4-50『それぞれの戦い』
長いです。
エウララリアはひとり、護衛の人間も伴わず駆けていた。
というと、実は正確じゃない。
人影は確かにひとつ分だ。身分の問題さえ考えなければ、護衛などむしろ足手纏いになる程度の実力を彼女は持っている。
王家の血筋は伊達じゃない。
それでも、常時ならあり得ない事態だったろう。いくら兄である王子が出払っているとはいえ、騎士のひとりも王都に残らないはずがなかった。
――呑まれたのだ。
騎士のほぼ全てが詰め所ごと。謎の光に呑まれて消えた。
おそらくは町民も犠牲になっていることだろう。第一位階の《魔導師》――ユゲル=ティラコニアの「安心しろ」という言葉がなければ、それだけで恐慌状態に陥っていても不思議じゃなかった。
「それ自体は害のあるモノじゃない。敵が用意したものでもない。奴らは、初めからこの場にあったモノを、そのまま利用しただけだ」
というのがユゲルの言葉だった。
彼は続けて、
「――呑まれた人間がどこにいるかもわかっている。保護はした。行動の自由はなくなっただろうが、とりあえず死にはしない」
とんでもないことを、あっさりと、なんでもないことのように言う男だった。
というか、そんな対処ができるなら、こういうことが起こり得ると知っていたのではないかとエウララリアは思ったのだが、それでもユゲルがいなければ、本当にどうなっていたかはわからない。口には出さなかった。
にもかかわらず、ユゲルはエウララリアの表情を読んだかのように、
「――知っていたわけじゃない。当たり前だろう。予測がついていたら、もう少し対処はできたし、相談も報告もできた。俺にできたのは、コトが起こってからの対症療法くらいだ。予想外だよ、この事態は」
「いえ……別に疑ってはおりませんが」
「そうか。――なら王女殿下、貴方にしかできないことがひとつある」
「私に――ですか?」
「ああ。……この分だと、たぶん俺についてないほうが安全だろうしな」
――知り合いの魔力を感じてな。
ユゲルは言った。この結界空間の中で――敵に支配された空間において――遠くの人間の魔力を感知し、個人まで特定する辺り、さすがとしか言いようがない。いくらエウララリアが王家の膨大な魔力を継承し、本来の人間には備わっていない異能まで所持しているとはいえ、それでも伝説の旅団の一員には及ぶべくもない。
彼の判断に従うのが、結局のところ最善だ。
――そして、エウララリアは単独行動を決意した。
とはいユゲルも、彼女をそのまま投げ出したりはしない。ひと気がなくなり、代わりに魔物が蔓延るようになった王都の城下を走るエウララリアの目前には、道案内兼護衛が確かにあった。
それは、一枚の紙片をヒトガタに切り抜いただけのモノだ。
頭があって胴があり、手足があって、そしてそれだけ。高さにして十センチ少々といったところだろうか。中央にはエウララリアが見たことのない文字が記されており、それがふよふよと宙を飛んで彼女を先導する。
ときおり止まったり、なぜか同じ道を走ったり、まるで意志があるかのように飛ぶ紙のヒトガタの後ろをついて行くだけで、驚くことにエウララリアは一体の魔物とも遭遇しなかった。
薄暗い夜天の結界の中を、仄かに輝くヒトガタが導いてくれた。
暗さは、隠れ潜む分にはこちらの助けにもなっていた。
ときどき、それがくるくると地面に円を示すように回ることがある。
そこに魔術的な仕掛けが施されていることを、エウララリアの魔眼は見抜いていた。誰かしらの魔力と、それによって描かれた常人には見えない魔術陣の存在である。
いかなエウララリアの魔眼とはいえ、その位置をこうして式紙――ユゲルはそう呼んでいた――に示されなければ、存在には気づけなかっただろう。それほどに完璧な隠蔽偽装が施されている。
ユゲルが、彼の式紙がその場所を示すことができたのは、何も彼がこの工作を見抜いたからではない。
その逆である。この工作は、ユゲル自身がこっそりと施していたものだった。
いかに第一位階魔術師とはいえ、同じ魔導師の位階に位置する《月輪》ノート=ケニュクス全力の結界を、内部で巻き込まれながら後出しで相殺するなど不可能だ。
あらかじめ、王都に仕込みをしてあったということである。
本人は「こんなことに使うことになるなんて考えていなかった」と言うが、いくら役立ったとはいえ、王家にも秘密裏に街に仕込みをしていたことに何を言えばいいのやら。エウララリアにはわからなかった。一応、王国法に照らし合わせても違法の判断は下されないだろうが、そういう問題だろうか。
「心強くもありますが、同時に恐ろしくもありますね、実際……」
全国に十名いる《魔導師》だが、その大半は研究職としての魔術師であり、確かに強力な魔術を使えるとはいえ、戦闘は決して本領じゃない。
だがユゲル=ティラコニアは違う。
七星旅団の一員である彼は、一流の冒険者――戦う者として活動していた時期がある。魔術として最高の位階にある人間が、戦闘行為にすら精通しているという事実は、言ってしまえばそれだけで恐怖の対象だ。
そして、それはユゲルに限った話ではない。
七星旅団という魔術師集団にとって最大の特徴――あるいは問題と言い換えてもしれないが――それは、七人全員が、単純に戦って強いという点だった。
