4-59『ひとりじゃないから』
何か切っ掛けがあるのかと問われれば、それらしいものは何もない。
彼女――レファクール=ヴィナは、おそらく初めから外れていたのだろう。
そういうモノで、あったというだけのこと。
それなりに、裕福な家庭の生まれだった。
地方だが、それなりに栄えた都で、レファクールは育った。
旧貴族家系の傍流で、地位や権力らしきものは特に残っていなかったけれど、少なくとも経済的に困窮するようなことはない、そんな家。
使用人を雇うほどではないにしろ、必ず三食の食事はあった。上流と言うには低いけれど、中流と言うには高いような。最新の魔具だって揃っていたし、魔術に関する教育も受けることができた。兄弟や姉妹はいなかったけれど、両親からは充分すぎるほどの愛情を注がれていた。しがらみらしきものもないから、職業選択の自由を持っていたレファクールは、その適性の通りに魔術師の道を志すこととなる。
肉体干渉系の魔術に、特に高い適性を持っていたため、生まれつき身体能力の強化に長けていたこともあってだろう。かつては戦う職業に就いていたという父から、護身術の意味合いを込めて格闘を習っていた。
レファクール本人も、魔術の勉強より、むしろ体を動かすことのほうが性に合っていたらしい。実力が伸びるのに時間はかからなかった。強化魔術の補助を鑑みれば、おそらく十代の前半には父親を超えていたくらいである。
――健全な精神は、健全な肉体にこそ宿る。
レファクールの父親の、それが口癖だ。肉体を鍛えることは、すなわち精神を鍛えることに通ずるのだと、父は常々言っていたし、だからレファクールも自然とその考えを受け入れていた。
そのまま育てば、それなりの戦闘者として大成したことだろう。騎士として生きる道もあっただろうか。やろうと思えば、魔術師としての道も充分に視野に入った。いずれにせよ、それなりの努力で、それなりの幸せを掴めるはずの人生だった。
彼女自身も、またそういう人生を進むのだろうと考えていた。あるいは魔術の道を選ばずとも、家が裕福だったからだろう、絵画や彫刻といった芸術に触れることも多かった。本心としては両親も、ひとり娘にあまり危険な進路を選んでほしくはなかったし、彼女も自分の思考を形に残す行為を好んでいた。あるいは、芸術家としての人生もあり得ただろうか。
ごく普通の――しいて言えば普通以上に恵まれた、それでもありふれた生活で、ありふれた人生で、それがそのまま続くはずだった。
違いがあるとするのなら――彼女が《魔物》という概念に、どうしてか生まれつき、強烈な憧れを持っていることくらいか。
そう。憧れだ。焦がれ、求め、慈しみ――自らもまた魔物になりたいと思っている。それが、この世でもっとも美しい生命体だから。
――そういえば。
と、レファクールは思った。風景の絵を描きながら、ふと、なんら特別な切っ掛けもなく。
――そういえば、人間を描くのは、まったく楽しくなかったな、と。
※
今回、レファクールが《日輪》から与えられた仕事は、端的に、かつ大雑把に言ってしまうのであれば陽動だった。
それさえしていれば、ほかに何をしていても構わないと言われている。
いつもそうだ。七曜教団は、互いに何かを縛り合うような作戦行動を取ることがほとんどない。それが《日輪》の方針だからだ。
――《運命》は、いつだって自分の力で切り開くものだからね。
それがあの男の口癖であり、だから互いにひとつの目標に対して行動してはいるけれど、それを目指す動機は全員が違っていた。仕事があるとき以外は何をしていてもいいし、与えられる役割も常に小さい。
というか、今回の仕事だって、半ば自分から志願したようなものだ。
本命の行動を金星は選ばなかった。正直、どちらでもよかったからだ。同じ仕事に就いた《火星》は、「王都に行くほうが強い人間に会える気がする」などと頭の悪い理由でこちらに来たし、《日輪》の飼い犬である《木星》も、「会いたい人間がいるから」と、これまたかなり個人的な理由を優先している。違うのは《月輪》と、あとは《土星》くらいだろう。このふたりは正直、何を考えているのかわからないし。
本命のほうは、実のところ《水星》ひとりいれば事足りてしまう。いずれ合流はするだろうが、それまではアレひとりで充分だ。戦力の大半が、本命ではなく陽動に裂かれているのだから、なんとも半端な話だ。
「――……」
