EX-1『アスタとマイアの一年目 1』
「――ダメだ、ぜんっぜんできねえ」
と、一ノ瀬明日多改めアスタは思った。思ったというか、実際に口に出して言った。
異世界に訪れ、魔法使いの弟子になって、マイア=プレイアスの弟になり――まだ認めていないけれど――そうして、自身もまた魔術師としての道を選んでから少し。
そんな彼は今、魔術の修行に明け暮れている。
アスタがやっているのは、ごく単純に表現すれば《文字の書き取り作業》だった。
それだけだ。少なくとも行為としては、同じ文字を何度も何度も紙に書き連ねるだけでしかない。集中力さえ続くのなら、幼い子どもにだってできるだろう。
無論、アスタは別に文字の練習をしているわけじゃない。いや、この世界の文字を習得するための勉強も別口で行ってはいたのだが、それに関してはなかなかの進捗を見せている。師匠であるアーサー=クリスファウストの魔術による補助もあって、一から新しい言語を覚えたとは思えない速度で、アスタは異世界語に順応していった。元より暗記は得意分野でもある。
だから今、彼が書き連ねているのはただの文字じゃない。
ルーン文字と呼ばれる、古の神が創り出し、人間に賜わしたという原初の魔術文字だ。それは世界の記述に最も近いがゆえ、魔術として最高級の《質》を誇る。
この世界に存在する、およそあらゆる魔術に適性のなかったアスタだが、ルーン文字を用いた魔術だけはなぜか扱うことができた。その一点にだけは才能があったのだ。
印刻魔術。
数ある魔術の中でも、およそ戦いには向かないとされる分野ではある。だが《自己の認識によって世界の法則を改変する》という魔術の性質上、初めから《正しい答え》としての記述であるルーンは、他のあらゆる魔術を質の上で凌駕する。それは単純な書き換えというよりも、いわばカンニングした答えをコピーペーストするような行為だからだ。
だからこそ、その扱いは魔術の中でも群を抜いた難易度を誇る。最高の質を誇るルーンとはいえ、魔術師が操る以上、その解釈によって意味が薄まる。
ただ書くだけでは意味がない。魔術としては成立しない。
正しい方法で世界に印し、刻み、魔力を通じて働きかけることで初めて、ルーンは魔術として成立する。
その点、今のアスタの習熟度を義理の姉であるマイア風に表現するならば。
――ダメダメだった。
「……だーっ、もう! これ以上は集中力がもたね――っ!」
筆を投げ捨ててアスタはぼやく。板張りの床をペンが転がり、からからと乾いた音が響いた。
アスタのいるこの場所は、魔法使いアーサー=クリスファウストが複数持つ隠れ家のひとつだ。根なし草の分際で、拠点だけはいくつも持っているのが彼の特徴だ。三人いる魔法使いの中で断トツに若い――らしい。アスタはほかの魔法使いを知らないが――彼は、その分だけ世間との交流が多い。
とはいえ王国やら騎士団やら管理局やらに居場所が知られると面倒らしく、各地を転々としているのも、自分の所在を知られないようにという目的があるらしかった。
そうでなくとも、旅好きなのは事実だろうとアスタは睨んでいるが。
弟子入りしたといえば聞こえはいいが、その実、アーサーに直接教えを受ける機会などほとんどなかった。義理の姉にして、一応は姉弟子ということにもなるマイアもそれは同様で、師に曰く、『俺は魔術師としては割と真っ当なほうなんだ。お前らみたいに尖りきった奴に教えられることなんざほとんどねえよ』だとか。
世界に三人だけの《魔法使い》に、自分のほうが真っ当だと言われるのはいささか納得いかなかったが。ともあれそんなわけで今、この場所にいるのはアスタひとりだけだった。
隠れ家は、その大半がこういった山奥のあばら家だったり、あるいは人の出入りがない洞窟だったり、場合によっては平原の真ん中にある大樹の上だったりと、魔術師の拠点と表現するにはいささか野趣に溢れすぎている感がものがほとんどだった。アスタの認識で表すなら、子どもが作る秘密基地といった風情を感じる。