それも異常なまでに。生きながらに伝説と呼ばれているのは伊達じゃない。
七星旅団は五大迷宮の一角を攻略したのち、一度、冒険者としての活動を休止している。
彼らは以降、冒険者としてではなく兵士、戦力として国防に携わっていたのだ。ほんの短い期間ではあるが。彼らの名が一躍、冒険者の間に広まったのは、もちろん五大迷宮のひとつを攻略した実績からだ。だが、彼らを真の意味で有名にしたのは、どちらかと言えばその後の傭兵活動のほうであるように思われる。
たとえば《紫煙の記述師》というアスタ=プレイアスの二つ名は、彼の能力からつけられた名前だ。逆を言えば迷宮ではなく、もっと広い世界で戦う姿を見られたからついた名前だと言える。
その戦いの中で王国に有用性と忠誠心を示した直後、彼らは旅団を解散して個人に戻った。その直接の原因が、旅団員のひとりの死亡であることはエウララリアも聞いている。
だが――どうなのだろう。
確かに、それは彼らにとって予想外の事態ではあったのかもしれない。それを理由に解散したというのも嘘ではないだろう。
しかしエウララリアは思うのだ。もしも。もしあのとき、ひとりが亡くなっていなかったとしても。
――七星旅団は、自主的に解散していたのではないだろうか。
そんな風に思えてならない。
なぜなら。もし仮に、あのまま七星旅団が解散していなかったら。そのまま七人で活動を続けていたら。
彼らは、国によって強制的に解散させられていた――いや、悪ければ暗殺されていたのではないのかと、エウララリアは思うのだ。
もちろんエウララリアにそんな意志はない。そんな話が上がっていたと耳にしたこともないし、もし聞いていれば絶対に止めていた。
だが、それにしたって。
彼らはあまりにも強すぎる。
単独でならまだいい。結局は個人だ、数の力で抑えられる。
だが、その逸脱した力が、七つ揃えられていたらどうだろうか。エウララリアには自信がなかった。
もし七人が牙を剥いたとき。
果たして、王国はその力に対抗できるのだろうか。
「……考えるだけ、無駄ですか」
あえて声に出して呟き、エウララリアは軽く首を振った。
意味のない仮定だ。七星旅団は、もう二度と七人が揃わない。そもそも彼らが、国に刃向かうことなどない。こうして力を貸してくれているのに、その忠誠を疑うなんてあってはならない。そのことが不和の芽になっては笑い話にすらならない。
そもそもエウララリアだって、七星のひとりが欠けたことを何より悲しく思っているのだ。仲間である彼らを前に、それを不用意に口にはしないけれど。
七星旅団の四番目。
キュオネ=アルシオンは、彼女にとっても年の近い義姉のような、友人のような存在だった。間違ってもその死を喜んだりできない。
「そんなことを考えるよりも、役目を果たすほうが先ですね……」
もう一度かぶりを振り、それから瞳に力を込めた。
魔力ならぬ能力。魔術ならぬ機能。
彼女が生まれつき持つ《破戒》の異能は、魔力の結合を強制的に解除する効果を持っている。
オーステリアを訪れたとき、管理局に与えられた部屋の結界をひと目見るだけで破戒したように。
ただ、その瞳で見つめるだけで。一切の魔力を使わずに、魔術を文字通り破戒する力を彼女は持っている。人や世代によって効果は違うものの、アルクレガリス王家には、ときおりこういった《魔眼持ち》が生まれることがあった。今代ではエウララリアがそうだ。
理屈によらない異能力。
吸血鬼が血を通じて魔力を得るように、鬼種が外見によらぬ強大な膂力と魔力を持つように、あるいは森精種が精霊と対話できるように。
ほかの人類種にはない機能を、器官をエウララリアは持っている。
だから、なぜ魔眼で魔術を破戒できるのかなんて、エウララリアにさえわかっていない。魚が泳げるのと、鳥が飛べるのと同じだ。
できるから、できる。
そう言う以外には、ない。
「――――…………っ!」
そして、エウララリアは慎重に、場の魔力を断ち始める。
ユゲルが作った魔術陣は破戒できない。それを阻害している結界の影響だけを、丁寧に破戒する必要があった。そういった匙加減は、エウララリアも苦手とするところだ。魔眼の制御は難しい。
だが、やらなければならないことだった。
本当は王都を覆う結界そのものを破戒できれば最善だったのだが、彼女の魔眼とて万能じゃない。魔導師渾身の結界までは破戒できなかった。
今、ユゲルとノートは、お互いに空間の支配権を奪い合っている。
その占有率は、ユゲルが二割でノートが八割……と、甘く見てもそのレベルの偏りがあるだろう。一対九かもしれない。
だがこうして、街の随所に仕掛けられたユゲルの魔術陣をひとつずつ解放していけば、やがて天秤の傾きは少しずつ変わっていくはずだ。
エウララリアにできるのはその助けだけ。
あとはもう、ユゲルに託すしかない。
「……でき、ました……っ! 次へ案内してください」
やがて、数分が経った頃だろうか。結界の影響から、魔術陣を切り離すことに成功する。
魔力を消費しないとはいえ、決してノーリスクの力というわけでもないのが魔眼だ。元より頻繁に使えるものでもないし、普段以上の精密な操作を必要とされていた。体力と精神力を大幅に削られている。
