4-61『救いと滅び』
レファクールのいなくなった空間を見て。
その戦いが、完全に終結したことを確認して。
ようやく安堵を得た俺は、そのまま迷宮の床にくずおれるみたいに、座りこんでへたれた。
「――……あー。死ぬかと思った……」
床にへたったまま、吸殻を携帯灰皿に叩き込む。
――やばかった。
余裕なように振る舞って、実際そう誤魔化せていた自信はあるが、もちろん余裕なんてまるでない。あったわけがない。
相手は魔人。進化した人間。旧人類を、駆逐するために生まれた概念だ。
かつて今の人類が、それまでの生物を淘汰して世界の覇者となったように。彼らは今の人類を、超えるために生まれた存在なのだから。
そう簡単に勝てるわけがないし、実際に一歩間違ったら死んでいた。
「……お疲れ様です、アスタくん」
駆け寄ってきたピトスが、俺の横にしゃがみ込んで労いの言葉をくれる。
それに片手を挙げて答えた俺だが、しばらく動ける気がしない。そういうわけにもいかないことは、重々わかっているけれど。
「見ていたほど、余裕というわけではないようですね」
「……なんだ、見抜かれてたのか」
格好つかないなあ、と俺は笑う。あれほど啖呵を切ったにしては、ずいぶんと締まらない顛末だ。
それでも、通すべき意地は通せたと、そう思っている俺だった。
「いえ、本当に驚いてるんです。こういう言い方はかなり失礼だと自覚してますが――アスタくん、普通にめちゃくちゃ強いじゃないですか」
「これでも元七星旅団だぜ? 俺より強い魔術師なんて、この世に六人しかいなかったよ……元はな」
いやまあ、実際にはいただろうけれど。名の売れていない天才が、普通にいるのが魔術の世界である。
それでも俺だって、伊達や酔狂で、あるいは情けで七星旅団に所属していたわけじゃない。確かにマイアは勧誘する仲間に《強さ》なんて基準を設けてはいなかったが、気が合う面白い奴を集めただけだと言っていたが――それでも俺は、あの六人に置いてかれないよう、追いつけるよう、必死に努力を重ねてきた。
そのことに自負はあるつもりだ。
確かにステータスは低い。印刻以外の魔術は何ひとつ使えない。俺が持っていた魔術的な才能は、他人より多めの魔力量と、あとは印刻の適性だけ。
だからといって――それは勝てない理由にはならない。諦める理由にしてはいけない。
それで充分だった。配られた手札は確かにある。それをどう切るかを技量と呼ぶ。
あの六人には、確かに俺じゃ勝てないけれど。
それでも、あいつら以外に負けてやるつもりなんてなかった。
「……まあ実際、ギリギリだったけどな。ひとつでも読み間違ったら、その時点で即詰んでたよ」
魔物が持つ性質を、その特殊能力から身体機能に至るまで、自らの身に偽装再現して現実に干渉する――なるほど確かに、魔人などと名乗るだけの能力はあった。
その能力がもし完全に覚醒していたら、俺では勝つことなどできなかっただろう。
結局、あいつは最後まで神獣の能力を完全に自らへ降ろすことなどできていなかった。それでも、その一端を再現されていただけで充分に負ける理由になっていたのだが……。
使うのは、あくまであの女――レファクール=ヴィナだ。
「まるで、レファクールが何を考えているのか、全部読んでるみたいでした」
「そう見せてただけだよ」感心したように言うピトスに首を振った。「実際には読めてない。ていうか、誘導したんだよ。何をしてくるかわかってたんじゃなくて、俺が取ってほしい行動を選ぶように戦闘の展開を構築しただけ。――筋書きを書いただけだ」
魔競祭で、ウェリウスを相手にやったことと本質的には大差ない。
魔術師が咄嗟に選ぶ魔術は、最も使い慣れた魔術だ。何をしてくるかわかっていれば、それを邪魔することができる。そういうこと。実力を出されては負けるのだから、俺の戦いは常に完勝か完敗の二者択一。筋書きを外れた瞬間に詰む。
その意味で言えば、ほとんどの魔術を魔人になって初めて使ったであろうレファクールは、行動がだいぶ読みづらかった。《土星》の存在と、彼女がもともと格闘家であることから、鬼を使ってくる可能性は高いと思っていたが――それも絶対ではなかった。