目の前には魔力の海。この世界の、本当の姿とも言うべき場所。
《日輪》に教えられた世界の真実を聞いたとき、常人ならば絶望するのだろうか、とレファクールは考える。
この世界が、初めから時限爆弾つきの世界であると。
レファクール自身は、ああ、そうなのかと思った程度である。だからといって生き方が変わるわけじゃない。変える必要もない。
その回避に奔走するのは、《日輪》や《木星》たちで充分だろう。世界の行く末になど、レファクールはなんら興味がない。それで人間が滅びようと、それはそれで、そうであるというだけのことだ。
今までと、いったいなんの違いがある。
彼女はそんなことに興味がない。だから《七星旅団》などという組織にも、やはり興味がなかった。邪魔ならば殺してしまえばいいとは思うものの、それを《日輪》が許さない以上は仕方がない。
彼らもまた、自分たちと同じ保険になり得る人間である以上は。だから、そんなものに《木星》ほどの興味はなかった。
元より、彼女の目的はただひとつだ。
「……あら」
そのとき、背後から現れた気配に彼女は振り返る。そういったものに関しては、教団で最も敏感なのが《金星》である。
その男の姿を前にして、レファクール=ヴィナは薄く微笑んだ。
さて、人間として最後の仕上げにいこう。
※
「――久し振りだな、レファクール」
片手に煙草を持った俺は、そういう風に声をかけた。
まさか、あの水の町で出会った魔術師が、今は教団の《金星》になっているとは思っていなかったものの。因縁ならば、ある。
今日、この場で、それを返済することに躊躇いはない。
「久し振り――と言われましても」
レファクール=ヴィナは、軽く小首を傾げて言う。
どこか艶めかしい、扇情的な女性だった。別段そこまで露出の多い格好を――少ないとも言えないが――しているわけではないのに、なんと言えばいいのだろう。肉の、肌の質感が酷く女性的なのだ。痩せ気味で、どちらかといえば不健康な外見をしているにもかかわらず。
「ええ、アスタ=プレイアス――確かに私は貴方を知っていますが、貴方とあの町で出会っていたことも聞いていますが、実のところ貴方のことなんて覚えていないんですよね」
「……いきなりつらい」
俺は苦笑。格好つけて声をかけたのに、覚えられていなかったとか恥ずかしすぎる。
なんかこういちいち締まらねえとは思うものの、まあ、それも俺らしいと笑い飛ばせる心境だ。元より俺は、ひとりで戦うよりも――誰かと共にあるほうが強いのだから。
きっと、誰もがそうであるように。
そのことを、俺はキュオから教えてもらった。そうあることを、俺はピトスに宣言した。
だから、もう、迷わない。
「ま、そうは言っても、俺のことを知らないわけじゃないんだろう?」
「もちろん知ってはいますとも」素直に頷くレファクール。「アスタ=プレイアス――七星旅団の六番目。《紫煙の記述師》。五大迷宮の中で死ぬはずが、運命を変えられて生き残った男。その後、何度となく死の運命を覆してきた抗う者。貴方に注目する人間は、実のところそれなりにいるのですよ」
「その割に、お前には忘れられていたみたいだけどな」
「私は、そもそもあまり人間に興味がないんです」
「そんな気はしてたよ――あのときからずっと。だから、つれないことは言わないでくれ。俺はあのときから、お前を忘れたことなんて一度もないんだからな。実は何度か探したこともある」
「はあ。光栄ですね、どうも」
「だから当然――俺がここに来た理由もわかるだろ?」
「復讐、ですか」
――へえ、今日の天気は雨ですか、そうですか。
レファクールの口調には、その程度の感慨しかなかった。
まあ、別に構わない。
こちらの意志を――為すだけだ。
「……まったく。できれば、私なんて無視していてもらいたいのですが。そうもいかないのでしょうね」
「そうだな。お前らは、俺が……いや、俺たちが止める」
「……っ」
「覚悟が遅えぞ、――《金星》!」
刹那、突然の回避行動を取るレファクール。
だが遅い。そのときにはもう、ピトスの小柄な体は、レファクールのすぐ目の前に潜り込んでいる。
――打撃。
ただ、その腕で、相手の心臓を打つというだけの原始的な攻撃。だが、だからこそそれは最も単純な暴力の概念だ。
モノを壊すという行為に、何より近い場所にいる。
いつの間に、と叫ぶ暇さえなく。ピトスに心臓を打ち抜かれ、レファクールが吹き飛んでいく。