それでも泣き言など言えない。エウララリアはユゲルの式紙に、次の場所への案内を頼む。
いったいどういう仕組みで動いているのか。まるでその言葉を理解したみたいに、仄かな光を放つ式紙が再びふわふわと進み出す。
王家の人間の義務として。またこの国の人民のひとりとして。
エウララリアは王都を駆けていく。
それが、自分にできる最善だと信じながら。
※
斬撃が疾る。空気さえ断つほどの鋭さでもって。
だが何より驚くべきは、その一閃が剣どころか刃さえなく、ただ徒手空拳にのみよって為されたという事実だろう。
武具に愛された男。そうまで表される武人は、けれど得物を持たずして最強たり得る。彼にとっては、己の肉体こそが最強の武器だから。
グラム=ペインフォートの一生は、常に戦いの中にあった。
戦わなければ――強くなければ生き残れない。生きるためには強さが必要で、強さとは勝利を得なければ決して身につかない。だが勝利を得るには強さが必要で――その矛盾を、乗り越えた者だけが勝者たり得る。
その意味で言うのなら、グラムは生まれついての弱者だった。
魔術に対する致命的な適性のなさ。アスタのように《決して使えない》というレベルではないにせよ、才能に強く依存する魔術の世界において、グラムという男は弱者であることを初めから決定されていた。
だが。それでも彼は、敗者になることを受け入れなかった。
魔術が下手だ。それは仕方ない。だが魔術とは所詮、代替可能なひとつの手段でしかなく、つまり使えないのであれば別の何かを見出せばいい。
だからグラムは武術を修めた。
魔術師でなければ戦う者ではないというほどの世界で、彼は一切の魔術を修得しないまま、武術家として《最強》の称号に手をかける。
その執念は、もはや少しでも魔術に頼る人間では決して届かないと言われる領域に達していた。
負ければ死ぬ。生きるためには勝つことだ。
その信念を疑わぬまま、彼はその身に不敗を体現してみせた。
生涯不敗の、最強の武術家。
そうでもなければ、たったひとりで王女の護衛には選ばれない。
彼はあくまで弱者だ。武術に関してさえ、本当のところ、誰もに謳われるほどの才能があったわけじゃない。ただ誰よりも、世界の誰より武術に時間を費やしただけ。努力を修めてみせただけのこと。
不敗の男は、自分が弱いということを知っている。
だから世間での評判に比して、彼の戦い方は実に堅実だった。相手のできることを見抜き、それを覆す方法を考える。魔術だって決して絶対じゃない。恐ろしいのは《何ができるのかがわからないから》であって、理解できる範疇にまで落としてしまえば魔術師など恐るるに足らない。
本当に恐ろしい魔術師とは、何をしているのかがわからないから恐ろしいのだ。
――つまり今、目の前にいる敵のような。
「…………」
がぎん。という、まるで刃物同士がぶつかるような音が響いた。特段、それは珍しい音ではない。疑問に思うようなことでは本来ないのだろう。
この場に刃物が一切ないということを無視すればの話だが。
一方はグラムが放った斬撃だ。手刀が宙を裂き、物理的な威力、切断力を伴って奔る。武術をそのまま魔術の域にまで高めた一閃だ。その威力は、一撃で人間の首を落として余りある。
だがそれも、当然の話ながら、相手に届かないのであれば意味がない。
宙を進んだ斬撃は、目の前の男にぶつかるより先に、まったく正反対の軌道で現れた斬撃に相殺された。
男は――《火星》は、何もしていない。ただ立っているだけ。そもそも今の一撃は、おそらくグラム以外の人間には不可能な攻撃だった。
似たような攻撃を魔術で再現することはできるだろう。切断力を持った魔弾を使う魔術師が、存在しないというわけじゃない。
だが、完全に同じ攻撃となれば話は別だ。
威力も性質もまったく同一。ただ軌道だけが正反対になるように、どこからともなく唐突に出現し、グラムの攻撃の一切を封殺する。
「――引き分けの強制」
火星が笑う。自分の魔術のネタを、なんの躊躇もなく漏らす。
その程度、戦況には一切の影響がないと言わんばかりに。
「それがオレの魔術だ。どんな攻撃だろうと、自動で迎撃してくれる。何をやったところで無駄だぜ?」
「……浅いな。底が知れるぞ、魔術師」
グラムは軽口に取り合わないが、言葉は返した。鵜呑みにするつもりはないが、それでも火星が真実を口にしているのだろうことは察していた。
相手が情報を漏らしてくれるのなら、聞いておくに越したことはない。それをどう判断するのかはグラム次第だ。
無敵の魔術などない。あり得ない。奇術には必ずタネがあり、それさえ割れればあとは破るだけだ。
「…………」
グラムは下がり、手刀による斬撃を飛ばしながら、地面に落ちている瓦礫のひとつを手に取ると、それを投擲した。
グラムの腕をもってすれば、ただの一投が必殺の威力を持つ。
だが瞬間、虚空から――そうとしか表現できない――突如として現れた石礫が、その攻撃を相殺する。どこからともなく現れて。まるで、初めからそうなることが決まっていたかのように。
「だーから、意味ねえって――」
繰り返して言う火星。だがグラムは取り合わない。通じない可能性など初めから考慮の上だった。ただ試しているだけだ。当然、終わりじゃない。
