4-58『たったひとつ、願うこと』
この先に歩いて行けば、辿り着くだろうと確信していた。
奴はきっと自分を待っているはずで、ならば自分が会いに行くのを妨げるわけがない。
それは願望だ。本当のところ、奴が自分になんの感情も抱いていないのだとわかっている。
それでも認められないから――諦めるわけにはいかないから。
だって、それは自分に唯一残された感情だ。目的だ。生きる理由なのだ。それを否定することなんてできない。それを失ってしまっては、今度こそ本当に、命に意味がなくなってしまう。価値が消え去ってしまう。
それだけは、絶対に許すことができない。
自分の価値がなくなるということは。
すなわち、背負う全ての命の価値さえ消えてしまうということだから。
――果たして。その先に、彼女は待っていた。
やはりだ。思った通りだった。
奴が《七曜教団》なんて組織に所属していることは知らなかったけれど、それでも今だってどこかアンダーグラウンドに潜んでいることは確かだった。学院に入ったのも、アスタ=プレイアスにつき纏ったのも、それが奴に遭遇する可能性を最も高めると思ったからだ。
ようやく、会えた。
決して自分を待っていたわけではないのだろう。そこに目的があって、だからいたというだけだ。自分などまるで関係がない。そんなことはわかっている。
それでも。
ピトス=ウォーターハウスは、その言葉を口にする。
「――ようやく、見つけた……っ!!」
※
「ああ、貴女ですか。久し振りですね、元気にしていましたか?」
その女性は。
七曜教団が金星――レファクール=ヴィナは言った。片腕になった姿で。
その言葉の全てが癇に障る。てっきり「お前など知らない」程度に言われると思っていたが、覚えられていたとしても不愉快なことに変わりはなかった。
何が、元気にしていたか、だ。
――そんなわけがない。
「しかし、貴女がこの状況で、この場所にやって来るなんて。なるほど、さすがは《日輪》と言うべきでしょうか。あそこで貴女を生かした理由が、ようやく得心いくというものです」
「――黙れ」ピトスは首を振る。「貴様と、話すことなんて、ない」
「そうですか……、それは嫌われたものですね」
不思議そうに首を傾げるレファクール。全ての挙動が不愉快だ。
「貴女を育て、戦い方を教えたのは私だというのに。母として、愛情を注いでやったというのに」
「……何が、愛情だ……っ」
「こういうときは、恩知らず、とでも罵ればいいんでしょうかね。よくわかりませんけれど」
「ふざけるなあッ!!」
ピトスは吠える。煽られているのだろうか。だとすれば効果的だ。理性なんて一瞬で蒸発した。
残ったのは煮え滾る憎悪であり、研ぎ澄まされるのはただ復讐のためだけの思い。
だが。
「何が母親だ、何が恩だ! わたしの全てを、わたしの全てをめちゃくちゃにしておいて、どうしてそんなことが言えるッ!!」
「――何を怒っているのですか?」
レファクールに、挑発しているような考えは一切ないだろう。
彼女はただ本心を口にしているだけだ。完全に外れてしまった人間に、言葉で相対しようなどという考え自体が誤っている。
一度。ピトスの――パンの心臓を破壊したことだって。それが八つ当たりに近い感情だったとしても。
レファクールに罪悪感など一切ない。むしろ善行を積んだくらいに本気で思っている。
彼女にとって、人間のまま生きることなど冒涜以外の何物でもないのだから。その因果から、罪業から、苦痛から、せっかく救ってやった奴が文句を言うほうがおかしいのだ。
自分の論理が、自分にしか通用しない理屈であることを理解していながら。
それを絶対と疑わない彼女は、同じ論理を他者に適用することに、なんの痛痒も覚えない。
「あのとき死ぬ定めにあった貴女を、生かして、導き、力を与えたのはほかでもない私ですよ? まあ、《日輪》に言われたからではありますが」
「うるさい――うるさいうるさい黙れ……っ! わたしを殺そうとしたのはお前だっ! お前がわたしを殺したんだ! お前がわたしから全てを奪ったんだっ!! 偽りで生かしておいて、どの口でそんなことを言うっ!!」
「私は何もしていません」レファクールは首を振る。「あの町が滅びるのは定めでした。決まっていたことですよ。運命です。それを否定してはいけません。受け入れなさい。抗おうというほうが馬鹿げている。貴方にも、私にも――誰にとってさえ運命は絶対です。その絶対から逃れている人間など、《日輪》を措いてほかにはいません。消えた記憶を貴女に戻したとき、私は確かにそう言ったはずですが」