「でもまあ、可能性は絞れたからな。そのどれを選ばれてもいいように、きちんと準備はしてあった。――つーわけで、逆に言えば」
「ひとつでも想定外の行動を取られた時点で、負けていたってことですか」
「そうなるな」
こちらにとっての想定内から。相手にとっての想定外から。
ほんのわずかでもずれた瞬間に、俺は殺されていたことだろう。ただひとつのまぐれで、全てをひっくり返されるだけの能力差が、俺とレファクールの間にはあった。
それでいい。能力で負けている相手に、実力で勝つのが俺という魔術師の戦い方だ。
とまあ、そんなことを語った俺に、ピトスはなぜか呆れたように溜息をつき。
「……頭おかしいんじゃないですか?」
「罵倒する流れだったかな、今?」
「いえ……《紫煙の記述師》と呼ばれるだけはありますね。本気のアスタくんは、戦いのときに一歩もその場から動かない……本当だとは、思ってませんでした」
正確には一歩も動かないんじゃなくて、動かされるような事態に陥った時点で負けるだけなのだけれど。
その辺りは黙っておこう。せっかく無傷で勝ったのだ、たまには最後まで格好つけさせてほしい。
「呪い……」と、ピトスが首を傾げた。「解けていたんですか?」
「まあ、五割方……ってところかな。さすがに完全解呪までは無理だった」
「いったいどうやって……いえ、アスタくんのことですから、今さらどんなデタラメ言われても驚きませんけど」
「どういう意味だよ、それ……」
「言葉通りですよ」
「……俺が解いたわけじゃない」俺は首から下げたペンダントを示す。「助けてもらったんだよ。こいつに、な」
「これは……?」
「俺の友達の魂が、ここには入ってるんだ。治癒魔術師でな――あいつが呪いを少しだけ解いてくれた。まあ時間的な制約はあるけど、そのお陰で少しの間なら、元の通りの魔術が使えるようになったんだよ」
「治癒、魔術で……?」
「意外だろ? 普通、解呪と治癒はなんの関係もないからな。でも結局のところ、治癒ってのはすなわち身体を――ヒトを《正常な状態にする》ための魔術だ。呪いも異常の一種なら、理屈の上では通用する」
治癒魔術師は、それなりに医学の知識を習得する。ピトスだって、本職の医師ほどとは言えないまでも、聞き齧りでない程度には医学の心得があるのだから。
だが、それは治癒魔術師が魔術師の集団の中で医者役を買って出るから必要な技術であり、治癒魔術そのものに医学の知識は必要ない。ただ使うだけならば、だ。特別なことをしなくても、専門の知識を持っていなくても、治癒魔術自体は、半ば自動的に対象を《正常》と認識される状態に変化させる。自然治癒力が強化されるのは――負傷ならば、そういう風に治るのが、最も自然だからだった。
そういった知識を、キュオは死ぬことで学んだ。死んで、魂が世界に還ったから。そこにある世界の知識をキュオは得ている。
本来なら、そんなことに意味はない。死んでいる以上、彼女は現実世界に干渉することなどできないはずなのだから。
幸運――と言うのは憚られるが、それはいくつかの偶然が重なって起きた奇跡だ。
迷宮で、キュオが俺を呪いから庇って死んだこと。だが庇われた俺にすら影響する呪いだ、その直撃を受けたキュオは、俺よりよほど呪われている――死んでなお、魂が世界に縛りつけられてしまったほどに。
その呪いは、同一の呪いを受けた俺と接続していた。だから俺は、あの場所でキュオに出会うことができたわけだ。キュオの魂は半分が世界に、もう半分は俺の魂に残っていたということ。
彼女は本当に、言葉通りに、死んでからも俺を守っていてくれた。
キュオがいなければ、俺はとっくに呪いの進行に喰い殺されていただろう。彼女が――キュオネが治癒魔術師としての最後の力で、俺の呪いの進行をずっと食い止めてくれていた。
――感謝してもしきれない。
けれど、いつかは返すべきその重さが、今の俺には心地よかった。
※
「……さて。ちょっと回復してきた」
立ち上がって俺はそう言った。軽く周囲を見回して、