次の瞬間、グラムは地を蹴って加速した。石畳に舗装された地面が、グラムの踏み込みによって砕けて舞う。
彼我の距離を一瞬で詰めたグラムは、その腕で――素手で《火星》に殴りかかる。隔絶した身体能力に、《火星》は反応さえできていない。
だが――それでも意味はない。
殴打が、蹴撃が、目に見えない圧力に阻害され、相殺される。殴ったグラムのほうが、むしろダメージを受けかねないくらいだ。
それでもグラムは攻撃をやめない。モノを投げても駄目、肉体による攻撃も駄目――それなら次を試すだけだ。グラムはその右足で、互いが立つ地面を暴力的に踏み抜いた。
震脚。
破壊的な圧力が、魔力がグラムから迸り、地面は破壊され、それでも溢れ出る威力が火星の肉体を空中に投げ出す――はずだった。
ごん、という重い音。
グラムの震脚は確かに地面を割り砕いた。割り砕いたが、それだけだった。それ以外の影響が一切消えている。いったいどんな法則に従えばその結果に至るというのか、運動エネルギーは火星の肉体にまで届かない。一切の影響を及ぼさない。
「――言ってんだろうがよ」
直後、返すように火星の脚が振るわれる。それなりに鍛え上げられているのだろう、それは攻撃と呼ぶに差し支えないだけの一撃だったが、いくら隙を晒していてもグラムには通じない。避けるのも可能だっただろう。
だがグラムは回避しなかった。
腹筋に力を込め――ただそれだけで魔術師の、魔力によって強化された肉体の一撃を受け切ろうとする。
鍛え上げられ、さらに魔力によって性能が向上したグラムの肉体は、それだけで鋼の如き強度を誇っている。元より魔術師は肉体の魔術抵抗が高いものだが、グラムのそれは常軌を逸していた。素の防御力で言うのなら、グラムを越える魔術師はいるまい。
下手に肉体で攻撃などしては、逆に自らを傷つけるレベル。
だが。それでも。
やはり火星は傷を負わなかった。
「……つまらねえなあ、おい」
蹴りの一撃に、グラムが押されて滑るように下がる。致命的とは言わないまでも、腹を蹴り抜かれた分のダメージは確実に通っていた。
だが――防御力で上回るはずのグラムが、ここまで押されたという事実は大きかった。
「こっちのやることに対応してその場を凌ぐだけか、おい! こっちゃあ期待して来てんのによ、それはあんまりってもんじゃねえの!?」
グラムが術式を突破できないことが、心から残念だとでも言わんばかりに。本当に、ただ戦いに来ているだけだという風に《火星》は吼える。
一方、グラムは答えない。その言葉に応える理由を持たなかった。
思考なら重ねている。わかったことならいくつかあった。
一。攻撃の威力や数は関係ない。それが自身に害を及ぼすものであるのなら、なんであれ自動的に、まったく同じ現象で迎撃する。
二。武器だろうが小石だろうが関係ない。物理的な存在すら再現して相殺する。
三。その間も《火星》は攻撃可能。しかも相手が肉体で攻撃した場合、こちらの防御力を攻撃だと認識して相殺し、相手の攻撃が一方的に通る。実質的な防御力無視だ。
四。攻撃を相殺する以外の機能は一切ない。つまりどんな行動であろうと、それが《火星》に害を与えないのであれば阻害されない。
五。震脚で瓦礫さえ散らなかった点と、こちらの防御力まで相殺された点を鑑みるに、こちらの意志は関係がない。それが結果的に、わずかでも《火星》に害を及ぼすのであれば、問答無用でなかったことにされる。
六。相殺の仕方は場合による。無機物は再現するが人間の肉体は再現されないらしい(相殺はされる)。範囲攻撃ならば、それ相応の反射をする。《火星》に対する影響の及ぼし方が大きければ大きいほど、こちらの攻撃の消される範囲が大きい。しかし、いずれにせよ攻撃の消し方は、同じモノをぶつけるというだけ。
以上からわかることはひとつ。これが概念魔術であるということだ。
結果的に、自らに及ぶ害という概念を自動迎撃する。つまり、突破する方法はないということ。
グラムは知らなかったが、これを突破するにはメロが使った魔術のように《疑似生物》を用意する、あるいは単純にふたり以上で相対するなどの行為をとらなければ不可能だ。
グラムには、どちらも用意することができない。
それは、突破できないということである。普通ならそう考える。
グラムはそう考えなかった。
突破の方法ならもうわかった。
「…………」そして。
グラムは、ゆっくりと歩きながら、《火星》へと近づいていく。
「なんだ……まさか諦めたのか、テメエ」
「…………」
「――最悪だ。そんなもん、オレが求める自由には程遠い。結局は……結局はお前もその程度なのかよ。クソッ」
吐き捨てるように《火星》は呟く。
だが直後、その考え方を改めた。グラムの歩き方に、隙がまったくなかったからだ。
今、グラムが対抗できているのは、《火星》が能動的な攻撃をほとんどしていないからだ。本気でグラムを殺す気なら、同時に自らも攻撃を行って、グラムが術式の内容を推理する前に勝負を決めるべきだった。
――引き分けの強制。
その魔術は、本気ならばグラムをして封殺できるだけの効果を持っている。魔術のレベルで言うのなら、それこそ《魔導師》級だと言えよう。