「――だか、ら」
もう、彼女の理屈を聞いていることに、耐えられない。
元より自分は、彼女を殺しに来たのだから。これ以上は知ったことか。
――殺してやる。
「うるさいって、言ってるんだ……っ!」
瞬間。消化しきれなくなった感情の爆発を、そのまま運動で表したようにピトスが駆け出した。それは幼い子どもの癇癪にも似た稚気だったが、ピトスほどの力を持つ者が行えば、充分な暴力として成立する。
怒りを、恨みを、憎しみを、黒く濁り切った感情の全てを拳に込め、復讐者は仇敵へと突き出した。
だが、忘れてはならない。
そもそも彼女に格闘の技術を仕込んだのが、いったい誰であるのかということを。
その師に、母に、ピトスは一度だって勝利を収めたことがないのだと。
「――忘れたのですか?」
殺意の凝縮されたピトスの拳を、レファクールはつまらなそうに睥睨する。
軽蔑さえない。それは心底から興味の色がない、それこそ道端の羽虫を視界に捉えたときのような視線だった。なんの感情も籠もっていない。
あっさりと、レファクールはピトスの一撃を躱す。
軽く身を捻るだけで。それだけで、ピトスの拳はあっさりと空を切る。無論それだけで終わるはずもなく、つんのめったピトスの延髄に、レファクールの手刀が痛烈に打ち込まれる。
勢いを利用されるような形で、ピトスの身体は吹き飛んだ。
迷宮の床に叩きつけられ、地面を転がっていくピトス。受け身さえ碌に取れていない。
「そんな戦い方を、貴女に教えた覚えはありませんが」
「づ――ぐ、黙れ……っ!」
首の裏の痛みと、平衡感覚が侵される不快感、そして地面に擦れた肉体の擦過傷が、ピトスの得た感覚の全て。
もちろん、その程度の負傷ならすぐに治すことができる。少なくともこの一点だけは、ピトスが明らかにレファクールに勝る点だ。レファクールに治癒は使えない。
ふらつきながら、それでもピトスは立ち上がった。
――まだだ。
と、そう自分に言い聞かせるかのように。
だがもちろん、レファクールにそれをぼうっと待っている理由などなく。気づけば、レファクールは立ち上がったばかりの彼女の目の前にいた。
振り上げるようなレファクールの足が、ピトスの顎に叩き込まれる。純粋な筋力でもって打ち上げられたピトスの腹部へ、さらにレファクールの拳が突き刺さった。
殴打とは、こういう風に打つものだと。そう、ピトスに教えるかの如く。
「――ぁ、っ――」
息が、全て肺から絞り出されていった。激痛が腹部を通じ、ピトスの全身を駆け回る。胃液の混じった唾液が、空気と一緒に喉の奥から飛び散った。赤い色もあったかもしれない。
そのまま、迷宮の壁に背中から激突するピトス。
なんとか頭は庇ったが、打ちつけた背中と肩のダメージは大きい。
「ぎ、ぇ……ぁ――がはっ!?」
そのまま地面に墜落したピトスは、それでも負傷部分に手を当て治癒を施す。
大丈夫だ。痛くても、苦しくても――痛々しくて見苦しくても。
それだけで死ぬわけじゃない。この程度では死なないことを、ピトスは誰より知っている。
「……呆れたものですね。本当に……これだから人間は醜いというのに」
呟くレファクール。その怖気の走る思想はともかく、もはや返答さえピトスにはできなかった。
悟ってしまったからだ。なまじ鍛えられた戦闘者としての感覚が、現実よりも先に彼女へ絶望を伝えるのだ。
彼我の間に横たわる、埋められなかった純粋な力量の違い。互いに《肉体》に干渉する魔術師であるからこそ、その運用技術の格差がはっきりとわかってしまった。
――勝てない。どう足掻いても及ばない――。
「んな、こと……っ」
だが。それでもピトスは立ち上がる。そんなこと、初めからわかっていたのだから。
レファクール=ヴィナは、ピトス=ウォーターハウスよりも強い。
「……関係、ないって……いうんですよ……っ」
「いったい何がしたいのか、私には理解できませんね」
血を吐き、肉を打ち、骨が軋み、それでも抗う理由がどこにあるというのか。
所詮、こんな復讐に意味はなかった。たとえレファクールを殺しても、失ったものは戻ってこない。犯し尽くされたピトスの心が、それで癒えることもない。
ある意味で、ピトスは幸運でもあったのだ。
理不尽な死の運命を、ただ生まれ持っただけの才能で覆し、こうして生き残っているのだから。