俺が魔術で姿を隠し、俺が能力を強化した打撃だ。ヒトひとり――破壊するのに充分すぎる。
容赦をするつもりなど、俺にもピトスにもありはしない。一撃で肉体の機能を破壊し尽くされ、血反吐を撒きながらレファクールは視線の先――魔力の海へと沈んでいく。
常人なら、これでもう終わりだろう。ダメージだけで死には充分だったし、何より魔力の海に引きずり込まれたのだ。仮にキュオの助けがなければ、俺も戻ってくることはできなかっただろう。
だが――俺もピトスも警戒を解いたりはしない。
事実、直後には、何ごともなかったかのようにレファクールが戻ってきたのだから。
「……驚きましたね。ええ、本当に」
「不意打ちは卑怯……なんて言わねえだろ? お前は、かつてピトスに同じことをやったしな」
「ええ。煙草を吸いながら現れた貴方に対し、警戒を怠った私の失敗でしょう。……いえ、正確には、貴方に対しては警戒を解かなかったつもりでしたが。……魔力は、その身に戻りましたか」
「何度となく、あの《木星》にはしてやられてきたからな。――まさか、オーステリアで会う前に会っていたとは思わなかったが」
「知ったのですね。あの迷宮に、私たちがいたということを。なるほど、ならば貴方には確かに復讐の動機があるのかもしれません。いざとなれば、世界を人質に命乞いをしようかと思っていたのですが――この分では無理でしょうか」
「心にもないことは言うもんじゃねえ」
俺は笑う。笑ってやる。
そんな言葉で、二度と心を乱されてたまるか。
「それに、俺たちは復讐なんて動機じゃ動いてねえよ。勘違いするな。そうだろ、ピトス?」
「ええ。わたしたちはただ、あなたが、あなたたちが気に入らないから――ぶっ飛ばしに来ただけです」
「……まあ、それが魔術師らしいのかもしれませんね。どうでもいいことですが」
金星が呟く。それもまた、彼女の本心ではあった。
たぶん、レファクール=ヴィナは嘘をつかない。嘘などつく意味がないからだ。初めから、彼女は自分以外との繋がりを全て断っている。
理解されようなどとは思わず、だから理解しようとも思わない。
そこでぶつかり合った意志ならば――あとは互いに、それを貫き通すために戦うだけ。
「――ではここで、貴方たちには死んでいただくことにします」
だからレファクールのその言葉は、やはり単なる宣言だ。
事実を言っただけ。嘘をいったつもりはない。自分がそうするからそうなると、彼女は当たり前に信じている。
「来るぞ、ピトス。ここからが本番だ――今の奴をもう、真っ当な人間だと思うな。生身で魔力の中に落ちて、なんのの影響も受けずに戻ってくるような奴はもう――人間じゃない」
「わかっています。構いません――化け物退治は、初めから人間の領分でしょう」
「――行くぜ」
「はい。アスタくんと一緒なら、どこへでも」
その直後。
レファクール=ヴィナは、言葉通りに人間を辞めた。
※
レファクールの体が、強烈な光を発し始める。それが視覚化されるほど密度の高い魔力であることは、魔術師ならば一瞬でわかる。
みじり、と。レファクールの肉が盛り上がり、なくなったはずの腕が復元されていく。それはおよそ治癒などという言葉とは程遠い、どこまでも醜悪な光景だった。だが、ピトスは目を背けない。
治癒魔術とは違う。
治癒とは肉体の再生力を促進し、傷の治りを早めるための魔術だ。それは魔力によって再現される不自然ではあるのもの、現象としてはあくまで自然治癒の延長線上にある。
一方、目の前で起こっている現象は、どちらかといえば再生、復元に近いものだった。これは肉体を元来の正常な状態に、戻そうという力の働きだ。いわば時間を、過去に戻しているのと似ている。
時間的には《進む》行為である治癒とは、根本的に違っていた。
――人間を、辞めた。
比喩ではなく、それが本当に言葉通りの意味であることを、すでにピトスは悟っている。
変化というよりも、むしろ進化と表現するべきか。人間という枠組みを超越し、一段階上の次元の生命へと彼女は進化しているのだ。
まるで魔物のように。その肉体を、魔力に還元し、そして再び肉体として戻している。身体そのものが物質化した魔力になる。
そうでありながら、彼女は人間としての意識を、理性を、技術を未だに保っている。レファクールという個は、魂の次元で失われていない。
治癒魔術師――肉体に干渉する魔術師であるピトスにはわかった。
