いではない。
当たり前のことを当たり前に訊いただけで。
マイアから返ってきた答えが、まったく当たり前じゃなかっただけだ。
彼女は答える。
「ん? 迷宮だけど」
「――……んへ?」
「や、さっき言いかけたんだけど、このところ新しく迷宮見つけてさー。まだ管理局の手ぇ入ってないみたいだから、ちょっと調査してたんだよねー。んで、これを機に攻略に乗り出そうかと」
「は……え? 迷宮?」
「うん。――それじゃ行こうぜ、冒険だ――っ!!」
「え、いや、ちょっ待っ、そんな危険地帯行きたくな、」
「大丈夫大丈夫、死にゃーしねー」
「そういう問」
「問答無用だっ!!」
まあ、本当の意味を知ったところで。
逆らえるはずもなかったのだが。
※
そうして。やって来ました迷宮前。
マイアに引きずり出され、山道を歩くこと三日。
三日。
三日である。ちょっと気分転換にお散歩しようで三日歩かされていた。
――もうマイアの言うことなんて一切信用しない二度としない三日とかあり得ない。
どこかギラギラと目を血走らせながら、アスタは思った。
「ん。にしても引きこもってた割に、アスタも体力ついてきたじゃん?」
隣には、悪びれる様子もなく笑うマイアの姿。怒ろうという気力を完全に削ぐのだから、まったく得な性格をしている、とアスタは思った。
諦めの溜息を盛大に零してから、アスタは頭を押さえて言う。
「そりゃまあ一応、鍛えてるからな。『結局は基礎体力がモノを言う』ってのが、教えだったし」
「研究職なら、それでもいいんだろうけどね」マイアは笑った。「冒険者となると、結局は体力勝負なとこ否定できないからさー」
単純な話、今のアスタでは、武器を携えた一般人に勝つことはできないだろう。
仮に着火の魔術を修得することができたとしても、だ。アスタが魔術を成立させるより早く、剣で斬りつけられればそれで死ぬ。魔術師は決して無敵でも万能でも最強でもない。
大火力の儀式魔術なんて、人間を殺すのには必要とされないのだ。
殺すだけなら魔弾どころか、ナイフの一本もあればいい。いや、魔力によって抵抗されない分、下手な魔術よりむしろ殺傷力は上だとさえ言えた。
それを回避するためには、もちろん魔術師としての習熟もさることながら、単純に《運動ができる》ようになることが必須だった。斬りかかられたら、魔術で防ぐのではなく、一歩身を引いて躱したほうがいい。
それはアスタもわかっている。
そう――わかっているのだ。だからここまで、不平を抱えながらもついて来た。
アスタはただの魔術師を目指しているわけじゃない。迷宮に潜り、魔物や魔術師と戦う冒険者を目指している。
それを考えれば、こうしてマイアについて迷宮に挑戦できる機会を、逃すわけにもいかなかった。
だからといって納得できるかといえば、それはまた別の問題なのだが。
「――えーと、あれ。おっかしいな、どこだろ……」
マイアがきょろきょろと辺りを見回す。アスタは首を傾げた。
迷宮ならば、目の前に入口がきちんと見える。
それは塔だった。
小さな塔だ。たとえるなら、海岸線にある灯台に似ているだろうか。継ぎ目のない白亜の石――石なのかどうかわからないけれど、見た感じが石――が、まっすぐ天頂へと続いている。そんな建造物が、深い森の奥でいきなり姿を現すのだから現実味がなかった。
当然、周囲の木よりも明らかに高い。いくら人跡未踏の深い森とはいえ、外からでも見ればわかる高さがある。それでも、この迷宮の存在に誰も気がつかなかったのは――ひとえに結界のせいだった。
この塔型の迷宮の周りに結界が張られている、という意味ではない。
この塔そのものが魔力で編み上げられた結界である、という意味だ。