そして。グラムは《火星》の目の前まで来ると、右腕を引き絞るように後方へと下げた。そののちに打撃が放たれると、誰が見てもわかるほど露骨に。
「……ちっ」
グラムは舌を打つ。いったんは見下し、けれどやはり思い直し、それでも結局は見放した。
おそらくは、彼に可能な最高威力の攻撃を放つつもりなのだろう。
馬鹿げている。《火星》は何度も言った。威力など関係がないのだと繰り返してそう告げたはずだ。
再現できる魔術の規模に限りはない。それこそ街ひとつを滅ぼすほどの魔術であろうと、《火星》が対象としている限り、それはなんの影響も及ぼさず消されてしまう。
本当は、引き分けの強制などという生温い魔術ではないのだ。
そのほうが、魔力的な消費が少ないからそうしているだけに過ぎない。この魔術は本来、相殺というより無効化に近かった。
相手の攻撃は全て防ぎ、自分の攻撃は一方的に通る――そんなもの、引き分けどころか、絶対の勝利を約束しているようなものだ。
だから。その丸わかりの攻撃を、《火星》はあえて受けるようにした。
相手の最大火力を真正面から封殺してしまえば、今度こそグラムの心も折れるだろうと。
そして――グラムの一撃が放たれる。
一撃は、音を置き去りにした。言ってしまえば、それは単なる殴打に過ぎない。少なくとも言葉の上では。
だがそれも極まれば、圧倒的な速度と破壊力を持つに至る。グラムはその攻撃を、もはや認識さえしていなかった。
する必要も、ないのだが。
破城槌さえ彷彿とさせるグラムの一撃は、《火星》の術式によって勝手に相殺される。今度は相殺でさえない。
グラムの攻撃は、それが攻撃として成立した瞬間、何も起こらなかったかのように消えてしまう。その一撃を、魔術を一切使わず、ただ肉体と魔力の強化のみによって成立させている事実には感動さえ覚えるが――それだけの話だ。《火星》に攻撃は通じない。
実際、通じなかった。その攻撃で、《火星》は傷ひとつ負うことがなかった。
そのとき少しだけ驚いたのは、攻撃の直後、グラムがすでに目の前から消えていたことである。
まあ、音を抜き去るほどの打撃が放てるのだから、《火星》に認識できない速度で動けたとしても、驚くことではなかったかも知れない。あの一撃を防がれて、それでも諦めなかったことには、少しだけ驚いたけれど。
しかし、その直後だった。
《火星》は自らの脇腹に、何かが触れている感覚に気がついた。
それが何かを認識する前に、ほんの少しだけ、触れている何かが肉を押す。それを害と見なしたからだろう、術式が作動し、その何かの攻撃力を相殺するように力場が発生する。
認識できたのはそこまでだった。
気づけば。
《火星》は圧倒的な暴力によってその肉体を弾き飛ばされていた。
「ご――が、あ……っ」
血。を撒き散らした。ようだ、口が。口から。その奥から?
何が。いったい何が起きたのかわからない。
無理解が火星を襲っていた。不可解が火星を呑んでいた。
そうあるべきは本来、魔術師である火星の側なのに。わからないことは力だ。だが今、理解を失ったのは魔術師である。
骨か、内臓か。傷を負ったのが久し振りすぎて、その状況を上手く認識できない。
ただわかったのは、先程の一撃を何倍もの威力で返されたみたいに、自分のほうがグラムに蹴り飛ばされたということだ。
「――わからなかっただろう?」
と、声がした。弾かれたように《火星》は、グラムのほうへと視線をやる。
その通りだったからだ。何をされたのか理解できない。そしてグラムも、何をしたのかなど説明はしないだろう。そう思ったのだが。
「先刻の返礼として、今度はこちらが説明してやろう」
「……、何?」
「――お前がこちらの攻撃を完全に無効化できるわけじゃない。あくまで相殺――同じだけの力を逆側からぶつけているだけだ。もし、それが本当に自動で行われているのなら、確かに俺に為すすべはなかった。だが、それはあり得ない。どんな攻撃でも当たる前に相殺するなんてことはない。なぜならそれは――《運命干渉》の魔術だからだ」
それはできない。それは《火星》には絶対にできない。
それができるのはこの世でただひとり、一番目の魔法使いだけだから。
「なら、これはあくまでお前が決めた設定に対する反射でしかない。それなら騙しようがある」
これまでの中で、グラムは気づいていた。
必ず同じ威力の無効化が発生する魔術。つまりひとつの攻撃に対し、一度しか反射は起こらないということ。
ならば話は単純だ。
「一度、弱い攻撃を相殺させたあとで、同じ攻撃の威力を途中から上げれば押し勝てる」
一撃の威力を、相殺された瞬間に引き上げる。わざと弱い相殺を起こし、それを途中から力ずくで潰す。
それがひとつの攻撃である以上、新たな相殺は起こらない。威力で勝る以上、あとはそのまま上から潰すだけでよかった。
当然、簡単なことではない。どころか普通は無理だ。
少しでも無理があれば、それは《別の攻撃》であると判断されて新たな相殺を受けることだろう。というか、相殺が起こった瞬間に新しく力を込めるなど、普通の人間にできるようなことではない。
一度あいこにしたじゃんけんを、手を変えずにゴリ押して勝つと言っているようなものなのだから。