「そろそろいいだろ。――出てこいよ、見てるんだろ?」
そう、どこへともなく口にする。ピトスも驚いたりはしない。
初めから、それは含んでいたことだった。だから俺は初めピトスに前を任せ、ずっと周囲を警戒していたのだから。
終わった気になってはならない。
あの男がここにいることを、俺は知っているのだから――。
「――まあ、それはわかってるよね」
言葉とともに。枯れ草色の男が、突然に姿を現した。
初めから、すっとその場にいたと言わんばかりの自然さで。いや、実際にその通りなのだろう。彼はずっとここにいた。それに気づく方法を、俺は持っていないという話で。
アルベル=ボルドゥックが――《木星》が、俺たちの前に現れていた。
「無事に戻ってきてくれて何よりだよ、僕の敵」
魔力の海を背にして、奴はこちらを向いている。
ずっとそこにいながらにして、《金星》を助けることもなくその場に存在していたようだ。
「どうだい、世界の真実を知った気分は。それをどうにかする力を持ちながら、それをずっと無視し続けていた気分は。――その怠慢を、少しは反省する気になったか?」
「相変わらずお前の言ってることは意味がわかんねえな。世界に対して、俺が背負う責任なんざひとつもねえよ。俺が抱えられるのは、身の回りの人間だけだ。それで手いっぱいだよ」
「だろうね――そう答えると思っていた」
「……やる気か?」
「まさか」アルベルは首を振る。「そんな時間はない。僕らは世界を救わなければならないのだから。滅びに直面するこの世界を、僕たちの手で守らなければならない」
「世界がそう簡単に滅ぶわけねえだろ。仮に滅ぶんだとしても、それを人間如きの手で変えようなんてほうが無理だ」
「いいや――世界は滅ぶ。ほかならぬ人間の手で滅ぶんだ。確かにそれを守るのは、人間の手では難しいのかもしれない。攻めるより、守るほうがずっと難しいんだから。――だから僕たちは人間をやめたんだ。ヒトの手では届かない奇跡を願うために。ようやく――この場所まで辿り着いた」
「……まだ何か隠してるのか?」
「何も。僕らは何も隠していない。もし君が初めから僕らに協力するつもりだったのなら、僕は初めから全てを開示していた。――まあ、君では確かに気づけないのかもしれないけれど。知らないことは罪だが、それは同時に力にもなる」
アルベルの語ることの意味を、俺は全ては理解できていない。
この世界が滅ぶかもしれない――それだけなら、俺たちは以前に教授から聞いていた。だがそれは防ぎ得る事態だったし、何より俺たちは防ぐために動いていた。それは結局のところ失敗してしまったが、猶予ならまだ何百年、あるいは何千年と残っている。
それに――そもそも。
「俺たちを邪魔したのは――お前だろ」
「気づいたんだね。まあ、前にも言ったことだけど」
「当たり前だ。俺たちに――七星旅団の全員に、気づかれさえせず罠に嵌められるような魔術師、お前以外にいるわけがない」
二度目に迷宮に向かったとき。俺たち七人は分断され――キュオは死んだ。
誰ひとり気づけず、回避すらできなかった転移の罠。
「その通りだよ」アルベルは言う。「君らを陥れ、キュオネ=アルシオンが死ぬ原因を作ったのはほかならぬ僕だ」
「……」
「正確には転移の技術を二番目の魔法使いが、君らが揃ってあのとき、あの場所に来るという因果を三番目の魔法使いが、そして――その場所でひとりが死ぬ運命を一番目の魔法使いが、それぞれ提供した結果だけれどね。いくら名高き七星旅団といえど、魔法使い三人全てを敵に回しては、さすがにどうしようもないだろう? まあ、二番目の空間干渉技術は《月輪》が盗んだだけだが――どうだい? 僕を恨む気になったか?」
「――は」と、俺は笑う。「馬鹿言うな。あいつは俺が――俺のために死んだ。その重さを、責任を……お前なんかにくれてやる気はねえよ」
「つまらない答えだ」
「それより答えろ。どうして俺たちを邪魔したんだ?」
「迷宮は人工物だ」アルベルは言う。「それが偶然、長い年月を経て世界に繋がって、たまたま世界を滅ぼす要因になったなんて――そんなことを本当に信じてるのか?」