仇であるとはいえ、この歳までピトスを育てたのもレファクールである。戦う技術を――生きていくための技術は仕込まれたし、思想的な影響は何も受けなかった。
真実を聞かされたのなら、そこで得たものだけを手に、彼女の元を去って自分の人生を生きればよかった――合理的に考えるのなら、それで済むことだったのだ。
確かに、貰っていたはずの愛情は嘘だったのかもしれない。
だがそれは嘆くことでもないだろう。レファと、そう愛称で呼び慕った彼女は、元からピトスには厳しかった。特別に冷たくはなかったが、決して温かくもなかった。
彼女は彼女のまま、ただ与えられた《ピトスを育てる》という役目を全うしただけのこと。
そこに愛情を、錯覚したのはピトスのほうである。目には見えない、確かなことなんて初めからない人間の感情を、存在するものだと勝手に勘違いした。底なしの間抜けだっただけだ。
――だからピトスは、愛情なんて信じない。
それは錯覚だ。現実じゃない。愛される容姿を生まれ持って、愛される振る舞いを学習したのも、全てはその錯覚を利用するためでしかない。
愛情なんて嘘だ。優しさなんて虚構だ。友情なんて存在しない。親愛なんて勘違いで。感情なんて人間生物の欠陥だろう。レファクールの言う通り、それを持たない魔物のほうが、生物としてよほど優れている。
なら、それでよかったじゃないか
かつて利用されたように、今度は自分のために、全ての感情を利用してやればいい。
慰めにもならない復讐なんて忘れて、取り返せない過去など忘れて、生きていくことだってできたはずなのだ。
それなのに。
どうして、それができなかったのだろう。
なんの意味もない復讐に、身を投じているのだろうか。
――どうしてこうも、馬鹿なのか。
「お前に、なんか……理解できるわけ、ない……」
ピトス自身にもわからないのに。レファクールにわかるはずもないだろう。
レファクールもまた、ピトスを理解しようなどと思っていない。理解を拒否され続けてきた彼女は、同じように他者を理解しようとする機能が欠落している。
「誰にも……わかるわけ、ない……っ!」
「――そろそろ、月が最高まで昇る頃ですか」
どこまでもどうでもいい、それこそ天気でも語るかのようにレファクールは呟く。
それで構わない、とピトスは思った。
「時間ですね……そろそろ諦めてはくれませんか。貴女の治癒能力は凄まじい、殺し切るのは私でも骨です。ですが、だとしても貴女では勝てないのだから。もう、いいじゃないですか」
「うるさい、って……何回言ったら理解するんだよ」
もうこれ以上、わかりきったことを聞かされるつもりはなかった。
そんなことは知っている。だからこそ、そんなことは知ったことじゃなかった。
――なんとなく、今になって、理解できたような気がする。
結局、ピトスは復讐になんて興味がなかったのだ。
そんなものはただの言い訳、自己を正当化するための呪文でしかない。
復讐のためなら――死んだ誰かのためならば。
それに失敗してピトスが死んでも、赦されると思っていたのだろう。
だからこうして、勝てるわけがないとわかっている戦いに、人生の全てを捧げてきた。勝ち目のない敵の前に、こうして立ち塞がっている。
――要するに。
わたしは、ただ死にたいだけなんだ――。
そうしてピトスは、再びレファクールに向かっていった。
勝てるはずがない相手に立ち向かい。奇跡なんて起きるはずもなく。
ピトス=ウォーターハウスは、当たり前に敗北した。
殺してさえもらえなかった。
※
地べたに、それこそ襤褸のようにピトスは横たわっている。
なんの言い訳の余地もない。勝てない相手に挑み、当たり前に敗北した。
にもかかわらず、生き残ってしまった。
なまじ、治癒魔術師としての技量が高すぎるせいだろう。即死でさえなければピトスは生き残ってしまう。別に、患部に手を当てなくたって、治癒は半ば自動で発動する。自分の肉体ならば、彼女はほぼ完全に把握していた。
無論、それでも殺すつもりになれば、レファクールには可能だっただろう。
彼女は最後まで素手による攻撃しか行わず、本領たる《魔物使い》としての能力を一切見せなかった。
この場所にいるということは、何かしらの目的があるということで。そのために、力を温存しておいたのだろう。ピトス如きは殺さずとも、ここで行動不能にしておけばいいと判断されたに過ぎなかった。この先、障害になることはないと判断されていた。