「……滅茶苦茶じゃねえかよ」
は――と《火星》は笑みを零した。それは先程までの冷笑と趣を異にしている。
なぜなら、彼は嬉しかったから。この術式を完成させて以降、戦いと呼べるほどの戦いを《火星》はほとんど経験していない。誰よりも戦いを好む、歪んだ思考を持つ彼にとって、戦う相手を失った事実は絶望だ。
ゆえに。
「ああ……これだ。これを待ってたんだ」
この絶望を打破してくれる存在を、彼はずっと待ち望んでいた。
その相手と命を賭して戦える日を、彼はずっと請い焦がれていた。
「ああ。世界って奴は、本当に自由だよなあ……!」
刹那――目を見開いたのはグラムだった。
目の前の男の身体に、魔力が集まって――否、溢れていく。
まるで体の中に、新たな魔力器官を生み出したかのように。あり得ない量の魔力が、空間さえ歪めるように《火星》の周囲を包んでいた。
「そういや、まだ名乗ったことがなかったな……」
「貴様……いったい」
「オレは《火星》。七曜教団の《火星》――クリィト=ペインフォート」
よろしく頼むぜご先祖様。
と、火星は笑った。
※
――行動の開始は同時だった。
卓越した魔術師同士の戦闘が極まると、それは盤上で戦術を交換し合う遊戯にも似通ってくる。
ユゲル=ティラコニアと、ノート=ケニュクスの魔術戦は、まさにその域に到達していた。
先手はノート。彼女の結界の内部である以上、多少の有利は獲得している。夜天結界は概念的な夜の再現であり、魔術には時間の影響が大きいことは自明である。かつて魔女と呼ばれた彼女は当然のように魔女の魔術に精通しており、魔術概念が当然に存在する王国史においてなお魔女とは悪の化身であり迫害の対象だ。それは忌み嫌われるからこそ逆説的に強い力を持ち、彼女らの持つ呪術は本来ならば生活の上で恵みをもたらすものであったはずがいつの間にか意味は反転し、悪魔との契約によって災いを振り撒くものとしての側面を得た。さて魔女の持ち物といえば多くのイメージがあるが中でもひときわ有名なのは空を飛ぶための箒である。それはいつしか単なる乗り物から魔術の媒介としての側面を獲得し、翻って今度は箒というモノが魔術道具の呼び名として逆に広い意味で捉えられるようになった。親指と小指を折り曲げ、残りの指で数の三を示すような形をノートは左手で作る。それが箒だ。夜は魔刻であり魔女の力を最も強くする。その中で、だがノートは攻撃の意志を持たずに箒を逃走の魔術として成立させた。彼女はユゲルを舐めていない。この街に存在する生物の中で最高の脅威として認識している。逃走とは移動であり戦闘とは位置の交換でありすなわち自身に有利な場所へと飛んで逃げることを目的として作られた魔術は、だが発動より先に不発となる。ユゲルが破戒したからだ。彼は夜をさらに深くすることで光を否定し、それは道標の否定でありすなわち移動を阻害する暗闇の概念だ。彼女に味方するはずの夜さえ、ユゲルは利用して移動を邪魔する。ゆえにノートは動けず、だが動けなかっただけだ。先手をとったノートはあくまで有利だった。夜が深くなれば深くなるほどに彼女は力を増す。次に彼女が使ったのは魔女らしい性魔術だった。夜の概念とも相性がよく、相手は異性だ。月は女神であり女性性の比喩表現。ただ視線によってのみ為されたその魔術は単なる誘惑の域を越え快楽と堕落の渦に生き物を飲み込む災厄の魔術だ。それをユゲルは単に着ている白衣の裾を掴むだけで防いだ。相手が何を行っているのか、魔術が成立する前に読み取っているからこその対抗術式。性行為には裸になる必要が、言い換えれば服を脱ぐ必要があり、それを逆手に取ることで服を着ている自分は性的な興奮を覚えないという拡大解釈に繋げる。これはノートにとって悪手だった。生物に直接作用する呪術には当然ながら代償が必要であり、それをユゲルに強制されるのを破られた以上は防げない。無論、本来ならこの程度の呪術程度、反動を無視して行えるノートだが、ヒトを呪わば穴二つ、呪術破りの代償をユゲルに強制されては対抗できない。これはノートが、ユゲルが自分に性魔術を使ってくるとは考えないだろうという考えのもとに行ったのに対し、ユゲルの側はそれもあり得るだろうと初めから可能性のひとつとして考慮していたからだ。ぷつり、と針が刺さったような、ほんのわずかな傷がノートの指先にできる。それだけだ。依然としてノート優勢に変わらない。必死なのはあくまでユゲルのほうだった。わずかな隙さえ作れればいいノートと、わずかでも隙を作ったら敗北するユゲルとでは立っている位置が違う。文字通り。移動に失敗したとはいえ、初めからノートが有利な場所に立っていることに代わりはなかった。反動も大した傷にならない。だから続ける。「■■■■」と、このときノートは初めて言葉を口にした。その意味を正確に読みとれるのは、ユゲルに膨大な知識があるからだ。およそ魔術師としては最高位階にいるふたりだからこそ成立するやり取り。このときノートが口ずさんだのは呪歌。一種のルーン魔術であり記述の代わりに詠唱で印刻を成立させる技法だ。だがこれは相手が悪い。ユゲルは、こと印刻に限ればノートを遙か上回る術者を知っている。その程度の呪術は通じない。耳を塞ぐ必要さえない。