「――お前は」
「そうだよ。迷宮は、初めから世界を滅ぼすために創られた結界だ。この世界に、古の時代から遺された――文明を滅ぼすための時限爆弾なんだよ、あれは」
「《魔術》という文化がかつての発展を取り戻したとき、その歪な技術をゼロにするためだけに迷宮は存在している。なぜ迷宮には魔物がいるか? 決まってる、入ってきた人間を殺すためだ。なぜ迷宮に罠が仕掛けられているか? 決まってる、入ってきた人間を殺すためだ。そのいちばん奥に――入ってこられたら困るからだ。なぜならその場所は世界そのもの、知識の宝庫、失われた魔術の、神秘の最奥。人間は、そんなものに手を触れちゃいけないんだよ」
「なら――ならなおさら俺たちを邪魔する意味がねえだろ」
「彼女を殺すつもりはなかったよ」アルベルは、告げる。「死ぬはずだったの初めから君だ。君を人柱に捧げて――限界までの寿命を延ばすつもりだった。彼女は《日輪》が用意した君の死の運命を、自分の死を代償にして変えた。そういう人間こそ――運命を変えられる人間こそ、本来は生き残らなければならなかったはずなのに」
「なら、タラスでシルヴィアを殺そうとしたのは――」
「もちろん、それで世界の寿命が、ほんの少しとはいえ延びるからだ。だがあの場には君がいて、メロ=メテオヴェルヌがいて、セルエ=マテノがいた。三人がかりなら運命も変わるさ。だから、なぜあのとき止めたかも気づいたはずだ。君らのように、運命を変えられる生まれながらの異常者が――迷宮の奥で世界に触れてはならないからだ。本当に世界を滅ぼしてしまいかねない――運命を、捻じ曲げてしまいかねない。そんなことは認められなかった」
「……、」
「もうわかるだろう? なぜ僕らが君たちを積極的には殺そうとしなかったのか。決まってるさ――死なれたら困るんだよ。三番目が――未来を知る《時間》の魔法使いが君たちを集めたのは、君たちが世界を、運命を変更可能な異常だからだ。それは世界を滅ぼす要因にもなるし、同時に世界を救える数少ない人間でもある。君たちがここまで魔術を発展させてしまったから、世界はカウントダウンを始めた。世界を滅ぼす君らでなければ、世界を救えないという皮肉だ。――本当に、ふざけた話だと思わないかい?」
「……馬鹿げてる。そんな話を、俺に信じろと?」
「だが少なくとも僕らは信じている」アルベルは言う。「魔法使いもそれを知っている。旅団の連中だって、それをあえて君に伏せた。知ってしまった因果は確定する――変更が利かなくなる。三番目に師事した君なら、三番目によって過去に送られた経験のある君らならわかるだろう? 決まった事柄を変えられるのは、この世でただひとり《日輪》だけだ。いくら運命を変えられる君らでも、定まってしまった因果には干渉できない。知らないことしか変えられない。それでもまだマシだ。知っているのに変えられない、何もできないと初めから決めつけられている僕らよりはずっと。――だから、魔人になったんだ」
説明なら、それで充分だろう? とアルベルは問う。
その通りだった。
「下らない話だよ――ただ魔術の才能があるという程度のことで、ただ七人だけの人間に、世界の命運を左右されるんだ。その気持ちが、その絶望が、お前に理解できるのか? にもかかわらず、その君たちに縋らなければ世界を救えない――本当に皮肉だ。人間なんて、生まれたときから運命に縛られてる。誰もが英雄にはなれない。誰もが伝説にはなれない。ヒトがなれるのは、なれるものだけだ。この世界の人間は、ただひとりの例外もなく、魔術なんてものの才能に縛られている。才能――才能だよ、わかるか紫煙? 持って生まれなかった者に、できることなんて何もなかったんだよ。だから僕らは魔人になった。何も持って生まれなかった僕らが、それでも何者かになるために――何事かを為すためにヒトを超えた。自分たちの手で、この世界を救うためにだ。何も知らずに世界を諦めた英雄の代わりに、この世界を救うためにだ。君らは僕の絶望で――にもかかわらず希望だった」
――なあ、紫煙?
それでもお前は僕を止めるのか?
