S-11『新米魔術師ネリムちゃんの事件簿 3』
門の前には、すでに人混みが完成していた。
ネリムは跳ねながら奥を見るが、前のほうの様子を窺うことができない。それくらいには人波で溢れている。どうやら完全に出遅れてしまったらしい。
「ああ……わたしとしたことが痛恨のミス……っ!」
思わず頭を抱えたくなるネリムだったが、今さらだ。
小柄な体躯を駆使すれば、それでも無理に前のほうへ潜り込んでいくことは不可能じゃないだろう。だがネリムは、その手を使いたいとは思わなかった。
たまたま王都を訪れ、偶然に話を聞いただけの自分とは違う。ここで待っている人々は、七星旅団が街に現れるのを心待ちにしていたのだから。
その気持ちはネリムにもよくわかる。
押し退けてまで前に出ることは、ネリムの矜持が許さなかった。ファンとしてのプライドのようなものだ。
ざわめく周囲。この先に、もう七星旅団の誰かが訪れているのか。それともまだ現れていないのか。背の低いネリムでは、それさえ判断がつかなかった。
「仕方ない。今日は諦めることにしよう……」
とぼとぼと、ネリムは人混みを避けるよう通りの端に向かう。
用事があって王都に来たのなら、きっとしばらくは滞在するはずだから。それならまだ顔を見られるチャンスくらいあると思う。思いたい。
半ば願望混じりの予測ではあったが、それに賭けることにしよう。
そもそも確定情報ではなく、あくまで単なる噂、だから現れない可能性も普通にあったのだが。その辺りは夢がないので、とりあえず考えないことにする。
「もともと、わたしは仕事を探してたはずだしね!」
自らに言い聞かせるように呟くネリム。
憧れの冒険者を、ひと目見てみたいという気持ちは確かにある。だがネリムは、その憧れを憧れのまま終わらせるつもりなんてないのだ。
まずは自分が立つ場所を、明らかなものにしなければ。舞い上がって来てしまったはいいものの、今のネリムでは七星旅団ほどの冒険者になんてとうてい顔向けできないのだから。
片や伝説の冒険者、片やようやく見習いを脱した魔術師。その間に広がる差は、それこそ天と地ほどにも広いだろう。あるいは今の自分なんて見てほしくないと考えるべきじゃないだろうか。いや、向こうがわたしのことを覚えたりなんてあり得ないとはわかっているけれども。
そんなことを、つらつらと考えるネリムだった。
せっかくの機会を逃してしまった、自分への誤魔化しだったのかもしれない。それでも顔を上げ、前を向けるのなら上等だ。元よりネリムの取り柄など、誰よりも前向きなこの性格くらいしかないのだから。
そうと決まれば、さっそく職探しから。これでも魔術師の端くれ、仕事くらいきっと簡単に見つけられるはず。
そう気を取り直したネリムに、ふと背後からかかる声があった。
「――あの、ちょっといいかな?」
「わっひゃあっ!?」
突然の声に、過剰な反応を見せるネリム。これには声をかけたほうも驚いたらしく、「あ、えっと、悪かったな、驚かせて」と謝罪させてしまう始末。
微妙にバツが悪い思いを感じながら、ネリムは首を振って言う。
「あ、いえ、すみません! 少し考えごとをしていたもので……」
「いや、こっちも驚かせてごめん。ちょっと、聞きたいことがあったからさ」
ネリムの背後――建物と建物の間を続く裏通りから姿を現した男性は、古ぼけた外套に全身を包んだ、割に怪しい風体の男だった。
今日は怪しい男性によく声をかけられる日だなあ、などとネリムは漫然と考える。
もっとも相手が魔術師なのだと考えれば、そう珍しい装いというわけでもない。
フードからわずかに覗ける顔は、しかしそれなりに整っていた。絶世の美男子とまでは言わないにせよ、身なりさえ整えれば見てくれは悪くないはずだ。旅慣れているのか、格好の割に汚れた風ではなかった。鼻をくすぐる、煙草の匂いが少しだけ特徴的だ。