あの迷宮で見つけた合成獣は、異なる魔力同士を結合させてなおひとつの生命として維持させるための実験だったのだ。
フェオが、存在としてはいちばん近いだろうか。吸血鬼の――つまるところ魔力で構成された生命を祖先に持つ彼女は、その能力の一部を引き継いでいる。
肉体の一部を魔力に変え、あるいは魔力というモノを自身の肉体の延長とし――ちょうど水星が持っていた変身魔術のように――自在に操ってみせる、魔術ならぬ機能としての能力。
アイリスが《他者の魔力を奪い取る》という機能を、あるいは《土星》のクロノスが《空間の魔力を掌握する》という異能を持っているのは、いずれ七曜教団が次の次元に進むための、いわば捨て石――言葉通りの実験台だ。
おそらくその実験の過程で、数え切れないほどの人間が命を落としていることだろう。魔術の加護を受けてとはいえ、高密度の魔力に浸されて生き延びることは難しい。初めからキュオネに守られていたアスタや、適性のあったアイリスやクロノスだけが、偶然生き残ったと言うだけだ。
それでも、彼らの求めるモノには至らなかったのだろう。だから失敗作と呼ばれていた。
それでも、その実験がもたらした情報は彼らの技術を先に進めたのだろう。ついに彼らは、後天的に人間を逸脱した。
人間から――魔人に変わった。
魔力は世界を書き換える。それは初めから、世界そのものが魔力によって構成されていたから。
ならば肉体という戒めを離れ、存在そのものが魔力によって構成されるようになればどうなるか。
それはもはや、存在そのものがひとつの魔術になるということだ。
あらゆる行動が――魔術的な効果を持つということだ。
アイリスが、手に触れた魔力を略奪できるのは、魔力に手を触れるという行為それ自体が、ひとつの魔術として成立しているから。魔術を使っていないのに、それが魔術と同等の効果を及ぼしている。フェオが血を飲むという行為だけで、他者の魔力まで操れるようになるのも同じことである。
もはや《金星》は、その比ではない能力を手に入れているだろう。
ひとつの行為だけに限られない。あらゆる行動が、その一挙手一投足の全てが世界を直接に改変する。
それが魔人化。先天的に外れていた七星旅団に匹敵する力を得るために、七曜教団が編み出した後天的な逸脱の手法。
その脅威が、埒外さが、理解できないほどピトスは冷静さを失ってはいない。
それでもなお――逃げる気なんてさらさらない。
――今、わたしの後ろには、世界でいちばん頼りになる魔術師がついている。
だったら負けない。誰に訊かれたって、声を大にして答えてやる。
今のわたしは最強だと。どんな障害を前にしたって、必ず乗り越えられる強さがあると。ピトスはそう信じている。
それが貰い物の自信であったとしても。所詮は借り物の力でしかなかったとしても。そうして、背中を押してくれる誰かがいることを、きっと自分は誇れるから。
次元の違う相手が敵でも、ひとりじゃなければ戦える。ふたりだったらきっと勝てる。
だから――今は、前に進むんだ。
支えてもらったこの体を、自分の力で歩かせるんだ。
そして、ピトスはレファクールとの、最後の戦いに身を投げ出した。
握り締めた拳を、その中に包まれている熱を、力に変えて突き出した。
そして初撃。心臓を狙って繰り出した一撃が、レファクールの拳と拮抗した。力では互角――だが魔人が繰り出す拳ならば、それだけで魔術としての効果を持つ。
ピトスの攻撃がただの打撃なら、レファクールの拳は破壊の概念を秘めた魔術と言ってもいい。たとえ力で勝っていても、砕かれるのはピトスのほうだ。
ひとりなら、この時点で負けている。
でも、ふたりだから臆さない。
打ち合わされた拳が、そのとき、互角の力で弾かれ合う。
レファクールは驚きに目を見開く。ピトスの力に驚いたのか、あるいは起こされた奇跡に驚いたのか、それともその両方か。いずれにせよ、ピトスにできることはただ、前に進んでいくことだけ。
引くことも、躱すことさえ考えず、ピトスはさらに前へ出た。
小柄な体躯も武器にして。レファクールの懐へと潜り込んだピトスは、両の手を前に突き出し、彼女の腹部を打つ。
だが、それは弾かれた。レファクールの肉体そのものに秘められた莫大なエネルギーが、それだけで強固な防御になっている。