「君らがひとり減ったように、僕らも今、ここでひとりが減った。ただまあ、減ったということは、彼女には世界を変えられなかったということだ。なら要らない。僕らにはもう《金星》は必要じゃないからね」
「誰かの犠牲を前提にして、世界を救うと言うつもりか」
「誰かの犠牲も覚悟せずに、いったい何を救えるんだ?」
「……、」
「わかってるさ。こんな感情は逆恨みだ。別に、君が悪いわけじゃない。この世界が初めからそうであるように。ぼくに才能がなかったように、君にはそれがあったというだけ。立場は反対でも同等だ。ただ願うならもう、僕らの邪魔はしないでくれると助かる。君に世界を救えとは言わない。それは僕らが勝手にやるから、黙ってそこで救われてろ。――言いたいことは、それだけだ」
突如、彼がぱちりと指を鳴らした。
その瞬間、彼が隠していた人間たちが現れる。
そこにいたひとりの少女を見て、俺は咄嗟に大きく吠えた。
「……お前っ!」
「別に人質のつもりはない」アルベルは言う。「彼女は返そう」
現れたうちのひとりは、《土星》クロノス=テーロ。
彼が腕に抱き抱えているのは、気絶したひとりの少女だった。
「アイリス……」
「怪我は、させていない」クロノスが言った。「気絶させただけだ。殺せという命令は受けていなかった」
どちらでもよかった、ということだろう。彼女を殺せば俺が何をするかわからない。
――黙って見ていろという言葉通り、俺を刺激しないようにしただけだ。
クロノスは普通に俺に近づき、アイリスの小柄な体を、それでも丁重に俺へ受け渡す。従う以外にない。
抱き止めたアイリスの小さな体。確かに、見たところ怪我はないようだった。念のため背後のピトスにアイリスを任せ、やはり何もせず去っていくクロノスの背を見送る。
声は、クロノスにではなく、同時に現れた別の人間にかけた。
「――クソジジイ」
「久し振りだな、クソ弟子」
現れたのはひとりの男。魔人となったのだろうふたりと比較してさえ、遥かに強大な存在感を放つ――三番目の魔法使い。時間概念を支配する男。
アーサー=クリスファウスト。俺にとっての、魔術の師。
その背後にはもうひとり、知らない姿の――けれど見覚えのある顔の少女がいる。
だが彼女の髪は、あんなに深い闇のような黒だっただろうか。
違うはずだ。彼女はもっと、雪のように無垢な白い髪を持っていたはずだ。
だが――その人間離れした美貌を、見間違うことがあるだろうか。
「……ああ。そういやお前はコイツを知ってたか」
アーサーが言う。この状況で、他人の空似ということはないだろう。
「じゃあ――」
「俺の娘だ。俺が創ったものを、どう使おうと俺の勝手だろう?」
「シャル……なのか」
闇色の、漆黒の長髪になったシャル。その蒼の瞳さえ、今は夜の雰囲気を湛えている。
だが、髪の色以外はどこをどう見ても彼女のはずなのに――纏う空気がまるで違う。
シャルの表情からは、感情というものが一切消えていた。普段から人形のように無表情なくせに、ちょっと何かあればすぐ気持ちを露わにしていた俺の妹弟子は――本当に、ただの人形のようになってしまっている。
人形のように。
アーサーは、俺の気持ちを見透かすように言った。
「そうだ。こいつは――俺が創り出した《人造人間》だ。初めから人間なんかじゃねえんだよ。シャルロット=クリスファウストは――ただの道具でしかない」
「――やめろ」俺は、小さく首を振る。「お前の口から、シャルのことを道具なんて言うな」
「はっ。どうやら情が湧いたようだな――下らねえ。まあ言いたいことはわかるさ、俺だって鬼畜じゃねえ。人間だ。創りモノとはいえ娘を、親の勝手にしたりしねえさ」
「……なら」
「こいつは自分の意志で俺たちに協力するそうだ。よかったな? いつも通り、背中を押してやったらどうだ? お前の友達が、世界を救ってくれるそうだぜ? 北の迷宮で、世界のために死んでくれるらしい。――ご立派じゃねえか」
「シャ、ル……」
俺の言葉にシャルは答えない。一切の反応を見せてこない。
代わりに口を開くのは、魔法使いの男だった。
「この場所での目的は達した――全員が魔人に成った。あとは本来の目的を達成しに行くだけだ」
「……どこで、何をするつもりだ?」
「聞いてどうする? 止めるのか、それともお前が代わりにやるのか?」
「――」
「テメーの身の振り方も決めねえで、決めた奴の邪魔すんじゃねえよ。何かをするなら、せめてテメーの覚悟くらい決めろ、クソ弟子が。お前は、何もわかってねえ」
「……」