警戒をあっさりと解いて、ネリムは男に訊ね返す。
「えっと、わたしに何か?」
「ああ。いや、君、格好を見るにこの街の住人ってわけじゃないんだろ? ちょっと綺麗すぎる気はするけど、俺と同じ旅人……違う?」
あの露店主と似たような推理で、男はネリムの身元を確認する。
言われた通り、さっさと着替えたほうがいいかもしれないなんて考えながら頷いた。
「まあ、そんなところですけど」
「ならさ、どこかに宿を取ってるってことだよね? どんなとこ?」
「……そんなにいいトコじゃないですよ?」どういう質問なんだろう、と考えながらネリムは答えた。「安いですし、街の中心からも割と外れてます。どこにでもある安宿って感じで」
「なるほど。いや、実はそのほうが都合がいいんだ」
人好きのする、どこか優しげな笑みで男は言った。目つきが鋭い嫌いはあるものの、なぜか見ている者の警戒心を解きほぐしてしまうような柔らかい雰囲気だ。
「ちょっと事情があって、あんまり目立つことはしたくなくてね」
「はあ……」
「だから、よければでいいんだけど、その宿まで案内してくれないかな。あ、もちろんお礼はするよ? ――部屋、空いてるといいんだけど」
「まあ、それは大丈夫だと思いますが」
「あ、本当? それならよかった、ありがとう」
まだ案内するとはひと言も言ってなかったのだが、気づけばそういうことになっていた。これが男の話術なら、なるほど上手いものではある。
実際、ネリムとしても別に否はない。彼が困っていて、その助けになれるのなら、迷うようなことでもなかった。小さな親切が、巡り巡って自分を助けることもある。
だからこのときネリムが引っかかっていたのは、それとは少し違う部分。
彼は言った。事情があって、目立つことは避けたいと。これでネリムは、自分がそれなりに頭の働くほうだ。自覚は大してなかったが、あの馬車の中で森精種の男の正体を突き止めてみせたときのように、得た情報から推論を立てることが彼女は苦手じゃない。
それが同時に、彼女の豊かな妄想力の出どころにもなっているのだが、それはともかく。
――も、もしかして、まさか、いやでも、ええ……!?
推測、というよりはいっそ思いつきに近い、突飛な発想。だがそれを否定する根拠は今のところ見当たらず、彼女の中にある《もしかしたら》の思いを強めていた。
胸が高鳴る。いきなりに降って湧いた緊張が、心臓の中で暴れて弾けるみたいにどくどくと早鐘を打ち鳴らしていた。そんなに都合のいいことはあり得ないという思いと、それでもあるいはと願わせる期待が、ネリムの中で渦を巻いて自己主張を続けている。
だから、思い切って彼女は訊ねてみた。
「あ、あの……間違っていたらすみません。でも……っ」
「うん?」
軽く首を傾げる男に、問う。
「も、も、も……もしかしてですけど、お兄さん、七星旅団の……」
「――ああ、ばれた?」
酷くあっさりと。男は、苦笑交じりに頷いた。
自身が、あの伝説の冒険者集団の、正体さえわからないと言われるうちのひとりであることを認めたのだ。
「そう。――巷じゃ、《紫煙の記述師》とか呼ばれてるらしいけど」
――気絶してしまうかと思った。
だって、そんな。あの憧れの旅団の、その中でもいちばん尊敬している魔術師が。まさか。
言語中枢が呼吸を止め、肉体を動かす神経が完全に麻痺し、全ての回路が硬直した。本当に死んでしまったかとさえ錯覚した。
比喩ではなく、本当に自分の人生さえ変えてしまった最高の魔術師。確かに、この街に訪れるらしいという噂はあったけれど。ひと目でも見るためにここまで来たのだけれど。
だからって、こんなところで会うなんて。しかも話までできるなんて。
そんなこと想像さえしていなかった。心の準備ができていない。こんな不意打ち、聞いていない。
「ああ……ほら、ああいう風に囲まれると面倒だろ? だからこうして人目を避けてんだ」