もちろん、耳にした時点でユゲルは呪歌の影響下に置かれている。ユゲルは受けたそれを「■■■■」自ら呪歌を口ずさみ返すことで壊した。通じない、ということはもちろんノートにもわかっていた。通じなかろうとユゲルはその間、ほんの一瞬でも呪歌の対応に追われる。奏して小さな魔術を積み重ねて、本命を当てるのが正統派の魔術師の戦い方だった。全ての魔術が布石だった。たとえ失敗したものでさえ。彼女は今も指の形を箒を象ったそれから変えていない。箒は媒介。そして魔術の媒介として最も有名なモノは何か。決まっている。杖だ。箒に見立てられた彼女の左手は、同時に杖にも見立てられていた。ガンドは相手を呪う呪術であるほかに変身魔術としての意味も持っている。魔術において変身と言った場合、単にその外見を変える魔術ではない。むしろそのほうが難しい。可能なのは《水星》のようなそれに特化した魔術師くらいだろう。魔導師級たる両名にも不可能だ。だが変身とは姿ではなくその能力を、機能を象ることも言う。杖によって狼に。月下に吼える獣に。そして次の瞬間、ノートはユゲルの背後に移動していた。箒の移動術を今度こそ成立させたのだ――獣の敏捷性と合わせ、闇に紛れて得物を狩るように。意味合いを交換する合戦。彼女の両の手が、まるで巨大な狼のあぎとのように、ユゲルの首を狙って挟まれる――直前、ユゲルがただ一歩を前に出た。まるでその攻撃を予期していたかのように。だがユゲルはノートを見てはいない。そもそも目で追えるような速度ではなかった。まるで、たまたま一歩を前に出たから、偶然にも攻撃を躱せたかのように。だが、それは幸運ではあっても偶然ではない。そのことをノートは知っている。このときユゲルの視線は前ではなく、上のほうに向いていた。星を見ていた。星を占っていた。――占星術だ。仮にも星の名を冠する一団に所属しておきながら、星を読めないはずがない。自分にとって都合のいい位置をあらかじめ知っていたから、占っていたから、だからその通りに移動したというだけ。ノートはそこで追撃を選ばず、後ろに跳びすさった。元より肉体による攻撃がそこまで得意なわけでもない。だから自分も、自分にとって都合のいい位置まで退避する。そう、占星術ならノートだって使っていた。そこまでの複合魔術を操っておきながらなお躱されたということは、ノートよりユゲルのほうが幸運だったということ――より正確に言うならばノートはユゲルより不幸にされていたということだ。先程の呪詛返しによって。もちろんその程度の不運は長続きしない。効果も薄い。だがこうしてまたひとつのやり取りが潰されている。ノートが距離を取ったその隙に、ユゲルは足の先で円を描くようにしながら背後へと振り返った。円の概念が持つ魔術的な意味は計り知れない。ユゲルほどの術者ならば、石畳を足で丸くなぞるというそれだけの行為で、いかようにも魔術を成立させるだろう。ここでユゲルは空間認識の方法を占星的な思想から五行思想へと変える。同じ土俵に立っていては自分が不利だ。《東の魔術》とも呼ばれるその思想を知る人間は、この国にユゲルくらいだろう。ノートはその変化を知る由もないが、次の瞬間には彼女は屈み込んで地面に手を触れていた。錬金魔術。単純な物質操作としてのそれが、魔力の奔流によりユゲルの足下を物理的に破壊する。魔術円とはひとつの結界だが、すでに巨大な結界が完成している影響下で新たな結界を維持するのは難しい。どんな魔術を行うつもりかなど無関係に、物理的に破壊してしまえば空間の支配権はノートに戻る。だがそれも読んでいたのだろう、ユゲルは飛び散った瓦礫のひとつに手を触れる。と、その刹那、瓦礫は粉末状の細かさにまで砕け散った。それに軽く息を吹きかけるユゲル。錬金魔術に対抗するは錬丹魔術。粉末は一瞬で毒となって風に乗るとノートに迫ったが空間の支配権は彼女のほうが強く持つためいわば儀式なしの結界を纏った状態である彼女に通じるはずもなく防がれると同時にノートの発動した四大精霊論に則って破壊された地面すなわち地の属性から地中の妖精を通じて放たれた地に属する固体の概念が地面を固めユゲルの足を取るものの直後に舞い戻ってきた砂塵は鉱物としての金属性を持っており五行思想に則って西側すなわちノートのいる側に流れ戻ってくると同時に守護の結界を邪視によって破壊せんと試みる意図はすでにノートの知るところであり彼女が箒として杖として示していた三の数字は数秘魔術を基盤にした契約により悪魔を召喚魔女として正統魔術的な聖餐儀式の歪曲がユゲルを襲うものの彼は悪魔に対抗する天使魔術をエノク語により契約その瞬間に失われた五行の意図の隙をつくようにノートが振り上げた手の先から滴る地が地面に吸い込まれることで行動は異端式の意味合いを持ち彼女の魔術の効力を高めることに寄与するも対するユゲルは魔女を玉座から引きずりおろすために周囲の魔力集合を阻害することで儀式そのもの不成立に持ち込み――――――――――――――――。
「……………………」
「……………………」
お互いが、お互いに決め手を欠いていた。
一歩でも間違えば、その瞬間に全てが決するだろう綱渡り。それをお互いに、脳髄が焼き切れるほどの集中で為している。
おそらくはこの王都事変の趨勢を決めるであろう戦い。
