4-47『彼女が笑うその理由』
――結局、三人は魔法使いの修行をやり遂げた。
よくわからない空間から、よくわからないフィリーの根城まで戻ってきた三人は、一様に疲れた表情をしている。
たいてい無表情か、少し不機嫌な表情をしているシャルが、なんだか難しい顔になっていた。それでも親しくない者なら見逃す程度の気づけない程度の変化なのだろうが、このところウェリウスにはわかるようになってきている。意外と表情自体は変わる少女なのだ。それを一瞬で、しかもすぐに戻すだけで。
別にアスタだけがシャルと話しているわけじゃない。彼の知らないところで、学生同士、交流することは少なくなかった。
そういうウェリウス自身もまた、普段の笑みがさすがに崩れている。それでもなんとか笑おうとはしているものの、ちょっとばかり固かった。
そして――ピトスは。
「――――…………」
戻ってきてからというもの、ひと言も言葉を発さない。
シャルのほうには送られたウェリウス――結局、特に何かをしたというわけでもないけれど――だったが、ピトスがどんな難行をフィリーに課されていたのかは見ていなかった。訊いてもいない。だから知らない。
本当なら、軽く訊ねるくらいはしただろう。興味はあったし、たとえなくても、それくらいのことなら深い意味もなく訊ねたはずだ。
それを――ウェリウスに躊躇わせるくらいの雰囲気を、今のピトスは纏っていた。
「――さて、お疲れ」
並んで立つ三人に向け、フィリーが言う。あっさりとした表情で、あまり労われているという感覚もなかった。
ちなみに今、フィリーは十二、三歳くらいの童女の姿に見えている。ふと気を抜くと外見年齢が変わること自体に慣れなかったし、見た目が明らかに年下の少女に偉そうな態度を取られるのも微妙な心境になる。慣れているのはウェリウスくらいだ。
是も非もなく奈落に突き落とされた身としては、言いたいことも浮かんでくるだろうが、そんなことは知ったことじゃないという風情だ。
実際、それは間違いなく自らにとってプラスになったわけだし。
「今日は……といっても時間の感覚などないだろうが、ここに泊まっていけ。疲れが取れたら、行きたいところまで送ってやる。介入するのはここまでだ。あとのことは知らない」
「……結局、何がしたかったんですか?」
と、これを訊ねたのは意外にもシャルだった。ウェリウスは黙って彼女の横顔を伺う。
シャルとアスタとの間に、何かがあるらしいことは当然、気がついていた。おそらくフィリーもそれを知っている。
思い当たる節と言えば、彼がかつて七星旅団の一員であったことか、あるいは三番目の魔法使いの弟子だということのふたつだが。
――どうも、後者っぽいんだよなあ……。
ウェリウスは思う。セルエ=マテノやメロ=メテオヴェルヌといった、アスタ以外の七星とは繋がりがないらしいし、何より師であるフィリーが直々に名指しで連れてこいと言ったのだ。魔法使いのことならば、同じ魔法使いが最もよく知っていよう。
シャルがその関係者である可能性は高い。いや、あるいは――。
「別に。わたしはただバランスを取ろうと思っただけだ」
ウェリウスの思索は、そこでフィリーの声により打ち切られる。シャルの問いに対する、それが答えだった。
まあ、考えるのはあとでもいい。ウェリウスは思った。考えなくてもいいとさえ。
それに、呼ばれたというならピトスだって同じだ。彼女にも、まあ何かあるのだろうということくらいは漠然と察している。だが多かれ少なかれ、誰だって秘密のひとつやふたつは抱えているものだ。それが魔術師ならなおさらだろう。
学院は魔術を教える場所だが、ただ魔術を学びに学院に来る人間などいない。
ウェリウスもそれは同じ。二番目の魔法使い、フィリー=パラヴァンハイムという、ある意味ではこれ以上ないという魔術の師匠を持っていながら、わざわざ学院に入学などしたのには理由がある。
――というか、命令されたからだったんだけど。
そんなことをつらつら考えながら、ふたりの会話をウェリウスは聞く。
「バランス……?」
「そうだ。私はあくまで中庸、中立のつもりだからな。どちらにも肩入れする気はないし、その結果、この国がどうなろうと知ったことではない」