驚きに全身を硬直させるネリムを、何か勘違いでもしたのか《紫煙》は言う。
通りのほうの人混みは、今も訪れない彼を待って、鳴りやまない喧騒を奏で続けている。
「だから、君も俺のことは秘密で頼む」
人差し指を唇の前で立てる《紫煙》。
壊れた人形みたいな動作で、ネリムはこくこくと頷きを繰り返す。それしかできなかった。
「ん、ありがと」軽く片目を瞑った彼は、微笑みながら言う。「それじゃ、悪いけど君の宿まで案内してもらっていいかな。あ、あんまり人目につかない道でお願いするよ?」
ネリムにできたのは、やはり首肯を何度となく繰り返すだけの動作。
そこからどうやって宿まで向かったのかは、あとになってもほとんど思い返せなかった。
※
明くる朝。寝床にしている安宿の、少し古めかしい寝台の上でネリムは目を覚ます。
そして、こんな風に呟いた。
「――朝ですよぅ」
当たり前のことを、当たり前のまま言っただけの台詞。言葉というより、いっそ鳴き声とかただの音とでも言ったほうが近いかもしれない。
昨夜、自分が何をしていたのかまるで思い出せない。
――はて自分はいつの間に部屋まで返ってきて、いつの間に眠ったというのだろう。
よくわからなかった。なんだか途轍もなく衝撃的な事態に遭遇して、そのまま意識を手放してしまったみたいな気分だ。
いや、まさか、そんなはずがないとは思うけれど。
いくら《抜けている》と言われることの多いネリムとはいえ、いたいけで夢見がちな少女である(異論は認めない)とはいえ。さすがに白昼から自失するほど抜けてはいない、起きたまま夢の世界に迷い込むほどではない――そう思う。
「ははぁん? さてはアレだね、飲みすぎってヤツだね?」
酒精なんてほとんど摂らないくせに、そんなことをネリムは言う。
その時点でもう現実逃避だった。
ネリム少女、これで案外、不意打ちの事態に弱いところがあるようだ。
さておき、ネリムは寝ぼけ眼を擦りながら、部屋の外へととりあえず出ることにする。まずは顔を洗って、朝食を食べて、それから……えっと、そうだ、仕事を探さないといけない。
自分に課せられた現実を思い出し、ようやく世界へ精神が順応を果たしたのだと考えたネリムは、宿の廊下をよたよたと歩く。
「――あ。えっと、ネリムちゃんだっけ? おは、」
よう、までは聞かなかった。
目の当たりにした爽やかな笑顔の男を前に、ネリムは脱兎の如く来た道を引き返して部屋まで戻るっていうかちょいちょいちょいなんかいたうわあ。
ネリムはようやく思い出す。
というか忘れてたわけもないのだが、なんかこう幸せすぎて逆に受け入れにくい現実に対し脳が処理反応の限界を迎えてちょっとショートしていたっちゅーか寝起き見られたマジっすかうわ恥っず――!?
盛大に、見事なまでに狼狽えるネリムだった。
動転するあまり、突然に部屋まで引き返していったネリムを見る彼の顔が若干引き攣っていたことには気づいていない。
「あ、ああぇ、え、あ……うわ、えっ、あっ――」
いっそ憐憫さえ誘うほど顔を真っ赤に染め上げる少女。
――いやいや、何をしてるんだわたしは。うぶなねんねでもあるまいし。まるで物語の中に登場する、恋する乙女のようじゃないか――。
あたふたと部屋の中をうろうろし、外から見えもするまいに、ネリムはまるで隠れるみたいに布団を頭から被った。いやいやいや、蝶よ華よと育てられた貴族のご令嬢が、初恋の人と出会ったみたいな反応をしてどうするわたし。
あまりにも間抜けを晒しすぎたせいだろう、彼女にも少しばかり冷静さというものが戻ってきた。
それが、
「――えっと、大丈夫? もしかして体調でも悪いのか?」
「ばべいっ!?」
控えめなノックとともに響いた男の声で、またしてもどこかに消え去った。思わず奇声が湧いて出た。
――ちゅーかなんで来るねんな!?