本人曰く――下手に結界なんぞ張るより、よっぽど見つかりにくいってもんだからな、とかなんとか。
理に適っているのかいないのか。いずれにせよ、アスタの想像する《魔法使いの住処》からはかけ離れたものが多かった。
とはいえ、いくらなんでもそれだけじゃない。きちんと建物になっていて、魔術的な処置の施された拠点も持っていないわけじゃなかったのだ。
それがこの場所。王国の西側に広がる山脈の麓に位置する、それなりに栄えた山間の町の一角だった。近隣には民家が普通に並んでおり、まさか世界に三人だけの魔法使いがこの場所にいるだなんて、誰も想像しないだろう。
いや、いてもおかしくはないのだが、そんな土地は国内にも数多く存在するため問題にならない。
「しかしなあ。なんか俺、あのときより魔術が下手になってないか……?」
こんなはずではない、とアスタは首を捻った。
魔術の質は精神状態に左右されると聞いていたが、それにしたってここまでできないものかと思う。
アーサーの隠れ家の中の、アスタに与えられたこの一室には、すでに文字で埋め尽くされた紙が大量に散乱している。もう片づける気にもならない。
この世界において、紙の価値は意外に低い。量産を可能とする魔術が確立されているのがその理由だった。
だから文明レベルの割に比較的、安価に本が流通している。アスタが生きていた平成の日本ほどとは言わないにせよ、一般庶民でも手が届く値段なのだから驚かされる。
いくらアスタでも、地球の歴史において、紙が高価なものだった時代があることくらいは知っていた。
とはいえ、だ。
塵も積もれば山となる――この場合は紙が積もったわけだが。文字通りに山を築く紙の束を見て、アスタは陰鬱に沈みかける気分を誤魔化さなければならなかった。
単純に。それだけの量を費やしてなお、一度たりとも魔術を成功させていない――という点が気分を沈める要因のひとつ。だが、もうひとつの要因のほうが、あるいは重要かもしれない。
というのも。
この書き損じの紙代、全て自腹だった。
正確に言えば、買い込んできたのはアーサーだ。だが、それはあくまで一文無しのアスタを肩代わりしてやったに過ぎない。
つまるところが借金だ。この年にして、返済の目途すらない借金がアスタの両肩にのしかかっている。
――言っとくが、修行に使った分の費用は、いずれ耳を揃えて返してもらうからな。
とはアーサーの談である。技術は教えてやるけれど、そこまで甘えさえるつもりはないというのが彼の方針だ。アスタとしても、逆らえようはずがない。
そうしてアスタは、今日も今日とて紙にひたすら《カノ》というルーン文字を書き連ねている。
火や松明を意味するルーン文字だ。カタチとしては、ひらがなの《く》に似ているか。アルファベットで言うところの《K》の原形だ。
もちろん、それ以外の意味も含まれている。ひとつの文字が複数の意味を秘めているのがルーン文字の特徴であり、ゆえにそれを扱う《印刻魔術》の難易度を上げる要因だ。
※
「――お前の魔力属性は《火》と《水》の二重、特性は《強化》だな」
弟子入りの当初、アスタの身体を魔術によって調べたアーサーの言葉がそれだった。
「属性と、特性……?」
当然、アスタには意味がわからない。いや、属性ならばまあ想像はつくが、地球で読んだ小説や漫画、あるいは遊んだゲームなんかの知識を、まさかそのまま流用できるとはアスタも思わない。
「そう。生まれ持った魔力の質、自分に向いた魔術の才能を示すものだ。魂の方向性だとでも思っておけ」
「……より意味がわからなくなったんだけど」
「魔術には《元素魔術》とよばれる類のものがある」アーサーは構わず説明を続ける。「これは特殊でな。生まれ持った性質にそぐうモノしか扱えない。火属性の魔術師なら火の元素魔術しか、水属性の魔術師なら水の元素魔術しか扱えないってことだ」
「はあ……まあ、イメージはわかるけど。それって何種類あるんだ?」