ピトスにとっての仇敵は。
ピトスを、敵とすら認識していなかったのだ。
「が――ごほっ、ぁ……ふっ」
咳き込み、唾液が散り、血液が舞った。
いくら治癒が可能とはいえ、ああまで痛めつけられては傷も残る。効果は高くとも治癒魔術は万能じゃないし、何より術者であるピトス自身が、もう治そうという気力を失っていた。
――また死ねなかったなあ。
と、ピトスは思った。死にたいなんて、自分が思っていることにも気づいていなかったくせに。
本当に、いったい何をしているのだろうか。
これから何をすればいいのだろうか。
もう――本当に何もない。復讐にも自殺にも失敗してしまった。
無様すぎる。笑い話にもならない。それこそもう、言い訳さえ作らずに、自分の命を絶ってしまうほうがいいのかもしれない。
――そんなこと、できるはずがないとわかっているのに。
自分の力だけで死ねるなら、たぶんもう死んでいた。そんな勇気をピトスは持っていない。
誰か――誰か自分を殺してはくれないだろうか。誰でもいい。もうこれ以上、生きているのは嫌だった。苦しみ続けるくらいなら、ここで終わってしまいたい。
都合のいい奇跡なんて願わない。
けれど、せめて。ここで悪魔に出会えることを、ピトスは祈りたかった。
神が奇跡をくれないのなら、悪魔に願うしかなかったのだ。
もう、何もかも嫌だ。みんな嫌いだ。全てを呪いたい。何よりわたしが死んでしまいたい。
――たったそれだけの願いくらい、誰か聞いてくれたっていいじゃないか。
果たして。その願いは、ある意味で叶うことになる。
そのとき聞こえた足音の主が、悪魔であることをピトスは願った。
顔を上げる。もう動くことさえ億劫だが、それでも自分を殺す相手の顔は見たい。レファクールでないのなら、誰だって同じことだけれど。
そして顔を上げたピトスは、しかしその足音の主を見た瞬間に顔を歪めた。
最悪だった。ここで、この顔だけは絶対に見たくなかったのに。
それは確かに悪魔だった。けれど、きっとピトスを殺してはくれないのだろう。それどころか、もっと苦しい場所に彼女を引きずりこんでくる。よりタチが悪い。最悪だ。こんな皮肉があっていいのだろうかと思う。
――どうして。
どうしてここで現れる。
どうしてこの男は、いつだって都合のいいときにしか顔を出さない――。
「――ぼろぼろじゃねえか。どうした、らしくない顔して」
「どうして……、あなたがここにいるんですか」
「そりゃこっちの台詞だけどな」
苦笑する男。気の抜けた、なんだか柔らかな笑みだった。
それが、少しだけ意外だったし、なんだか少しだけ憎たらしい。
こっちはこんなに苦しんでいるというのに。何を解放されたみたいな顔をしているのか。そもそも女の子がこんなに傷つけられているのだから、もうちょっと心配そうにしたっていいではないか。
「来てたのか、お前。……セルエには、秘密にしてくれって言ったと思うんだけどな」
「シャルさんと、ウェリウスさんも来てますよ」
「あいつの差し金か……。本当、予想外っていうならあいつがいちばんだよ。なんであんなのが学院にいるんだっつーの。――ほら」
未だ地面にへたり込むように座ったピトスへ、男が手を差し伸べる。
だが、その手を取ることがピトスにはできなかった。それは許されないと思った。
首を振り、俯いて少女は言葉にする。
「放っておいて……くれませんか」
「断る」即答だった。「こんなところで、こんな状況のお前を放っとけるわけないだろ」
「……関係ないじゃないですか」
「あるよ」
「ありません」
「ある」
「なんなんですか、もう……」
その声を聞くのが嫌だった。もう許してほしいとさえ思う。
いつもは斜に構えたことばかり言うくせに。どうしてこういうときばかり構ってくるのか。
腹立たしい。もうやめてほしい。お願いだから勘弁してほしかった。
「……じゃあお願いを変えます」
だから、ピトスは言った。
そういえば、この男には以前、助けてほしいならそう言えと、告げられたことがあった。そのことはよく覚えている。
言えば助けてくれるなら。願えば救ってくれると、そう言うのなら――。
「――わたしのこと、殺してくれませんか……?」
「何、言ってんのかわかんねえんだけど」
「助けてって言えば助けてくれるんですよね? なら、わたしを救ってくださいよ。もう嫌なんです、何もかも。これ以上、生きていたくなんてない」