それは、このときまでにまだ一分もの時間さえかけていなかった。
戦いは続く。
それを見る者のないままに。
※
雷神の一撃が弾け、フェオ=リッターの視界を白く塗り潰す。
だが、その白の中央に彼女は、黒に近い――藍色と褐色をわずかに見ていた。
「あ――」
その小さな人影は、まるでフェオを庇うかのように正面へ躍り出ると、小柄な身体で精いっぱいに両腕を広げた
雷撃が――童女の小柄な肉体に直撃する。
だが一瞬。雷撃が、魔力へと戻され消えていく。童女の持つ《略奪》の異能力が、魔力を吸収しているのだ。
そして、刹那。童女の身体が弾き飛ばされた。
「アイリス――っ!?」
叫ぶフェオ。動かない自分の身体がもどかしい。
だが童女――アイリスは空中で器用に身を捻ると、そのまま危うげなく着地してみせた。
傷は浅い。だが決して無傷というわけではなかった。雷撃を純粋な魔力の状態に戻す、という過程を経ているせいだろう。アイリスはまだ、後天的に植えつけられたその異能を、完璧に扱う実力がない。
にもかかわらず平然と庇うのだから、庇われたフェオとしては驚くどころじゃない。
「な、何してるの――あ、危ないでしょっ!?」
自分でも何を言ってるんだと思ったが、ほかに言うことが見つからなかった。
アイリスはちら、とフェオを見る。なぜか小首を傾げて、不思議そうにフェオを見つめながら、
「……あぶなかった、よ?」
「え? あ、うん……えっと、いや、そう言ったんだけど……」
「フェオ、だいじょぶ?」
「わ、わたしは平気だけど……」
アイリスも軽傷ではあった。
だが服に焦げつきが生じ、わずかに傷も負っている。
その一切を、小さな少女はむしろ誇らしいことのように微笑んで受け入れる。
「よかっ……た」
直後、アイリスは跳ねた。その刹那に雷撃が彼女を襲う。
魔物は動けないフェオではなく、魔力を吸収するアイリスを脅威として見定めたらしい。強力だとはいえ、所詮は紛い物の生命体だ。知能はあまり高くない。
跳ね回るアイリスの速度は、雷撃をわずかに上回っている。いや、正確にはもちろんアイリスのほうが遅いのだが、なにせ狙いが読みやすい。先読みして回避している分には、雷撃がアイリスを捉えることはないだろう。
だが、それだけだ。この魔物だってひと通りしか攻撃方法を持っていないわけじゃないだろう。万が一そうだったとしても、アイリスには魔物を倒し得る決定打がない。いずれ体力も尽きる――ジリ貧だった。
フェオは歯噛みせざるを得ない。
負傷してこの体たらく。いったい誰に似てしまったのか、当然のように自らを囮にするアイリスは、おそらく何を言っても逃げないだろう。
年下の少女に庇われているだけの状況が、歯痒くて心底嫌になる。
――何か。何か状況を打破できる要素はないのだろうか。
いっそ神にでも願いたくなる。目の前でアイリスが先に撃ち抜かれるところなど絶対に見たくない。アスタになんて言えばいいのか。
当然、神に願ったところで、都合のいい奇跡など起こらない。
この世に存在するのは必然だけだ。なんの因果もなく、助けが訪れたりはしない。だから。
――それは必然の光景だった。
同時に突然でもあった。結界を――夜を裂くように、ひと筋の光が天から注いだ。炎だ。神話の生物が吐き出すような火炎の渦が、天から降り注いで魔物に直撃する。
フェオが、そしてアイリスも、その出どころ見上げていた。
「ひ――あああああああああああああああああっ! あっ、た、ぶ、ないなあ! 死ぬかと思った……もうなんなわけ本当にっ!?」
「……まあ、相手が相手ですから。いちいち気にしないほうがいいんじゃないですかね、もう」
「いや……うん、なんかごめん。でも僕は悪くないと思うんだよね。あれは止めらんないから」
戦場の空気を破壊しかねない気の抜けた声。その三人は、なぜか空から降ってきた。
決して油断しているわけではない。三人の視点は一点に――魔物に注がれていたし、それがまだ平然と生きていることにも気づいている。雷神の強さは肌で感じていた――オーステリアの地下で見た合成獣を軽く上回るということも――それでも、恐怖はしていない。
倒せない相手ではないと、きっと信じているからだろう。
「……なん、で……ここに」
「えっと、フェオさんだよね。久し振り――って言っても、そんなに話したことあるわけじゃないけどさ。それにアイリスちゃんも。無理しちゃ駄目だよ、本当に。アスタに怒られるからね?」
「むぅ……」
軽く言ってのけるのは金髪の青年。頬を膨らませるアイリスの姿もあってか、実に緊張感がない。彼は完全に自然体だった。
その後ろには白髪の少女と、もうひとり栗色の髪を持つ少女がいる。
「さて――遅れたせいで、だいぶとんでもないことになってるみたいだけど」
青年――ウェリウス=ギルヴァージルが、珍しく獰猛な笑みで笑った。
並び立つ少女――ピトス=ウォーターハウスとシャルロット=クリスファウストは、特別何かを言うことはない。
いずれにせよ、三人に戦意が横溢していることだけは確かだった。
「――とりあえず。そろそろ混ぜてもらおうか?」
活動報告が御座います。
書籍版2巻のキャラデザ公開です。
よろしければどうぞー。
 