レファクールが、ピトスの頭上めがけ肘を落とした。それを手甲で弾いたピトスは、そこで身を屈めて足払いをする。レファクールはそれを人間離れした跳躍で躱し、ピトスの体を飛び越えて背後に回った。さらに打ち落とされる拳――顔のすぐ横を通り抜けたそれが、圧力だけでピトスの頬に傷を作る。
それでも引かない。レファクールの拳と入れ替わるように、ピトスは痛烈なアッパーカットを、飛び上がりざま彼女の顎に叩き入れる。弾かれ上を向いたレファクールの顔と、飛び上がったピトスの視線が合った。
その顔には無表情――相変わらずなんの感情もない。
いいだろう。ならばまず、その余裕を崩すところから初めてやる。
一瞬。その直後。今度は重力に従って落ちていく踵を、上を向いたレファクールの脳天に叩き落とす。振り上げた右足は、落ちていく勢いのままレファクールを捉え、その反動でピトスは前に飛んだ。レファクールの体を踏み越えるみたいに。
着地――レファクールには背を向けた形だ。背後から迫る死の気配に、ピトスは完全に悟っていた。これだけ殴っていれば、多少なりともダメージを受けているはずだが、それでもレファクールは怯まない。
ピトスは、躱しもせずに振り返る。
その瞬間に、レファクールの拳がピトスの心臓を捉えた。そもそも心臓を殴る技術自体、彼女に習ったものだから。殺すつもりなら急所を潰せ、と。
だからピトスには、その攻撃が読めていた。
だからそれを躱さずに、真正面から受け切った。
「――……っ!」
今度こそ、レファクールの表情が確かに歪んだ。
もちろん正確に言うのなら、レファクールの攻撃が効いていないわけがない。その攻撃は確かに、ピトスの肉体にダメージを与えていた。
だが即死するほどの威力はない。本来ならあったとしても、それは魔術で減衰できるダメージだった。
――アスタが、背中を押してくれているから。
今、ここで戦っているのはピトスひとりでは決してない。ひとりなら負けていることはすでに証明されていたし、そのときよりもレファクールの戦力は上がっている。本来なら絶望したっていい状況だ。
それでもこのとき、ピトスの体は軽かった。こんなにも軽やかな気持ちでいられるのなら、どんな戦いも怖くなかった。
――ホント、単純だなあ……。
とピトスは思う。アスタが背中にいてくれるだけで、こんなにも戦える自分に、もはや苦笑すら湧いて出る。
そのことが何より嬉しくて。涙が出るほどに喜ばしくて。そんな自分の単純さが、けれど愛おしいとさえ思えた。
自分を好きになれそうだった。
――体が軽い。いや、それとも心が軽くなっているのだろうか……。
精神状態は、魔術の出来に直結する――とはいえ、それでもここまでの向上は見込めないだろう。おそらくピトスはこれまでの人生で最高のパフォーマンスを発揮している。肉体の防御力も、ダメージの治癒力も、かつてないレベルまで高まっている。
アスタが後ろにいてくれるから。精神論ではなく、彼の魔術で、ピトスが使う魔術の全てが一段階も二段階も、その性能を向上させている。
そう。それが印刻使いの本領だった。
他者の魔術に介入できるという彼の魔術は、いつかのように他人の魔術を妨害するよりも、こうして誰かの魔術を手助けするほうが、ずっと高い効果を発揮するのだ。
人間が扱うものである以上、全ての魔術には粗がある。欠点がある。だからこそ、世界の正解に最も近いルーン文字の持つ概念が、その弱点を補強する。その欠点を穴埋めする。そのとき、魔術は世界を最高の精度で書き換えるのだ。
ふと、アスタが笑った。そんな気がした。
彼に背を向けているピトスにも、そのことがわかるような気がしていた。
それがたとえ錯覚であろうと。繋がっていると、思えることには意味がある。価値がある。
だから力が宿るのだ。
ひとりじゃないから――前に進もうと思えている。
それが《紫煙の記述師》、アスタ=プレイアス本来の力。一ノ瀬明日多は、きっと初めから、誰かの背を押す魔術師だ。
――誰かを助けてあげるときが、アスタはいちばん強いんだから――。
そんな彼女の声に従い、アスタはピトスの背中を押す。
そう。彼は決して最強の魔術師ではない。伝説と呼ばれた旅団の中で、彼は最も弱かったのだから。
けれど、それでも彼もまた、確かに伝説のひとりなのだ。
自分ひとりではできないことでも。誰かひとりでは叶わないことでも。
それを助けてあげられる、それだけの力があればいい。一ノ瀬明日多が望んだのは、初めからそういう力だった。