「…………」
「あなたに殺されるなら、それで納得できますから。だからお願いします――わたしを、もう解放してください。もう……許してくださいよ」
「……似たようなこと、さっき俺も言ったな」
希う少女に、どこか苦笑を交えたように青年は言った。
意味がわからず、少女はわずかに顔を上げる。顔を上げてしまう。
その顔を正面から見てしまう。
「悪いが、それも断るよ」
「だったら、それこそ放っておいてください」
「それも嫌だ」
「……さっきからいったい何を言ってるんですか。だったらいったい、なんでここにいるっていうんですか……!」
苛立ちだけが募っていき、思わず言葉尻の険しくなった少女に。
青年は、笑顔を見せてこう告げた。
「――友達を、助けるために決まってるだろ」
ふざけるな――と、そう思った。
けれど、怒る気力もない。
「友達だなんて……馬鹿馬鹿しいこと言いますね。わたしが、貴方のことを友達だと思っているとでも?」
「……きついコト言うなあ。普通に傷つく」
「目的があったから、だから近づいたに決まってるじゃないですか。七星旅団の一員のところになら、普通なら手に入らない犯罪者の情報も流れてきやすいだろうって……それだけです。献身的に治癒されて、いい気にでもなってましたか? あなたのことなんて――わたしはなんとも思ってない。使える駒だから、利用してやろうと近づいだけです。強い魔術師なら助けてくれるかもと思って、恩を売っていただけです。それなのに、ころっと騙されて……馬鹿みたい」
「……、」
「もうわかったでしょう? わたしはそういう女です。復讐のために近づいて、先ほどそれにも失敗してきたところですから。もうわかったでしょう? 幻滅したでしょう? だから――もう殺せとか言いませんから、せめて放っといてくださいよ」
「……お前」
がりがりと、青年はバツが悪そうに頭を掻く。
これで見放してもらえただろうと、少女は思った。
けれど。
「――んなこと、俺だって初めから気づいてたっつーの」
「え……?」
「そりゃそうだろ。甲斐甲斐しく世話を焼いて、なんの目的もないのに傷を治してくれる女の子なんかこの世にいねーよ。そこまでボケてないっての」
「……な、なら」思わず、狼狽えた。「ならどうして、わたしを……」
「どうしてって訊かれても。――当たり前だろ、そりゃ。誰だって目的があって生きてるよ。他人のためだけに動く奴なんていない。俺だって自分がやりたいことをやるって――そう決めた。さっきだけどな」
「な……っ」
「別に、それでいいじゃんか。どんな目的があろうと、俺がお前に助けられてもらったことに変わりはないだろ。俺は感謝してるし……助けてもらった分、今度は俺が、お前の力になりたいと思ってる。なんかおかしいか?」
「い……いや、そういう言い方をすれば、それはそうかもしれませんけど。でも――」
「そうだな。確かにお前と――ピトス=ウォータハウスと俺は、本当は友達じゃなかったのかもしれないな。でもさ――それでも」
青年は――アスタ=プレイアスは。
もう一度、少女に手を差し伸べて微笑む。
「――でもパンは違う。アスタにとって、お前は、この世界でできた最初の友達だ」
「お……思い、出して……?」
「忘れたことなんかねえよ――それでも確かに、知ったのはさっきだな。だって、マジで死んだと思ってたんだぜ? たとえどんなに似てたところで、本人だなんて思わねえよ」
でも。
「でも――ようやく見つけた」
「……っ」
「久し振り、パン。あのとき、俺を助けてくれてありがとう。お前のおかげで、俺はここまで生きてくることができた。お前がいなければあのとき死んでた。だから今度は、俺に、お前を助けさせてくれよ」
「……恩返し、です、か……」
「それもあるけど、それだけじゃないな。――そうだろ、ピトス? 俺は、お前のことを知ってるよ。お前が優しい奴だって知ってる。いや、お前がそれを否定しても、俺はお前が優しいって決めつける」
――治癒魔術はな、誰より優しい奴にしか使えないんだ。
アスタは、ずっとそう思っていた。これからも、そう思い続けるだろう。
「傷ついた奴を、ずっと治してやってただろ。オーステリア迷宮では、合成獣を前にしてまで俺たちを庇った。タラス迷宮ではシルヴィアの代わりに犠牲になろうとまでしていた。魔競祭の間中、ずっと俺を助けてくれただろ。――ほら、優しいじゃねえか。何が復讐のためにだよ、ぜんぜん徹底できてねえじゃねえか」