「元素魔術は八属性で分類される。火、水、地、風、氷、雷、木、金だな。前四つがメジャーな属性で、後ろ四つはレアな分類だな。前四つでだいたい全体の六割、後ろ四つで三割ってところか」
「一割残ったけど」
「魔術師が持つ属性と、元素魔術で言う属性は、別に厳密にイコールってわけじゃねえんだよ」
アーサーは指を立てて言う。
言葉の割に、これでこの男は意外にも《誰かに知識を教える》ことを疎んじてはいない様子だった。
「属性の分類はほかにもある。代表的なところで陰と陽と無属性――いわゆる架空元素に相当する辺りだが、まあ挙げてくとキリねえわな。ほかのになると、その当人以外に同じ属性持ちがいねえってことが普通にある」
「なるほどね。いや、よくわかんないけど」頷き、それからアスタは問う。「てことは、じゃあ俺は火と水の魔術が使えるってことなのか」
「お前は印刻しか使えねえんだから関係ねえよ馬鹿め」
「…………」
ならなぜ言った、とアスタは思ったが黙っておく。
どうせアーサーは聞かないだろうし、実際に何も言わずとも勝手に話を続けた。
「属性ってのはベクトルだ。向かう先なんだよ、歩いていく方向。魔術的な意味でのな。たとえば俺の生まれ持った属性は地属性だが――」
言いながら、アーサーが片手の人差し指を立てる。直後、その爪の先に小さな火が点った。
「こうして火の魔術を使うことができねえわけじゃねえ」
「火属性じゃないと、火の魔術は使えないんじゃ……あ、ふたつ持ってるってこ、」
「ぜんぜん違えよこの馬鹿。考えてからモノを喋れよ馬鹿。頭を働かせねえなら生きてる意味ねえぞこの馬鹿。馬鹿」
「何回馬鹿って言うんだよ……」
言葉通り、ものすごく馬鹿にした表情でアーサーは嗤った。鼻で嗤った。こん畜生めが。
言いかけた言葉を封殺され、しかも罵倒され、不平がないわけもないアスタだったが、とはいえわからないものは仕方がない。甘んじて受け入れるほかなかった。
「複数属性を持つ奴なんて限られてんだよ、滅多にいねえんだ。二重ならまあそこそこいるが、三重以上なんざ超稀少だぞ。それ以上は――《魔導師》級にひとり五重属性持ちがいたか。でもまあそんくらいだろ、俺は《地》しか持ってねえ」
「じゃあ、俺もそこそこレアではあったのか……二重だし」
「意味ねえけどな。元素魔術使えねえんだから」ばっさりだった。「お前、精霊に嫌われてんだよ。可哀想なことだ」
「うるせえな……」
「それに稀少性なんざ無意味だぞ。確かに知られてねえってことは理解されにくいってことで、魔術としては意味がないでもないが……んなもん知らねえほうが悪いしな。どっちにしろ、上のほうの連中には通じねえよ。お前もそうだぜ? 確かに印刻使いはそうはいねえが、別にいねえわけじゃねえし。逆も然りだ。お前のほうだって、使えないから知識を持ってなくてもいいってわけじゃねえんだ。この機だ、属性についても学んどけ」
「……はあ。そんなもんなのね」
「無関係ってわけでもねえからな。いいか、元素魔術ってのは言い換えれば精霊魔術だ。精霊に、術式の構築を代わってもらう魔術なんだよ。だから厳密に表現するなら、火属性の元素魔術師は火の魔術を使ってるんじゃなく、火の精霊に魔術を使ってもらってるんだ。元素魔術の難易度が低いと呼ばれる要因だな。自分でやってるわけじゃねえんだから。――で、要点はそこだよ。別に元素魔術以外にも、《火をつける》という魔術自体は普通に存在する。火属性に適性がなくとも、それが使えないわけじゃねえ」
「なら意味なくね……?」
「本当に頭の固い馬鹿だなテメエは。少しはモノを考えろよ生きてんのか本当に?」
またしても痛烈な罵倒に晒されるアスタ。
――いい。大丈夫。まだ付き合いは短いけれど、この性格にはもう慣れた。
自分にそう言い聞かせて乗り越える。
「いいか《火》のルーンに様々な意味があるのと同じだ。火属性と一概に言っても、そこには多くの側面がある。ま、要は性格だな。そいつがどういう奴かって話だ」
「性格……」