アスタ=プレイアスは、きっと最強にはなれない。
けれど、背を押した誰かを、最強にすることならできる。
「――だから」
だからピトスも、その言葉を口にする。
もう、声を出すことを躊躇わない。
「わたしは、もう、負けるわけにはいかねえんですよ――っ!」
レファクールの拳を受けきったということは。レファクールが、必殺であるはずの拳を受けきられたということは。
そこに、隙が生じるということだ。
痩せ我慢でもいい。受けたダメージを回復して、歯を食いしばって耐えただけでも充分だ。
ピトスが、レファクールの体を蹴り上げる。
魔術で肉体を強化し、その精度をアスタによって何倍にも底上げされ。そうして繰り出されたピトスの蹴りは、レファクールを天井付近まで浮かばせる。
――ぶつ、と肉体を痛め、レファクールが血を吐いた。
その赤の一部を顔に受けてなお、ピトスの視線は彼女を捉えて離さない。
跳躍。ピトスとレファクールが空中ですれ違う、その刹那。
振り抜かれたその拳が、レファクールの顔面を完全に捉えて吹き飛ばした。
※
血を撒き散らし、レファクールが床に墜落する。
いくら人間を超えたとはいえ、肉体が魔力からできているとはいえ、それでも肉を持つ生命である以上は、赤い血を吐くこともあるだろう。
だが。それは結局、それだけのことでしかないのだった。
魔力が尽きない限りは、彼女の肉体は際限なく元の状態へと復元する。そして魔人になった以上――つまり世界と接続を果たした以上、彼女の魔力が尽きることはない。無限にも等しい無尽蔵。
「……とはいえ、認めなければならないでしょうね」
起き上がったレファクールは、口元の血を拭いもせず呟く。
彼女はやはり嘘をつかない。現実を否定することがない。
今のピトスを前にして、格闘で勝つことは魔人になった彼女でも難しいらしい。何度殴られても堪えるわけではないが、かといって、この状況のピトスに殴り勝つことは、どうやらできない。
――けれど、まあ、それだけだ。
レファクールは、まだ一度も魔術を使っていない。
「なるほど、さすが《日輪》の言うことですね。魔人になった私には、克服すべき運命がきちんと用意される――というわけですか」
人間を――もはや彼女にとっては下等種族でしかない人間を。
それでも、まだ乗り越えたわけじゃない。
元は彼女も人間だったし、そのままでは七星旅団に及ばないから魔人になったのだ。それが本来の目的ではなかったにせよ、それも目的のひとつではあったのだから。
その運命を乗り越えて――七星には勝てないという現実を乗り越えて、初めてレファクールは魔人として完成する。
そう、考えていた。
「魔力の扱いにも慣れてきました。そろそろ本気を出すとしましょう」
どこか負け惜しみのような台詞ではあったが、彼女にとっては苦し紛れではない本心だ。
魔人として、向上した能力を持て余していたのは事実だし、何より彼女の本領はあくまで魔物使い。その能力は一度も使っていない。
本領を発揮した印刻使いを、さすがに魔物使いも舐めすぎだったというだけのこと。
「下がれ――ピトス。前と後ろを交代だ」
アスタは言う。彼もまた、彼女が本気を全くだしていなかったことに気づいていた。
だからこそ、今の今まで援護に徹していたわけだ。まあ、それだけが理由でもなかったけれど。
ピトスは素直に戻ってきて、アスタの隣に並び立った。余裕でもなく、レファクールはそれを見送っている。
いや、彼女は準備しているのだ。
魔物を遣うのではなく、魔物を使うのが、《金星》レファクール=ヴィナの魔術だから。
そして――彼女の肉体を、魔術が変質させていく。
「――気合い入れろよ、本番はここからだ」
「もちろんです」ピトスは頷く。「今度はわたしが、アスタくんの背中を押す番ですね」
「……頼りにしてるよ」
「こちらこそ」
お互いのことは見ずに、けれど言葉で――心で意志を通じ合うふたり。
その目の前で、レファクールが姿を変えていく。
「……予想は、してたつもりだけどな」
呟くアスタは、目の前に現れた怪物にわずかな苦笑を零す。
そう。魔物使いの奥義を問うならば。
それは、自らが魔物になるということにほかならない。
そして直後。ふたりの目の前に。
いつかのように、再び――不死の鳥が姿を現した。
※追記※
活動報告、キャラデザ紹介そのよん。
満を持して天災。