塔は一定距離以上からは肉眼で見ることができず、本当にすぐ目の前に行くまでわからないようになっているそうだ。と、これはもちろんアスタが気づいたわけではなく、マイアからの受け売りだ。内部が見かけ以上に広い可能性もあると聞いてあった。
「何を探してんだ?」
とアスタは問う。迷宮は目の前にあるのだから、それ以外を探していることはわかった。
「んとね」マイアは言った。「待ち合わせしてるんだよ、ここで」
「待ち合わせ……?」
「そうそう。私の幼馴染みなんだけどさ――あ、来た来た。おーい!」
塔の向こう側に、マイアが大きく手を振り始めた。
見れば、その先からひとりの男が歩いてくる。魔術師なのだろう、冒険者らしき外套に身を包んだ、見知らぬ男だった。痩せ形だが、どこか歴戦の強者のような風格を感じると思うのは、アスタの気のせいではないだろう。きっと深海のように濃い色の髪と、精悍な顔つきがそんな印象を作り上げているのだ。
結構な美形だ。身長も高く、琥珀色の双眸にも凛々しさがある。さぞやモテることだろう、と第一印象でアスタは思った。
その彼が、こちらに近づくなりこう言った。
「――腹が減ったメシだメシ」
ぎゅごおっ、とか、なんかそういう感じの腹の虫を響かせて言った。
台無しである。いい声で、そんなこと言わないでほしかった。
言われたマイアは慣れた様子で答える。どうも、いつものことらしい。
「はい、これ。携帯食料で悪いけど」
手渡された食料を、男は一瞬で受け取った。
音もない早業だった。でも格好よくはないとアスタは思った。
「……、これだけか?」
「これだけだよ」
「……なん、だと……!?」男の表情に絶望が映る。「マイア、俺を飢えさせて殺す気か」
「いや、食料結構置いてったよね?」
「そうだったか?」男は首を傾げる。「そんな気もしてきたな」
「そうだよ。だから実はそんなにお腹空いてないと思うよ」
「ふむ。それは知らなかったな。なら大丈夫か」
「大丈夫大丈夫ー」
「…………」
なんだこの残念系天然美形。口元が引き攣るのをアスタは自覚していた。
いや、別にこの男が残念だろうと天然だろうとそれはいい。問題なのは彼がおそらくマイアの友人で、あの町を出てから久々に知り合う人間がこれだったという点だ。
――なんだろう。これから先、もしかして俺は変な奴としか知り合いになれないんじゃないのか。
そんな予感というか悪寒がアスタを貫いたが、深く考えるのはやめておいた。というか考えたくなかった。
呆れるアスタの目の前で、男は怒涛のように話し始める。
「いや待てマイア、やっぱりその理屈はおかしいんじゃないかよく考えてみれば。俺はその食料を全て食べきってしまったのだから今腹が減っているのはたとえこれまでにどれほどの食料があったとしても因果関係はないということになると思うのだが」
マイアは無視してアスタに向き直る。
「紹介するね。この早口な腹ペコがシグ。シグウェル=エレク。私の幼馴染みなんだ」
「む。おいマイア俺の話を聞いているのか死活問題だぞ」
「んでシグ、こっちがアスタ。話したっしょ? 私の弟になるって」
「そうか初めまして俺はシグウェル=エレク。お前の話は聞いているよろしく頼む」
「いや順応性高いなオイ」
――あ、突っ込んでしまった。言わないようにしていたのに。
む? と首を傾げるシグウェル。仮にも年上の男に失礼だったと反省し、気を取り直して手を差し出す。
「っと、すいません。えっと、アスタです。弟になった覚えは絶妙にありませんが、よろしくどうぞ」
「普段通りの話し方で構わんぞ」アスタの手を握り、神妙に頷くシグウェル。「マイアの弟ならば、俺にとっても妹のようなものだ」
「…………」
「なんか違うがまあいい。俺のこともシグで構わん」
「あ、うん」
――大丈夫なのか、この人は。
アスタは普通に思ったが、それは言わないでおくことにした。