「情熱的な激情家とか、苛烈な意志を持つ人間とか――そら、火っぽいだろ? 属性ってのはそういうもんだ。そういう性格の奴は、得てして火の精霊とウマが合うのさ。属してる、性質。だから属性。言葉通りだ」
「いや、火っぽいって。んな適当な」
「適当なんだよ。だって、属性なんてものは本来、存在してねえんだから」
「もうわけがわからねえよ……」
ここまで説明されてきて、かと思えば全てをひっくり返す発言だ。
とはいえ、やはり今回もその先があるのだろう。さすがにそれはわかっていたから、アスタは続きを待つことにした。
罵倒がなかったのは、だからだろうか。アーサーは続けた。
「存在しねえってのはつまりイメージの問題だからだ。いいか、あくまでイメージなんだよ。人間の想像、共通幻想。誰もがそうだと思う幻想は、魔術においてそうなるんだよ」「そう、なる……」
「自己の認識を世界に優先させるってのは、この世界に、自分の持つ世界観を適用するっつー意味だ。世界をどう認識しているか、だな。その認識は、同じように思う人間が多くいれば多くいるほど、やがて本当に世界のほうを変えちまう。そもそも精霊なんつー存在自体が、人間のイメージの中にしかあり得ねえ概念だ。魔物とは違えんだよ、厳密にはな」
「……、……」
彼らは魔術師だ。そして魔術師は世界を歪める。
多くの魔術師がそうだと信じてることなら、本当に、そういうことになるのだった。
魔力という存在不確かなエネルギーによって。
「属性ってのはその程度だな。自身の属性に適した魔術なら、若干ながら使いやすいっていうレベルだよ。結局のところ、全てがイメージだからな、魔術は。あくまで性格ゆえに――後天的に変わることもあるわけだが。まあ、それこそ滅多にない話だが。わかったか?」
「……まあ、なんとなくは」
「だから四つも五つも適性を持ってる人間なんざいねえってことだ。そんなもん――むしろ逆に自分がないようなもんだろ。誰にでもいい顔できるってことだぜ?」
「人間だって生きてんだから、いろんな属性があっていいと思うけど」
「だからイメージなんだよ。『あの人は水のような人だ』って言われたとして、聞いた奴の全員が全員、同じ人間を想像するか? しねえだろ。ひとつの属性で充分、いろんな側面を表してんのさ。だから複数属性持ちは稀少なんだよ」
「……なんだか取りとめのない話だね」
「ああ、別にそれで構わねえよ」皮肉げな笑みをアーサーは見せる。「今はな。――でまあ、《特性》のほうもそう変わらねえ」
「特性……えっと、俺は《強化》だっけ」
「ああ。何かを強くすること、鍛えること……お前はそういう魔術に適性があるらしい。まあ割とメジャーな特性だな。珍しくもない」
「才能ないってことか」
肩を落とすアスタに、アーサーは肩を竦めてみせた。
「才能の有無じゃねえよ、これは。才能がどこから生じてるのかってのを表している」
「どこから生じているか……?」
「そう。要するに始まりだ。特性ってのは、その人間の始点だってことなのさ」
始点――始まる場所。始まったところ。生まれ出た因。
属性が行く先なら、特性は来た場所だ。
その人間がどういう存在なのかを決定づける要因。
「だから属性と違って、特性は一生変わらねえ。《お前はこういう人間だ》って、決めつけられてんのさ」
「…………」
「お前の《強化》は、さっきも言ったがモノを強くすることに長ける。自己強化なら戦闘向きだし、他者強化なら補助に向く。扱いやすいメジャーな特性でよかったじゃねえか。面白くもなんともねえが」
「面白いかどうかって関係ありますかね……」
「まあ、始点が決まってるからっつって、そっからどっちに行くかはお前次第だからな。大して意味ねえっちゃねえんだが……それでも、縛られることに違いはねえ」
――というわけだから。
お前はまず、火をつける魔術から始めるといい。
訓練された読者の皆様ならおわかりだと思いますが。
……長くなりますね、これ。うん。
まあわかってたといえばわかってたと思うのでもうそういうことです仕方ない。