「……いったい、なんの話を……?」
「すぐわかる。別にお前らを鍛えてやろうと思ったわけじゃない。ウェリウスならともかく、お前らに対して義理があるでもないからな。あるとしたらそれは別の人間に対してだ」
「はあ……」
「だいたい一日やそこら修行したくらいで強くなったりするか。鍛えるってのは長い時間をかけて、できないことをできるようにしてやることだろうが。そんな面倒なことまでするか。初めからできることを、できるんだと教えてやったに過ぎん。さぼってただけだろ、お前らは」
「…………」
「――ま、面倒になって引き籠もっている私が言うことでもないがな。ともあれまあ今日は寝ろ、場所は……まあ適当にしてりゃ寝床っぽいところに着く」
――なにせ適当な空間だからな。
それだけ言って二番目の魔法使い、《空間》のフィリー=パラヴァンハイムは姿を消した。文字通り、なんの前触れもなく。まるで空気の中に溶けていくみたいに。
もはやその程度では驚かなくなったシャルは、視線だけを横のふたりに向ける。
――しかしまあ、考えてみれば妙な組み合わせだ。
ピトスと、ウェリウスと、そして自分。この三人で学院を出ることがあるなんて、少し前の自分なら想像さえしなかっただろう。いったいどうしてこうなったのか。どこで歯車が狂ったのか。
きっと、あの男と初めて会った、そのときだ。
シャルは思う。ここまで流されてきたことの責任を、兄弟子と呼ぶ男に押しつけてしまうかのように。
まあ、別に文句があるわけでもなく。シャルの目的は初めから魔術の上達以外にはなく、そのためには学院にいるだけじゃ足りないこともわかっているのだから。誰がどんな目的があろうと、誰にどんな因縁があろうと、シャルにはまるで関係ない。
いつだって部外者だ。
魔法使いが言っていたことだって、だから結局のところはどうでもいい。向こうも何かしらの理由があってシャルと接触したのだろうことはわかる。むしろそのくらいしかわかっていない。そして、それでよかった。
誰かが自分を利用するように、自分もまたこの機会を利用している。どんな事態になろうとも、それで自分が魔術の極みに近づけるのなら。
それでよかった。ほかの目的なんて、初めから何ひとつ持っていない。
そして。それはたぶん、このふたりも同じなのだろうと。
そう思っていた。
「――あー……まあ、そういうことらしいから、今日は休もうか」
ウェリウスが言った。彼にしては珍しく、どこか困った風に。
原因は、まあ考えるまでもない。先程からひと言も発さないピトスだろう。彼女がどんな修行を課されていたのかは知らないが、合流してからというもの、シャルにもわかるくらい様子がおかしいのは事実だ。
この外見で、ピトスが意外に面倒な性格をしていることはシャルも(他人のことが言えるのかはともかくとして)知っている。とはいえ、基本的には善良というか、少なくともそう見えるように振る舞う人格なのだということも知っている。
だから、そんな様子さえ見せない彼女の態度が。ほんの少しだけ、不可解ではあった。
ほんの少しだけ。
「そこの扉を出て進めば、部屋がいくつか余ってるからさ。好きなところを使ってくれれば構わないよ」
「……じゃあ、そうさせてもらう」
それだけ言って、シャルはふたりに先んじて部屋を出ていく。実際、それなりに疲れているのは事実だった。体力もそうだし、魔力も減っているし、何より精神的に。
ピトスの様子も気にかかりはするが、あくまで《ほんの少しだけ》であることに変わりはない。何を言うことでもないし、何も関係がない。
この空間が捻れ曲がった城に居続けるのも、それだけで精神力を消耗しそうではあったし。さっさと休んでしまおう。
眠ってしまえば、まあ、たいていのことは気にならない。
「……わたしも」
シャルが部屋を出る頃に、ピトスもそう言って後を追った。
ウェリウスは何も言わずに肩だけ竦め、出て行くピトスを見送った。
「…………」
――何も言わずに。
別段、それはウェリウスがドライだったからというわけではない。彼はもちろん平均的な魔術師らしく割り切った思考をしているが、これで意外と友人には優しい、というか、損得勘定を抜きにした対応をすることもある。何もかも計算ではいかない。