ネリムは思ったが、あそこまで動転した人間を見れば不審に思って当然だろう。人のいい性格なら、様子を訊ねにきたっておかしくはない。
「あ、う……す、すみません大丈夫ですっ! ちょっと部屋に、えっと……そう、忘れものをしていたのを思い出して!」
主に理性とか冷静さとか、その辺だ。
「そっか。昨日から様子が変みたいだったからさ、ちょっと心配で。何ごともないならよかったよ」
――昨日からだったのかわたし。ていうか、なんだよこいつ聖人かよ。
失礼(?)なことを考えるネリムだ。どうオブラートに包んでも、彼女の行動は変というか変人、奇人の域に達していた。それをあっさり受け流すとは、さすが伝説の七星旅団……などと、ちょっとどころじゃないくらいズレた思考に陥っている。
「ご、ご心配には及びませんともさ、ええ! おはようございますっ!」
「はは……元気いいね、君」
「それはもう! 両親からも『元気だけが取り柄だな、お前は』とお褒めに与っているくらいですからねわたしは!!」
「…………そっかあ」
「元気すぎて困っちゃうくらいですよむしろねっ!」
「はは……面白いコト言うね」
「えーもーはいはいどんとこいですよね! ああ力が漲っちゃうなあ漲り渡っちゃうなあっ!! このあり余った力を、今すぐにでも発散しないといけない気がしてきたのでちょっとできればそこをどいてもらいたいっていうかなんていうかああいえ別に邪魔とかそういうわけじゃなくてもう何なんなの!?」
「え、あ、はい。なんかすみません……」
「いや責めてませんよ責めてませんしなんならわたしが攻められてるまであるっていうか寝起きで攻城とかちょっと不意打ち半端ないんで自重してくださいっていうかむしろわたしがわたしが自重しろって話ですみませんちょっと朝とかほら寝起きなんで言葉の泉も汲み上げの量が少なくなって言語が乱れたりしませんかしますよね普通しますって普通だあっ!?」
「ああ……うん。いや何言ってんのかまったくわかんないけども」
伝説の旅団の一員が、壁越しで少女に押されていた。
どうもネリム、混乱すると言語中枢に深刻な支障をきたす傾向があるらしい。
「まあ、それだけ元気なら大丈夫かな。あとで下に来てね、昨日の話の続きをするからさ」
「ヴェエェッ!?」
昨日の話って何。心底から焦るネリムである。
憧れの魔術師に誘われているのだ、本来ならもう少し喜べるところだったのだが、いったい昨日の自分が何を話したのか、少女はまるで覚えていなかった。
「え、あの――えと、」
目をぐるぐる回すネリムに対し、《紫煙》は言う。
「――仕事、探してるんだろう? 俺が紹介するって言った話、もしかして忘れちゃった?」
「へえっ!?」
そんな話を、憧れの相手に洗いざらいぶちまけてしまったのだろうか。
でも、思い返してみればそんなことを言った気も――しない。やっぱりまるで覚えてない。
「それじゃ、またあとで。よろしくね?」
声が、壁越しにすっと入ってくる。まるでそのまま心の中へと滑り込んでくるように。
その甘さに、柔らかさに抗うことなどネリムにできるはずがなかった。
「――は、はい……」
なんとかそれだけを答えるのが精いっぱいで。
その頃にはもう、足音が部屋の前を離れていくところだった。