「その程度で俺たちに干渉するな。クソ弟子――俺の教えを、もう全て忘れやがったのか? なら黙ってろ、今のテメーと話すことなんざ、こっちにゃひとつだってねえよ」
「――行きますよ」
アルベルが、アーサーの言葉を止めるように言った。
アーサーは「わかってるようるせえ指図するな」と横柄に言い、そのままこちらを一瞥すらすることなく、魔力の海へと潜っていった。
何かしら、その中を行く手段が彼らにはあるのだろう。俺では追うことさえ不可能だ。
ほかの三人も――アルベルも、クロノスも、シャルでさえ――俺には何も言わず、視線さえ向けずに去っていく。
俺は、その姿を見送ることしかできなかった。
※
去っていく教団の人間を見送って、ふたりはしばらくその場にいた。
正直、ピトスにはなんの話をしていたのか、いまいち掴めていない部分がある。世界がどうとか、運命がなんだとか――宗教か何かの話かと思ったほどだ。
だが最後、シャルロットが去っていく段になって、ピトスはアスタが受けているショックを感じていた。口ではなんだかんだと言いながらも、身内には甘い男だ。
しばし考えてから、ピトスはアスタの背に声をかける。
「……アイリスちゃんは大丈夫だと思います。待っていればそのうち起きるかと」
少女を床に優しく寝かせて、ピトスは立ち上がった。
「ん、……ああ、そうか。よかった――ありがとな、ピトス」
こちらを振り向き、アスタが笑顔で言う。アイリスに傷がないことを、心から喜んでの笑顔なのだろう。
その表情が――本当に心から腹立たしかった。
「そういや、お前のこと……なんて呼べばいいんだろな?」
ふと、アスタはピトスにそう訊ねた。
世界の渦の中で、アスタはわずかにその記憶を掘り返していた。そのとき、彼女がこの世界で初めてできた友達――パン本人であることを知っている。
「パン? ピトス? どっち?」
「……ピトスでいいですよ」
首を振り、ピトスは答えた。
この状況下で、そんなことを言い始めるのだ。もういい。
そっちがその気なら、こっちにだって考えがある。
「いいのか……?」
「ええ。それが今の、わたしの名前です」
パンは、もう死んでしまったのだから。これまで通りピトスで通して行こう。
失った名前は、彼だけが知ってくれていればいいから。――それに。
「んじゃ、ピトス。そろそろ帰ろうか。教授たちとも合流しねえと」
「――その前に、ひとつだけいいですか、アスタくん?」
初恋は、実らないという話だし。
パンは駄目でも、ピトスならまだチャンスもあると思うのだ。
「ん?」
首を傾げる青年を前に、少女は深く呼吸をする。
いろいろな思いに折り合いをつけ、前を向いて進むため。まず最初にやることがある。
ふっと力を抜くような形で、けれど勢いをつけ、少女は青年の胸に飛び込む。驚きつつ、咄嗟に抱き留めてくれた彼の唇に――少女は、自分のそれを重ね合わせた。
「ん――っぷは
「――――――――――――――――」
「……へへ。もらっちゃっ、た」
絶句。というか完全に硬化した青年を前に、少女は悪戯っぽく微笑んで。
「わたしのこと、生かしたんだからね。その責任はちゃんと取ってよ、アスタっ!」
かつてのように、その名前を口にする。
それで、パンにとっては充分だ。
再起動したアスタが、盛大に狼狽えて顔を赤くする。
「ま、ちょ、お……おまっ、いきない何を――!?」
「ふむふむ。その反応だと初めてですかね? アスタくんって、女性慣れしてるのかしてないのか、ちょっと微妙なラインですから。初めてならラッキーってことで。もし初めてじゃなかったら……まあ、そのときはそのときですか」
「……くそ。いきなり襲っといてそういうこと言うか、お前……?」
「いいじゃないですか別に、減るもんじゃないんですから」
「どういうつもりだよ……」
「言わせたいんですか? じゃあ言いますね」
未だ混乱しているアスタだが、今を逃せば告げるチャンスもあるまい。
弱いところを、格好悪いところを、いっぱい見せてしまった。
だがアスタはちゃんと約束を守って、格好いいところをピトスに見せてくれた。
なら、こちらも返さないと。覚悟を決めた女の子は強いということを、彼にきちんと見せなければならない。
「わたし、アスタくんのこと、好きです。ひとりの男のヒトとして好きです。愛してます」
どう解釈しても伝わらないはずのない、真正面からの告白だった。
どんな鈍感でも、この台詞を勘違いすることはできなかった。
「……お前、さっきまで目的のために近づいたとかなんとか言ってたろ……」