などと、たとえばアスタ辺りが聞けば「お前が……?」と怪訝な対応をされるのだろうが。失礼な話である。あの男が思うほど、別にウェリウスは腹黒というわけじゃない。むしろあの男のほうがよほど悪質だと思うのだが――閑話休題として。
ウェリウスは、それなりに情を重んじる。
それが愛情であれ友情であれあるいは同情であれ。感情という要素を無視はしない。というより、それも含めて計算に入れる。
まあ遠回しな表現をしているが、要するに友人が困っている様子なら、声をかけるくらいのことは普通にするというだけだ。
たとえ相手が望んでいないのだとしても。これで意外とお節介なのがウェリウスという男である。そもそもアスタが学院を去ったこと自体、彼があっさりバラしているのだから。
「……声、かけるべきだったかな」
誰もいなくなった部屋の中で、ぽつり、ウェリウスは小さく呟く。
ピトスの様子は明らかに普通じゃなかった。少なくとも普段通りではなかった。不調だということが見てわかるレベルであり、それは裏を返せば自身が普通でないことが周りに悟られている、ということにピトス本人が気づくだろうレベルだということ。気にかかったのはそこだ。ピトスは隠そうとさえしていなかった。
あるいは――できなかった。
もし彼女が普段通りに振る舞おうとしていて、その上で違和感に気づいたのなら、おそらくウェリウスは声をかけていただろう。元より、ピトスは意外と背負い込むタイプだ。周りのことにはよく気がつくが、自分のことを話すことはほとんどない。
その彼女が、ああまで露骨な態度だったのだ。普段の余裕が何ひとつなくなっていたということだろう。
それも体の調子が悪いという感じではなく、おそらくは精神的なもの。
ウェリウスが躊躇ったのは、その辺りが理由でもあった。
「……僕も、寝るかな」
結局、その判断が正しいのか否かさえ保留して。
ウェリウスもまた、部屋を出ていった。
※
実際、ピトスがどこかしら不調だったのかと問われれば、そんなことはまったくなかった。少なくとも肉体的には。
そもそもピトスは、ほかのふたりと違いフィリーから修行など課されていない。彼女はただ、自身の過去の記憶を見せられていただけだ。
強制的に――向き合わされていただけだ。
「……ヒトの記憶を、勝手にほじくり返しやがって……っ!」
寝室。適当に歩いた廊下の先で見つけた一室の寝台の中で、毛布にくるまってピトスは吐き捨てた。
不愉快だった。不愉快極まりない。
なぜ黙っていたのかといえば、理由は単純。ピトスは、ただ堪えられないほどに怒り狂っていたからだ。腸が煮えくり返っていたと言っていい。
あんな記憶は知っている。今さら見せつけられずとも。
確かにピトスは一度、記憶の全てを失っている。パンという名前だったひとりの少女は、ピトスという名前に変わるときその記憶の全てを消されていた。記憶を消され、何も知らずに、敵であるはずのレファクールに育てられて生きてきた。
そして、その失われた記憶を全て、レファクールの口から聞いている。
余すところなく全てを。いつしか母親とさえ慕うようになっていたレファの、その言葉で声で聞いている。
それをこうして、わざわざ視覚として再び突きつけてくるとは。なるほど趣味のいい拷問だ。本当に笑える。ああそうだ、なんなら感謝してやってもいい。
ピトスの中の復讐心が。
その灯火が、消えないように、こうしてまた燃料を投下してくれたのだから。
家族を、故郷を、記憶を――全てを失ったピトスに、レファクールは与えてくれた。力をくれた。
戦うすべを。魔術の技量を。生きていくための知識を。そして偽物の温もりを。
そうして、ひとりで生きていけるようになったピトスに最後、彼女は絶望を与えてくれた。真実を与えてくれた。わざわざここまで育てておいて、その全てが嘘だと教えてくれた。
何を考えていたのかはわからない。レファクールはそれを《命令だったから》と言った。
なんらかの組織にでも所属していたのか。それはわからない。結局、レファクールは自分のことは一切語らなかったのだから。
いずれにせよ、真実さえ知ってしまえばそれで充分だ。