「だ、だから……それは」
「お前には、初めから復讐なんて言葉は似合ってねえよ。あんなに明るくて、天真爛漫で、俺みたいな奴を笑顔で受け入れてくれた奴がさ、そんな言葉は使わなくていいって。それでも望むなら、やっぱりその背中を、俺が押してやる。俺が押してやりたいんだよ。つーか、何もお前ひとりで背負い込むことじゃねえだろ。あいつに……《金星》に因縁があるのは俺もいっしょだ。ならふたりでやろうぜ? 復讐だなんて言う必要はない。借りっぱなしは癪だから、ここらで返してやろうってだけだ。単純だろ? ――むかつく奴を、ぶっ飛ばしに行くだけだ」
「む、むかつくから、って……」
「それだけでいいんだよ。俺も行く。お前と行く。――だから、また、俺を助けてくれ、ピトス。お前が助けてくれた分、俺もお前を助けるから」
「どう、して……」
「友達だから。――友達に、なりたいからだ。あのとき、パンが、俺に手を差し伸べてくれたみたいにさ。俺が最初に憧れた――かっこいい友達みたいになりたいんだよ」
貸し借りではない。押しつけて、引っ張って――そんな身勝手を受け入れる言葉。
友達なら。当たり前だろうというだけの。好きだから。仲よくしたいから。助けてやるし、助けてもらう。そこに理屈は求めない。
魔法の言葉みたいだった。
つまりは毒のようだった。
この男は、これまで悩んでいたことの全てを、馬鹿馬鹿しい言葉で切り捨ててしまった。飾りをはぎ取り、単純なモノに変えてしまった。
ふたりで返そうという言葉の通り。ピトスが抱えていた重荷を、半分こにして受け取ってくれた。
たったそれだけのことを願っていたのだと、果たして彼は気づいてくれているのだろうか。
――安い女だ、とピトスは思う。
死にたいだなんて言っていたくせに。たったこれだけのことで、もうあっさりと意見を翻してしまった。
死にたくなくなってしまった。この言葉を、もっと聞いていたいと思ってしまった。
結局、そういうことなのだろう。
利用するために近づいた――だなんて、そんな言葉のほうが嘘だ。
自分を誤魔化していただけだ。
だって。きっと、初めて会ったあのときから――もう。
「――本当に、昔から、めちゃくちゃばっかり言うんだから……」
そして。少女は青年の手を取った。
いつかのように、初めての友達の手を取った。
「……助けてください、アスタくん」
「ああ。――だから代わりに、お前が俺を助けてくれ、ピトス」
「はい……っ」
目じりに溜まっていたものを拭う。前を見るのに、それは邪魔だ。
立ち上がる。もう留まらない。気合いを入れるように、ピトスは自分の両頬を強く叩いた。
「――ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です。ちょっと弱ってましたけど――今はもう、大丈夫です」
「よかった。それじゃあ――行こうぜ。この先にあいつらがいるんだろ」
「そうですが……あの、勝算はあるんですか? 助けるとは言いましたけど、見ての通り、わたしではレファクールには……」
「それこそ、心配することじゃないさ」
いつもの外套を翻し、一歩を前に出てアスタは言う。
その背中が、あのときよりずっと大きくなっていることにピトスは気がついて。
「――俺は、最強の七人のうちのひとりだ。あの程度の魔術師、敵じゃねえよ」
そう、アスタは断言してみせる。背中で語ってくれている、ということか。
思わず吹き出してしまうピトスだった。だって、彼がこちらに背を向けているのは単に、こちらに顔を見せないためだとわかったから。強がっているだけで、本当はそこまで自信を持っていないと知っているから。
けれど。それでも――彼は背中を押してくれる。背中を押しに来てくれる。
――あれから、どれくらいがんばっていたのだろう。
わたしのほうが進んでいたつもりが、いつの間にか追い抜かされちゃったな……と。
もちろん、それに甘んじるつもりはないけれど。
「頼りにしてます、アスタくん」
そう笑って、彼の隣にピトスは立った。
並んで歩きたいと思ったから。
いつか恋をしたその姿を、隣で見ていたいと願ったから。
叶えるために、歩き出そう。
感想、返信が滞っていて申し訳ありません!
全て読ませていただいています。ありがとう……ありがとう……!
励みです。だからもっとくれてもいいんだぜ!
というわけで四章最後、お付き合いどうぞ。