「それはそれ、これはこれでしょう? そうしているうちに、本当に好きになっちゃうなんて話、結構ありがちじゃないですか」
「……あのパンが、このピトスなんだもんなあ……」
そりゃ気づかねえわけだ、と顔を赤くしてアスタは頭を掻いた。
直後、唐突に「いだだだだだだだだ」と胸を押さえるようにしてアスタが呻く。
「……どうしたんですか、急に?」
「いや。別に。なんでもない。――ちょっと怒られただけだ」
「はあ……えっと、その胸のペンダントに、昔のご友人がいるってお話でしたっけ」
「……えーと。あー……その」
「――ああ、なるほど。わかりました。――女ですか」
「……………………」
「昔の女ですか。――へえ」
「……………………」
なぜだろう、とピトスは思う。さっきまで真っ赤だったはずのアスタの顔が、今は真っ青に変わっている。ぜんぜん理由がわからないなあ。
――まあ、別にいい。
その誰かが、彼にとってどれほど大きな存在なのかは、なんとなく察しているつもりだ。けれど、そんなことは今さら関係がない。
もう、決めたのだから。彼の隣を歩いていくと――そう決意してしまったのだから。
「ところで、返事をまだ聞いていないのですが」
「う、ぇ――っと」
「まあ、今はいいです、保留で。ちょっとでもわたしのことを意識してもらえれば、目標としてはおおむね達成って感じですからね」
「……したたかになったもんだよ、マジで」アスタが笑う。「確かにお前はピトスだな。パンはもうちょっと素直で可愛かった」
「今のわたしは可愛くないですか?」
「……、……可愛いですけど」
「それは嬉しいですね、ありがとうございますっ。それじゃあ帰りましょうか!」
「ん、……ああ」
頷き、アスタがアイリスを背負う。
その真横に従って、ピトスはアスタを見上げながら言った。
「わたしには、さっきの話はよくわかりませんでした」
「……」
「でもいいんです。わたしは、アスタくんのことはよく知ってます。知ってるって――そう言えます。格好いいところも、情けないところも、全部ひっくるめてちゃんと好きになったんです」
だから。
「だからアスタくんは、こんなことで諦めたりしないって、わかってますよ」
「……ピトス」
「話はよくわかりませんでした。でも、わたしには七曜教団なんて組織との因縁なんかありませんけど――それでも、彼らがやってきたことは、どんな理屈をつけたって正当化できないと思います。少なくともわたしは気に入らない」
――わたしが気に入らないんです。
と、ピトスは言葉を繰り返す。
「だから認めません。認められません。勝手なことをしてほしくありません。世界なんてものの話を、そこにいる人間のことを無視して進められても知ったことじゃないですよ。それで、それは――アスタくんだって同じでしょう?」
「……俺、そんなに情けなく見えてた?」
「そうですね」苦笑を見せて。「それでも、格好つけてくれるヒトだって――わたしはもう、知ってますから。だから、わがまま言いましょうよ。やりたいことやりましょうよ。さっきみたいに、我を通してしまいましょう。アスタくんがやるって言えば、きっと応援してくれるヒトがいると思います。みんなを助けてくれるなら――アスタくんはわたしが助けます」
「めちゃくちゃな理屈だよな……」
「お嫌いですか?」
「いや」アスタは首を振る。「俺好みだよ。――わかってる。あいつらはまだ、本当のことを言ってない。でなきゃあのクソ師匠が、あんな言い方するわけねえ」
わざと俺を煽るように。覚悟を決めろと、奴は言った。
あの男は、無駄なことなら絶対に言わない。そのことを俺は知っている。
――まだあるのだ。何か、変えなければならないことが。きっと。
「わかってるよ――ありがとう。そうだな、お前の言う通りだ」
あいつらの理屈に、俺が従う必要などない。そこにどんな犠牲があるか知れたものじゃないから。
背中で眠るアイリスが奪われたものを、そこに施された人体実験を、仕方のない犠牲だと割り切るなんて許さない。
そんなものを俺は認めない。たとえ強欲だとしても、俺は全てを選びたい。
最高以外は、欲しくない。
「――いっちょ、世界でも救ってくるとするか」
「それでこそ、アスタくんだと思います」
「だといいけどな。……手伝ってくれよ? きっと、俺ひとりじゃ無理だからさ」
「もちろん――」
ピトスが笑い、だから俺も笑う。
その笑顔に救われたことを、俺は死ぬまで忘れない
「――わたしが、いっしょにいますから」