ピトスは、ただ復讐のためだけに生きた。生きることを決めた。
あるいは決められていたのか。ピトスが復讐を成し遂げるために必要な力を、与えてくれたのはほかでもない、復讐すべきその対象なのだから。
それでも構わなかった。なんだっていい。レファクールさえ殺せるのなら、ほかの全てを必要としない。
だが、ピトスひとりではレファクールに敵わない。あの怪物に、人間さえ辞めようとする化け物に、ピトスではまるで及ばなかった。
だから学院に来た。
力をつけるために――力を。力をだ。復讐に足る力を。
あの女を殺せる力を。
治癒という彼女の能力は、その大きな助けになった。学生でも治癒を使えるのはピトスを除いてたったひとり。それも擦り傷を治すのが限度というレベルで、実力には雲泥と言っていいほどの格差がある。レファクールによる英才教育――《魔物使い》である彼女も、肉体干渉という括りにおいて同じ系統の術者だ――そしてピトス本来の才能が、治癒魔術師としての彼女を一線級に仕立て上げた。おそらく、一度は死んでいることも大きかったのだろう。治癒魔術師としてのピトスは、おそらく世界で五指に入る。
その能力は、誰かを助けるのにとても都合がよかった。
助けたその誰かは、今度はいつかピトスを助けてくれるだろう。ピトスにとっては、それこそウェリウスよりも遙かに、情は計算で操るものでしかないのだから。
外見だって可愛らしい。好みはあっても、ピトスは基本的に誰からも愛され得る性格をしている。そのように振る舞っている。まあ最近は少し地が出てしまってはいるが、それだって、それはそれで愛されるものだった。
善行なんてしてはいない。優しいだなんて大嘘だ。
――ピトスは、いつだって見返りを求めて誰かを癒す。
レファクールという個人に、ピトスという個人が敵わないのなら、ほかの誰かの力を借りて奴を殺せばいい話だ。
オーステリア学院という環境は、そのために都合がよかった。
まさか、かつての七星旅団とまで繋がりを持てるとは考えていなかったが。それだって、最高に都合がいい。
利用してやろう。
簡単だ。ちょろいものだ。なんだかんだ言って、ヒトは甘さを捨てきれない。情が湧く。愛を持つ。
ヒトの心は操れる。
特にあの男は酷く甘い。口では適当なことを言いながら、一度は裏切ったピトスを助けている。あっさり許しているのだから。
あの、タラス迷宮での一件のときだ。
シルヴィアを助けるために、自分が残ると言ったピトスをアスタは信じた。だが、そんな話があるわけがない。
そんなことはまったく考えていない。誰かの代わりに死ぬわけがない。
――初めから、そういう契約だっただけだ。
アスタを追い返せるのなら、レファクールの情報を教えてやると。そう、魔法使いに持ちかけられただけ。ピトスはアスタを――シャルもフェオもシルヴィアもメロもセルエも、あのとき一度裏切っていた。
それが無理だとわかったから、今度は魔法使いさえ裏切って、もう一度アスタの側についたというだけに過ぎない。酷い尻軽だ。吐き気がする。
都合がいい。呪いの反動で自爆する彼は、治癒能力を持つピトスと相性がよかった。ちょっと笑顔で近づけば、ころっと騙せる馬鹿だった。
ピトスにとっても実力があり、何より強力な魔術師と繋がりの多い彼は復讐の道具として優秀だ。だからタラスの一件以降、彼に近づいた。
なんでもよかった。どうだって構わなかった。
あの女に復讐さえできるのなら、それでピトスには充分だった。
――全ての人間を、そのために利用してやろう。
そのために近づいた。それだけだ。
「…………下らないですね、本当に」
そうまでして生きているという事実が。腹の底から面白い。
そう。本当は、別に死んだって構いやしない。
命は大事だというお題目に、ただ付き合っているだけなのだから。それさえ見失っては、ピトスではなく――パンが死ぬ。
それだけのこと。みんなに助けられた《パン》だけは、《ピトス》より先に殺すわけにはいかなかった。
まずは《ピトス》が復讐を遂げ、そうして《ピトス》が死んでから。
パンという亡霊も、ようやく死ぬことができるだろう。
――あと、もう少しで。
活動報告を何日か前に書きましたので。
まだご覧になられてない方はどぞー。




